「野口謙蔵とその周辺」展 後記 |
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一切合切を入手したくて、それこそ目一杯の価格を提示して帰った。それから2年越しになる今春、家族で話合いがついたからあの野口謙蔵を残らず譲ると、その人から連絡が入った。 |
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私たちが収集してきた他の野口作品は別として、新出の作品と資料は全て近江八幡市にゆかりのあるものである。野口謙蔵と近江八幡の橋渡しをした人は誰なのだろうか。 野口謙蔵の故郷は蒲生野(がもうの)。名神八日市インターチェンジの南、近江平野の真ん中にある稲作地帯で、近江八幡市の東に位置する。辺りは昭和の初めに野口謙蔵が描いた絵そのままに青田が広がっている。この地は、7世紀、近江朝廷の狩猟地として名高く、万葉集にある有名な額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(天武天皇)との相聞歌が生まれたことで天下に知られる。 天皇の蒲生野に遊猟(みかり)したまひし時、額田王の作れる歌、 茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る 皇太子の答えたまへる御歌 紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも この蒲生の地に貴生川から彦根に伸びる近江鉄道が敷かれて、野口謙蔵の生まれた桜川村に桜川駅が出来たのが明治33年のことである。それまで近江商人の有数な家系であった野口謙蔵の祖先達は、交通辺鄙な土地から甲州や駿河富士宮への街道筋に進出していった。幕末から明治の初期にかけて活躍し、成功を納めたのが野口謙蔵の祖父にあたる野口忠蔵。彼は粱川星巖や頼三樹三郎らと親交をもつ文化人であり、富岡鉄斎もその家に寄宿したという。 そもそも近江商人は、滋賀県の広範囲な地から全国に散らばり商圏を拡大していった。代表的なものに、日野商人、八幡商人、五個荘町商人がある。日野商人は天秤棒による行商が基本で、特産品を地方へ売り歩き、帰りには地方の特産品を仕入れて売り捌(さば)き故に鋸(のこぎり)商法とも呼ばれた。また小規模な出店を各地に設けて行商の拠点としたことから、千両商人とも呼ばれた。近江八幡から出た八幡商人は、八幡の大店と呼ばれた大規模な出店を経営し、五個荘町商人は、麻布などの繊維製品を中心に手掛け、その商圏は関東、長野など中山道沿いの地域を中心に遠く北海道から四国、九州にまで及んだ。京都の室町筋の繊維商社の多くにこの地方の出身者が占めるのは有名である。 |
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