今、蘇る。明治末・113年前の京都その風景と人々の暮らし
黒田重太郎 鉛筆素描「京都、洛中洛外」

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 私の40年ほど前の画商修業冒頭期には、黒田重太郎著『京都洋画の黎明期』(1947年高桐書院刊)がバイブルのような存在で、そのことはこれまで折に触れて述べてきた。2005(平成17)年には、黒田重太郎の全体像を俯瞰した没後35年記念展が、滋賀県立近代美術館で開催された。その時私は展覧会場内を何度も行ったり来たりして考え込んでしまったのである。

  「黒田重太郎は、画家というよりは、西洋絵画の理論を我が国に紹介した学者で先生」
  「黒田の風景画には見るべきものが少ない、静物画にはまだ佳品があるが、いずれにしても売れない画家だ」

などと、修業時に知った有力な先輩画商たちの黒田についての感想が、長い間、頭の隅から離れずにいたが、その先入観を覆すに足りる作品が眼前に並んでいたからである。力強く構成力に溢れた重厚な油絵の魅力に、私はすっかり取り憑かれてしまった。同展に5点の油絵と20点あまりの素描・水彩の出品協力をした私なのに、黒田の真価を見過ごしていたことを恥じた。どうしてこれほど立派な画家が「売れない」のひとことでマーケットでは無視されているのか…。

 その頃の日本人洋画家たちは、欧州留学により画風を激変させ、時代の先端表現を故国に紹介することに専念した。ところがひとり、黒田は2度目の滞欧後、洋画の日本化を目指すようになったのである。このことについては次回の油彩画の作品展に於いて詳しく論じることにしたいが、日本人には日本人らしい油彩画があって然るべきと考えた黒田の後半生には、決して目新しくはないが、骨格のしっかりした重厚な作品群が次々と生み出されていったのである。ところが新しいものを偏重する画壇や画商たちの眼には、それらが平凡なものと誤認されたのであろう。その先入観をかなぐり捨て、黒田芸術の真価に眼を開かせられるには相当な時間が必要であったことを実感しているこの頃である。

 爾来、それまで以上に黒田作品の蒐集に力を注ぎ、今では黒田生誕130年を記念する展覧会を自力で開催できるまでの資料と作品を準備できる段階に達したと自負している。昨年は、画廊コレクションの大きな柱の一つである異端の日本画家・秦テルヲの生誕130年でもあった。やむを得ずテルヲの遺作展を先行させたため、黒田展を1年横滑りさせることになった。

 ところがいざ黒田重太郎展の準備を始めるに当たって、画廊壁面の展示容量という壁にぶつかった。そこで、50点近くある初期から晩年までの黒田の油彩画の全貌紹介を後回しにして、今回は最初期の素描に絞って展観することにしたのである。通常どの画家の回顧展でも、素描類は初期に限らずいつの時期のものでも、展覧会の添えもののように取り扱われることが多い。それを今回は覆してみたくなった。というのも黒田の初期素描は、修業期の技の進捗過程を実見するに最適のものである以上に、京都の近代史を辿る上で貴重な資料としての存在価値を尊重したからである。洛中洛外を歩き回った画家が、100年以上も前の生(なま)の様相を、その目を通して活き活きと描き留めているのだ。写真や絵葉書類では見つけることのできない農村や市井の人々の生活臭を、鉛筆の硬軟の描線による白と黒の濃淡の筆致で、それも余分な色彩を排除することでより鮮明に現代に蘇らせられているのだ。

 今から114年前の「1904(明治37)年9月15日」の日付から始まる本素描のシリーズは、「1910(明治43)年1月」までの101点で構成される。明治末期頃の京都資料を数々当たってみたが、有名寺院や観光名所の絵葉書、花街や職業人の姿、祭礼の様子や商店の記念写真などが散見される程度に過ぎない。黒田のように自分の足で歩き、眼で見たままをスケッチしたものは非常に珍しい資料だ。これまでそのような存在が明らかにされたものは無いようである。そこで作品にある黒田の場所表記に従って、それらが現在のどの辺りの光景に相当するのか当たることにした。資料を求めて出かけた京都学・歴彩館でもあまり分からず途方に暮れている時、同館の司書が教えてくれた「今昔マップ on the web」時系列地形閲覧サイトを知った。谷健二教授(埼玉大学教育学部、人文地理学研究室)たちにより作成されたものだ。たとえば京都の1892〜1910年頃の地図をはじめとして、左半分にほぼ10から数年単位の時間差で昔の地図が表示される。同じ検索場所が右の画面で最近の地理院地図、オープンストリートマップ、航空写真やgoogleマップなどで同時表示される。昔と今をパソコンの画面で同時に見比べ、しかも両画面がひとつのカーソルにより同時進行で移動するため、便利なことこの上ない。しばらくはこのサイト上の地図と黒田のスケッチ画面を見比べる日々が続き、明治末頃の京都市内が、現代に生きる私たちにとって想像以上にスケールが小さいことに驚くことにもなった。

 黒田は洛中といっても京都の繁華街から遠くはなれた場所や、洛外の風景に心を奪われていたようだ。このスケッチの大半を占める当時の洛外は、その後の人口増加と都市化によって激変し、当時の風景を留めるものは皆無と言って過言ではない。失われた街並みや農村部に暮らす人々の様子が、情熱的な筆致でありながらも、どこか自然で温かい視線で描かれていることに感動する次第となった。黒田が好んで描いた風景を見ていて、どこか懐かしい農村風景で知られるフランスのバルビゾン派の画家たちの作品に思い至った。<落穂拾い>(1857年、オルセー美術館蔵)などの作品で知られるジャン=フランソワ・ミレーを始め、バルビゾン派の作品が日本に紹介されるようになったのはいつの頃だったのだろうか。

 黒田の最初の師匠である鹿子木孟郎(1874-1941)や、聖護院洋画研究所で学ぶことになった心の師、浅井忠(1856-1907)は、共に小山正太郎(1857-1916)の不同舎で学び、線による正確な描写を重んじた画風を受け継いでいた。小山はバルビゾン派の影響が残るフォンタネージ(1818-1882)に学んだ画家だった。そうした流れをこの時期の黒田が敏感に吸収し且つ実践していったものだろう。彼が玄関番を兼ねて住み込んだ鹿子木の家には、海外の留学先から持ち帰った様々な画集や絵葉書などが大量にあり、それらを黒田が勉学の糧としたに違いないと思われる。

 黒田の書生時代の回想録は興味深く、本図録にも掲載した。原本は『京都市美術館ニュース』No.31(1960=昭和35)からNo.42まで1年間連載されたもので、今回は京都の美術Ⅱ 『京都の洋画/資料研究』(1980年 京都市美術館刊)から転載させて頂いた。当時、同著の編集に当たっておられた学芸課長(当時)の原田平作先生には様々な資料を提供するなどしており、懐かしい出版物である。黒田の本文中、鹿子木孟郎の「ユヤ神社」と現存する熊野神社の表記の混同は、博識の鹿子木が、謡曲の演題「熊野(ゆや)」と実在の熊野神社を混同したことに端を発することを付記しておきたい。

 1998(平成10)年5月に当画廊で開催した「浅井忠と京都」展では、澤部清五郎旧蔵で元黒田重太郎所蔵品だった浅井作品を中心に紹介した。黒田と澤部は同じ浅井忠の聖護院洋画研究所と関西美術院の同門で、黒田は澤部の妹二人と縁(姉雅と1914年に結婚、1926年には早世した雅の後添えとして妹のうめと結婚)もあり、義兄弟として両家の絆は相当深かった。当時澤部家で発見された黒田の初期素描群のいくつかは、「京都洋画のあけぼの」展(1999年 京都文化博物館)と没後30年・黒田重太郎展」(2005年 滋賀県立近代美術館/佐倉市立美術館)で紹介したが、全作を紹介するのは本展が初めてとなる。

 さて本展を準備しながら気ぜわしい時間に追われている昨今、平成30年前半期の活動報告をしておきたい。怒濤の日々は2月25日にHHK日曜美術館での「芸術はすべて心であるー知られざる画家・不染鉄の世界」放送の直前・直後から始まった。作品画集の刊行を目指す求龍堂からの取材、東京で画廊を営むNさんからは不染鉄展開催の協力依頼などが次々と舞い込んできた。昨秋の東京ステーションギャラリーでの不染鉄展の大盛況の余波である。当画廊で30年前から取り組んできた不染鉄再発見への努力がようやく実を結び始めたのである。3月10日から31日まで当画廊で開催した不染鉄遺作再発見展は、NHK放送効果のお蔭で、不染鉄愛好家の急増もあり大盛況の有様だった。

 そうした多忙な日々にあって2月23日から3月7日までは、枚方市民ギャラリーでの「憂鬱と寂寥を作品に昇華させた魂の画家・三上誠」展に、大作を中心に30点の出品協力をした。枚方での展観は小規模ながら素晴らしいものだったが、広報の準備不足もあり余り評判を呼ばなかったのが残念でならない。当画廊の看板企画「忘れられた画家シリーズ」で紹介した日本画の両極端に位置する二人の逸材、不染鉄と三上誠。両者を結びつける共通項 〝画家の精神性〟 による美意識の表現は、極端に位置するものである。前者は人口とマスコミと富の集中する東京での展観で大評判となり、一躍マーケットの寵児となった。後者は正反対の抽象作品の画風で難解ときている。三上の芸術がいつマーケットの寵児となるかは、具体美術協会の画家たちのように、海外での評判の高まりを待たねばならないのだろう。

 5月8日から27日までは「矢崎千代二 世界漫遊の旅」展を開催し、展覧会図録も作成した。昨秋、東京の目黒区美術館で開催された「日本パステル畫事始め」展への出品作を中心に57点の油彩とパステル画の展観だった。また今秋11月17日から12月24日までの会期で、矢崎の故郷、神奈川県横須賀美術館で開催される過去最大規模の「矢崎千代二展」へは、作品30点の出品協力を依頼されているところである。

 7月21日から9月17日まで奈良県立美術館で開催された、「美の新風—奈良と洋画—」展に7点の油彩画を出品協力した。また9月15日から10月14日まで「堺コレクションでめぐる美の系譜—画家たちの交流を通して」展が、堺市立東部文化会館で開催されており、11点の初期大阪画壇の作家による作品の出品協力している。

 一方、昨秋、画廊の企画展で作品発表をして評判を呼んだ小波魚青<戊辰之役之図>を、小波の故郷、宇和島市伊達博物館での特別展示「明治、宇和島スピリッツ!」展に、4月28日から5月13日までの期間限定での貸出協力をした。この作品の評判はじわじわと全国的に浸透して来ているようで、夏には朝日新聞の神奈川版で大きく紹介されている。9月27日放送のNHK BSプレミアムー『英雄たちの選択』「明治維新 最後の攻防〜西郷・大久保“革命“への賭け〜」でも大きく紹介された。10月2日から11月25日まで京都文化博物館で開催される「華ひらく皇室文化—明治宮廷を彩る技と美—」展には、明治150年記念の企画展であることから、同作が展覧会冒頭部分での京都だけの特別展示として公開される。まだ実作品をご覧になっていない方にはお勧めである。

 10月27日から12月2日の予定で開催予定の「田村宗立展〜リアリティを追求した画家〜」展(京都府南丹市立文化博物館)へは、多数の田村作品と資料の出品協力の予定である。田村の生誕地への凱旋展の図録では、可能な限りの田村宗立(月樵)作品が数多く掲載されるとのことで、楽しみにしている。京都洋画の先達として、改装後の京都市立美術館で田村の本格的な回顧展実現を夢見て本稿を終わりたい。

2018(平成30)年9月末

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