秦テルヲ「京洛追想画譜」展 後記







































 私たちが秦テルヲ展を開催するのは今回で3回目となる。1984年11月に開催した「没後40年記念・秦テルヲ遺作展」(当時の案内状には間違って没後30年とした)、2回目が1986年10月の京都国立近代美術館の新装開館記念展「京都の日本画1910〜1930」に合わせた“京の異色日本画家たち”シリーズの特集陳列「漂白求道の画人・秦テルヲ」展でおよそ32点を並べたもの。そして今回のミニ企画展となる。当分の間は美術館での本格的な秦テルヲの回顧展は期待出来ないから、私たちのこうしたミニ企画展で世間の注目を喚起し続けることにしたい。

 私たちが秦テルヲに注目してその作品収集に取りかかった頃には既に、『秦テルヲの世界』という小冊子が縄手の山添天香堂さんの店先に置いてあった。山添さんが1977年に京都近鉄百貨店の画廊で開催した展覧会の図録として刊行されたもので、その中に「京洛追想画譜」13図が写真掲載されている。時間の経過とともに当時売却されたものが徐々に私たちの手許に集まってきた。入手した作品の数から考えて京洛追想画譜は複数あるものと思われるが、今回の展示品のうち6図が『秦テルヲの世界』掲載のものと一致する。これらは額装で出てきたが、他に軸装されたものも12点手に入れた。いずれも入手経路はまちまちで保存状態は極端に悪かったが、有能な表具師である山本陽光堂の手で蘇った。そこで近くの博宝堂に揃いの特製額を注文して衣装を新たにすることにした。このように手間暇と膨大な経費を掛けて展覧会をするだけの魅力と価値が秦テルヲの作品には潜んでいる。

 秦テルヲがこれからの京洛追想画を描いたのは京都に戻った昭和4年(1929)以降のことと思われるが、当時20年振りに故郷に帰って、生まれ育った京洛の変化を憂い嘆いたテルヲの一文を本図録で紹介している。それからでも既に65年が経過している。テルヲが幼い頃を追想して描いたとされる明治後期頃の京洛の風物は、今日かけらも存在しない。かろうじて神社仏閣やその関連行事によって断片が受け継がれてはいるが、市全体としてはどうにもならないところまで来ている。やがて京都駅ビルが新築されて改悪の極致が明白になることだろうが、京都市庁舎の新築問題もそう遠くない時期に示され新たな議論が提起されるだろう、京都は伝統的文化を保存継承しながら都会として発展しなくてはならない相反する宿命を負わされている。

































































 数年前に開通した川端通りの建設時、伐採された鴨川堤の見事な桜は僅かな幼木に変わったし、出町柳の名前の由来なっている出町の柳の古木は跡形もない。便利になるのと引き換えた部分が大きすぎるように思える。工事の仕方によっては容易に現状を保存出来たものだが、古いものを全部取っぱらってちゃちなもので代用する。どう考えても京都の変貌は、建設業者や造園業者と新し物好きな政治家や官僚たちの癒着そのもののように見える。これはひとり京都の問題に留まらないのは分かっているけれども、京都には日本の田舎のような存在でいて欲しい、そう思うのは私たちだけの願望なのだろうか。たとえこのような京都であっても住んでいる私たちは贅沢に違いない、そう他府県から来られる人々からは思われているだろう。それは充分理解しているのだが、欲張って、何で変えるんや今のままでよいやろ、といつも思う。同時に整理され変貌した部分について私たちは年月と共に容易に受容していく、いや、させられる。過渡的には沸騰する古都保存問題も一つひとつの問題をどうやらこうやら乗り越えて、いつかは自然に容認されていく運命にある。ひと昔前の京都タワー建設時も議論は沸騰したが、今では恰好のランドマークとして親しまれているし、新築された京都ホテルの最上階では窓の外の雄大な風景を楽しみながら食事をとる身勝手さを、私たちも含めた京都人は持っている。やがて私たちは、城塞のようなスケールで京都を分断する新京都駅ビルから京都タワーを見る新しい景観を楽しまされるようになるのだろう。御池通りの地下鉄建設工事による街路樹の移設問題も数十年すれば元通りになるのは分かっているが、とにかく只今の殺風景には我慢ができないから不平を言うのである。

























































 秦テルヲはこのシリーズ画で「四条河原町の夕涼」や「四条磧夕涼之図」を中心として、上賀茂の上流から七条の下流までの風物を愛情深く描いているが、こうした作品を眼前にして一人の学者の思い出に浸っている。京都大学名誉教授で仏文学者の生田耕作先生が他界されてもう2年になる。サドやバタイユなど異端の文学を研究され、1979年には編集・翻訳した『バイロス画集』で猥褻か芸術かの論議を呼んだことで知られる。先生が晩年力を注がれたのが「鴨川の保存運動」であった。編著『鴨川(おうせん)風雅集』は昔の鴨川を知る江戸期から昭和の文人・画人約100人がづづり、描いた鴨川の面影を1冊にまとめたもの(京都書院刊 1991年)。「かっての鴨川は、東岸は現在の縄手通り、西岸は先斗町までの川幅を誇り、低い瓦ぶきの日本家屋と柳や桜の木に飾られていた。千鳥が飛び交い、鴨川の夕涼みと言えば全国に知られた風物詩だった」と語っておられる新聞記事が手許にある。「近代化の名の下に疎水や京阪電車が鴨川沿いにでき、川幅は半減。これが原因で昭和10年の洪水が起きるし、今度は河川工事と称して川底を掘り下げ、歌舞伎の発展の場となった中州を消滅させてしまった」と話は続く。先生は古書店や古美術店を廻り、鴨川文化を伝える貴重な書画を収集、そのためには私財、蔵書までも売り払い買い集めた、とその記事にある。私たちの画廊との出合いも、どうしても欲しい鴨川関係の資料の買付け資金を捻出するために、所蔵されていた野長瀬晩花「雨後嵐峡」や不染鐵二「孤帆」を涙を飲んでお手放しになった時以来である。秦テルヲや甲斐荘楠音など異端の画家たちにも強く注目されておられたから、こうした異色の画家たちの作品が一番活かされると思われて私たちの画廊に来られたものと思う。端正なお顔立ちの長身の先生が久方振りに画廊にお見えになって、「何だか足腰が痛くてね〜」と杖を突いて疲れたご様子が最後であった。今度の展覧会を先生にお見せしたかったのに残念に思う反面、「これはどうしても欲しいから」と購入資金のご苦労をさせなくてよかったのかも知れないと、とも思う。




































































 「四条磧夕涼之図」の「磧」はセキ・かわらと音訓表に出ている。現存する京都の地名に西石垣(にしさいせき)がある。四条通り鴨川の直ぐ西(木屋町より手前)、東華菜館の横に路地が斜めに南方へ伸びている。何やら雰囲気のある通りに格式のありそうな懐石料理屋や鶏水煮き屋などが並び、やがて木屋町通りに合流する。また表紙絵の「四条河原の夕涼」に描かれている橋は、三条と四条の間にあった小橋ではあるまいか。今、同じ位置に新しく橋を掛けるという話もある。1頁掲載の「曳舟」は今回の画譜とは無縁のものであるが、12頁掲載の「高瀬川」図にある曳舟との比較もありここに掲載している、制作年代はおよそ20年を経だつ。京都の人なら知っていることなのだが、鴨川は出町(加茂川と高野川の合流地点)より上流を加茂川と書き、そのまた上流の上賀茂神社より上流を賀茂川とし、出町より下流を鴨川とするのである。筆者が子供時代に多くの時間を過ごしたのが賀茂川辺りであったので、冗談で「私は京都の上流階級の出身」とほざくのは、ここらの地形と名前の変遷を頭に描いて頂くとご理解してもらえるのだが…。16頁掲載の「出町橋」で白川女の歩く道が先ほどちょっと触れた川端通り。背景の森が下鴨神社の森(糺の森)であり、それが19頁の「下鴨村の森」となる。20頁の「白川之花賣娘」はこの画譜とは直接の関係を持たない。しかし秦テルヲがこの絵を描いた後、幾許も経たないうちに亡くなったことを考え合わせ、最終頁を飾ることにした。

 こうして京洛追想画を眺めていると、まず題材としての面白さに目を奪われることになるのだが、次にそれらが並々ならぬ画技の持主でなければ描き切れないことに気づかれるのではなかろうか。「詩仙堂社鵑之図」や前前述の「下鴨村之森」そして「梅ヶ畑渓靄之図」などの素晴らしさには、感嘆という言葉をあてるしかない。巷間秦テルヲの大正初期を彩るおどろおどろしい題材のもののみを評価するようだが、私たちはこのような秦テルヲの画家としての天分の冴えと画域の広さを見て頂きたいのである。そう遠くない日に、秦テルヲが持つもう一つの魅力領域である仏画の世界へ御案内出来ることを約束して頁を閉じることにする。

星野桂三・星野万美子





































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