国画創作協会の画家「岡村宇太郎遺作展」後記





























 久しぶりの「忘れられた画家シリーズ」展である。前回の田中善之助展からちょうど3年になることにたった今気がついた。このシリーズを始めた(1978年)頃は何点か作品がまとまって入手できたら即展覧会の開催と気楽なもので、準備も1枚の案内状を用意すれば事足りた。それが時間の経過とともに“埋もれた芸術家を発掘する”が世間での私達の画廊に対する定冠詞のようになってきたことと、図録無しの展覧会なんていう私達の執念的な画廊経営姿勢とも相まって経営的には足枷のようにもなっている。けれどもこの不景気の最中に、私達の画廊活動のささやかな成果の一部をご披露できることを画商として誇りに思う。

 今回取り上げる岡村宇太郎のような国画創作協会系の画家たちは、何人かの作家についてシリーズで展覧会を開催すべく作品の収集に当たっている。ところが専門家たちの目が大正期の美術や国画創作協会に向かって一斉に走り出してきた昨今の状況下、“忘れられた”という言葉が何やら可笑しく思える程に彼等の名前が専門家たちの間で知名度を持ってきているのも事実であり、作品の収集は以前より数段難しくなってきている。京都国立近代美術館で開催されている国画創作協会の回顧展はその典型として、多くの美術館で開催される展覧会では過去の歴史的な出品作品に圧倒的な比重を置くことを常としてきた。たとえそれが大した作品でなくても出品作は大手を振って認知される。勿論出品作が多くの場合その作家の代表作であった、ということは安全牌として言えるかも知れない。しかし数多くの作品を見、また独自に収集している私達は、一抹の疑問を抱きながら展覧会を見て廻っている。










































 岡村宇太郎の場合、第2回国画創作協会展(大正8年)の出品作「牡丹」で樗牛賞をとり一躍世間の注目を浴び、「漁夫の習作」(大正9年)、「日没頃」(大正13年)がその代表作として挙げられる。これらは宇太郎の20〜24歳のことであり、その後国展に毎回出品するが同展の突然の解散により作品発表の場を失った。早水御舟より院展出品を勧められ、師の土田麥僊からは帝展へ誘われたが孤高の道を歩むことになった画家の苦悩は誰にも分からない。国展時代ばかり注目されるが、画家はそれからの何十年という年月をただ無意味に過ごしたのであろうか。普段お目にかかることの多い若き日の名作は京近美におまかせして、私達はこの画家のそれからの人生を辿ってみたいのである。宇太郎の家に遺された資料は殆どない。ただ何冊かのノートの中に大正14年の日付のある雑記帳のようなものを発見した。これが国画創作協会に洋画部が設けられて国展の運営にきしみを生じた時でもあり、また宇太郎自身の作画姿勢の変化の年でもあり重要と思い、その中からいくつかを本図録に掲載している。








































 国展以後昭和9年の大礼記念京都美術館展の「水辺白鷺」以外殆ど大作を描かなかった宇太郎の画業は、いわゆる床の間を飾る掛け軸に限られると言ってよい。世間では床の間芸術といって半ば嘲笑的に揶揄されるこの分野で、宇太郎は多くの佳品を遺している。展覧会の会場芸術に対する侮蔑的なこの床の間芸術を、私達は近頃むやみと愛しく思えるようになってきた。年齢がそう思わせるのかも知れない。だから本展の出品作の殆どに当たる60点の作品を軸装にした。その内45点を新たに私達の手で表具をあつらえたのである。額装については全部新しくあつらえている。絵に似合う額が出来てきた時も嬉しいのだが、掛け軸の場合は嬉しさが何倍にも増幅されるのだから不思議なものである。桐箱から取り出す時、そしてそれを床の間に徐々に飾る時、まさに至福の一瞬である。軸物は私達のような画廊の展示では似合わない。そして商売的に言っても床の間が廃れつつある現今の住宅事情では、多くの売上を期待するのは無理というものである。それを敢えて軸装にこだわった。宇太郎の絵に一番似合う。その事にこだわったのである。売り絵だ、床の間芸術だと蔑む人でも、それが村上華岳や速水御舟や榊原紫峰のものなら手のひらを返したように敬う。岡本宇太郎をそれらの大家と同列に扱えと言っているのでは決してない。ただ華岳には華岳の、御舟には御舟の、紫峰には紫峰の、そして宇太郎には宇太郎のよさがあると思うのである。本当なら表具も入れた図版にすればお世話になった表具師も喜ぶし、私達の言わんとする事もよくお分かり頂けるのだが、それは古書画屋さんの売り立て目録のようになってしまう。出来たら実物を見て頂きたい。





































































 ここで岡村宇太郎の雅号について少し述べてみたい。本名宇太郎、宇太朗、清空(せいくう)、そして隆生(りゅうせい)と4種類の落款がある。年記のある作品が非常に少なく、その本当のところは断定できないが、ほぼ次のように理解してよいのではないか。まず本名の宇太郎を使用した国画創作協会時代、昭和3年秋の年記のある「竹」が現存している。昭和4年に開催された新樹社展には「牡丹」を出品しているが、展覧会図録にはその写真がないので確かなことは分からない。昭和5年の年記がある「果物」(竹内栖鳳記念館蔵)あたりが宇太郎落款の最後の頃のように思われる。この頃より「生マルルモノハ芸術ナリ、機構ニ由ッテナルニアラズ・・・」の名文で知られる国画創作協会の設立宣言書の作者、土田杏村(麥僊の弟)より青空(せいくう)の雅号をもらい使用したと考えられる。京都美術界の古老は「宇太郎で樗牛賞を頂戴して多少世間に認められて作品が売れていたのに、青空(あおぞら)なんていうけったいな号では売れませんでした。確かすぐに宇太郎に戻したと記憶しています。」と証言する。実際のところ青空落款の作品は非常に少ない。宇太郎に戻したとあるのは、ひょっとして宇太朗ではなかったかと思う。宇太郎落款で青空印のある作品がいくつか現存している。岡村家に遺された年賀状類の中に岡村青空宛てのものが昭和18年の消印まであることから、表面的には青空を名乗っていても、実際は土田杏村の没年の昭和9年を境としているのではないか。未亡人によれば「戦後はずーっと隆生です」ということである。昭和26年に開催された回顧展に準備された「私の画歴」には国展時代の作品が旧作として掲載され近作として宇太朗と隆生の2種類の落款が所見される。この展覧会は新号である隆生のお披露目であったのかも知れない、そう考えていた時お弟子のひとりの大村氏から「隆生は昭和30年に開かれた先生の第3回展の時に初めて使用されたので、「私の画歴」にある隆生落款の筍の絵の写真はその時に追加されたものです」との証言を得た。これで隆生落款での活動はほぼ晩年の16年間に限られることが判明した。ところで、「宇太郎時代はともかく晩年の隆生時代は見るべきものは無い」とされるのが通例だが、果たしてそうであろうか。今一度本展を通して検証して頂ければ幸いである。

 最後になるがひとこと付け加えておきたいことがある。いつものように当方の勝手な都合で設定した岡村宇太郎遺作展だったのだが、今年が画家の23回忌に当たり、しかも当初予定していた展覧会初日の火曜日は命日の翌日になることに本図録の校正段階で気が付いた。幸運なことに命日の10月11日は振替休日となっている。これも何かの因縁、初日を1日繰り上げて異例の月曜日からの開催ということにしたものである。合掌。

星野桂三・星野万美子














































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