明治・大正・昭和「美人画コレクション展」後記













































 また性懲りもなく展覧会を企画した。展覧会図録に掲載する作品写真のポジフイルムを点検中、ニューヨークで勃発した世界貿易センタービルのテロ事件報道がテレビ画面から飛び込んできた。深夜までテレビからる悲劇の一部始終に家族一同が戦慄を覚え、なかなか寝付けなかった。多分世界中何億という人々が、同じ画面、同じ悲劇を共有したことだろう。それは今日に至るまで跡絶えることはない。

 1966年交換留学生のプログラムで訪問した米国滞在の半年間に、2度ニューヨークを訪問したが、まだ世界貿易センタービルはなく、当時世界最高のエンパイアステートビルに足を歩み入れることもなかった。学生時代の貧乏旅行の常として、ひたすら地べたを歩き回り、ハンバーガーを日に3度貪り喰らう日々であった。印象的だったのは地下鉄などから地上に噴き出す蒸気の煙り、雑多な人種、そして質屋の多さだった。やっぱりその頃から星野は変わっていたのだね、と言われそうだ。この交換留学生プログラムの終了後、グレイハウンドバスの安売りチケット「99日間99ドル」乗り放題で、ほぼ全米を走破した。各地で有名な日系建築家Yamazakiの名と仕事を目にした。アメリカの知人たちも私が訪問すると、同じYamazakiによる教会、モニュメント、図書館などを自慢して紹介してくれたものだった。この建築家が、世界貿易センタービルの設計に当たった人物であることを、今度の事件の報道で知ることになった。

 それにしても飛行機が激突したしばらく後で、実に一瞬のうちに崩壊する近代建築物に、しばし我が目を疑った。そして、ニューヨークでは地震が想定された建築物がないことに思いが至る。「こんなこと日本では対ないよな」と家族に感想を述べたが、それほど自信があったわけではない。その後の報道では、双子の世界貿易センタービルの崩壊は、周辺の地盤にとってマグニチュード6程度の地震を与えたと言っていた。テレビの解説者から建築方法の説明を聞き、やはり地震大国の日本の近代建築であったなら、こうした崩壊にはならなかったのではないか、と自宅隣でのマンション建築問題をめぐり、少し地震と建築のことを聞きかじった私たちは語り合った。

 2度目の訪米は、生意気にも1971年の春に独立し、アートコンサルタント星野として活動し始めたときだった。フルカラーのカタログを世界中のコレクターにダイレクトメールにして発送した後、米国での伝手を手繰りながら、全米の美術館や顧客たちを訪ね歩いていたときのことだった。もっともカタログを手にして各地を訪問しても、経済的な成果は少しもなく、留守を守る万美子の通訳ガイドとしての稼ぎに全部おんぶにだっこの有様だった。





























































































 ニューヨークへは、三尾公三氏のボニーノギャラリーでの個展開催日に合わせての訪問だった。三尾公三氏とは独立前に勤めていた画廊(ジャパンアートセンター)の取扱作家であったことから、ニューヨーク個展の下準備の段階で、ボニーノ氏と三尾氏との通信のお手伝いなどを私がしていた。勤めていた画廊では、米国から有名無名のコレクターたちが京都を訪問する度に、まだ無名に近かった氏のアトリエにお連れして作品を見せ、購入された大きな作品の発送なども全部お世話していたのである。当時、日本ではまだ三尾氏の作品を買うコレクターや美術館などはなく、顧客のほとんどが外国のコレクターたちだった。独立後、アートコンサルタント星野の名刺に三尾公三氏の作品(Red in Blue)を使用し、天地逆に描かれた女性の顔の下方にある空間部分に、自分の住所と名前を印刷し、そのアイデアを自画自賛していたものだった。1973年に星野画廊を開設した後、取扱作家や作品が徐々に変化してゆくにつれ、その名刺の使用をやめた。三尾氏の作品を扱うことも無くなり、やがて年賀状や展覧会のやりとりだけになった。そして氏がフォーカス誌の表紙の仕事などで著名になるにつれて、通信はこちらからの一方的なものとなり、とうとう氏からの年賀状さえ届かなくなった。

 2度目のニューヨーク訪問時、世界貿易センタービルがもう出来ていたのかどうか覚えていない。私の関心はもっぱらグッゲンハイム美術館やダウンタウンにある様々なギャラリーにあった。その後私たちの仕事の内容が、明治以降の国内作家と作品の発掘に急速に移行するにつれ、こうしたアメリカの美術館や顧客たちともやはり疎遠になっていった。

 ニューヨークやボストンなど東部の都市やその周辺から、明治時代に日本から流出した美術作品が数多く戻りつつある。当時日本と縁が深かった英国からの里帰り品も多い。本展図録の導入部分には、そうした明治代に描かれた作品を掲載している。なかでも松本楓湖の<和装西洋美人図>は、時代を象徴する重要な絵で、私たちが以前に所蔵し現在横浜美術館所蔵の、渡辺幽香<白衣婦人像>(明治16年作)との類似点も多々ある。石井金陵<龍上美人図>は、これまでも度々紹介してきたが、明治のハイカラさんが、怪しげな龍の化身となり、私たちを不思議な世界へと誘う。同じく不思議な世界であるが、菊池素空<羅浮仙女>からは、東洋的な幽幻の境地が窺える。

 千種掃雲の<ねざめ><ほヽづきの女>は、大正美術への移行期の作例として先駆的なものである。『日経あーと』誌上での、連載「失われた風景」の為に<ねざめ>を秘蔵してきたが、同誌の廃刊とともに本作品を紹介する機会がなくなった。鴨川の四条大橋の西岸にある料亭「ちもと」あたりからの光景になるだろうか、とすれば背景の木造の橋は団栗橋になるのだが、定かではない。今し方まどろみから覚めたばかりの婦人の姿、欄干越しに見える昔ながらの家並み、鴨川の河原で繰り広げられる友禅流しなど、「失われた風景」としてこれほどお誂えの場面はない、と考えていたのである。






















































































 井口華秋や松村梅叟といった「自由画壇」を結成したグループの回顧展は、まだ開催されたこともないし、断片的にしろ語られることが少ない。しかし本展に出品している両者の作品からは、いかにも大正期らしい自由な画風が伝わり、これは放っておいてはいけないなと考えさせられる。自由画壇と日本美術院の試作展には、若い画家たちの実験的な作品がしばしば紹介されており、もっと注目してもいい。井口華秋<舞踊>の右側の作品が、日本自由画壇試作展図録に掲載されている。こうして2点を一対にすると違和感がないどころか、これが本当の姿ではなかろうかと考えるのである。

 結城素明の「踊り子」は、彼としてはまさに風変わりな作風で、落款はなく印章だけだから、これを贋物とする人もいた。しかし大正末期に渡欧後の結城素明には、こうしたハイカラな実験的な作品がいくつか存在する。変わっているといえば田中案山子の<道行図>も、画商たちが同じ作家のものとは考えることの少ない図柄である。私でさえ、今後ほかの案山子の作品を買い求めるかどうかには疑問がある。他の作品はどうでもいい、この作品だけは欲しい。そうした優れた感受性豊かな作品を輩出させた、大正期という時代への私たちの思い入れを、本展図録が如実に物語っているだろう。

 夭折の画家、増原宗一の作品が徐々に集まりつつある。小さな遺作展をする程にはなった。しかし宗一について詳しいことが判明していない。見切り発車で遺作展、ということにもなるだろう。

 北野恒富<暖か>については、こちらで所蔵する緒方文華<女>との関連があり、数年前、疑問に思ったことを、現在<暖か>を所蔵する滋賀県立近代美術館の関係者には伝えてある。しかしその後、何ら研究発表もされていないようだから、ここに改めて20〜21頁、そして57頁の論考で述べさせて頂いた。当方所蔵の<女>がひょっとして北野恒富作品ではないか、と考えて調べてみたのが端初である。しかしながらどう見てもこの<女>には稚拙な部分がある。例えば膝の辺りの絞り文様の描き方は、平面的すぎるのである。北野恒富の<暖か>の同じ部分では、さすがによく見ているし、よく描けていることも分かる。だからといって緒方文華の作品が、<暖か>の模倣かどうかは分からない。そういうことをご理解して頂きたいから拙文を用意したのである。



























































































 本展のメインのひとつは、大正期大阪画壇の一端を紹介することにある。大阪市立近代美術館の開館が先延ばになっているから、こうした絵画作品をまともに見られる展覧会がほとんどない。同美術館開設準備室が、大阪のATCミュージアムで年2〜3回程度の所蔵作品展を開催し啓蒙につとめているが、如何せん地の利が悪い。ここであまり「大阪はオモロイでっせ」と大きな声でいうと、作品を発掘する画商という立場上、競争相手を刺激するだけから、それこそオモシロクない。しかし良心的な画商としては、皆がもっとその魅力に目を向けなければならないと言わなくてはならない。

 国画創作協会系の画家については、京都国立近代美術館をはじめ全国津々浦々で取り上げられ、今やメジャーとなってきた。そうなるように陰で煽っていた事を忘れ、国展ばかりが大正ではないですよ、と国展一辺倒の風潮に釘をさすことにする。でも、やはり国展には佳い作品が多い。

 京都日本画壇のメジャーといえば、菊池契月門となる。そのひと世代前は、当然竹内栖鳳門だった。大正末から昭和初期の京都画壇で忘れてはならないのが、菊池契月とその画塾の人々である。本展では、そうした画家たちを少し多めに紹介している。ここでは美人画に限っているから、これだけの画家がただ今手許にございます、という紹介になっているが、実数はもっとある。私の画廊で実現することは不可能だが、京都市美術館や京都国立近代美術館などで菊池塾の回顧展をして頂くことが、美術館の経営戦略としても有効ではないかと考えるのですが・・・。

 美人画展の話題からずれるが、どうしても一言、二言、いやもっと述べておきたいことがある。それは今夏、滋賀県立近代美美術館で開催された野口謙蔵展のことである。洋画家、野口謙蔵。1933年の帝展で特選となり、翌年の帝展でも<霜の朝>で連続特選の栄に輝いた野口謙蔵のことである。この画家の絵が素晴しいと思い、好きで好きでたまらない。我が国でも一流の洋画家と信じている。最初に60号の作品を取り扱ってから既に25年になる。この間、多数の作品を取り扱い、20数年前には、現在野口謙蔵記念館となっている旧野口邸も訪問している。拙稿「失われた風景ー4野口謙蔵<虹の風景>」(『日経あーと』誌1997年11月号掲載)にその時のことを詳しく書いているので、再読していただくとよろしいのですが、とにかく野口謙蔵に対する思い入れは人後に落ちない。

 同美術館で生誕100年を記念して開催される野口謙蔵展には、実現する前から多大の期待を抱いていた。それが木っ端微塵に打ち砕かれてしまったのである。展覧会案内のポスターが画廊に届いた時から、その予兆があった。同館所蔵の名作<五月の風景>が、実際の作品とは似ても似つかぬものにコンピューター処理されていたのである。私たちのような専門家なら、それがコンピューター処理されていることも原作品がどのようなものであることも知っている、しかし、そのようなことが分からない一般の美術愛好家にとって、このポスターが与えた作品のミスリードは、もはや犯罪的とさえいえる。あのポスターを見て、「あっ、いい作品だから一度展覧会に行ってみようか」と思った人がどれだけいただろうか。





























































































 ある日、家族一同うち揃って楽しみの野口謙蔵展に出かけた。お目当ての代表作品のひとつ、<霜の朝>(東京国立近代美術館蔵)が、展示室入り口の左端の人目につきにくい場所に飾ってあった。どうしてこのような悪い場所に飾ってあるのか理解出来なかった。しかも会期前半で展示替えとなっているから、後半に来るファンをさぞがっかりさせることだろうと思った。東近美は工事中のため、<霜の朝>を常設で使うこともないだろうし、たとえ他の展覧会とバッテイングしていたところで、生誕100年記念という看板からも、最重要作品だからと作品を確保し、会期中ずーっと展示すべきであった。実際、何人ものお客様から<霜の朝>がなかった、という苦情が耳に入った。

 <霜の朝>のことは、これから述べる事柄からいうとほんの些細な嫌味でしかない。今回の野口謙蔵展は、出地である蒲生町の所蔵する作品の御披露目も兼ねていた。「失われた風景4」でも述べたが、蒲生町の野口謙蔵という画家に対する仕打ちには我慢できないものがある。主に野口謙蔵記念館の在り方についてであったが、今回実見することになった、数々の劣悪な町所蔵作品には、怒りが湧いてくるのを禁じ得なかった。蒲生町に、郷土が生んだ偉大な画家、野口謙蔵に対する愛情が本当にあるのかどうか、聞き糺したい。ひょっとして野口謙蔵なんて大した画家ではない、ほんのローカルな絵描きにすぎない、とでも思っているようなコレクションである。「生誕100記念・野口謙蔵展」図録に掲載されている作品で、展覧会に出品すべきでないものを列記すると、2林の中、3庭、9風景、10桜、37雪庭ー隅、39三河万歳、46庭そして59竹林である。そのうち野口謙蔵作品とは到底考えられないものが何点もある。その他、出品しなくてもよかったものには、7残雪の野、や62木立などがある。

 遺作展に野口謙蔵ではない作品を紛れさすことも言語道断だが、どうでもよい作品を省いて、もっと良質の作品に差し替える必要があったのではないだろうか。この事については、主催者の滋賀県立近代美術館も同罪のように思える。「展覧会には他に良い作品が一杯並んでいたでしょう?」と言われるだろう。しかし高級料理店で美味しい料理を賞味しているうちに、腐った一品でも紛れこんでいたとしたら、途端に興ざめとなり、もうこんな店には絶対来ない、と決心するだろう。それと同じことである。
























































































 聞くところによると、美術館には全国の野口謙蔵フアンから数十通の抗議文が届いているという。当然のことだろう。数十あるということは、その陰に数百もの不満の声が潜在していることを主催者としては胆に命じる必要がある。生誕100年と銘打って開催した展覧会には、それだけの重みと責任がついてまわる。作者の野口謙蔵が草葉の陰で喜んでいるとは、到底考えられない。

 相当に厳しい文章となったので、関係者から出入り禁止ということになるかも知れない。しかし、誰かが言わなくてはならない。私たち画廊の経営に当たっても、贋作や劣悪な作品だけは並べないようにと心懸けているからである。これが画商の使命であり、良心の証明だとも考えるからである。

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 星野は怒っている。まだ怒っている。最後の怒りは、当然リクルートコスモスのマンション問題となる。我が家の隣のマンション建設は、この6月に一応の完成をみた。7月から入居が始まったというのに、すぐに終わった。つまりマンションの購入者が少なかったのである。38戸の総戸数のうち、まだ6戸の入居が済んだばかり。昨秋モデルルームを設置し優先予約売り出しを開始。12月末にはどういう理由からか「新価格」を発表した。今年の3月から一般の申し込みを開始した。当初は「申し込み多数の場合は抽選にします」なんていう宣伝文句が新聞の折り込み広告の文面にあった。なのにである。マンションは売れていない。7月には完成したマンション1室を現地モデルルームにし、またまた新価格(低価格)を発表し、即入居可ということにした。が売れない。8月、サマーフェスタと称し、遂に50万円相当のインテリアプレゼント、そして家具つきとバーゲンセールがエスカレートしたのだが、やはり売れない。皆さん、フォルム聖護院別邸は、今や幽霊マンションに近い状態です。

 そこでリクルートコスモス社は、会社の顧問弁護士を通して「町内に出しているマンション反対運動ののぼりが、営業妨害に当たる。即刻撤去するよう、さもなければ法的手段を取る」との内容証明を突き付けてきた。それも一人暮らしの老人や老女の家にまで強圧的な通告書を出してきたのである。マンション敷地が活断層帯の真上しかも市内有数の軟弱地盤にあることを知らせ、直下型大地震の際、あまりにも隣接住宅と至近にあるため、どのような災害を誘発するか分からないという、危険性を広報するのぼりであった。しかものぼりは「地震災害から住環境を守る会」(代表:星野桂三)として掲出しているので、それに対する通告書は、当然代表の星野宛に出されるべきものだった。なのに、弱い立場のお年寄りのお宅にまで送りつけ、不安を増大させるという悪質な手口であった。当方の顧問弁護士から回答書を出して頂いたが、その後リクルート側から何ら動きがない。










































































































 9月9日、朝日新聞の夕刊に、「問われる古都の街づくり、御池通の大型マンション計画・・・」のショッキングな記事が掲載された。またしてもリクルートコスモスである。計画では、御池通に面した富小路通から柳馬場通までの1区画(約90メートル)が、ひとつの巨大なマンションになる。この通りでは、京都市は、法的には45メートルの高さまでの建築を一応認めているが、実際は、景観およびスカイラインを守る為に高さを31メートルに押さえたビルが並んでいる。それをリ社は、限度一杯45メートルの高さで15階建てのマンションを計画しているというのだ。しかも1階をガレージにしている。2階から上の御池通側の上層階すべてが、マンションの東西68メートル全て、通路とドアばかりという、到底常識では考えられない醜悪な設計にしている。

 ご存知のように、御池通は、時代祭、祇園祭り、京都祭りが通る主要な道路であり、京都市がパリのシャンゼリゼのような素敵な通りにしようと、御池シンボルロード構想を示している重要な通りなのだ。建設予定地は、河原町通と烏丸通のちょうど真ん中に当たり、誠に重要な地点となっている。ここに1階がガレージ、外観がひと昔前の公団住宅を想起させる、リ社の安物のマンションが建設されるのである。普通の感覚からいうと、このメインストリートの、しかも華麗な祭りが眼下に楽しめるという「売り」を最大限に利用する計画にするはず。

 ところがリ社は、我が家の隣のフォルム聖護院別邸マンション建設の際にも、当然「売り」にしていいはずの東側の景観(黒谷金戒光明寺から東山、大文字を眺める好位置にある)を無視し、南側の旧い木造住宅の境界ぎりぎりにルーフバルコニーを設置し、西側の我が家には数十センチメートルの至近で、たくさんの窓と室外機置き場を設置するという暴挙に出た。京都人は、家屋の建築にあたり夏の西日を避けることを最初に考える。それなのにこのマンションの西側は、窓だらけ。室内はそれこそ蒸し風呂同然となるだろう。驚くことはそれだけではない。南側に向いた陽当たりのよい最上階の屋根の一部が、ガラス張りになっている。マンションの最上階は普通に建設された場合でも夏は暑い。なのにここでは一部がガラス屋根になっている。リ社の頭の構造は一体どうなっているのだろうか。よほど陽当たりの悪い貧乏長屋から育った人が経営に当たっているのだろう。

 当方からマンションが近すぎるということは、マンションから見ても近すぎるのである。しかも旧い木造家屋の裏側ばかりに囲まれている。パンフレットを手にした購入希望者が、二の足を踏むのは当たり前のことなのだ。だから売れない。自分達の頭の悪さの責任を、住民の立てているのぼりだけに押し付けることは、筋が通らない。

 リ社の御池富小路マンション(仮称)も、北側の御池通りの魅力に背を向け、南側の陽当たりのみ念頭に入れている。なるほどマンション予定地の南側は、料理旅館吉川の美しい住宅と庭園がある。その南側にもみごとな和風建築がある。借景とするにはこれほどよいものはない。しかし反対側の和風建築から見た景観はどうなるのか。そして北側の御池通りの景観はどうなるのか。現在、このマンション建設をめぐり、反対運動に火がついたところである。



















































































 リクルートコスモス社の最大の欠陥は、会社の経営方針として、自社の目先の利益追及のみが優先され過ぎていることである。私たちの町内で開催されたマンション建設説明会で、町内の古老(地盤改良工事やその後のひどい工事騒音・振動に耐え切れず、昨年秋に急死された)が、リ社の会社としての社是を問われたことがあった。どの会社でも「事業を進めることにより社会に貢献する」という項目があるはずだ、と氏は問われたのである。マンション建設に当たりリ社が追求することは、ひたすら法律の範囲内でどれだけ効率のよい面積と容積が得られるか、投下資本に対してどれだけ最大利潤を得られるのか、ということだけのようである。その計画や基本設計の段階で、世界に誇れる文化遺産の宝庫としての京都と、どのように保存しながら共に発展すべきか、京都市の都市計画の中でどのような位置を占めるのか、などなど真摯に検討することは一切ない。京都を地盤とする企業なら、もう少し違う理念を持つのだが、他府県から乗り込んで来たインベーダーのようなこの企業には、そうした良識のかけらさえ無い。これが、私たちの不幸の始まりである。

 料理旅館吉川の東側には、京都の御三家のひとつ、柊屋旅館がある。そのご当主が、先日開催された「御池通を語る会」でリ社の姿勢を憂え、「このままでは御池通は、京都市が目指すシンボルロードではなく、死んでるロードとなるだろう」と発言された。言い得て妙である。
 
2001年9月末日  星野桂三・星野万美子

 



















































「御池通のマンション予定地のモデル」
(左端の大きなビルがリクルート、その右側が朝日新聞ビル)
  ーモデルは姉小路界隈を考える会が製作されましたー



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