和と洋、美の融合を目指した黎明期の洋画家 | ||
「櫻 井 忠 剛 遺 作 展」 | ||
2005(平成17)年7月5日(火)〜7月24日(日) 10:30AM〜6:00PM (月曜定休) |
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【後記にかえて】 |
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川村清雄の<白馬>が画廊に持ち込まれたのは、そのまた数年経ってからのことだった。絵を一目見て、「あの絵に違いない」と、書庫から『明治・大正・昭和諸大家遺作油絵展覧会』(1940年大阪高島屋)の図録を取り出した。その中に川村清雄の滞欧作として掲載されている<馬>が、まさしく目の前の<白馬>であった。作品の裏面には「明治美術研究所」の作品鑑定シールが貼付けてある。しかしながら画面にある署名を略したモノグラムが、川村清雄のものとは少し違うのが気になる。とにかく昔の文献に名作として出ている作品だからと、疑問符を打ち消して購入、しばらくは川村作品として画廊に飾った。 |
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1994(平成6)年川村清雄の遺作展が縁故の静岡県立美術館で開催された折、<白馬>は櫻井忠剛の作品として参考出品された。遺作展会場で川村の遺族が、「これは川村が相当手を入れたはずですよ」と言ったそうだ。石井柏亭著『日本絵画三代誌』で柏亭は、櫻井の出世作を評して、「川村加筆の事実を証するには、之等の受章者達が其後のあまり評判になる様な作品を出さず、(中略)櫻井の尼崎市長になったことが知られているというだけでも充分である」という記事を書いている。本当は大した絵描きでもない門下生の絵に川村が加筆していたから受賞できたのだとなじる文面なのだが、そのことを、櫻井が故郷の尼崎で請われて市長になったことのみで証明するという暴論である。川村に限らず、門下生たちの作品に手を入れて出品させていることは、洋画、日本画の区別なく大家たちの多くが行っていたことはよく知られている。そうした門下生たちのその後の活動を見てみることが重要なことは柏亭の言う通りなのだが、残念ながら柏亭はその後の櫻井の画家としての活動状況を把握せず、実際の作品を見たこともなかったのだろう。本当は見ていないはずがないと考えられるが、柏亭が敬愛する師浅井忠を持ち上げるためにも、浅井忠が入洛する前から関西の洋画界新興のために奔走していた櫻井忠剛らを必要以上に軽く見なしていた可能性もある。関西洋画壇の黎明期に櫻井が実際に果たした役割の大きさについては、何人かの研究者により既に述べられてきたが、これまで実作品の少なさから検証が進まなかっただけのことであり、先頃開催された尼崎市での初の遺作展を機に、今後ますます顕彰されていくことになるだろう。 |
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2001(平成11)年9月、「京都洋画のあけぼの」展が京都文化博物館で開催された。同展を担当した学芸員の長舟氏を通じて、私たちの櫻井忠剛コレクションのことが尼崎市教育委員会の桃谷氏に伝えられた。調査のために画廊に来られた桃谷氏に、所蔵していた櫻井関係資料を一括して尼崎市に寄贈することを申し出たのである。それを機に桃谷氏が奔走されて、今回大規模な遺作展が生地尼崎市で開催される運びとなった。 |
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前回「国画創作協会の画家たち」展図録の後記でツバメの営巣の話をとりあげたが、後日談を少し付記しておくことにする。 |
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ツバメの観察がひと息ついたところだが、今度は自宅の方で朝晩忙しい。毎夜懐中電灯を片手に、もう片方の手に割り箸をもって、花壇のナメクジやダンゴムシ退治だ。朝食前の2時間はアブラムシやバッタと闘い、古葉や花がらを片付けて水撒きの毎日だ。裏庭のキッチンガーデンから収穫する新鮮なサラダ野菜は完全無農薬。自作の堆肥のお蔭かよく育ち、食卓に彩りを添えてくれるからなおのこと、ムシたちとの闘いは重要なのだ。これからはミントを効かした冷たいハーブテイーも楽しみとなる。 |
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