ナイーブな感性で描いた珠玉の作品を一堂に
没後17年・藤田龍児遺作展
2019年11月5日(火)〜11月30日(土)

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 1965(昭和40)年頃、同志社大学商学部に在学中の私は学業をそっちのけにして、通訳を兼ねたセールスマンとして外国人旅行客相手の美術店「ジャパン・アートセンター」でアルバイトに精を出していた。同社は観光シーズンの春秋各3ヶ月間に限って、海外からの旅行客がたくさん逗留する都ホテルの中2階を借り切って、「現代日本美術展」と名づけた即売会を開催していた。1ドルが360円の時代だった。彼らは、日本の骨董品や美術品をお土産として買い求めた。なかには財閥の御曹子、大コレクターや美術館のキュレーターなどもいた。今思い出しても具象から抽象の現代作品まで「ごった混ぜ」の売り展だったが、まだ日本では現代美術はおろか絵画のマーケットすら育っていなかった当時、その展覧会で作品を並べることは、海外に自らの作品を紹介するという大きな夢を叶えると共に、収入獲得になる嬉しい催しだったのだろう、様々な画家や現代美術作家たちが喜んで出品した。売れっ子作家に混じり下村良之介、辻晋堂、不動茂弥、三尾公三ら地元京都の作家たち、北白川のケラ美術協会の作家たち、阪神間のニュージオメトリック系の作家たちや今中クミ子、須田剋太、上前智裕なども取り扱い作家だった。

 どのような関係からかは分からないが、その中に藤田龍児もいたのである。彼の絵といえば、粗末な木枠額に入れられた白っぽい画面に、絵具を厚く盛り上げた無数のエノコログサだけが描かれたものだった。数年間の展覧会で彼の絵が売れた記憶は一度だけあるが、当時の私はまったくの素人、その絵の良さは殆ど理解できず、「変な絵」のひとつでしかなかった。

 同大4年の夏、アイゼック交換留学生として半年間の渡米後、敢えて留年の道を選び一年遅れで卒業し、ジャパン・アートセンターに就職した。1970(昭和45)年の万国博覧会開催直前の2月、大学後輩の万美子と結婚した。彼女は英文科で19世紀イギリス文学を専攻し、学生時代からプロの通訳ガイドとして全国を飛び回っていた。現代美術専門のギャラリー16での手伝いを時折頼まれて店番をしていたこともある。彼女は堀内正和、石原薫、寺尾恍司、榊健、松本正司、楠田信吾、吉田ミノルら数多くの現代美術家たちと知り合い、当時松本正司らが手がけた映像表現にもモデルとして駆り出されたともいう。ジャパン・アートセンターの本社が同ギャラリー近く、御池通の日航ビル2階にあったので、必然的に二人の接点が増えたという訳だ。翌年に同社を退社して独立、アートコンサルタントとして活動を開始した。かねてより三尾公三のニューヨーク・ボニーノ画廊個展開催の下準備の手伝いをしていたことから、三尾の展覧会初日に合わせて渡米したのである。渡米に合わせてカラー刷りのカタログを準備し、全米各地を転々として取扱い作家紹介をしてまわったが、芳しい成果は得られなかった。というよりは全くの徒労に終わってしまったのである。

 その頃の藤田龍児との関係といえば、新婚時代に一度、当時住んでいた山科の2DKのアパートに、彼が幼い長男(緑郎君)を連れて訪問されたことがあるくらいだった。独立したとはいえ、夢ばかり追い続ける駆け出し画商にはたいした収入があるでなし、とうとう妻の収入を当てにするようになってしまった。夫として、また画商としての自覚自立をうながすため、清水の舞台から飛び降りるつもりで、敢えて収入の良い通訳ガイドの職を辞した万美子の強い意志もあり、私たち夫婦は日々の暮らしに追われていった。しかし苦労はするものである。日本の近代美術の原点に立ち返って美術史を見直すという、私たちの画廊の方針が次第に実を結ぶようになった。当然のことながら、売れにくい現代美術系作家との付合いは、徐々に薄れていった。1973(昭和48)年に三条大橋の東にあった間借りの小さな部屋で星野画廊を開設した。その後10年間にわたる紆余曲折の末、星野画廊の経営が軌道に乗り出した1982(昭和57)年の春、現在の神宮道に星野画廊を移転したのである。その年のことだった。関西美術文化展が京都市美術館で開催中だったからだろう、藤田龍児がひょっこり画廊に顔を見せた。杖をついて足を引きずってよたとたと。

 「ボ、ク、ビ、ヨ、ウ、キ、シ、テ、イ、タ…」

 たどたどしい会話だった。一語、一語の声が、喉の奥から絞り出されるように発音された。頭の中に浮かんだ単語が、口からなかなか出て来ない、話せないもどかしさに溢れ苦痛に満ちた表情だった。しかし、二度に亘る脳血栓発作の後遺症を克服して、今ようやく関西美術文化展に復帰出品を果たしたという満足感、それが不自由な足を画廊に運ばせたのだと思う。生命を失いかけた大病と、右半身不髄と言語障害、特に画家の生命とされる利き腕の右手不随をも絵筆を左手に持ち変えて克服しつつあった。病後の藤田が行っていた壮絶ともいえるリハビリ活動など、不覚にもその時点まで、私たちには知る由もなかったのである。

 1985(昭和40)年の秋、関西美術文化展に出品された《啓蟄》を見た。これまで感じたことのない程の感動に心が震え、これは不朽の名作の一つだと感じた。藤田龍児展をしなくてはならない、即座にそう決心するまでになった。

 1989(昭和44)年10月、「右手から左手へ、心の旅路を絵筆に託して・藤田龍児展」を開催した。展覧会は「半身不随の病気を克服して復帰した画家」として新聞各紙に紹介され、空前絶後の賑わいを見せた。その後は、美術文化展のほとんどと言ってよい出品作を優先的に購入させていただいた。大阪で開催される個展で売れ残った絵の中からめぼしい作品も押さえた。1992(平成4)年の関西美術文化展に出品された旧作5点は、作品の損傷していた部分を修復する条件で全て譲っていただいた。その後もゆっくりではあるが着々と、藤田龍児回顧展の準備をしていた。ところが間に合わず、2004(平成16)年開催の展覧会は遺作展になってしまった。

 歳月を経るほどに速くなる時間の推移に驚いてばかり、気がつけば今年は藤田龍児没後17年となる。私たち夫婦が共に同志社大学の出身であることで、自らも同志社ボーイの端くれだったと自称する藤田龍児がとりわけ親近感を持たれたのかどうか、30余年に亘る長い付合いをさせていただいた。ところが、彼が一番苦労されていた頃は、私たちも画廊経営においてに厳しい状況に直面していた。1977(昭和52)年に藤田が二度目の脳血栓と発作で半身不随となった頃、画廊で美術作品が売れずに困った私は、骨董品や掘り出し物を求めて古物商や滋賀県の旧家を巡っていた。彼が復活に向けて血の滲むような努力を続けていた頃、私は八日市市の古物商で京都洋画の開祖・田村宗立の初期油絵に出会った。その一枚の絵を研究するために黒田重太郎『京都洋画の黎明期』と出会った。同著をバイブルにして京都洋画の黎明期からの作家と作品の発掘に専念するようになっていった。1979(昭和54)年に忘れられた画家シリーズー⑤「明治の洋画家たち」を開催し、ようやく画商としてすすむ方向性を確立した。

 1980(昭和55)年に藤田は《遠い雲》(17頁掲載)を描いている。本作を入手したのは極く最近のことだが、「病気からの完全復活を宣言する画期的な作品である」この絵を高く評価している。私はと言えば、その年に秦テルヲの自画像<闘病五年記念自像>(1945年)と出会った。秦テルヲ作品を本格的に蒐集するきっかけとなった名作である。1982(昭和57)年春に「国画創作協会から新樹社へ」展を開催後、4月に現在地の神宮道に画廊を移転し、久方ぶりに藤田龍児と再会したのは既述の通りである。

 思えば藤田没後も含めて半世紀以上にもなる画家藤田龍児との交流、それは決して深いものではない。いつものように私は淡々と彼の作品を見つめ、これはと思う絵を蒐集し、お客様に紹介して楽しんできただけである。彼と飲み食いをしたことは一度もない。だが、絵を観ているとなんとなく画家の本心が見えてくる、その感想を今回それぞれの作品の解説として掲載させて頂いた。画家はほとんどの場合、絵の説明をしなかったし、私が尋ねてもにやにやと笑って煙草をくゆらすだけだった。ひとつ確信をもって言えること、それは彼が作画に当って実に真剣だったということである。たとえそれがサムホールのように小さな絵であっても気を抜くことはなかった。62頁に個展を前にして制作中のスナップを2枚紹介している。真夏の暑い季節だろう、茶の間のアトリエで頭に鉢巻きをして筆を持つ、どこか疲れ切って悲愴な表情の画家の姿がある。いつか私が「先生の絵は、大きい方が絶対によろしいよ」と、もっと大きな作品を描けと促した時、「あんたはわしを殺す気か」と少し強い口調で笑い飛ばされた。一見楽しそうに自由気ままに描いているように世間では見られているが、彼の制作態度はいつも真剣そのものだった。画友のある方から聞いた話だが、駅近くのガード下にある飲み屋で皆が盛り上がっている時、突然「わし帰る!」と藤田が決然と席を立ったという。あっけに取られる飲み仲間を置き去りにして自宅に急いだ画家には、実は描きかけのキャンバスが待っていたのである。藤田は下地をいつも真っ黒に塗り、その上に様々な色や形を乗せて描き、適当な堅さに表面が乾いたところにニードルで線刻を施していくのである。上の絵具が乾きすぎると線刻で画面に割れが生じる。あの微妙な線刻はそのような繊細な気遣いにより様々に描かれた線であった。藤田絵画は初期作を除いてほとんどの場合に亀裂や剥奪が見られない。計算され尽くした画面なのである。飲み仲間と一緒に騒いでいても、頭の中は作画一辺倒だった藤田龍児の真剣さを示すエピソードである。

追記

 現在、東京の府中市美術館で開催中の展覧会「お帰り美しき明治」(12月1日まで)が脚光を浴びているという。同展に数多くの画廊所蔵品の出品協力をしていることもあり、関係者の一人として大いに喜んでいるところだ。なかでも同展のポスターや広報チラシに採用された笠木治郎吉の水彩画《花を摘む少女》を含め、笠木の水彩画作品の異色性が特に注目されている。彼の水彩画がただ絵具を水で溶いただけでなく、厚みのある不透明な漆絵のような質感をもち、画面隅々まで細密に描写されたリアリズム、そして同時代に生きる人々を題材にした記録性なども話題になっている。この異色水彩画家を当画廊で最初に紹介したのは、2003(平成15)年に開催した「水の情景—画家たちが描いた生活と自然」展だった。その年に京都を中心に大阪府と滋賀県で開催された「第3回水フォーラム」に協賛して開催したもので、笠木作品2点のほか20点の明治期水彩画を出品した。当時(今も変わらず)13点の笠木作品を所蔵していた。そのはるか昔に京都のとある古美術市場の売り立て品の中に、笠木ほか全く無名画家たちの水彩画を含めて20点ほどが一括で競りに掛けられたことがある。それら額装もされていなかった作品の裏打ち状態などから見て、明治期に横浜などから欧米に輸出されたものが逆輸入されたものだということが分かった。無事に競り落として大切にしていたものである。その後、「近代日本の水彩画—その歴史と展開」展(2006年 茨城県近代美術館)に3点、「花とともに、日本美術500年」展(2010年 島根県立石見美術館)に2点の笠木作品を出品協力してきた。また昨年の6月には、朝日新聞神奈川版の「神奈川の記憶」(渡辺延志記者)で笠木治郎吉特集が2回連載され、同年11月から今年の1月まで「神奈川の記憶—歴史を見つめる新聞記者の視点」展が横浜歴史博物館で開催された。同展に笠木の遺族から数点の笠木作品が出品された。

 府中市の「おかえり美しき明治」展には、現在星野画廊が所蔵する作品36点と、これまでに京都国立近代美術館、横浜美術館、静岡県立美術館、目黒区美術館、府中市美術館などに納入してきた明治期の珍しい作品20点、計55点の作品が同窓会のように集結していることを追記しておく。

 当画廊の「水の情景」展には、不染鉄の日本画作品2点も水の表現の特異性に目を付けて出品していた。不染鉄の作品が一般に知れ渡るようになったのは一昨年(2017年)の東京ステーションギャラリーと奈良県立美術館で開催された大規模な遺作展以後のことである。NHK日曜美術館で紹介され、『不染鉄画集』が急きょ発刊されるなど、その異色性が一種のブームのように業界に浸透してきている。当画廊で開催した「幻の文人画家・不染鉄遺作展」が1996(平成8)年だったから、一般に認められるようになるにはそれだけの時間が必要だった。

 こうした事例を挙げているのには当然理由(わけ)がある。今回の藤田龍児遺作展は星野画廊で開催する3度目の藤田龍児展だからである。「右手から左手へ、心の旅路を絵筆に託して・藤田龍児個展」(1989=平成元年)が存命中、最初の展覧会。2度目が「エノコログサに託した自然讃歌・藤田龍児遺作展」(2004=平成16年)である。本展が3度目の正直になり、やがて東京での回顧展、そして全国区へと波及することを願っている。それだけの可能性を秘めた高い芸術性と個性をこの画家と作品が秘めていることを信じて止まない。

2019(令和元)年10月

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