没後55年記念「秦テルヲの仏さん」展 後記






































 秦テルヲの作品に魅せられて(というより入れ込んでいると言った方がよい程に)、ここ20年の間、美術市場やあちこちの古美術店の店先で作品を見かける度に買い集めてきた。折に触れその作品を画廊の展覧会で紹介してきている。まとまった形で秦テルヲ作品を陳列したのは、「没後40年・秦テルヲ遺作展」(1984年11月)が最初。つづいて京都国立近代美術館新館の開館を祝って開催した「京の異色日本画家たち」展(1986年秋)で取り上げた秦テルヲ、玉村方久斗、稲垣仲静、山口八九子、甲斐庄楠音、要樹平ら6人の週変わりの個展シリーズのトップで、32点の特集陳列をした。そして「秦テルヲ京洛追想画譜」展(1996年7月)で20点の紹介をしたが、この時の図録の後記で「そう遠くない日に、秦テルヲが持つもう一つの魅力領域である仏画の世界へご案内できることを約束して頁を閉じることにする」とした。それからずーっと気がかりであったが、あと少し、もう少し良品が集まってから、と展覧会の開催を一日延ばしにしてきたところ、今春あるコレクションが美術市場で売りに出され、それを一括買い上げたところで、ようやく本展覧会開催の踏ん切りがつくことになったのである。

 これまで何度もあちこちで書いてきたことだが、私達の画廊の出発点は、先駆者田村宗立以来の京都に於ける洋画の歴史を、画廊のコレクションとして網羅することをその第一義としている。その研究過程で明治末期に京都に花開いた新美術運動のうねりとしての「黒猫会」「仮面会」の活動状況を調べるうちに、後に国画創作協会を創立することになる土田麦僊や小野竹喬といった日本画家たちと共に、この新美術運動に参画していた、秦テルヲという不思議なサウンドを持つ画家の名を眼にしたのである。

 村上華岳、小野竹喬、土田麦僊といった国画創作協会展の主要作家は既に有名すぎて梃子にあわず、当時まだ世間で見向きもされなかった甲斐庄楠音、稲垣仲静、野長瀬晩花を手始めにして、国画創作協会の埋もれた作家と作品の発掘にのめり込んでいった。同時に、のちの日本画壇の巨匠となる麦僊や竹喬らと「黒猫会」で出発点を同じくしながら、何故か画壇から離れて生涯孤独の道を辿ることになる、秦テルヲという異色の画人の作品と人生については、ひときは興味を引かれる仕儀となった。












































































 今東光というこれまた異色の人物が「ワイルドのデカタン文学に心酔していた僕は、同様にビアズレーに心酔していた秦テルヲと同気相求めた。彼の描く吉原の女郎や、十二階下の女の絵の感覚は、まったく新鮮であったし、すこぶる退廃的であった。もう今後こんな画家は出現しないような気がする。ロートレックが再び出現しないと同じ意味で、ある時代のフン囲気から生まれる芸術家というものがあるものだが、秦テルヲなどは矢張りこの種の画家だったような気がする」(今東光「無頼の元日」1958年1月1日サンケイ新聞)という思い出話を披露している。

 「時代が描かせる」とは、私達も同感するのだが、テルヲの場合、ただそれだけに終わった画家だろうか。テルヲは、「血の池」「縁に佇めば」などの底辺の女性像にある種の仏性を見出し、数々の名作を描きながらも、それらは通過点でしかなかった。彼が描いた数々の仏画を観ていると、尚更その感が強まる気がしてならない。

 求むれど得られず、訪ねれど会うを得ず、信仰薄きものの悩みをこの貧しい色と線に味わって頂ければ幸いだと思います」

 というテルヲの画業は、この図録に付記している略年譜からも読み取れるように、その第一歩から己の生きとして生かされる理由、「人生」というものを理解するための紆余曲折の連続であったろうと推察される。けれどもそれは、フラフラと時代に流されたような軽薄な局面が少しもなく、テルヲ一流の頑固な一生ではなかっただろうか。15年前に開催した遺作展の準備中、京都国立近代美術館が所蔵する秦テルヲ資料をコピーさせて頂き、今回もその資料に大部分を頼ることになったが、未だ活字にしたことがなかった、資料全体の総括ともいうべきテルヲの「思出の記」を次に書き起こしておく。それは、長女の恭仁子にあてた文章になっている。その命名からも、テルヲが東京での夜と闇が支配する生活からおさらばして、京都と奈良の境のある恭仁京(くにのみや)跡にほど近い京都府相楽郡加茂町瓶原(みかのはら)に住まいし、生活を一転して「否定を肯定して」陽の出と陽の入りとを親しむ、自然との共生に踏み切り、奈良の古寺にある仏画とも親しむことから画風に新局面を開いた、秦テルヲの当時の境地を垣間見ることが出来る。



































































思い出の記

 「コレワ我愛する恭仁子のために遺品として残して置き度いものの一つである。特に彼女のために自分の過ごして来た生活の事實と思想と加ふるに祖先の事迄附加えて置かなくてもいい様にも考えたが、一家を挙げて誰もかに知る事でもあり、将来に一家の中柱としてでなく人間の中柱として、しっかりと歩いてほしいと思い込んだからである。彼の女なれバ必ず歩める苦難と戦ふ力があると思ったからである。如何うか父の單なる自家廣告だと思ってくれては大変な間違いである。父は随分我侭勝手 な男で周囲の人には迷惑をかけ一人の老母には不幸者である。けれども自分の仕事に就いては實に眞剣である。今でも何者にも代え難いものは画である。其画が如何にデカタンであっても如何に醜悪であっても、私自身には生命である。ソノ生命を他所に一日盗生する事は父としては如何にしても出来ないことである。神罰が當り永刧に地獄道に迷ふとも、それは何として私の牛(?)の付け様のない仕事である。私の仕事は画である。画は、私の信仰である。コレが、私のためには神の光であり、太陽である。」

(出来るだけ原文に即しています)

 病に侵されながらひたむきに突き進んだ画道一路。秦テルヲがその初期に描いた労働者、子供、淪落の女たち、後半生で描いたたくさんのほとけさん(敢えて仏画とは言わない)を観ながら、私達は、彼が本当に描きたかったものは何であったか、再度反問することになる。


































































 「ほとけさん」を描きながらテルヲが本当に描きたかったもの、それは「人間」に他ならい、そう思うのである。この愚かしい、けれども愛すべき人間たち、でもやはり愚かしい人間たち。私達があまりに秦テルヲの仏画を高く評価するので、よく尋ねられる。村上華岳の仏画はどうですかとか、入江波光の仏画はどうなのですかと。秦テルヲの描いた仏は「仏」ではなく「ほとけさん」であると改めて言いたい。村上華岳や入江波光の仏画は崇高で、有り難い気配が濃厚であり、素晴らしい作品が多いことは否定しない。対してテルヲ描く「ほとけさん」には、「人間(ひと)の心」が感じられる。この画家の人生を一般の人々より少しは深く知っているからだろうか、極めて人間味溢れた「ほとけさん」に、時に不覚にも涙することを禁じ得ないほどである。だから、華岳は他所行(よそいき)の仏画であり、テルヲは「ほとけさん」である。華岳のよさがあり、テルヲにはテルヲのよさがある。憤慨するのは、美術市場で付けられる相場。天文学的な値段で取り引きされる華岳の仏画に対して、テルヲの「ほとけさん」がそれほど劣っていると言えるのだろうか。この展覧会を通して少しは認識を変えて頂ければ、幸いである。

 愚かな人間達が、京都を駄目にしている。試しに自転車で街中を走ってみてください。いずこの町内でも一つはマンション建設の囲いがあるほどに感じられる。緑は削られ、風景が日増しに悪くなる。マンションにお住まいの方には耳が痛いことでしょうが、我慢してください。京都は本当に京都でなくなりつつあります。つい最近、哲学の道の南入口にあった、南画家の田能村直人の旧邸が壊されました。300坪の緑豊かな黄檗風のいかにも文人好みの邸宅が、何軒もの例の3階建ての軽薄なプラスチックボックス(デンマーク人で裏千家の茶人B氏曰く)に取って替わられようとしています。我が家の隣のリクルートコスモス社によるマンション建築問題では、さる8月7日に工事の差し止めの仮処分を京都地裁に提訴しました。本展の案内状の不動明王図の形相は、私達の感情そのものです。愚かな人間達に心からの怒りを禁じ得ないのです。

星野桂三・星野万美子






































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