−人間が人間を描く刻ドラマが始まる−

「エピローグ/母と子、そして子供たちへ」































 一昨年(1995)の7月に始めたシリーズ展「人間が人間を描く刻(とき)ドラマが始まる」は、阪神大震災とそれに続く地下鉄サリンとオウム騒動を通して直視した、ばかばかしいほどに愚かな人間存在と赤裸々な人間ドラマを契機にして、私たちが“人間”そのものを美術の場から振り返ることによりかすかな未来への展望を抱こうとしたものである。「第一幕・明治の肖像、第二幕・自画像、第三幕・裸体の表現〜男と女」と重ねてきたシリーズで、多種多様な人間の姿が描かれてきたことを紹介した。「なんだ、そんなもの、自分のところにあるものをただ並べただけじゃないか」と仰しゃる方もあるだろう。なるほどそうかも知れない、展覧会を通して発言できるという画廊主の特権を行使しているに過ぎないのかも知れない。しかしその特権こそが私たちの存在そのもの、人間として生きている証ではないかと思う。

 シリーズ展を企画したその春の段階で、宮城県美術館での企画展「家族の肖像−日本のファミリーレポート」(1995年8月開催)への作者未詳「家族団欒之図」の出品依頼が届き、展覧会の内容がもたらされた。同じようなことを考える学芸員がいるものだなと感心すると同時に少々の落胆を感じたものだった。つまり、私たちの展覧会と取組み方でダブるところが多かったからである。美術館の物真似をしたと思われることを嫌った私たちは、展覧会の構成を大幅に変更して長期のシリーズとした。もちろんそこには私たちの画廊の小ささという制約があったのは事実である。大きな美術館ならこのシリーズの出品作品で一つの展覧会が組めると思う。誰方が真剣に考えてくれないだろうか。作品の質という点では自信がある。ただ私たちが現在営業中の画商であることから、こうした希望は持てないことを充分知っている。でも誰かが何処かで必ず引き受けてくれるであろうと願う。










































































































 実は描かれた人間像については相当以前からグループとして展観する意図があり、そうした作品を意識的に蒐集してきた。隠し通してきた名品の数々が少しだけここでそのヴェールを脱ぐことになった。公立美術館などの企画展への出品依頼で隠し切れなかった作品や、もう既に私たちの画廊でお披露目したものが含まれるのは仕方がない。またサイズが小さいというだけの理由で美術館ではお目にかかれない素晴らしい作品を紹介できるのは、画廊と小さな劇場を持つ私たちのもう一つの特権であろう。

 この展覧会図録を制作中に美術年鑑社から『20世紀物故洋画家事典』の刊行の案内が届いた。こうした事典の出版の情報が事前に伝わらなかったから、実物を見る前からある危惧を抱いていた。さてどれほどの内容であるのか、注文した本が届いて開けてびっくり玉手箱。掲載されなければならない画家が相当数漏れている。生年不詳や没年不詳とされる画家の中で当方が把握しているものが何人もある。私たちはいずれこうした本が出版されることを期待して、展覧会図録ではしつこく略歴を掲載してきたし、方々へ図録を寄贈しまくってきたのにである。中でも関西方面の作家調査がかなり杜撰(ずさん)で、やはり東京中心の編集の仕事が存分に発揮されたものと理解せざるを得なかった。この展覧会図録の中に限っても14人の洋画家のうち5人の画家が掲載されていないし、2人の記事が不備という始末。お暇でしたら確かめてください。

 図版も掲載しないこうした事典の編集は少しの努力で相当数の画家と内容がカバー出来るもの。全国各地の美術館や研究者に掲載予定者のリストを送付して漏れている作家や不備な点を確認すれば、かなりの部分が救済できたろうに、高額で事典を販売する出版社の怠慢は叱責されるべきものと思う。ただ私たち自身はと言うと、同社などの年鑑類に記載漏れの物故作家を発掘して稼がせてもらっているから、あまり完璧なものにされると実際は商売上困ることになるのだが。もうひとつこの出版について物言いたい。それは“20世紀”の枠を厳密に採りすぎたため、明治32年(1899)以前に没した画家を記載しなかったことである。当然高橋由一や原田直次郎もないし、五姓田芳柳や百武兼行も掲載されていない。たかだか百数十年の歴史しかない日本の洋画史を1900という数字に拘(こだわ)る編集の器量の狭さにはただただため息が出るばかりである。事典というものはそれを使う人の身になって親切に編集すべきものである。私たちはそう思う。こういった指摘を受けても出版社は言うだろう、再販本では訂正します、と。再販するほどたくさんの本が売れるとは思わないから、それは忘れてしまおう。私たちはいつものように私たちの道をこれからもとぼとぼと行くことにする。

 折から日経アートの8月号(7月1日発行)から始まる連載のアートエッセイを頼まれた。最初は逡巡(しゅんじゅん)したのだが、結局引き受けることにした。先程のべたように我が国の出版界は東京一辺倒の様子がありありとしているから、関西方面からも少し発言する機会を確保しなければならないと思ったのである。歪んだ阪神ファンのようにジャイアンツを面罵(めんば)することに生きがいを見つけたり。東京の存在そのものに反感を持つようなことはしたくない。もちろん大金を払ってがむしゃらに有名選手を手に入れるジャイアンツの姿勢と、それに釣られて入団する選手たちを軽蔑しているのには反論しない。金権主義、斜陽日本の姿をそこに見るからである。バブル期の画商やコレクターの姿とダブるからである。この際、マイナーな画商として流通に乗って正面きって発言しょうと思う。これまで美術品の価格に拘(こでわ)り、情報のゆがみを指摘されて批判の的にされてきた日経アートは徐々にその軌道を修正しつつある。拙い文章で読者や編集者の期待を裏切ることになるかも知れないが、発掘された作品と作家たちを紹介しながら身の回りのことをぽやくことから初めてみよう。シリーズ名は「失われた風景」とお願いした。「失われた風景」はもともと私たちの画廊の企画展のためのネタで、ここ十数年密かにあたためてきたファイルの中から少しづつ取り出して紹介していこうと思う。私たちが巡り会った作品を通してその時代と現在を比較対照することもあるだろうし、文章通りの風景ではなくとも、失われた事柄や人物に対する思い入れの数々を吐露(とろ)することになるだろう。定期予約購読者に限っていた日経アートが、この春から一般書店売りに販売方法を拡大したので読者層の広がりを期待されることも、引き受けた理由の一つである。どうか書店で手にとってご覧頂きたい、そして出来たら買って下さい。

星野桂三・星野万美子












































































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