生誕146年・没後70年・パステル画の巨匠
「矢崎千代二世界漫遊の旅」展

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 今から36年前の1982(昭和57)年12月、画廊の看板企画「忘れられた画家シリーズの第15回展として「矢崎千代二と武内鶴之助—パステル画名作展」を開催した。同展で矢崎のパステル画14点と油彩画1点を初めて展観したのである。(※図録掲載 図版1)同年4月に星野画廊の創業時(1973年)から9年にわたり営業した三条大橋東入の小さな画廊から、現在地の神宮道に移転した春の記念展「関西洋画の草創期」に続く秋のメイン企画として開催したものだった。

 美術史に埋もれた画家とその作品を発掘する作業を続けていく過程でパステル画の矢崎の作品にも出会い、これはと思う作品を次々と購入してきた成果だった。当時(今も変わらず)水彩画やパステル画は油絵とはひとランク下のものとして軽く見られがちだったことに対する警鐘の意味も込めていた。1979(昭和54)年に開催した太田喜二郎門下の南素行(1890-1967)遺作展では、南が矢崎千代二にパステル画指導を受けた画家のひとりだったことが判明した。南の画友や南が教鞭をとった平安高校時代に教えを受けた人々から、パステル画の大家としての矢崎の盛名や思い出話を様々に聞かされることになった。その中に箕浦照(みのうら・しょう/1903-1987 )という画家がいた。当時、醍醐寺(山科)の裏にある豪商の別荘の管理人として細々と生計を立てていた人だった。箕浦と出会う前に彼が描いたパステル画の小品を入手していたことで余計にパステル画と矢崎のことで話が弾んだ。矢崎が最初にスケッチのために京都を訪れた時、関西洋画商の草分けの三角堂・薄田晴彦氏に依頼されてその案内人役を箕浦が努めたという。絵を描くこと以外に頓着しない素朴な画家精神を持つ矢崎の姿勢に感銘を受けた箕浦は、改めて矢崎に師事してパステル画への道を進むことになったのだそうだ。1930(昭和5)年に友人の藤松弁之助(後に平安高校美術教師)とともに箕浦らが京都パステル画協会を設立したことも知った。後日、別荘の管理人室兼用のアトリエで彼の旧作を見せて頂いた。画室の中心に寺松国太郎(1876-1943)<無我>(1920年 全国勧業博覧会出品 現在倉敷市立美術館蔵 (※図録掲載 ※図版2)が飾ってあった。寺松は箕浦が洋画を志して入門した最初の師匠である。<無我>は、入門したての箕浦少年(当時17歳)が画架の前で絵筆を執る姿をモデルにしていた。私は是非にと懇願してその絵と箕浦の自画像を併せて譲っていただいた。両作品を含めて32人の画家による38点の作品を紹介した「名画との不思議な出会い・発掘された肖像」展(1985年)図録が、当画廊出版の最初の展覧会図録となった。その後箕浦は季節が移り変わってもいつも同じ国民服のように厚手の粗末な詰襟服を着て画廊に顔を見せた。今から思うと写真で見る矢崎の服装と似通っており、師の影響が多分にあったのだろう。

 その「発掘された肖像」展では、矢崎のパステルによる肖像画3点も併せて紹介している。<中沢弘光肖像>(※図録掲載 ※図版3)<上野山清貢肖像>(※図録掲載 ※図版4)<鹿子木孟郎肖像>(※図録掲載 ※図版5)(いずれも現在横須賀美術館蔵)である。その昔日動画廊で長い間番頭をやっていた妹尾三郎という画商がどこかで見つけて来てくれたものだ。六本木に妹尾画廊を構えながら、彼は日本各地を転々としてハタ師と呼ばれる画商活動を生業としていた。いつの間にか私達の好みの画家や興味のある分野の絵を嗅ぎ付け、「ちょっと見てくれませんか」と画廊に持ち込んできたてくれるようになった。大きな風呂敷包みから作品を取り出しながら、「何かありませんかね?」と絵を見る私の反応を確かめながら尋ねてくる。関東方面や北海道、信州、はたまた山陰向けの絵を交換に欲しいというのだ。いわゆるご当地出身の画家の作品はそれぞれの地元で高く売れる。彼は売り込むだけでなく、売り買い往復の利幅を狙って絵を持ち込んで来た。妹尾氏にとって交換会で商売をしない私は個性的で面白い存在に映っていたのだろう、玉村方久斗の軸装画や加藤源之助の文展出品作の水彩画など、記憶に残る名品をもたらしてくれたり、その後も細長くお付き合いを続けた。東京の画商の交換会では若手の画商たちから洋画商の生き字引のような存在として一目置かれていたそうだが、数年前にひっそりと黄泉の世界に逝かれたと東京の老舗画廊のご主人から伝え聞いた。

 1986(昭和61)年6月に画廊コレクションによる最初の滞欧作品展を開催した。同展図録の表紙を夭折の画家・三輪四郎(1898-1924)の<裸体習作>(目黒区美術館蔵)(※図録掲載 ※図版6)で飾った。明治期の夭折の画家・原撫松の<裸婦>(1906=明治39年 東京藝術大学大学美術館蔵)(※図録掲載 ※図版7)と色彩やタッチなどで似ている佳品で遜色なしと感じたからである。三輪は関西美術院で鹿子木孟郎に指導を受けて1922(大正11)年10月に川端弥之助と共に渡仏。坂本繁二郎や小山敬三、霜鳥之彦らと共にパリでシャルル・ゲランの指導を受けたが、24年に病に倒れてやむなく帰国し、その後まもなく26歳で夭折した不運な画家である。昨年、全国5カ所の美術館を巡回した「リアルのゆくえ」展では彼の自画像が紹介されていたので、鹿子木孟郎譲りの的確な表現力と、ある不思議な悲劇性を秘めた画面をご記憶の方もおられるかも知れない。余談ながら同展には、寺松国太郎<化粧部屋>(倉敷市立美術館蔵)(※図録掲載 ※参考図版8)も出品されていた。同作品は先年に当画廊が同館に納めた作品で、両作を同じ展覧会図録で見つけたとき、奇縁としか言いようがないと思った。そうした奇縁を貫くように流れる太い一本の筋は関西美術院の存在である。開業以来私達の画廊の主要分野の一つを関西美術院が占めており、様々な局面で関連画家とその作品が画廊を行き来して来た。本展で取り上げている矢崎千代二と関西美術院とは何の関係もないようだが、思わぬ所で見えぬ糸が絡み合っているのである。

 前述の滞欧作品展で三輪の<裸体習作>を見かけたお客様がどうしても欲しいと熱望された。安井金比羅宮々司の鳥居さんである。鳥居さんは先の箕浦と懇意にされており、ご自身でも絵を嗜み美術への造詣の深い人だった。鳥居さんとの値段交渉はすんなりとは進まなかったが、ご所蔵の矢崎パステル画の大作<マルセーユ>(1925年)(※図録掲載 ※図版)を下取りにして商談が成立した。ちなみに三輪四郎の<裸体習作>は後年になって私の手に戻り、今では矢崎の<マルセーユ>と共に滞欧作品を収集する目黒区美術館の収蔵品となっている。

 1987(昭和62)年、矢崎の生誕地、横須賀のはまゆう会館で市制施行80周年記念「矢崎千代二回顧展〜近代日本洋画の異色画家〜」が開催され、矢崎のパステル画と油彩画計71点が展観された。そのうち28点の作品はそれまでに当画廊が横須賀市にまとめて納めたものだった。

 2010(平成22)年の4月から6月にかけて、横須賀美術館で「矢崎千代二の人物と風景」展が改めて開催された。8点の油彩を含む67点の作品が同展図録に掲載されている。私は以前に所蔵していた矢崎作品の殆どを横須賀市に納めて「やれやれひと仕事済んだ」と思っていた。ところが、どうしても自分達の画廊で本格的な遺作展を開催したいとの気持ちを抑えられず、その後も矢崎作品と出会う度にコレクションに加えていった。矢崎の没後70年に当る昨年、作品の数も揃いそろそろ展覧会の潮時到来と考えていた矢先、目黒区美術館から矢崎千代二と武内鶴之助二人のパステル画展開催について出品協力の打診が入った。同館では1993(平成5)年に「武内鶴之助—パステルのモノローグー」展を山田敦雄学芸員の企画で開催しており、今回はもう一人のパステル画の先駆者・矢崎を加えることで、日本におけるパステル画事始めを俯瞰する内容だという。同館学芸員の降旗千賀子氏から打診された時、少し逡巡するものがあった。当画廊でも没後70年を機に矢崎千代二展の準備にかかろうとしていたからである。だが降旗氏には彼女の看板企画で評判の高かった「色の博物誌」展では過去にいろいろと作品のご紹介でお世話になったこともあり無下には断れなかった。

 幻の画家として最近にわかに脚光を浴びるようになった不染鉄(ふせん・てつ)についても、以前に同様のことが起こったことがある。不染鉄展の準備をしていた時に奈良県立美術館から没後20年記念の展覧会を開催したいと出品協力の打診が入ったのだ。結局私達は1996(平成8)年4月から5月の奈良での開催展に協力し、当画廊でも11月に規模の小さな展観をすることにしたのである。それら二つの展観を冨田章氏(当時サントリー美術館)がご覧になって不染鉄に注目されていたのだ。10年後、彼が東京ステーションギャラリー館長として企画した「没後40年・幻の画家.不染鉄」展が大ブレイクし、NHK日曜美術館の番組放送が今年2月25日、そして求龍堂から初の不染鉄画集が3月に刊行されるなど、実に慌ただしい動きとなったことは耳目に新しい。当画廊でもこの機を逃すべく「幻の画家・不染鉄遺作再見展」を3月に急きょ開催したところである。

 翻って本題の矢崎千代二展のことである。山田敦夫・降旗千賀子両学芸員が心血を注いで内外のパステル画の名品と名画家たちを揃えた先の目黒区美術館での展観が、その道の通の方々や美術関係者らからは高い評価の声が上がった「日本パステル畫事始め」展である。武内鶴之助と矢崎千代二の詳細な足跡と代表作品が網羅され、併せてパステルの性質や日本国産パステルの誕生についての論考が極めて美しい色彩で展覧会図録に再現されている。同著の巻頭を飾る森田恒之氏の論考「パステルとパステル画の小史—画報と技法—」は、この上なく貴重なガイダンスであり、展覧会図録としては最高の出来栄えとなっている。まだ残部があるとのことだから、お読みになっていない方には是非入手されるようにお勧めしたい。

 同展図録や本図録の巻頭に論考を寄せて頂いた横田香世氏の研究について触れておきたい。2015(平成27)年初夏に彼女が矢崎作品を見せて欲しいと画廊に姿を見せた。京都工芸繊維大学博士号取得のための画材(素材)としてのパステル研究を出発とし、自然の流れで矢崎千代二のパステル国産化と矢崎の画業と足跡へと研究が進化していく途上での訪問だった。やがて研究成果が「矢崎千代二と日本製パステル〜日本近代におけるパステル受容」という論文に結実し、目黒区美術館での展覧会監修者として招かれるまでになったのである。これまで伝説として語られてきた北京に遺された矢崎千代二の膨大な量の作品がある。過去に何度か日本の研究者たちがその存在と内容を確かめるべく北京へ連絡してきたが、いつも門前払いで相手にされることがなかった。彼女は頑な北京の扉を開ける事に成功しその1,000点を越える全作品を実際に確認して写真撮影までしてきた。昨年は矢崎のヨーロッパでの足跡を巡り、今年はインドネシアでの足跡を確認に行くそうである。

 その展覧会後、矢崎とパステル作品への関心がにわかに高まってきたのかというと、不染鉄の場合とは違いそのような劇的な動きが見えて来ないのは残念でならない。本図録を準備するために私は矢崎の油彩やパステルによる様々な作品を見つめ直し、また数々の資料を読み返すことになった。パステル画最大の魅力がその色彩の鮮やかさと現場写生の即妙性とにあることは誰の目にも明らかに映ることだろう、では現場写生のスケッチだけの話かというと、矢崎に限っては決してそうではない。本図録に掲載している大作、例えば表紙の<残照、インド、ダージリン>は、珍しく絹本に描かれていることが、最近になって横田氏と古画修復専門家・大山昭子氏による合同調査により判明した。矢崎作品の中で大作の部類に属す本作は一体どこで描かれたのだろう。朝夕のヒマラヤの峰々に早暁と日没時に訪れる太陽光が織りなす瞬間のドラマ、それを速写性に優れたパステルにより数百枚のスケッチに印象を留めた矢崎千代二。本作ではそれらのスケッチを元にした瞬間の光景が、かくも鮮やかな色彩を駆使して見事な絵に仕上げられているのである。紙ではなく絹という材質を選んだ理由を今では知る由もない。けれども現場写生でないことは明らかだろう。

 また例えば<ヒマラヤの朝焼け>(15頁)の油絵表現を思わせる大胆な筆致と鮮やかな色彩の絵がある。25号近い大きさの本作が現場スケッチとは考えられない。しかし矢崎は現場スケッチの印象を失うことなく、このように重厚で見事な画面に仕上げているのである。日本の官展での盛名が、海外にあっても展覧会発表の際の広報活動の出来を左右することを矢崎は随筆の中で述べている。自分は肩書きのない無名の画家扱いだとも嘆いている。パステル画家として矢崎はいつか日本の大きな展覧会でパステル画の大作を出品して、自らの存在を世に知らしめたい望みを抱いていたのだろう。水彩画家・中西利雄(1900-1948)は不透明水彩の明快な色彩と描線を駆使した都会感覚溢れる絵を描き、第9回帝展(1934=昭和9年)の出品作<駿馬出場>で特選を取り,翌年の帝展改組第二部会展で<婦人帽子店>が再度の特選を受け世間で初めて認知された。油彩に劣らない画面を描くことは、水彩画家の中西にとってもパステル画家の矢崎にとっても共通の命題だった。とはいえ透明水彩画の名品の多くが明治期に描かれており、それらが極めて小さなサイズの絵であることを銘記しなければならないし、矢崎の小品パステル画にも瑞々しい感性が溢れた名作が多々あることも忘れてはならない。水彩画やパステル画が油彩を描くための一つの段階的なものとの認識が、この国ではいつまでも多数を占めていることを私は嘆かわしく思っている。矢崎が多彩なパステル色を駆使することで油彩の縛りから解放され、天性のカラリストとしての表現を縦横無尽に駆使して表現することができた世界漫遊の旅の成果。それらが数十年の時間の経過をものともせずに、今、眼前に広がっている。保存さえ良ければ描かれた当時そのままの姿で歴史を乗り超えることが出来るパステルの魅力。充分に堪能して頂きたいものである。

 本図録作成に当り、目黒区美術館の山田敦夫、降旗千賀子両氏には様々にご協力いただき、同館撮影の画像や資料の転用も快く承諾して頂いた。厚く御礼申し上げる次第である。横須賀美術館発行の『矢崎千代二の人物と風景』(2010年)、そして横須賀市はまゆう会館発行『矢崎千代二回顧展』(1987年)よりも写真を転用させて頂いていることも感謝している。矢崎千代二とパステル画の研究家・横田香世氏からは、目黒区美術館開催展「日本パステル畫事始め展」に掲出された「矢崎千代二のパステル画〜『色の速写』〜を極める」を本図録のために加筆訂正されて寄稿していただいた。深く感謝する次第である。

2018(平成30)年4月

このウインドウを閉じる