国画創作協会の画家たちーⅡ
異色の美人画家・
甲斐庄楠音と三人の夭折画家
―稲垣仲静25歳・伊藤柏台36歳・岡本神草38歳―

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 1918(大正7)年に京都市立絵画専門学校の第1期生の気鋭日本画家、小野竹喬、土田麦僊、村上華岳、野長瀬晩花、榊原紫峰によって設立された国画創作協会展は、「個性の創造を源泉とした創作の自由」を第一義に掲げ、生命感あふれる芸術の創造を目指した。第1回展後に会員として加わった入江波光を含めた主要6作家の代表作の殆どが、第1回から第7回までの国展の活動から生まれたのである。国展の創立には全国から前途有望な新鋭たちが作品を寄せ、実に多彩な個性的画家たちを生み出すことになった。国画創作協会は在野の美術団体として僅か10年の活動であったが、大正期の日本画壇に絶大な影響を与えたことは特筆される。その余韻は現在の京都画壇にも脈々と息づいていると私は望み、また信じたいと思っているところである。ところが昨年、創立100周年記念の年に開催された「国画創作協会の全貌」展は、小野竹喬の故郷である笠岡市立竹喬美術館、野長瀬晩花の故郷にある和歌山県立近代美術館、そして土田麦僊の故郷、新潟にある新潟県万代島美術館へと巡回したが、肝腎の京都で開催されなかった。非常に残念なことである。しかし考え方を変えれば、現在新館建設など大幅なリニューアル工事中の京都市美術館にとっては好機とも言えよう。まして最初の国画創作協会回顧展を開催した(1963年)のは京都市美術館である。今回の全貌展に展示されることが叶わなかった、いくつかの代表的作品をも加えた真の全貌展を、ルーツである京都市で近い将来に開催されることを期待して止まない。

 当画廊では、当初より画家の盛名に捉われない隠れた名作の発掘に力点をおいてきた。先の全貌展では、これまで発掘した国展出品作のいくつかと再会できた。森谷南人子《快晴》(第1回展、1918年、京都国立近代美術館蔵),山口草平《静寂》(第2回展、1919年、京都国立近代美術館蔵)、榊原始更《路》(第3回展、1920年、京都国立近代美術館蔵)、粥川伸二 《妖映》(第4回展、1924年、京都国立近代美術館蔵)、徳力富吉郎《人形》(第6回展、1927年、和歌山県立近代美術館蔵)、杉田勇次郎《麓庵》(第6回展、1927年、和歌山県立近代美術館蔵)、小松均《八瀬》(第7回展、1928年、宮城県美術館)である。それに今回は出品されていなかったが、岡本神草《拳を打てる三人の舞妓の習作》(第3回展、1920年、京都国立近代美術館蔵)は、言わずもがなの作品である。

 当画廊で開催した最初の国展関連の展覧会は、今から37年前の「国画創作協会から新樹社へ」という展覧会である。1982(昭和57)年2月9日から14日まで、第7回京都画廊フェスティバル参加展として開催した。

 それより9年前の1973(昭和48)年11月に、三条大橋を少し東に入った商家の2階を間借りして星野画廊を設立していた。当初は関西美術院の画家たちを中心に、美術史に埋もれた洋画家とその作品の発掘に力点を置き、画商活動の参考になりそうな昔の展覧会図録や雑誌を、京阪の古書店や古書市を巡って集めまくった。明治から大正、そして昭和初期頃へと美術史の流れを勉強するうちに、日本画の作品ながら西洋絵画のリアリズム表現に影響を受けた作家と作品が目立つ、大正期の国画創作協会の活動に注目するようになっていったのである。やがて国展や国展解散後に設立された新樹社展の展覧会図録の大方を揃えるまでになった。しかし実作品の収集では古参画商に到底太刀打ち出来ない。国展創立会員の作品は当時でも高額だったからだ。そこで世間では一段下の二軍の扱いを受けて、「売れない」と見放されていた平入選者の作品を、「良く描けているか、魅力があるか、ちょっと凄いやんか」などといった判断基準でぼちぼちと買い集めていき、ようやく小さな展覧会ができるほどになっていたのである。

 同展では、狭いスペースに不似合いで大きい屏風2点を含めて19点の作品を展示即売した。杉田勇次郎<麓庵》と徳力富吉郎《人形》が和歌山県立近代美術館の買い上げとなった。同館では創作版画の作品と併せて国展関係作家の作品と資料収集にも力を入れるようになっていたのである。《人形》の作者の徳力さんがまだご存命の頃で、とある古美術商の店頭で《人形》を見つけて購入した時点で、氏のご自宅を訪問して鑑定して頂いていた。同作が和歌山県の美術館に収まることになったと伝えたところ、「京都の近代美術館ならよかったのに」と残念そうにおっしゃった。当時は京近美の方々とはまだあまり面識がなかったので仕方がなかった。同年4月に現在地の神宮道に画廊を移転し、移転記念特別展「関西洋画の草創期」展を開催した。それを機に近くの京都国立近代美術館とのご縁が深まるようになったのである。」

 それから23年後の2005(平成17)年5月、「国画創作協会の画家たちー新樹社創立会員を中心にして」展を開催した。

 この間、1982(昭和57)年に笠岡市立竹喬美術館が開館した。国画創作協会の研究活動が同館を中心に活発化し、全国の様々な美術館や美術施設で大正期の美術運動を回顧する展覧会が数多く開催されるようになった。芸術新潮などの大手美術雑誌で、大正という時代に焦点を当てた特集記事が目立つようになっていった。国展の総合的な研究活動の成果が『国画創作協会の全貌』(1996=平成8年、光村推古書店刊)という大著にまとめられたこともあり、一般美術愛好家の間に国画創作協会の画家たちの作品にかつてない注目が集っていった。やがて国展の創立会員のみならず、甲斐庄楠音のような個性的であくの強い画家たちへの関心が深まっていったのは時代の趨勢だったのだろう。

 にもかかわらず、一般の美術マーケットでは、私どもの取扱う個性的な画家たちの絵は知名度で劣り、いつまでもマイナーの扱いを受けているように感じられて歯がゆい限りである。近年、甲斐庄楠音や岡本神草そして稲垣仲静の遺作展が京都国立近代美術館や笠岡市立竹喬美術館などで開催されてきたが、彼らの作品の絶対数が少ないことで、美術マーケットを形成する段階にはいつまでも到達しない。

 この国では、どのオークションでも数多く見かける作家の作品が、一般愛好家にとっては購入する時の安全指針のように感じられているのだろう。昨今大流行の現代アートなるものも然り、みんなが知っていて、どこを切ってもいくつ切っても同じ顔が出てくる飴細工のような作品が購入対象の作品として主流を占めている。その意味では、個性の尊重を謳った国画創作協会の精神は、今や地に落ちた感があるように思われてならない。

 一方で、近年注目を浴びている江戸期の「個性派の画家」や「奇想の画家」たちの一大ブームがある。伊藤若冲や曾我蕭白らの絵画が絶大な人気を集め、開かれる展覧会はどれも押すな押すなの人の群れが押し寄せ、関連の出版物や論文がひしめき合っている。海外ものではフェルメール絵画が圧倒的な人気を誇る。何もそのことをけなしているのではないが、美術作品の正当な評価が、展覧会の入場者数で測られる時勢を嘆いているだけである。江戸期の奇想画家たちの主要作品のほとんどが海外にあることを、私たちは恥じなければならないのではないだろうか。彼らの芸術的価値を、海外のコレクターたちが、随分前の時代に自分らの判断力で選別して作品を集めていたことが知られている。こんな素晴らしいものが自分のものになるなんて、と素朴な感動を基盤にコレクション数を増やし、作品の保存や修復にも資金を注ぎ込んできたのである。

 現在、大正期の個性派の画家たちの絵に注目する海外のコレクターはまだほんの少ししか現れていない。装飾としてマンションの壁面を飾るに相応しいものや、手技に優れて誰にでも分かる明治期の工芸作品に需要が偏っている。この傾向は日本国内で特に顕著に見られる。実際、誰が見ても分かり易いものはいつの時代でも売れるのだから仕方がない。

 こういう軽薄な時代にこそ、もっと精神性が高く、希少性があり、表面的な技巧を越えた内面の輝きが窺える大正期の細密描写や、熱気のこもった素描などにも注目すべきではないだろうか。昨今の現代アートよりずっと現代を感じさせ、見る者の心の奥底に響いてくる作品がある。それらは何も出品作品や本画に限らない。小さな素描や習作の段階で本画を凌駕する、そういうものが数多くあることを、本展であらわに示してしてみたいのである。

 今回の「国画創作協会の画家たちーⅡ」では、近年にマーケットで認知されつつある異色の美人画家・甲斐庄楠音の新発見作品を紹介すると共に、国展に籍を置いた画家たちの中から、余りに短い生涯を閉じることになった薄幸の夭折日本画家、稲垣仲静、伊藤柏台、岡本神草の三人の遺作を数多く展観することにした。併せて国画創作協会の創立会員ながら代表作たる出品作の少ないことで、他の創立会員たちから一段低く見られがちな異色画家・野長瀬晩花の初期作品を1点。幻の作品と言われる《戦へる人》を特別に展観することにした。当画廊の企画展「群像の楽しみ方」展(2010=平成22年)以来のことだ。個性派画家の力作が並ぶ本展で、どのような光芒を放つのだろうか。楽しみなことである。

2019(平成31)年2月末

このウインドウを閉じる