−明治・大正・昭和−「珠玉の小品65選」展 後記







































 今からおよそ100年前の1894年(明治27)の秋、日本人以上に日本を愛したといわれるラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が、当時住んでいた神戸市から朝の一番電車に乗り、ちょうど平安遷都から1100年目にあたり祝典の装飾や行事で賑う京都にやってきた。家々の前には一軒のこらず新しい白木の柱が立てられて。意匠をこらした提灯がつるしてあったという。それぞれの軒先には国旗と松の小枝が打ち付けてあり、提灯の上にから傘をさした家並みもあった。

 「宿に帰るころには、町の提灯はすでに消えて、どこの店屋も表の大戸をおろしはじめていた。まだ宿に着かないうちに、あたりの町は、どこもまっ暗になってしまった。あのイルミネーションのむこうにこうこうとした光り、魔法のような見世物、賑やかな雑音、潮騒のような下駄の音−そのあとへいきなりきた、この人気のないがらんとした静けさは、なんだかさっきからの宵のうちの経験が、まるで現実のものでなかったような−キツネにでもつままれたかのような心持ちを、わたくしに起こさせた。あの光も、あの色も、みんなあれは、人を化かすために作られたまぼろしではなかったのか」

 「・・・・日本の祭りの夜を形づくるいろいろの物が、こんなぐあいに瞬く間に消えてしまうのは、かえってそれが思い出の喜びに深々とした感じをあたえるようでもある。この変妖幻奇な影絵は、パッと消えたが最後、未練たらしく後を引くということが一つもない。だからこそ、その思い出は、哀愁の色に濡れることなく、いつまでも鮮やかに残れるのである」

 ハーンが日本美の「幽けさ」に心動かされていることがわかる一文が、「小泉八雲が観た“京都”」という川内厚郎氏の記事(『納税月報』1997年6月号)に紹介されていたので、ここに長々と引用させていただいた。

 翌朝ハーンは、この年に始まった時代祭の行列を見物に出かける。その頃の京都は、まだ幕末の騒乱で御所から南を全焼した後の復興途上であったが、この建都1100年を機に都らしさを回復していく。建都1100年も時代祭も、京都復権の願いがこもるイベントであった。























































































 それからの100年を、京都は古都の風情をそこかしこに残しながら、どうやらこうやら生き延びてきたように思える。あのバブル景気の絶頂期でさえ、京都には人々の心を癒す風景がそこかしこにあった。他府県への旅行を終えて京都駅に降り立ち、タクシーの車窓から眺める東本願寺の大伽藍に心慰められた後、大都会には珍しい静けさに包まれた烏丸の大通りを北へ向かい、丸太町通りを東へ、御所のうっそうとした森を左手に眺めながら家路を急ぐ。間違っても御池通りを走らないように気をつけているのだが、たまにうっかりケヤキ並木を移植して荒涼とした、昔日の面影のない御池通りをタクシーが通るとき、建都1200年の祝祭の日々の憤りが昨日のことのようにこみあげるから厭なのだ。

 京都が本当に悪くなってきたのは、あの頃からではなかっただろうか。御池通りのケヤキが地下鉄工事の間の当座の居場所とされていた梅小路公園での祭典の開会式が始まっても、客席中央の前半分の席はまったくのがらんどうであった。建都記念行事に何らかの寄付をした私たち一般市民の招待者は、端っこの席に押し合いへしあい控えていたというのに、開会後しばらくしてから官僚たちやお偉いさんといった、身なりの立派な招待客とおぼしき人々が、中央の席へざわざわと宴席を乱しながら向かっている。京都の悪しき構造の一端がここにあった。

 京都の中心の御池通りを東西に地下鉄が走り、烏丸線との交差による便利さが受けたのか、烏丸通り以西、御池通り以南でのマンション建設ブームである。これにはバブル経済が破綻した後の更地の整理が、折からの低金利に支えられていることと、室町筋の繊維関係商社の未曾有の不景気による倒産・廃業という事情が重なっているという。

 「じゃあー、マンションでも」といった安易な発想が、京都を滅茶苦茶にしつつある。京都特有の町屋の存続がそれこそ時間単位で危うくなってきている。「京の町家は元気です!」なんていう空々しい記事(1999年6月4日)が新聞に載った。記事で紹介されている元気な町家を間近にご覧になれば分かるのだが、こうした町家の隣や裏側に、高層のマンションが町並みを睥睨して建っている。本当は、町家が瀕死の状態にあるというのに、「元気です」なんて言葉にだまされてはいけない。私のまぶたに、建都1200年の祝祭の日、私たち一般庶民の席が立錐の余地もない有り様のとき、前列中央の招待席にどかどかと向かう、遅れて到着したお偉いさん方の姿がダブルのである。

 最近目立つのが、リクルートコスモス社のような強引さが売物の業者が好んで建てる、袋小路にあるマンション。何年か前までそうした袋小路には大きなマンションが建てられることはなかった。規制緩和か何か知らないが、マンション業者と人口増加による税収の恩恵を計る行政との危うい思惑の一致が見え隠れする。






















































































 ラフカディオ・ハーンが楽しんだという祭りの後の京都の静けさを、実は私もここ岡崎入江町の自宅で楽しんできたのである、平安神宮の東側の岡崎通りを丸太町通りの交差点から北に入ったすぐ左側に岡崎郵便局(北に直進して右へ曲がると黒谷金戒光明寺への参道となる)その裏側に実に静かなエアーポケットのように存在するのが岡崎入江町なのだ。

 北側の北春日通りを除いては車が通行できない狭い道路にかこまれて、住民は長い間の平穏を享受してきたのである。町内の中心にあったのが、約500坪(1600平方メートル)の敷地の旧立石邸。1921年(大正10)頃、そごう百貨店の創立者の京都での住まいとして建設された邸宅は、総ひのき造りの贅を尽くした大きな母屋、二棟を土蔵と二つの茶室を備え、井戸が3箇所、南側に池をたたえ、敷地を巡らす土塀と庭に植えられたたくさんの樹木が周りの家々との結界を作っていた。1950年代からオムロンの子会社の立石林業という会社の所有となり、ほとんど使用されることもなく次第にその存在さえもが世間から忘れ去られていった。

 周囲の民家の多くが大正から昭和初期頃に造られ、住民のお年寄りが昔ながらの生活を楽しめる一角であった。毎年11月の終わり頃になると、旧立石邸の緑地と平安神宮の神苑を基点にして我が家を訪れるウグイスやメジロ、そしてシジュウガラ。厳冬期にシベリヤから渡来するジョウビタキやシロハラ、ツグミといった冬鳥たち。夏は耳をつんざくような蝉しぐれ。ときたま大きな青大将(ヘビ)や亀のような珍客も訪れるくらいであった。

 1995年5月、リクルートコスモス社は、その地を買収してマンション計画を通告してきた。同社は、私たち住民やISSK(京都を守る会)メンバーの日本家屋保存運動の高まりを恐れてか、あっというまに邸宅全体を、文字通り一木一草残さず、重機で無残にも跡形もなく消し去ってしまった。大正末のロマンチシズムと昭和のモダニズムを融合した、あの時代にしか存在し得ない豪奢な民間住宅が、現代の利益追求一辺倒の金の亡者の手で蹂躙されてしまったのである。


































































 7月に提示されてきたマンション建設計画の図面に、私たちは再度、度肝を抜かれることになった。このあたりは建坪率が60%ということだったので、南側の家並みや我が家からは最低でも5メートル程度は離れてマンションが建つのだろうか、などと私たちは想像していたのだが、実際は敷地の南側の5軒の民家や西側に隣接する我が家との境界線から、僅か80センチメートル程度の距離に5階建てのビルが計画されていたのである。日照権などの問題をクリヤーするために、北側の出入り口から建物全体を大きく下げている。しかも建坪率には共用の通路や階段、バルコニーなどが一切算入されないから、約500坪(1600平方メートル)の敷地の南側一杯に延べ約4000平方メートルの5階建て・重量マンションが可能になるのだそうだ。

 京都大学の伊従(いより)先生が旅館「俵屋」の景観論争で問題にしているように、町家の裏庭の効用など一考だにしない、近隣住民の日常生活を破壊する、えげつない計画図面を前にして、私たちはしばし言葉を忘れてしまった。今まで享受してきた東山の遠景、大文字の送り火、黒谷の寺院の伽藍、すべてが視界から消えることになる。ダウンタウンの喧噪から逃れて、京都らしさの静けさや、ハーンの愛した風情が残る界隈を楽しんできたというのに、マンションが完成したら、このあたりはリクルートマンション城下町に変容する。俵屋問題では全国から有名文化人たちが応援に駆けつけているが、私たち入江町は庶民の町、そうした応援団は期待できない。ただ現在は、活断層がマンション敷地を通っていることが判明したから、防災面でのマンション計画の見直しをリクルートコスモス社に要求している段階である。トルコ大地震、台湾大地震と続き起こり、「今度は京都に直下型地震」の可能性が高いことを地震の専門家から聞かされる。私たちは近隣住民も活断層と隣り合わせで生活していることになるから、怖いことである。




























































 おまけに、この地が京都市内で3箇所しか存在しない局地的軟弱地盤であることが、マンション問題の発生いらい重ねた勉強の結果判明した。太古の昔から東山のひとつの山が風化して流れ出した白川砂の堆積層が、およそ100メートルの深さまであるという。「岡崎」とか「入江町」という地名がそうした由来をほのめかしている。専門家は言う。「いわば豆腐のような柔らかい地盤です。そのような所に5階建ての重量マンションが敷地一杯に建設されたら、周囲の家々は間違いなく傾くでしょう」

 リクルート側から提示された計画案に添った建物の総重量はおよそ11000トンという。マンション自体も自重に堪え切れずに沈下するに違いない。近隣の家が影響を強く受けて傾く。そこへ大地震が来て液状化が起こり、マンションが私たちの家にのしかかってくる。ましてここは天下に有名な花折断層の真上、悪夢のようなことが実際に起こりそうな気配である。

 こうしたことを勉強しながら、日々の大半をマンション問題で明け暮れている。例年なら初夏から夏にかけて一つか二つの企画展を開催し、秋にも力のはいったものを一つ計画するはずであった。私たちの頭の中の殆どをマンション問題が支配しているから、その対極にある美術に向ける心の整理がつかないし、体力的にも限界に近付いている。明け方から目が冴えてうつらうつら、画廊でも日なが一日ぼーっとしている。こうしている間にもリクルート側が何か卑劣な手を使って私たち住民に対峙してくるのではないか、と狭疑心が涌いてくる。最悪の年、1999年もあとわずか。まー、負けずに頑張ります。
  (ISSK機関誌に依頼された原稿を手直しして書き足しました)

星野桂三・星野万美子

































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