明治・大正・昭和「人物画名作展」後記












































 6年前、阪神大震災とオウム騒動の直後。「人間が人間を描く刻(とき)ドラマが始まる」という展覧会を企画した。「第一幕・明治の肖像」「第二幕・自画像」「第三幕・裸体の表現〜男と女〜」「エピローグ・母と子、そして子供たちへ」という4展を1995年7月から1997年7月にかけて断続的に開催した。企画意図は、芸術作品として遺された様々な人間像を通して、画家および彫刻家たちの視線を自分なりに感じ取ること、それが現在の人間存在を見直す一端とすることが出来たらというものであった。今回の企画展に用意した作品は、そのときの出品作の中から抜粋したものが約半数である。そして秘蔵してきた名作を数点と、ここ数年に新たにコレクションした作品を加えて、37人の洋画家による40点の作品に編成し直したものである。

 表紙の黒田重太郎「母子像」は、西洋における聖母子像を下敷きにしたものであることに議論の余地は無さそうだ。画面左上のラテン語による表記「AMOR ET DORORI SACRVM」は、「聖なる愛と苦しみ」という意味。この絵のモデルは、黒田の妻、雅さんと、長男、真之助ということである。雅さんは、澤部清五郎に二人いた妹の姉の方で、以前に澤田清五郎宅にあったアルバムの中に、外遊前の黒田重太郎と妻そして長男とが一緒に収まった写真があった。黒田が大正5年(1916)末に渡欧の旅に出発していることが記録にあるから、その出発直前に撮影されたものだろう。黒田は大正7年(1918)8月にフランスでの留学を終えて帰国した。この絵の裏側には、後年になって黒田が当時の制作状況を思い起こして記録した紙が貼り付けてある(P12参照)。それには、大正8年の12月に完成したこの絵に着手したのは、前年の9月とある。大正7年にフランスから帰国した黒田が、京都郊外の山科の地に仮寓としたとき画布に困って、文展初入選の作品「孟宗薮」を剥がして描いたと記録している。大正3年に雅さんと結婚し、翌4年に生まれた長男であった。愛する二人を京都に残して絵画修行のためパリを目指した若き画家は、パリの美術館や協会で数多く眼にしたことだろう西洋の聖母子像に、祖国に残してきた自らの家族を思い起こしていたのではないだろうか。帰国早々手にした絵筆で、初入選の絵をつぶしてまで描き始めたのは、滞欧中に積もり積もった黒田の家族への熱い思いそのもののように感じられる。まさに黒田の「聖母子像」である。雅さんは、不幸にも大正15年(1926)に死去し、長男の真之介も早逝したと聞く。画面の「聖なる愛と苦しみ」の文字が、後に訪れる(1926)こうした不幸な出来事を予見していたものかどうか、この作品と外遊直前のスナップを見比べながら、因縁としか言い様のない出来事に時間を忘れる。ちなみに黒田は、雅さんが死去した後すぐに澤部の下の妹うめさんと再婚し、やがて次男の暢さんが生まれた。






















































「外遊前の黒田重太郎と雅、真之介」1916(大正5)年















































 他の作品についてもそれぞれ簡単な紹介記事を用意したかったが、準備時間が足りなく、是非ともと思う作品数点に絞り記録しておきたい、

 まず案内状でも紹介した服部喜三「灯火管制」のこと。浅井忠や鹿子木孟郎が創立して以来、関西美術院のデッサンを重きに置く伝統を、この作品ほど端的に象徴するものはないだろう。今日、服部喜三の名前を知る美術専門家はあまりにも少ないが、そのデッサン力にかけては当時この人の右に出る人はいないとまで言われた名手である。生前の服部喜三が、京都市美術館の学芸員に自らの代表作のうちの1点として挙げていた「灯火管制」が、当画廊のコレクションになってから既に10年余となる。その時には既に「失われた風景」という展覧会を頭に思い浮かべ、この作品はその時の為にと、誰の目に触れさせることもなく倉庫にしまいこんでしまった。やがて『日経アート誌』で「失われた風景」という美術エッセイを連載することになり、この作品を登場させる日も近づいた頃、突然同誌が廃刊されてしまった。またこの作品につては、別の思い入れもある。それは、制作された年が昭和18年(1943)ということである。まったく私的なことだけれども、これが私が生まれた年である。画廊に不思議な因縁で集まった数々の作品の中に、同じ1943年の制作年のある作品がいくつかあることから、いつかは「1943年その前後」なんてものを出来ればと考える次第である。

 同じ関西美術院の重要な画家の一人として霧鳥之彦がいる。最近になってどうしたことか霧島作品が次々と世に出てきた。なかには非常に重要な作品も含まれている。「調音」は彼の代表作の一点としてもよいだろう。同じ構図の小さな油彩のエスキースが、霧鳥之彦画集に滞欧中の作品として掲載されている。帰国後そのエスキースを元にして描かれたのが「調音」であろう。霧鳥作品としては最大となるサイズだから、どこかの展覧会に出品するためだったと推察するのだが、現在ある資料には出てこない。「赤いスウエーター」は、以前の霧鳥遺作展図録にも出ていたことがある。今回紹介していないが、霧鳥のもう一点重要な作品が既に画廊のコレクションとなっている。彼の遺作展を開催できる日もそう遠くないだろう、と期待出来る作品数が徐々に揃いつつある。













































































 宮本三郎「少年像」のモデルは、ご自身も水彩画をたしなまれる千葉尚二さんである。宮本三郎が関東大震災を機に京都に移住し、関西美術院に籍を置いていた頃、下宿していた家の子供が千葉さんである。「おう、坊主、ちょっと描いてあげようか」なんて調子で気軽に絵筆を執りさっさっと描いたそうである。千葉さんは大正7年(1918)生まれで、宮本が千葉さん宅に下宿していたのが大正13年(1924)頃、千葉さんの7歳頃の出来事であったという。絵はその後数十年間大切にしまわれていたそうだが、理科教師として教鞭を執るかたわら趣味で始めた水彩画の勉強のために私どもの画廊に足を向けられ、ある日、この絵のことをふと思い出して持参された。現在の千葉さんはもちろん年月を経ているので、子供の頃そのままではないにしても、お話している最中、しばしばこの絵そっくりの表情が出てくる。さすが宮本三郎、人間の特徴を的確に捉えてる、と感嘆せざるを得ない。画家としては未だヒヨッ子だったはずなのに、昭和初期頃の裸婦像をモデルにした作品群の色彩感覚と筆触が、既にこの小さな作品に芽生えている。最近全国を巡回した宮本三郎遺作展にこの作品を出品していただいたので、ご覧になった方も多いことだろう。

 野口謙蔵の「若葉の婦人像」は、色調やタッチが、野口が当時出品していた塊樹社展の調子そのものであることから、野口の最初期に属する作品のように考えられる。この作品は、昭和49年(1974)に大阪市立美術館で開催された「近代日本風土派洋画名作展」に、遺族のコレクションから「婦人像」という名前で出品され、その後、縁があって当画廊が所蔵することになった。現在出身地の滋賀県立近代美術館において生誕100年記念・野口謙蔵展」が開催中である。当然出品依頼があることを期待していたが、限られた予算内ではあちらこちらから作品を集めることが出来なかったそうで、残念でならない。モデルについては、当時の野口家にお手伝いにきていた近在の娘さんか(?)と指摘されたことがある。また、近江八幡におられた絵更紗作家の西谷愛さんがモデルではないか、とご教示いただいたこともある。後に八幡工高の教壇に立たれた西谷さんの資料を少し調べてみると、西谷愛さんが、画家を志して洋画家の新井完の紹介で野口のアトリエを訪問するようになったのは、どうやら野口が帝展で特選を受賞した頃で、この絵が描かれたという推定年代と少しずれる。知人から提供された西谷さんの写真を見ると、少し似たような面影があるが、どうとも判定しようがない。風景画家として著名な野口謙蔵としては、珍しい作品であることには違いはない。






















































































 薄田芳彦の「少女」については、以前に開催した「発掘された肖像展」(1985)で紹介したことがある。簡単に言えば、この作品は不幸にも吉田博の「上高地の春」(現在静岡県立美術館蔵)の裏貼りにされていた作品である。薄田の兄は、我が国でも画廊の草創期に属する時代に、京都と大阪で画廊「三角堂」を経営していた人物で、私たちの大先輩である。一度この三角堂のこと、特に大阪店に並んでいた内外の名作の数々のことを紹介することが出来るとよいのだが。それはさておき、どうしたことかその画廊で扱った「上高地の春」の下に、もう一枚この作品が貼ってあったのである。「上高地の春」は昭和2年(1927)の帝展出品作で、事情は分からないが想像は出来る。つまり「上高地の春」の絵に何かの事情で小さな穴のあくような事故があった。その傷を隠す目的でキャンバスの下にもう一枚のキャンバスが貼りこまれたのだろう。たまたま弟が描いた作品がそこらにあったのかも知れない。弟がそれを承知したかどうかは分からない。因縁話は、私がその傷を発見して裏面の「少女像」に気がついて、当時の事情を尋ねるために作者の家に電話をかけた、ちょうどその日、画家薄田芳彦が老衰のため死去したところだったという、誠に偶然とはいえ不思議な出来事であった。

 さきの「発掘された肖像展」には、前途の服部喜三、三輪四郎、八条弥吉、澤部清五郎、田中善之助、水清公子、谷出孝子などの紹介記事もある。今から考えると内容も乏しく、調査も不行届きのまま掲載した部分もあるが、そちらもご再読していただければ有難い。松村綾子の「婦人像」はその時に掲載したので、今回は「二人」について少し触れておく。「松村綾子遺作展」(1985)を開催した時、この作品写真が新聞各紙を賑わし評判となった。その時私には、絵のモデルが画家本人とその子との認識があった。展覧会中に会場を訪れた遺族の話から、モデルが画家の妹とその子俊彦さんであることが判明した。「二人」は、当時野口謙蔵作品などを収集しておられた、京都のコレクターに請われて嫁入りしたのだが、何ヶ月か後のある日、お客さまからその絵を心斎橋にある画廊で見かけたと通報があった。絵の傍らには遺作展を紹介した新聞記事が壁に貼りつけてあったそうだ。遺作展では当初は非売品にしていた貴重な作品を、執拗に請われた末に、絶対に他人には転売しないという約束でお譲りしたのであった。早速その画廊に駆け付けて事情を説明し、買い戻したいと申し出たところ、店主は、コレクターから依頼を受けた委託作品なので、と口を濁すばかり。結局、その後数ヶ月たってコレクターから「二人」を取り戻すことが出来た。それまで野口謙蔵の絵を何点もその人に紹介していたのだが、このことがあってから一切作品の取り引きすることをしなくなった。ほんの出来心で作品を買い、飽きるとすぐに転売してしまうという姿勢に我慢できなかったのである。大切な客をひとり失ってしまったが仕方がない。






























































































 谷出孝子「C嬢(モスリンの着物)」は、谷出が結婚して黒田姓になってから二科展に初入選した作品である。モデルをつとめたのが絵更紗作家の絲屋高子さんである。彼女の姉の若松緑さんは、日本画家を目指して菊池契月塾で学ぶうち、研究会の先輩だった日本画家岡本神草に出合い恋に落ち結婚したのだが、昭和8年2月に神草は急死する。その半年後、後を追うように緑さん自身も病死してしまった。縁者のなかった神草の遺品を、妹の絲屋高子さんが、その後半世紀以上の長い年月大切に保存し、最近、神草作品が再評価されて世に出る大きな貢献をされたのである。このことについては、京都中央信用金庫の中信美術奨励基金が発行している『美術京都』の最新号に、小生の論考「岡本神草の拳の舞妓をめぐって」として詳しく紹介している。美貌の絲屋高子さんは、関西美術院に学ぶ画家たちのモデルをしばしばつとめることがあった。同じく美貌の画家谷出孝子とはよく気が合って「お孝さん」と呼んで親しくされていたそうだ。谷出は作品名を「C嬢」としていたのだが、絲屋高子さんから当時のお話を聞くうち、「モスリンの着物」という副題を私がつけることにしたのである。育ちのいいとこのお嬢さんらしく、当時ハイカラであったモスリンの着物に身を包んだ絲屋高子さんの容姿には、昭和初期頃というよき時代が現れていると思う。

 そうそう谷出高子と松村綾子、そして水清公子の作品が、この秋(10/21〜12/9)の栃木県立美術館での企画展、「奔(はし)る女たち−女性画家の戦前・戦後」という、1930年代から1950年代までの日本を駆け抜けた、時代の魁ともいうべき女性画家たちに焦点を絞った意欲展で紹介される。皆さんも期待されてよろしいかと紹介する次第。

 思いついたことをあれこれ書き綴っていると、京都という土地柄、関西美術院の画家たちとその作品が、本展の出品作の半数以上を占めていることに気がついた。当然のことながら、なるほど、そうであったかと納得している。今回の出品作品については、それぞれ一頁を要する話があるのだけれど、紙面に限りがある。最後に野田英夫の作品についてだけ少し触れておきたい。夭折した野田英夫の作品を、縁もゆかりもない私が偶然に入手できたことは、幸運としか言い様がない。現在手許に3点ある野田英夫の作品の中で、この「籠をもてる少女」(仮題)は、その小さなサイズに似つかわしくない壮大で意味シンな作品のように私には思える。少女のワンピースの裾にはアメリカ大陸の地図がコラージュされている。当時の新聞記事から切り抜いたものと考えられる箇所には、文章の中にcommunistの文字が読める。評伝を読めば、野田英夫がコミュニストであったとか、いやそうではなくスパイだったのではないか、といろいろな説があるようだ。この作品に貼り付けてある新聞記事の内容が判明したり、黒く斜線で塗りつぶしたアメリカ大陸の地図のことなど、いろいろと研究する価値のある作品に違いないのだが、その作業は今後誰方か有志の方にお譲りしたい。















































  このページのトップに戻る▲  















































 こうして頼り無い記憶を辿り、まずい文章をだらだらと書き列ねて、未消化のまま印刷してしまわなければならないのは、例の自宅隣でのリクルートのマンション建設問題が、現在も尾を引いているからである。「桜をめでる情景展」図録の後記に引き続いて、最新のスナップを掲載しておく。マンションは完成目前。7月には施主のリクルートコスモス社に建物が引き渡され、その後入居が始まることになる。徹底徹尾、私達近隣住民を足げにした人権無視のマンションと、私達はこれからの人生を共存してゆかねばならないのだろうか。たかがマンションではないか、そうあきらめようとしているのだが、このまま引き下がってはこれまでの運動が活かされない。京都におけるマンションラッシュは、最草救いようのないレベルにまで来ている。元気なのは、建築業者と不動産屋さんばかりというのは、とても真っ当な姿ではない。私達は、自分なりの運動のあり方でこうしたことに警鐘を鳴らしてゆきたい。

 それにしても最近世間を席巻する言葉は、リストラ、デフレ、倒産とマイナス系ばかり。そこに「やります、改革します」と耳通りのよい政治改革のキャッチフレーズが、デジタル、インターネット、IT革命、ケータイ、Iモードといった軽薄としか思えない流行語の変種のように登場してきた。その小泉・真紀子ブームが、ブームでなく実体として着実に実行されるなら。この国も少しは先が見えてくる。その反対にブームが美辞麗句によりメディアに煽られただけものであったり、参院選挙目当ての口先だけのスローガンであることが判明した時、大衆の期待感がどん底まで突き落とされることになるかもしれない。

 メディアにより伝えられる真紀子発言は、往々にして官僚たちの情報操作が原因と見られる節があり、真紀子バッシングの醜い様相が明らかになる。以前から彼女の発言や行動に関しては、私たちもその人間性を疑ってきたので、彼女を擁護するつもりはない。しかし彼女の一つ一つの発言は至極もっともなことが多く、石原慎太郎発言と似たところがあるように思える。ただその地位にある人物の発言としては軽すぎるから、世間で叩かれるのである。ここは踏ん張って外務省改革が進むようになるとよろしいのですが。地球温暖化対策に京都で提案された京都議定書を、日本が率先して批准しないのは理解できない。ブッシュ大統領が大国の義務に背を向けて、自国産業保護のためにだけ発言していることについては、真紀子発言が正しいと思う。戦後日本が、米国との安保体制にすがって発展してきたことも事実だし、それを改善し自立の道を探るというのも当然のこと。分からないのは、そうした発言を我が国のメディアが3流週刊誌のごとくにあげつらうことである。そもそも以前はメディアが同じことを主張してきたのではなかったか。一番反省しなくてはならないのは、メデイア自身ではないだろうか。



























































 このように冷めた眼で世の中を観ている星野には恐いものはないのではないのか、とそのように思われると心外である。実はひと一倍恐さに怯えている今日この頃である。不景気だから、これ以上景気が悪くならないように祈っている。無垢な小学生が理由もなく大量に殺される時代。ああ、そう言えばこの前も似たような事件があちらであった、そう、こちらでもありました。いやだ、いやだ、ちっとも変わっていないではないか。もう少し平和に暮らせるようにならないかと祈っている。もうこれ以上悪いことが起こらないように、悪いことは隣のマンションだけで結構と、夫婦で祈っている。

2001年6月  星野桂三・星野万美子





















 













「姿を現したリクルートコスモス社の『フォルム聖護院別邸』」(丸太町通りから北方を望む。マンション越しに吉田山、左遠方の建物は京都大学。まさに、周囲の景観を破壊しているマンションです。しかもここが花折断層帯の真上です。)
「我が家に食い込む形のマンション」







このウインドウを閉じる

Copyright (C) 2003 Hoshino Art Gallery All Rights Reserved.