「国 画 創 作 協 会 の 画 家 た ち」展後記
ー新樹社創立会員を中心にしてー
2005(平成17)年5月3日(祝)〜5月29日(日)
10:30AM〜6:00PM (月曜定休)






































後 記
 昨年末から本年初頭にかけて、来年は何をされるのですか、今年の企画展は何ですか、と何人ものお客様から尋ねられた。ちょうど京都連合会創立30周年事業『京都画廊ガイド』の編集にとりかかった頃でもあり、また納税申告のための帳面整理と棚卸在庫の確認作業などが続いて、企画展の構想を練る余裕もなかった。『画廊ガイド』の目鼻がつき、申告資料を税理士さんに届けてようやく、さて今年は何をしようか、ということになったのが3月はじめ。ちょうど村上華岳展の広報が始まっていた。華岳の作品は残念ながら1点もないし、野長瀬晩花を除いては、竹喬、麦僊、波光など、国画創作協会創立者の作品には縁がない画廊コレクションだ。華岳展のついでに立ち寄ってもらえる展覧会として何があるのか、手元のアルバムをめくりながら考えついたのが標題の展覧会である。
 同じような切り口の展覧会は、実に23年前に遡る、1982(昭和57)年2月に開催している。「国画創作協会から新樹社へ」という展覧会である。美術商として活動を開始してからほぼ10年が経過して、4月に画廊を現在地に移転する直前の旧店鋪でのことだった。その時に用意できたものは、甲斐庄楠音「舞う(梅蘭芳の舞姿を描く)」、林司馬「舞妓」、徳力富吉郎「人形」、澤田石民「初夏」、杉田勇次郎「麓庵」、吹田草牧「木蓮に小禽」、粥川伸二「薔薇」、伊藤柏台「農家」、小松均「鮭」、野長瀬晩花「秋草」、四辻喜一郎「松樹鷹図」、多田敬一「花鳥図」、玉城末一「苺」などであった。それだけが精一杯の、画廊のスペースもそれだけで満杯のささやかな展観だった。
 杉田勇次郎「麓庵」と徳力富吉郎「人形」が和歌山県立近代美術館に納まった。画家の徳力さんがご健在の頃で、先生の作品が和歌山の美術館に行くことになったと報告すると、京都国立近代美術館ならよかったのにと残念そうにおっしゃったが、当時はまだ京近美の方々とはあまり御縁がなかったから仕方がない。多田敬一の花鳥図はご遺族の元に里帰りし、林司馬の舞妓は門下生のひとりである日本画家に嫁入りした。売れたのはそれだけだが、当時の星野画廊としては好成績の方だった。同展の案内状と画廊の展示スナップを3点掲載している。質素な展観とはいえ、その後に来る国展と大正期の美術の再評価の動きを先取りした展覧会であった、と23年前を振り返り自負する次第である。







































「国画創作協会から新樹社へ」案内状


当時のスナップ−1

左から
甲斐庄楠音
岡村宇太郎
野長瀬晩花
小松 均


当時のスナップ−2

左:
徳力富吉郎
「人 形」
右:
多田敬一
「花鳥図」











































 それからの年月は小走りに過ぎ去った。時代はバブル経済の頂点を上り詰めてすぐに転び落ちた。その後の大不況の中を抜け出す気配さえ私たちには見えない。あれほど活発だった各地の美術館活動も停滞し、近頃耳にする言葉は、美術館や博物館の「指定管理者制度」である。これは、公立美術館を経済的にペイできるものにするかどうかだけの狭い視野に立つ、情けない動きである。元来、美術館活動により採算を考え合わすことは、「ある程度」という冠詞をつけてのみ有効なものであるはずだ。文化活動の重要な部分を支える美術館/博物館活動が、納税者に対するささやかな還元方式であることを忘れてはならないと思う。文化とは金とは無縁のもの、また金では購えない重要な人間活動であることを忘れてはならない。長い年月をかけて蓄積した様々な形で残る文化遺産は、一度失うと再生する事は不可能となる。過去の文化遺産を研究し後世に引継ぐ重要な役目を美術館や博物館が担う。それは近代や現代のものを対象としても続けていかなければならず、研究活動は歴史の一環として不可欠な要素を構成するものだ。
 大阪市の職員に対する不等な厚遇問題が明るみに出、それを少し節約することで年間約160億円もの金額が闇の世界から湧き出してきた。本腰を入れればもっともっとその金額は膨らむそうだ。これまでお金がないから新美術館の建設ができない、とされてきたのは一体何だったんだろう。その160億円で新館を即座に建設してもらいたいものだ。こんな馬鹿げたことが地方公共団体のあちこちで同じようにあるとするなら、指定管理者制度を公共団体そのものに適用したらどうだ、と考えたくなるが理不尽だろうか。話が脱線してしまった。
 同年4月に現在地の神宮道三条に画廊を移転し、ようやく画廊らしい店構えとなり、展覧会による作家顕彰の機会も増えていった。田中日佐夫先生がその名著『日本画撩乱の季節』(美術公論社刊)の脱稿直前の頃、私どもの画廊にお見えになり、ご著書の末尾に、珍しい作品に出会える画廊、と紹介文を付け加えてくださった。同著はその後、国画創作協会と大正期の美術に注目した展覧会が、全国各地の美術館で開催されるようになる導火線の役割を果たした。そうした動きに決定打を加える沸点となった展覧会が、1986年秋に開催の京都国立近代美術館の新館開館記念「京都の日本画1910-1930」展であった。同展のポスターと図録の表紙に岡本神草「拳を打てる3人の舞妓の習作」が採用された。その後、小野竹喬の故郷笠岡市に竹喬美術館が開館し、同館が精力的に国展関連作家と作品の展示を手掛けるようになった。同館で1990年開催の「新樹社の画家たちー国画創作協会の残英ー」展や、1993年の京都国立近代美術館での「国画創作協会回顧展」の研究成果などを集大成したのが、1996年の『国画創作協会の全貌』(光村推古書院刊)の出版である。



































































 「国展から新樹社へ」展を開催した後も引き続き、私どもの画廊の主要な活動として、大正期の日本画作品の発掘に没頭してきている。基礎資料の国画創作協会展図録のほとんどを極く初期に入手できたのが大いに手助けになり、画廊活動で発掘できた国展出品作は、森谷南人子「快晴」(第1回展)、山口草平「静寂」(第2回展)、岡本神草「拳を打てる3人の舞妓の習作」(第3回展)、榊原始更「路」(第3回展)、粥川伸二「妖影」(第4回展)、徳力富吉郎「人形」(第6回展)、杉田勇次郎「麓庵」(第6回展)、多田敬一「黄昏」(第6回展)、小松均「八瀬」(第7回展)などである。






















 こうして記述してみると、やはりマイナーな作家ばかりで勝負してきていることが分かる。しかしそのマイナーとされる画家の作品を、先入観抜きで展示し直してみると、メジャーとそん色ないどころか、かえって目立つことにもなり、観者に極めて強い印象を与えることもあるから美術の世界は面白いのだ。それがささやかであっても我流の画廊を経営する醍醐味であり、忘れられた画家たちを発掘するためのエネルギー源にもなるのである。


榊原始更「路」
(京都国立近代美術館蔵)






































 現在愛知県美術館で愛知万博記念展示として開催中(5月8日まで)の「自然をめぐる千年の旅、山水から風景へ」展会場で、思いがけず榊原始更「路」に出会うことができた。国展関係ではないが、不染鉄「南海の図」はとりわけ異彩を放っていた。国宝、重文作品がぞろぞろと並ぶ会場で、両作品ともいささかの見劣りもせず、かえってその存在感を示しているように感じたのは、私たちの身びいきだけではないと思う。同じように嬉しかったことがもうひとつある。昨秋、福島県立美術館開館20周年記念展「田園の夢」という素晴らしい企画展に、秦テルヲ「瓶原の春」と「南瓜と茄子」が出品された。村上華岳ら巨匠たちの作品と肩を並べて、秦テルヲが一歩もひけをとらないことが証明された。その秦テルヲの異才ぶりを改めて思い起こす好機になるのが、現在京都国立近代美術館で開催中の村上華岳展である。華岳が密室に隠り、ひたすら追い求めた宗教心溢れる美の世界と、我がテルヲの社会の底辺に身を投げ出すことから始まり、自然と向き合う事で会得した彼なりの宗教心に基づき描いた美の世界とを、好対照として比較してしまうのである。皆様方はいかが思われるでしょうか。巨匠の作品にはオークションで千万単位、億単位の値がつき、孤高の画家テルヲがオークションに登場することもない。
 今回、国画創作協会関連作家の作品を一堂に並べる(実際には画廊の狭いスペースで並ぶはずがないのだが)ために、所蔵品リストから選別し準備するのが大変だった。アルバムにはあるのに倉庫の中で現物が見つからない。他所で作品を発掘するより、自分たちの倉庫で見つける方が難しいなんて情けない。とにかく足の踏み場もない有り様の倉庫を整理することが、これからの大切な仕事になりそうだ。23年前の展観と比べてコレクションが質量ともに厚みを増していることを自慢したい一方、このコレクションをこれから先どのように導いていけばいいのか、先行きの見えない経済情勢と美術館活動の停滞状態のなかで憂えるばかりである。
 こんなことを書き連ねているとき、新聞記事に“最後の「大正」消滅へ”という見出しが目に入った。第二次大戦後の「昭和の大合併」では「明治」という市町村がなくなったが、今回の「平成の大合併」では「大正」の年号を全国で唯一残していた高知県大正町が、来年3月に隣接する町村と合併して「四万十町」となることが紹介されている。なるほどこういうことが現実として起こっているのである。日頃、大正、大正とお題目のように唱え、大正期の美術運動の精華を顕彰する活動を続けているものにとって、こうした出来事ひとつにでさえ、ある種の感慨を覚えさせられる。長島茂雄ではあるまいが、市町村名に大正という名がなくなっても、「美術の世界に大正は不滅です」と叫びたい。

































































 余談になるが、尼崎市総合文化センターの設立30周年記念事業として、「桜井忠剛と関西洋画の先駆者たち」展が今年5月14日から6月5日まで開催される。関西洋画の黎明期の作家で初代尼崎市長でもある桜井忠剛が、まとまって紹介されるのは今回が初めてだ。同展には画廊所蔵の桜井作品21点と、同時代の洋画家作品21点の出品協力をしている。7月には私どもの画廊でそれらによる桜井忠剛遺作展を開催する予定。ただし今回は展覧会図録を作成せず、尼崎市の図録を代用させていただくことになる。その後、8月〜9月にかけて滋賀県立近代美術館(佐倉市美術館巡回)で開催される黒田重太郎遺作展がある。こちらへもかなりの作品の出品要請があるだろうから、あれこれと忙しい日々が続くだろう。
 その忙しい画廊に心温まる使者が、今年もやってきた。4月9日、チッチッ、チッチッと画廊の日よけにある巣の回りを確かめるように飛び回る2羽のツバメの姿があった。昨年よりおよそひと月早い到来だ。おそらく昨年巣立った若ツバメか、子育てに成功した親ツバメだろう。数日間、辺りを警戒するように観察していながら賑やかに愛の交換をしていたツバメが、昨日からは痛みの激しかった旧い巣に、新しい苔や土などをせっせと運んで修繕するようになった。本展が始まる頃には卵が孵(かえ)り、可愛い子ツバメがお客さまを出迎えるようになることだろう。昨年は最初の営巣で5羽が巣立ち、2度めは3羽が巣立った。
 自然界の営々と続く美しい営みに負けない、決して外れることのない良識の営みが、美術界にも続けられることを望みながら、昨年のスナップを掲載しておきたい。(図録にはスナップを掲載)
            2005(平成17)年 4月中浣
                        星野桂三・星野万美子

























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