明治・大正・昭和「桜をめぐる情景」展 後記













































 阪神・淡路大震災から、はや6年が過ぎた。人々の記憶とは都合のいいもので、嫌のものは消し去ろうとする作用が強く働くらしいが、あの1月17日の早朝の激震以後、京都の街角から観光バスが姿を消し、散策する人々の影すら見えない殺風景な光景が続いたことを忘れることはできない。

 震源地から離れた京都にいてさえ余震におびえ、はたすら震災地の知人と美術館などの様子に思いを馳せながら、仕事も手に着かない日々が続いた。被災地にも少し落ち着きが出てきた頃、東京で勃発した地下鉄サリンとオウム騒動が、追い打ちをかけるように人々の心に不安感を増幅させてしまった。我々は、無用の外出をはばかり人混みを避けることが多かった。

 4月の声が聞こえ、あちこちで桜が咲き出すと、どこから涌いてきたのだろうか大層な人出になった。清水寺の桜、円山公園のしだれ桜、平安神宮の紅しだれ、そして疏水に映えて咲く芳満なソメイヨシノ。こうした名所を巡る絶え間ない観光客が、私たちの画廊がある神宮道を埋め尽くしたのである。様々な呪縛から解放され、頬を赤く染め声高に話し合う老若男女が、ざわざわとひしめき合ってそぞろ歩く様は、私達にとって実に有難い光景であった。その年は、例年の春に何倍も増した人出を迎え、京都の街は一気に活気を取り戻していた。

 桜の季節は短い。短期決戦の様がある。ソメイヨシノはほぼ一週間が見ごろ、それを桜狂いの人々は、今日はこちらの桜がきれいか、明日はあちらが見ごろかと右往左往する。遅咲きの御室の桜が咲くまでのほぼ2週間を、私達は、地の利を活かし、人混みを避け、穴場を探し、あくせくと市内のあちこちへ桜狩りに出かける。そしてどこへ行っても大差のない雑踏に気分を削がれ、あげく微妙な見ごろを逃がしてしまうのである。結局のところ毎日眺める疏水の桜に、「ここが一番近くて佳いなあ、浮気してご免な」と謝ることになる。そうなることを知りながら、今年も桜の名所を見て回ることになるのだろうが・・・

 近年、円山の夜桜は耳をつんざくカラオケがうるさく、最悪の喧噪状態になっている。昼間はというと、夜に備えて張り巡らされたビニールひもの縄張りは、厚化粧の夜の女(失礼)が日盛りを髪を振り乱して歩いているようなもの。このようなことで遠来の観光客に対して申し訳ないとは思わないのだろうか。本展に用意している辻愛造の〈円山夜桜之図〉に描かれたしだれ桜は、先代の桜で、もう余生僅かの老残とも言える様子が見えるが、それでも今から70年前の風情ある時代が伺え楽しい作品。


































































































このところ引用されることが多くて少し食傷気味ではあるが、西行の

 「ねがはくは花の下にて春しなむ その如月の望月のころ」

の一首を、そうした騒々しい風景を独占する輩に煎じて飲ませてやりたい。しかし、作家の白幡洋三郎氏が『花見と桜』で述べているように、日本の桜は「群桜、飲食、群集」が揃いぶみしてこそ成り立つ独特の花見であるというから、私達のように静かに桜を楽しみたい人種は、昔からこの国では少数派なのだろう。

 阪神・淡路大震災の年の春、桜に救われて立ち直った経験から、桜を主題にした展覧会を企画していた。桜を主題にした絵画はそれこそ山ほどあり、巨匠の手になる名作とされる作品も枚挙に暇がない。そのような作家の作品を望んでもいた仕方のないことで、忘れられた画家と作品を発掘することを標榜する画廊としては、たまたま出会った作品を大切にしていくことに専念した。だからここに集まった大半の画家は、いわば有名ではない。だが私たちが選択しただけの魅力を備えていることだけは、自信を持っている。

 作家のリストを一望してみると、京都関係者が殆どで、大阪関係の画家が次の集団となっている。縁のある作品だけを無理なく集めるからこうした結果となるのである。それぞれの作品について詳しく述べるゆとりはここではないが、秦テルヲ、増原宗一、辻愛造、中沢弘光、松村綾子については、『日経あーと』誌上の連載「失われた風景」ですでに紹介している。その『日経あーと』が廃刊してしまったので、続編に登場するはずで温存していた絵を、今回何点か登場させる。中井吟香〈春の宵〉、長野瀬晩花〈雨後嵐峡〉、山口草平〈新町九軒の宵〉、伊藤快彦〈熊野〉〈道成寺〉である。ここで伊藤快彦の作品にだけ少し触れておく。

「熊野」は世阿弥の謡曲の一場面から絵がかれている。

 平宗盛の愛妄熊野(ゆや)は、故郷遠江から朝顔が持参した病母の手紙を見せ、宗盛に暇を願うが、却って花見の共を強いられる。やむなく宗盛の車に同乗し清水に往き、花の下の酒宴の席で所望され、心ならずも舞を舞うが、舞半ばで俄に村雨が降り出して花を散らすのを見て、

 「いかにせん都の春も惜しけれど馴れし東の春や散るらん」

と歌を詠んで短冊に認め宗盛に差し出すと、さすがの宗盛も哀れに思って暇を与え、熊野はこれも清水観音の御利益であると喜び勇んでそのまま東を指して帰った。

 この有名な場面を、伊藤快彦が漆塗の丸い板に油彩で描いている。表には東国へ帰る熊野と童女を描き、裏面には咲き誇る桜の枝を描いた。元来、板を真上から直に紐で吊すようにしてあったが、現在は画面保護の為に額装している。絵に添えられた謡曲は、














































































 「誰が言ひし春の色 げに長閑なる東山
   四条五条の橋の上 四条五条の橋の上
    老若男女貴賎都鄙色めく花衣袖を津らねて
     行末の空の八重一重咲く九重乃花盛り名り
      名に負ふ春の景色かな、名に負ふ春の景色かな
       河原おもてを過ぎ行けば、急ぐ心の程もなく
        東大路六波羅の叙蔵堂と伏し拝む
の部分である。

 もう1点の〈道成寺〉は、衝立の両面画となっている。表裏で場面を想像できるのだが、こうした作品をどのように狭い画廊で陳列したものか、今から頭が痛い。この作品を購入してから既に15年近くなるが、その間、倉庫で保管するにはスペースを取るために、これまた頭の痛い代物なのである。この作品の原点は、明治36年に開催された第5回内国勧業博覧会の出品作〈道成寺〉で、もっと大きなものである。多分一昨年に京都文化博物館で開催された「京都洋画のあけぼの」展に出品された仏光寺所蔵の作品がそれに該当するのだろうが、著しく保存が悪く、自慢じゃないがこちらの方が数段よろしいように思える。もう1点同じ様な作品を見かけたことがあるが、その事はいずれ書く種に残しておきたい。



























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「京都市左京区岡崎入江町、平和な日の風景」(1999年5月)
「岡崎入江町、リクルートコスモスによるマンション工事現場」
(2001年3月13日)





































 このように展覧会の準備をしていながら、我が家の隣に建つマンションのことが気にかかってならない。

 昨年の8月に工事中止を求めた仮処分の結果が未だ出ないからだ。通常は2〜3ヶ月で出される裁定が遅れている。「11月の始めには」から「12月中には」となり、やがて「1月中に結審して2月中には判決を出す」と担当裁判官からの発言が3度あった。つまるところ、リクルートコスモス社の遅延作戦が効を奏してきたようだ。同社側の弁護士たちと、当方の弁護士、そして裁判官の3者の日程の都合がつかなければ審理(仮処分の場合は審尋というのだが)が行われない。ひと月に1度という審尋ではこうなるのは当然ともいえる。悪く勘繰るなら、「もう工事がこれだけ進んでいるのですから、今さら工事中止することが出来ません」という理由により却下するための時間稼ぎのように思える。日本の裁判制度の非常に悪い点である。活断層の真上に当たる特殊な地盤の上に、敷地一杯に建てられるマンションに対し、私たち近隣住民は「万が一に発生する京都直下型大地震の際の被害発生を最小にする為に、隣地との境界からセットバックすること」を訴えてきている。マンションの建築確認をする行政の京都市建築指導部は、私たちの度重なる訴えに対して、「通常の建築確認は3週間で下ろすのですが、今回は3ヶ月も時間をかけて慎重に判断した。建築基準法に合致している以上下ろさざるを得ない。」として、去年の3月31日に実質上の建築許可を出してしまった。






































































 同じことを今裁判所がしようとしている。今年1月9日には、仮処分の審尋では異例という形で、私たちが依頼した参考人として、地震学の世界的権威、尾池和夫京都大学大学院教授から参考意見を聞く法廷が開かれた。先生は、京都に直下型大地震がいつ起きても不思議ではないこと、その際、大きなマンション構造物の基本的な部分は大丈夫だけれど、外壁や付属した部分が破壊される可能性があること、また問題の花折断層がマンション敷地直下を通っている可能性の高いことなどを意見陳述して下さった。この法廷に先立ち、当方の折田泰宏弁護士・大杉弁護士と私たち夫婦が、12月に3度、都合8時間、地震と活断層についての講義を、尾池先生から京大の研究室で受ける羽目になった。先生が「これは5年間のコース」と言われたほど濃密な講義内容で、理科系に弱い私たちの脳味噌には相当過剰な情報であった。お陰様で、地震と活断層のことを一般の方々より少しは余計に知ることが出来たように思う。その講義内容を大杉弁護士が整理して裁判所に提出されたが、まるで地震の本格的な入門書のようにきっちりとしたものであった。

 ここで地震、地震と繰り返して書き連ねるのには、大きな理由がある。これも一昨年から隣地に発生したマンション建設問題を研究する過程で分かったことなのだが、西日本は阪神・淡路大震災以来、地震の活動期に入っているからである。作秋の鳥取県西部大地震のような直下型大地震が、近い将来、京都の花折断層を震源として襲う可能性が高いことが分かったからである。しかも鳥取の場合と違って、京都大地震が襲ったときの被害想定は阪神大地震以上と言われている。その事が、週刊誌やテレビ報道などで賑やかに取り上げられてきたから、少しは世間の知る所とはなってきたが、まだまだ一般の人々の反応は鈍い。つまり、「地震は怖いけど、来たらみんな一緒や、どうせ死ぬんやし」と片付ける。本当は、「自分だけは死ぬことはない」と楽観して、怖いことに向かっては何をすることもない。京都市防災課が防火のてほどきを配布し、防火訓練を各所で開催しても、町内会の役員がお義理に参加しているに過ぎないところが多い。阪神・淡路大震災であれだけの被害の様子を見聞きしているのに、その経験はもはや風化しつつある。箪笥や家具を金具などで固定している人は、私たちがこれだけ運動しているにも拘わらず、町内では見無というありさま。もちろん我が家では範となるべく、というより、当たり前のこととしてあらゆる方法を尽くして大地震に備えてはいる。しかし頭上からマンションの外壁や室外機などが降り注いできたのでは、何も抵抗出来ない。町内でマンション賛成派の住民のホームページには、「地震が怖ければ引っ越しをすればよい」とさえ言い切る文章が登場する。私たちは、マンション反対運動を通じて、目先の利得に汲々とする人間の醜悪さやずる賢さに直面し、正直辟易している。けれどもそれとは反対に運動を通じて、極少数ではあるが、良心が満ち満ちた立派な方々ともお知り合いになれたことを喜んでもいるし、感謝もしている。
















































































 人間の居住空間として、伝統的な木造家屋に勝てるものはないとは思う。けれども私たちは、マンションが絶対にいけないとは言っていない。時代の流れで、いた仕方のない部分はある。だけど、要するに建て方の問題で納得出来ないのである。昨今の京都におけるマンション建設ラッシュは、もう滅茶苦茶の一語に尽きるからである。いわゆるバブル景気の時には地価の高騰でそういうことはなかったのだが、この不況か、倒産した室町の問屋筋や会社などの跡地が軒並みマンションに変貌している。地価が下がり、金利が下がり、都心にマンションを建てても手ごろな価格で取り引き出来るらしい。京都市中京区の、北は丸太町通り、西は堀川通り、南は五条通り、そして東は河原町通りに囲まれた、いわゆる「田の字型」地区には昔から、商家と低層の木造家屋がひしめき合ってきた。そこは職場と住居が一帯化した伝統的な町並みが残る、いわゆる京都を代表する地域であった。ここにバブル期以後建てられたマンションが、580棟あまり。10階以上の高層・大規模マンションは100棟を超えるという。

 問題はこの地域が商業地域として市から認定されている為、日照権が認められていないことがひとつ。そしてもうひとつの問題は、亀井静香氏が建設大臣の折りに、銀行の不良債権などの流動性を高めるために採られた、建築物の容積率の見直し緩和である。つまり、ベランダ、テラス、エレベーターホール、通路、階段、その他マンションの共有部分となるところが、建物の容積率の計算から除外されたことである。こうしたことから、都心では次々と古い低層の木造住宅の間に大きなマンションが林立するようになった。とあるマンションでは東側の窓から眺める東山の風景が売り物であった。そのマンションの東隣に、また新しいマンションが敷地一杯に建設されることになり、マンション住民が泣いている。彼等は損を承知でその居室を売りに出し、悪条件であっても安いから購入する人々が替りに住まうようになる。こうした繰り返しで、マンション群は未来のスラムとなることが危惧されている。












































































 また町中の木造住宅のには、小さくても坪庭があり、裏庭もあった。そこにはささやかながら、緑に覆われた空間があった。そうした市中の住宅からも緑が消えつつある。自家用車の駐車場とするため、玄関をつぶし、前庭を無くしてしまった家を多く見かけるようになった。マンション建設は、残された貴重な緑の部分をも残さず消し去ってしまう。お寺や神社が多く、広い御所があり、3方を山に囲まれていることから、京都は緑が多いと錯覚されているかも知れないが、実は京都が、町中の緑地の占有率は全国でも最低クラスなのをご存じでしょうか。現在、市民運動家たちが、中京区の「田の字」地区における容積率の引き下げ(ダウンゾーニング)を訴えて運動しているが、行政はいつも建てる側の味方らしく耳を貸さない。

 実は、私たちが憂えているのは、この動きが左京区に広がってきていることである。東山の山裾にほぼ近い地区には、500坪、700坪、800坪といった敷地に恵まれた、いわゆるお屋敷が点在している。私たちの問題の隣地も、そごう百貨店の創始者の十合氏が大正10年ころに京都での住居として建設した、約500坪もある豪壮な邸宅であった。写真でも分かるようにうっそうとした樹木に覆われた、総ひのき造の母屋、二つの茶室、2棟の蔵、3つの井戸。そうしたものがマンション建設のために、1木1草残さず葬り去られたのである。

 今年になってからこの岡崎地区で3軒の大規模なマンション建設が進行している。私たちの画廊のある神宮道の大鳥居の南側に1棟。これは既に5階建のマンションの基礎工事が始まった。そのわずか東に吉田茂首相が京都に来ると必ず泊まった「吉富楼」というかっては有名旅館であった邸宅が、数日前から取り壊され始めた。そのまた東にある老舗の料亭「瓢亭」のほぼ真向かいにあった大邸宅は、有名な小川治兵衛の造った庭もあり、屋敷周囲の森のような樹木と共に保存すべきものだったが、ここも既に一切が消え去り更地になった。やがて巨大なマンションになるという。

 この辺りは、風致地区や美観地区に指定されている。にも拘わらず、大規模なマンション事業が何の弊害もなく進行されてゆく。まことに京都の行政は、一体何を考えているのだろうか。週末になると自宅に入る新聞の折り込み広告を貯めこんでいる。したくはないが、いつかこうしたパンフレットだけの展覧会が必要になる時が来るかも知れないと思うからである。そうしたちらしの文句曰く、





















































































「この30年間、この地には1軒もマンション事業はなされませんでした。京都市が守ってきた美観地区の、いわば神聖とも言える地区に住まうことの美学・・・」
「長らく守られてきた環境の中で、ここ岡崎あたりから見る東山の景観はあなたひとりの贅沢・・・」という勝手な文句の羅列に強い憤りを感じるのは、なにも私達ばかりではないだろう。こうした現象は、近い将来、京都が京都でなくなることの予告編と言える。

 とはいえ、私達がマンション建設にやみくもに反対している訳でもない。というのは、先ほど来触れている大地震との兼ね合いがあるからである。運動を通じて知り合った京都市防災課の方々も正直困っておられる様子が見える。京都らしさを残すためには、木造家屋を保存する必要がある。しかし、防災という観点から言えば、鉄筋コンクリートの建物が望ましいのである。一端直下型大地震に見舞われたら、京都はこれこそ火の海になることが容易に想像される。あのおぞましい神戸市内での火災の光景をテレビ画面で震えながら見守っていた私達は、現在、車が入れない、狭い、路地にも似た細い道路に囲まれた密集住宅地に住んでいる。火事が起これば、消火する消防車はまず来ることはない。燃えるにまかせることになるだろう。けれども静かで便利で住環境してはこの上なく良好である。今は、ひたすら大地震の来ないことを祈っているのだが、もう一つの問題がある。私達の画廊も花折断層の延長線上にあるのである。

 花折断層南部は、京都の北から三千院、修学院離宮を通り、京都大学構内東をかすめ、吉田山の西麗から岡崎へ抜ける。その先は京都市美術館から祇園石段下、清水、桃山へと続いている可能性があるのである。たとえ直接続いていなくても、活断層の延長線上の被害が甚大になることは、阪神大震災の経験から分かっている。地震学者や防災の専門家からは、京都の東山の稜線に点在する寺院が所有する、貴重な文化財を避難させる方法を具体化した方が良いという意見さえ出されている。私達が収集してきた多数の美術品には、巨匠たちの作品は少ないとはいえ、貴重な作品が多く含まれているから、これも文化財には違いない。これらの作品を地震からどのようにして守りきることが出来るのだろうか。私達の悩みが尽きることはない。

2001年3月末日 星野桂三・星野万美子

 


























































「南側の丸太町側から吉田山方面を見た岡崎入江町」(2001年3月13日)


















2階建ての木造家屋が並ぶ町内に、巨大なスケールのマンションが姿を現わしている。住民にとっては、京都駅ビルに匹敵するものに思える。そしてここが活断層の真上なのです。




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