〜京阪神〜「女流画家たちの競艶」後記
第1部「島成園と女流日本画家たち」・第2部「松村綾子と7人の女流洋画家たち」










































 毎月21日に京都の東寺で「弘法さん」と市民たちに親しまれる朝市が開かれる。年始の1月21日を「初弘法」、年末の12月21日を「終い弘法」と呼び、年間を通して大層な人出で賑わう。弘法さんを慕う人たちばかりが集まるわけではない。群集のいるところ様々な商人が集うのは何時の世でも変わらない。わずかばかりのスペースに屋台を並べ、テントを張り、あるいは粗末なゴザを敷いただけの一日だけの店鋪を構える。土産物、食べ物、植栽、日用品などを売る店に混じり、かつてはフーテンの寅さんのような物売りたちもいたものだ。

 そうした即席店鋪の中で、私のような美術骨董蒐集家の中でとりわけ有名なのが、門外の北側や西側にまで広がる新興の一角である。古くからの業者たちが店を出す正面のお堂前から少し離れ、市内の蔵から初(うぶ)出しの道具類を買い込んだ古物商たちが店を出すのだ。まだ京都市内で大型ゴミを路上に出す日が設定されていた頃には、そのゴミの中から売れそうな品物を捜し集めては、月に1度の朝市に売りに来る、店を持たない古物商たちもたくさんいたのだ。

 島成園という女流画家がいたことなど、世間ではすっかり忘れられ、誰も見向きもしない頃のことだ。かれこれ30年も前になるだろうか。当時、私はまだ若く元気があった。早朝5時前に家を出て、中古のチャリンコでガチャガチャと騒がしい音をさせながら、家から市内の南西端にある東寺へと向かう。30分の道のりだ。

 まだ夜が明け切らぬ頃、初出し屋と呼ばれるにわか業者たちが、荷車や軽トラックからほとんどが文字通りガラクタにすぎない書画骨董品の荷下ろしを開始する。中には古美術市場から仕入れたものばかりなのに、さも初だし荷物のように並べる業者もいる。何回も通ううちに彼らの選別が次第にできるようになる。とんでもない出物があるかもしれない、そうした期待に胸を弾ませ、薄暗闇の中を懐中電灯を頼りに、荷下ろしされる荷物の中からめぼしいものを捜す。駆け出しの画商としての活動のひとつだった。掘り出しの品を狙う競争相手は結構多いものだ。薄闇の中に懐中電灯が交錯し、時には獲物を奪い合う怒号が飛び交うこともある。暗いからとんでもないものを掴ませられることもあるが、たまには思わぬものにも出会う。八木一夫の黒陶を懐中電灯の下で見つけたこともあるのだ。こういう時は文字通り早起きは三文の得。























































































 夜が明けきり、一般の参拝者や素人さんたちが骨董品を捜しに出かけてくる頃には、私たちのような商売人たちが姿を消す頃だ。やれやれ今日もくたびれ損かと帰りかけた時、一枚の古ぼけた額に入った美人画が目に入った。画面が黄色く陽焼けしているが、とてつもなく巧い筆捌きの作品だった。署名は「成栄」とある。これなら上村松園なんかに負けないなと、他に買うものもなかったので、仕方なくその絵を抱えて家路についた。

 島成園の本名が「成栄」だったことに気がつくのは、それから10年もたってからのことだ。時すでに遅く、「成栄」の美人画は既に人手に渡り、どこへいったか見当もつかない。今となっては、あれが島成園の若描きの絵だったかどうかも分からない。それでも巧い絵であったことは確かで、図柄は今でもしっかりと脳裏に焼き付いている。

 年齢を加えるたびに、そうした早起きが身に応えるようになった。毎回、毎回掘り出し物に出会うなら、早起きの甲斐もあるが、多くは徒労に終わるからだ。弘法さんの日から数日は体調をくづすことが多くなり、やがてまったく足が遠のいてしまった。このごろでは、早起きをしなくても、作品が勝手に星野画廊に集まってくるようになった。有り難いことである。そのかわりなのか、毎晩1時すぎまで、原稿書きや書類づくりに追われるようになった。夜更かしをしても翌朝7時には目が覚める。このところ睡眠時間が短くても苦にならなくなった。しかし日中に所かまわずあくびして、うつらうつらするから、典型的な年寄りの仲間になってしまったようだ。

 京都国立近代美術館の「秦テルヲの軌跡」展が、どうやらこうやら成功裡に終了した。どうやらこうやらというのは、岡山県笠岡市の竹喬美術館と東京の練馬区美術館を巡回した展覧会が、本拠地の京都に来たときは、展覧会開催の時期としては最悪の年末年始となってしまったからだ。主催者側の希望では会期中の入館者が2万人、悪くても1万5千となっていた。ところが、思わぬ寒波の到来もあり、12月中の来館者数が伸び悩み、総入館者数を1万2千、いや1万かなと変更しなくてはならないほど、だんだんと悲観的な見方が支配的となっていった。ただ来館者の滞在時間がとてつもなく長いこともあり、展覧会図録の販売数も来館者数の割にはかなり延びていたのが救いだった。

 正月休みが終わり、徐々に観客の数が増え始めた。展覧会を見た人の口コミの宣伝効果が表れてきたのだ。1月17日に開催された秦恒平先生の講演会は、座席が足りないほどの盛況となった。それからの1週間の来館者数はうなぎ上りに増え始め、最終的に1万2千人を突破した。それも節分寒波を上回る厳寒の京都においてであるから立派なものだ。
























































































 春秋の好時期に開催していたとすれば、楽に3万人を突破したことだろう。しかも展覧会図録は完売した。最終日に買い損ねた愛好家が何人も私どもの画廊に現れ、こちらの保存分を頒けてほしいといわれて、お断りするのに難儀したものだ。嬉しい悲鳴とはこういうことだろう。同展の帰りにお立ち寄りになる観客が増え、口々に秦テルヲ作品に感動した様子を述べられるのは、同展の約半数の作品について出品協力をしたものとして、最大の喜びであった。

 「秦テルヲの軌跡」展が終了し、展示作品がどっと画廊に戻ってきた。倉庫が満杯で仕舞うところがない。画廊には当所で展示した作品も片付けずにある。まるで倉庫。おまけに本展の展覧会図録のカラー校正が出てくる、レイアウトを変更しなくてはならない、そして本稿を書く締めきりがある。商売はひまなのに、何でこのように忙しいのかさっぱり分からない。あなたが勝手に忙しくしているのよ、と陰の声が聞こえるようだ。

 第1部と第2部を広い美術館で一度に開催すれば面白いだろう。しかし、私どもの狭い画廊スペースではそうはできない。また両展を全然違う時期に開催すれば楽だし、見に来られる人にとっても都合がよいのは承知している。が、大不況のさなかだから、印刷経費を削減するために、無理矢理1冊の図録とすることにした。日本画と洋画を一緒に編集するための頭の切り替えが難しいこと。今さらながら気がついたのも、罰があたったということだろうか。

 第1部では、島成園の作品を、今までに取り扱った作品を参考図版として掲載することにした。これまで島成園の作品紹介が断片的でしかなく、近年その再評価の歩みが進んでいるとはいえ、まだまだ資料が少ないからだ。本展図録が少しでもお役に立つことが出来るのではないかと希望する次第。美人画コレクターの先輩である福富太郎さんからの季節の便りが、島成園の作品紹介に費やされるようになってきている。私たちの成園コレクションは、福富さんの後追いかもしれないが、本図録の表紙や案内状で紹介している<母>は、私たちの自慢の作品である。島成園が上村松園と並び賞賛されたというのは、このような作品を目にすると、実感としてお分かりいただけるのではないだろうか。





























































 島成園のお師匠さんである北野恒富や、同時代の大阪美人画の先達・岡本大更の作品も掲載することにした。<願いの糸>と題された作品を双幅のように掲載することにしたが、どうだろう。「左伊」と署名のある右側の作品は、現在木下美術館所蔵の同名の作品と酷似している。「左伊」が誰なのか、皆目見当がつかない。この作品は、数年前、古書画の交換会で「森田沙伊の若描きではないか」として売りに出されたものだ。時を経ずして左側の恒富作品が別の交換会で売りに出された。こうした縁を大切にするのが身上である。

 昨年ニューヨークのオークションに木谷千種の作品が2点登場した。意外とも言えるほど高額で落札され評判となった。終戦後のどさくさの中で土産品として米国に渡ったものだろうが、彼女の代表作としても良い立派な作品である。それ以後千種の作品価格が暴騰しているようだ。アメリカ人コレクターの注文が、日本の古美術市場に変動を来しているとの話である。

 第一部の日本画については、それほど大きな作品もなく、画廊で展示するには苦労がなさそうだが、第2部の洋画については、これだけの作品を一堂に並べるスペースはない。実際の展示に当っては、ほどよく抜粋したものでお茶を濁すことになるだろう。






















































 松村綾子の遺作展を開催した時(1985年)には、新聞各紙で大きく取り上げられ評判となったが、当時は展覧会図録を作らなかった。そこで今回は少し多めのページを割くことにした。2月から3月にかけて京都国立近代美術館で開催中の、同館所蔵品による「日本洋画の130年」展には、松村綾子が1937年に描いた大作<影>が出品されている。当時のシュールっぽい絵画作品の中でも、佳作に挙げられる1点だと信じている。これも私たちの画廊での遺作展がきっかけとなって同館所蔵となった名作である。谷出孝子と亀高文子については、産経新聞の連載「石を磨く」でも紹介したので、私どものホームページで再読していただけると幸いである。加藤敏子は、松村綾子の親友だった。遺作がまとまって私どもの手に移ってから既に10年になる。単独の遺作展が開催できぬままに時が流れた。お詫びの意味もあり、出来るだけたくさんの作品を掲載することにした。

 産経新聞(西日本版)水曜日の夕刊に連載している「石を磨く」は、どうやら3月一杯で終了する気配である。当初は1年の約束でお引き受けした。出来るかどうか不安だったが、このごろではペース配分もつかめるようになってきたところだ。紹介すべき作家や作品がまだ積み残し状態で心残りなのだが、数えてみるとちょうど連載100回となるのも区切りがよさそうだ。駄文ばかりだから単行本になるかどうかは分からないが、桂三が荒原稿を書き、万美子のちょっとした校正が入ることで文章が活き活きとしてくることが多かった。本後記にしても同様である。画廊の経営というものは、夫婦合作の妙である、と言えば笑われるだろうか。


                   平成16年2月初旬 星野 桂三
                             星野万美子































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