「裸体画」というと「裸婦」を直線的に思い浮かべる人が多いのは多分事実であろう。ミケランジェロやラファエロといったルネッサンス期の数々の名品、近代日本の作品の中の僅かな例外を除けば、「裸男」名作なんて数えるほどの少なさではないか。その裸体画を我が国の近代洋画史上洋画研究課程の主題のひとつとして定めたのは、明治29年(1896)に東京美術学校西洋画科の主任教授となった黒田清輝であった。有名な黒田清輝の〈朝妝〉(ちょうしょう)事件は明治28年京都に於ける第4回内国勧業博覧会の会場で起こった。鏡を前にして髪をとく裸婦像の陳列の是非を巡って一般ジャーナリズムが沸騰したのである。その前年に同じ作品が発表された明治美術会の東京会場では何等問題にならなかったのだから、いわゆる〈朝妝〉事件は保守的で閉鎖的な京都という環境だったから起こったということを念頭にいれるべきであろう。面白いことに同じ京都からは相当に革新的な活動をした画家が輩出している。〈朝妝〉から30年後に制作され発表された強烈な色彩と躍動感に溢れた一連の裸婦像は、画家里見勝蔵の代表的な作例を形成するのだが、今日的見地からしてもその刺激的な画面は見る人を圧倒する。本図録に掲載している作品が当時のコレクターに買われて半世紀以上の間愛蔵されてきた、という事実に私たちは感動さえ覚えるのである。
京都は実に保守と革新が混在する町なのだが、その京都で裸体画を主題として研究課程に加えていたのが明治39年に創立された関西美術院、当時の作例を黒田重太郎の見事な素描2点でここに紹介している。画家たちが伝えるところによると、研究所に駆り出されたモデルたちは総じて年配のおじさんやおばさんといった人たちで、画学生たちが制作意欲をそそるうら若い女性のモデルにはとんと縁がなかったらしい。関西美術院といえば、画家たちの回顧談の中でデッサンと裸婦像の達人として伝説的に語られる服部喜三の裸婦名作2点もゆっくりと見ていただきたい。アカデミックではあるが、師匠の鹿子木猛郎をも凌駕しかねない出来栄えである。いつの頃だったか服部喜三の裸婦20号を画廊に飾っていた時、ふらりと入ってきた紳士がその絵を気に入って買ってくれたことがある。「今日は好い事があってね、記念にもなるから」と言っていた人が名馬シンボリルドルフの馬主でその日の勝利を祝う意味もあったのだとは、後に作品の送り先がシンボリ牧場と確かめてから気がついた。最近のテレビ番組でハイセイコーやシンザンといった往年の名馬たちの回顧ものを見たこともあって、牧場であの絵に再会したいなあとふと思う。この展覧会に準備した画家たちの中で17人の関西美術院関係者がいる。明治から大正にかけては京都市立の美術学校で洋画のコースが設けられなかったことにもよるのだが、西日本で占めた関西美術院の重要性を再認識するためにも本格的な回顧展が待たれる。
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