歌川広重「東海道五十三次」へのオマージュ
河合新蔵「東海道五十三次図絵」展
2021年3月20日(土・祝)~4月3日(土)

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 『東海道五十三次』といえば、誰もが歌川広重の浮世絵版画「東海道五十三次」を想起するだろう。その昔、徳川家康が1600(慶長5)年の関ヶ原の戦いの勝利により兵馬の実権を握り、徐々に江戸を中心とする交通網の整備を進め、翌1601(慶長6)年に江戸を起点とする東海道を定めた。その後中山道を開くなど各街道を次々に開設した。大阪城陥落からもたらされた平和の時代、たとえ関所や川越などの難所があったにしても庶民は初めて旅を楽しめるようになった。1802(享和2)年に刊行された十辺舎一句『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん・喜多さんが繰り広げる珍道中が評判となった。ちなみに当時の男性が歩いた距離は、1日あたり10里前後(約40キロメートル)が標準で、女性なら6から7里(23〜27キロメートル)は歩いていたといわれる。この頃の旅は朝まだ暗いうち、午前4時頃には出発して明るいうちに目的地に到着しなければならなかった。

 1832(天保2)年に幕府の年間行事「八朔御馬献上」の行列に加わって東海道を旅した広重が、江戸と京都間53の宿場・風景画をスケッチし、1934(天保4)年に完成した作画を元に保永堂から出版した。それが広重の代表作として今でも世界中で抜群の知名度を誇っている『東海道五十三次』。ただし広重が実際に東海道を旅したかどうかについては疑問があり、以前に描かれた『東海道名所図絵』や、十返舎一句の『東海道中膝栗毛』などの挿絵を様々に模写して浮世絵にしたという説が最近では有力となっているが、それさえも確定していない。それはさておきこのシリーズがフィンセント・ヴァン・ゴッホなど西洋の画家たちにも大きな影響を与えており、建築家のフランク・ライトが広重の熱心なコレクターであり、『東海道五十三次』も入手し、1906(明治39)年に広重の大規模な回顧展がシカゴ美術館で開催された折に協力していたことも知られている。

 広重のように「東海道を歩く」ことは、初期洋画家の亀井竹次郎が石版画集『懐古東海道五十三次真景』出版の為に行った1877-78(明治10-11)年の油彩画写生旅行の後、1889(明治22)年に東海道線の鉄道が開通したことにより鉄道利用にシフトして行くのだが、やはり歩くことにより東海道の風景や文化を直に見聞しようとする試みは途絶えることはなかった。とりわけ画家や漫画家を中心に行われた東海道旅行は大正期に集中しているようで、1915(大正4)年3月の横山大観、下村観山、小杉未醒、今村紫紅ら院展系画家による東海道写生旅行。彼らは『東海道五拾三次合作絵巻』(全9巻)を描き出版、日本美術院の運営資金に当てた。同じ年に米国の人類学者フレデリック・スタール、1918(大正7)年に水島 爾保布、翌1919(大正8)年に本願寺の僧・大谷尊由と日本画家・井口華秋による「東海道絵行脚」、そして1921(大正10)年に中央美術主催で行われた、岡本一平、池部鈞、前川千帆ら東京漫画会同人18名による東海道旅行後の『東海道線五十三次漫画絵巻』で一段落する。昭和に入ると岡本かの子が短編『東海道五十三次』を発表するが、これが大正期における東海道旅行を総括するものと位置付けられているようだ。

 実はこれ以降にも美術家たちによる東海道絵行脚は行われていたのである。日本画家・池田遙邨(1895-1988)が1928(昭和3)年と1930(昭和5)年の2回に分けて京都から東京までを写生旅行し、1931(昭和6)年に完成した『昭和東海道五十三次』(現在倉敷市立美術館蔵)がある。これは絹本彩色(各24 × 36 cmの画面)で、京都御所から皇居までの各地を3冊の画帖に納めた作品である。「制作時から長い間行方不明だったが、東京で発見されてこのほど故郷の美術館に購入保存された」と、1997(平成9)年4月の新聞報道(大きなカラー図版とともに)各紙で紹介された。当時私は既に別の作品、未発表で誰も知らない大正の『東海道五十三次図絵』の絹本彩色画冊を保存していた。それが今回紹介することにした河合新蔵(1867-1936)『東海道五十三次図絵』全55図である。同年末から翌年1月にかけて郡山市立美術館で開催された「描かれた東海道五十三次〜浮世絵・広重から、新発見・油絵東海道まで〜」展には、参考作品として出品したが、地元京都での紹介は控えてきた。

 星野画廊では京都の洋画史を通観する画家や作品の収集に務めており、特に関西美術院の重要な画家についてはそれぞれ別個の遺作展開催を考慮して資料収集をしている。この東海道画冊もその過程で随分前に発見して購入保存していたものである。作者の河合新蔵については、1985(昭和60)年2月に忘れられた画家シリーズー⑱で「水彩画の名手・河合新蔵展」を開催したことがある。この展覧会後、水彩画の代表的な作品3点が京都国立近代美術館買上げとなった。当時の資料を紐解けば、1月「太平洋画会の4人(鹿子木孟郎、都鳥英喜、中川八郎、吉田博)展、2月「水彩画の名手・河合新蔵展」、3月「物故洋画家による・花のコレクション展」、5月忘れられた画家シリーズー⑲「悲劇の女流画家・松村綾子展」、6月「忘れられた画家シリーズー⑳・山下繁雄と小見寺八山」展、7月「夏に雪を愛でる会」展、そして10月「名画との不思議な出会い・発掘された肖像」展と、まさに怒涛のように展覧会を連発していたのである。最もほとんどの展覧会は案内状だけですまし、「松村綾子展」が4頁の小冊子、「発掘された肖像展」が本格的な展覧会図録作成の第1号だった。当時の私はまだ42歳、まさに働き盛りの年代に差し掛かり気力も体力も旺盛だったのだろう。

 今日、一般の方々には河合新蔵の名前はあまり知られていない。ところが美術史研究家の間では水彩画の黎明期の活躍が注目されて、水彩画集や水彩画関連の展覧会ではよく紹介されている。京都洋画界の重鎮・黒田重太郎(1887-1970)は、『京都洋画の黎明期』(黒田重太郎著、高桐書院刊 1947年)や『わが師、わが友』(京都市美術館ニュースNo.31〜No.42連載)などで、黒田の最初の師匠で洋画家としての出発点の恩人として、河合のことを高く評価して紹介している。河合の画作は水彩画だけに止まらず、油絵や絹本日本画にも佳品が数多くある。いつかは河合の本格的な回顧展を画廊で開催しようと、それまでは『東海道五十三次図絵』の発表も控えて秘蔵してきたのである。

 昨年1月に画廊を訪れたアメリカのとある公立美術館の学芸員・P.H.氏にこの画帖をお見せしたところ、是非館蔵品にお願いしたいと要望された。折からのコロナ騒動で話が中断しているが、そろそろ作品の紹介資料を作らねばと考えて、河合の描いた五十三次絵と広重の五十三次絵とを照合し始めた。河合の遺族も分からず資料がほとんどない。彼がいつ頃東海道を旅したのか、過去の美術関係雑誌や資料類を調べ直して検証すればよいのだが…、この時期動きが取れない。だが彼が東海道を旅して絵にする時、あらかじめ広重作品の構図を踏まえた上で、広重から110年後の大正末における現場の検証を行なっていたようであることは想像できる。本作は「洋画家の写生」の視点から当時の生活状況を活写した、重要な民俗学的資料にもなるのではないか、そう認識するようにもなってきた。そして本作が彼の生涯の代表作の一つとすべきものであることを再認識するようにもなった。もしも外国に行ってしまったら肝腎の日本人がもう二度とお目にかかることができない、そのような心配もするようになってきたところである。

 広重の時代から110年後に広重『東海道五十三次』と比較検証して描かれた河合新蔵『東海道五十三次ず絵』の実景が、そのまた100年後の今、初めて世に紹介されることになる。不要不急の外出禁止要請が出されるコロナ渦中の日本である。展覧会を開催して多くの方々の興味を引いて来客の呼び水となっても、正直言って怖い。しかしこういう時期ならばこそ、自由に旅を楽しむ時代を、せめて気持ちだけでも取り戻すことができれば良いのではないか、そのように考えて画家・河合新蔵と共にあらためて夢の東海道を旅することにしたのである。

2021(令和3)年2月末日

参考文献:
今井金吾著『図説、東海道五十三次』2000年 河出書房新社刊
山本光正論文「鉄道の発達と旧道への回帰:東海道を歩くということ」(国立歴史民俗博物館研究報告、1991年)
「描かれた東海道五十三次〜浮世絵・広重から、新発見・油絵東海道まで〜」展図録(郡山市立美術館、1997~98年)

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