和と洋、美の融合を目指した黎明期の洋画家
「櫻 井 忠 剛 遺 作 展」
2005(平成17)年7月5日(火)〜7月24日(日)
10:30AM〜6:00PM (月曜定休)






































【後記にかえて】
 櫻井忠剛の作品に最初に遭遇したのはいつの頃だったのか、その後どのような経過で収集を続けてきたのか、記憶を辿りながら順次整理してみたいと思う。
 1982(昭和57)年の4月に画廊を現在地の神宮道に移転した時、記念展「関西洋画の草創期」という展覧会を開催した。その時のリストにはまだ櫻井の名前がない。その直前に、木目鮮やかな板の上に朱色で描かれた秋田蘭画もどきの達磨の絵を見かけたことがある。絵には「天華」の雅号があった。古道具市場に売りに出されたものだった。知り合いの古美術商を介して注文したが、僅かの差で買えなかった。
 そのもっと昔には、京都市山科駅前にある家具店の片隅で、杉板に果物などを描いた扁額2枚を見かけたことがある。漢字を崩した小判型の大きな印章が当時は判読できず、後日それらが伊藤快彦の印章と知ったときには遅く、扁額はいずこかに姿を消していた。そんなことがあってからは、同じ過ちを繰り返さないようにしている。
 もっと遡れば、東大路通り三条を南に下がった所にある古道具屋で、保存のよい明治期の風景画に出会ったことがある。それは、長さが1メートル以上で厚さが5センチメートルほどの、木目鮮やかなケヤキ板の逸品の上に油彩で描かれていた。その重さゆえ扁額として飾られることもなく、長い間大切に保存されてきたものだろう、絵具はあたかも昨日描いたもののように新鮮だった。古道具屋のおやじが、「絵がかいてなんだらもっと高いんや」と結構な値段を口にした。画家の署名がある。大鳥圭介だ。明治9年に開校した工部美術学校が工部大学校の附属となり、管轄した局長の名前が大鳥圭介である。彼が油絵を描いたかどうか分からないので、当時漫才コンビの鳳圭介と京唄子のデビューの頃だったから、お笑いに話題をはぐらかし、おやじの頭の冷えた頃に出直して値段の再交渉をしようと店を離れた。二日後、例のおやじを訪ねた。おやじは1枚の無垢のケヤキ板を指差して、「ええー木目やろ、これで売れるわ!」と自慢したものだ。油絵は薬品で洗い流されて跡形もなく、私は呆然してその場から立ち去った。おやじは市内でも知らない人のない偏屈業者で、私には本当か嘘か分からないが、ストラデイバリのヴァイオリンを自慢して見せてくれたこともあった。
 キャンバスに描かれた櫻井の薔薇の小品(現千葉県立美術館蔵)を入手したのは、神宮道に画廊を移転して後、しばらくしてからだ。







































































 川村清雄の<白馬>が画廊に持ち込まれたのは、そのまた数年経ってからのことだった。絵を一目見て、「あの絵に違いない」と、書庫から『明治・大正・昭和諸大家遺作油絵展覧会』(1940年大阪高島屋)の図録を取り出した。その中に川村清雄の滞欧作として掲載されている<馬>が、まさしく目の前の<白馬>であった。作品の裏面には「明治美術研究所」の作品鑑定シールが貼付けてある。しかしながら画面にある署名を略したモノグラムが、川村清雄のものとは少し違うのが気になる。とにかく昔の文献に名作として出ている作品だからと、疑問符を打ち消して購入、しばらくは川村作品として画廊に飾った。
 ある時、京都の古美術市場の売り立て会場で、大きな柳行李に詰められ山盛り状態のひと山が眼に入った。それは陳列台の縁の下のような場所に突っ込まれていた。古いアルバムや表彰状の束、書簡や絵葉書などがばらばらにされている。漆塗りの板や杉板に描かれた古ぼけた油絵が何枚もある。まだまっさらで紙に包まれたままの黒漆塗の板が数枚、新品のまま保存されている。賞状の文面やアルバム写真の内容から、これらが櫻井忠剛の遺族に連なるであろう家から何らかの事情で処分されたものであることが読み取れた。櫻井忠剛研究に欠かすことができない豊富な資料の出現だった。
 一括して購入した資料類を画廊で整理中、例の<白馬>のモノグラムと新出の作品群にある櫻井のモノグラムを比較すると、予想通りに両者はまさしく一致したのである。あの日、<白馬>を川村清雄の作品として持参した東京の美術商は、業界の大先輩のひとりである。当然彼は画面のモノグラムが川村のものでないことは分かっていたのだろう、裏面の鑑定シールばかり強調していた。彼は川村清雄の弟子である櫻井のことは知らなかったし、櫻井のモノグラムも知らなかった。よしんば知っていたとしても、また川村清雄としては疑問符のある絵が櫻井作品であったとしても、当時の市場価格に変化を及ぼすことはなかっただろう。弟子の櫻井同様、師匠の川村清雄でさえ、美術の世界では既に忘れ去られた画家のひとりになってしまっていたからだ。


































































































 1994(平成6)年川村清雄の遺作展が縁故の静岡県立美術館で開催された折、<白馬>は櫻井忠剛の作品として参考出品された。遺作展会場で川村の遺族が、「これは川村が相当手を入れたはずですよ」と言ったそうだ。石井柏亭著『日本絵画三代誌』で柏亭は、櫻井の出世作を評して、「川村加筆の事実を証するには、之等の受章者達が其後のあまり評判になる様な作品を出さず、(中略)櫻井の尼崎市長になったことが知られているというだけでも充分である」という記事を書いている。本当は大した絵描きでもない門下生の絵に川村が加筆していたから受賞できたのだとなじる文面なのだが、そのことを、櫻井が故郷の尼崎で請われて市長になったことのみで証明するという暴論である。川村に限らず、門下生たちの作品に手を入れて出品させていることは、洋画、日本画の区別なく大家たちの多くが行っていたことはよく知られている。そうした門下生たちのその後の活動を見てみることが重要なことは柏亭の言う通りなのだが、残念ながら柏亭はその後の櫻井の画家としての活動状況を把握せず、実際の作品を見たこともなかったのだろう。本当は見ていないはずがないと考えられるが、柏亭が敬愛する師浅井忠を持ち上げるためにも、浅井忠が入洛する前から関西の洋画界新興のために奔走していた櫻井忠剛らを必要以上に軽く見なしていた可能性もある。関西洋画壇の黎明期に櫻井が実際に果たした役割の大きさについては、何人かの研究者により既に述べられてきたが、これまで実作品の少なさから検証が進まなかっただけのことであり、先頃開催された尼崎市での初の遺作展を機に、今後ますます顕彰されていくことになるだろう。
 <白馬>の絵の中に署名が二ケ所ある。左下に英文モノグラムでTSK Sakurai、また右下少し上の部分に乳白色の絵具でモノグラムTSK。後者の絵具と筆致は白馬の部分に使用されている絵具や筆致に一致すると見るのだが…。この白馬の躍動感あふれる筆致について、川村の加筆の賜物だけとするには、不自然な右側の勢いのあるモノグラムではある。
 その後も引き続き櫻井忠剛の作品を探し続けた。<老女像>が、<白馬>のときの画商を介してもたらされた。板の上に描かれた薔薇の絵を数点、黒漆塗の板の上に描かれた<能面、貝合わせなど>の扁額を入手した後、ある古美術市場の売り立てで、大きな衝立(ついたて)の作品を見かけた。いつもなら市場の前日に入念な下見をするのだが、そのときは所用があって行けなかった。市場の競りが既に始まっている途中に会場に到着した関係で、くだんの衝立はたくさんの荷物に阻まれ、しっかりと確認することができない。長い年月が経過して真黒に汚れた画面は、どうやら金箔地に油彩で描かれた布袋とたくさんの花であることだけは判別できる。署名の部分は読めない。何か書かれているなという程度にしか見えないのだ。覗き込んだ裏面にも風景画があるようだったが、ほとんど見ることができなかった。その時は、競りが進行中で邪魔者としては長居は出来なかった。まあーいいか、こんなに変色した汚い絵だし、痛みも激しいし…、と自らに言い聞かせてその場を離れた。
 数カ月後、知り合いの古美術商から電話が入った。星野さんの探している櫻井忠剛の絵らしきものが見つかったから、見てほしい、というのだ。直感的にあの時の衝立だと思い、図柄を言い当てると彼はびっくりしたようだった。くだんの衝立は古書籍や古画を取扱う業者が競り落とし、その後別の業者の手に渡り、ようやく知人の眼に留まったらしい。両面に油彩で描かれた衝立が画廊に到着した。画廊の明るいライトの下で見ると、銅の布袋像と花々が描かれた画面には、縦に「さくら井」の文字とTSKのモノグラムがある。金箔地と思った花の背景は、金箔に見えるように油彩で描いたものだった。裏面の、どこかイギリス絵画の雰囲気を漂わせる風景画には、英文で T Sakurai の署名がある。両方ともキャンバスに描かれている。襖仕立ての木枠の両面に1枚ずつ丁寧に画鋲で打ち付けられている。それらの状態から見て、櫻井忠剛の代表作となる可能性が高い、明治中期頃の作品と判断した。早速、作品を絵画修復家の手に委ねて修復したのち、別々の木枠に貼ってもらった。京都の名人による特別注文の額装を施し、2点の作品は見事に蘇った。







































































































 2001(平成11)年9月、「京都洋画のあけぼの」展が京都文化博物館で開催された。同展を担当した学芸員の長舟氏を通じて、私たちの櫻井忠剛コレクションのことが尼崎市教育委員会の桃谷氏に伝えられた。調査のために画廊に来られた桃谷氏に、所蔵していた櫻井関係資料を一括して尼崎市に寄贈することを申し出たのである。それを機に桃谷氏が奔走されて、今回大規模な遺作展が生地尼崎市で開催される運びとなった。
 今年の3月、展覧会の開催が迫り、依頼された出品作品の多くがまだ入手した当時のままの状態であったのを順次修復し、写真撮影を済ませた後、額装することにした。ちょうどその頃にまた1本の電話が入った。こんどは芦屋市内で営業している古美術業者の方からだった。拙著『石を磨く』で櫻井忠剛の記事を読んだが、漆塗の板に描かれた大きな能面の扁額を入手したので売りたいとのことだった。スナップを送ってもらい、確認した後、さっそく扁額を購入することにした。画廊に届けられた扁額はいくつか絵具の剥脱箇所があったり、亀裂もあった。そこで懇意の修復家に無理を言って、大至急で展覧会に間に合うように修復を依頼した。こうして長い間芦屋の旧家に所蔵されていた、代表作の1点「能(安宅)」が、全く幸運にも展覧会直前になって発見され、遺作展で公開されることになったのである。
 「櫻井忠剛と関西洋画の先駆者たちー洋画の先駆者にして初代尼崎市長ー」展が、尼崎市総合文化センター開館30周年記念展として、さる5月14日〜6月5日まで開催された。直前に発生したJR尼崎駅近くでの悲惨な大事故の風評被害もあってか、観客の数こそ伸びなかったが、実に立派な見応えある展観であった。側面から全面的に協力してきたこともあり、もう少し期間が長く、あの事故さえなければとの思いが強くある。実際に展覧会場に足を運んでいただけなかった各位には、同展図録を星野画廊での遺作展開催のご案内に添えてお送りすることにした。当所での展観では改めて図録を制作しないが、いつもより相当立派な図録であることを自慢していいのかどうか…。
 ただ作品の選別で1点だけは疑問があることを付記しておく。#32「風景」は、技法も署名も櫻井忠剛とは相当隔たりがあるから、櫻井豊子ら親族の誰かの可能性がある。
 また会場で実物をご覧になった方なら既にお気付きのことだろうが、櫻井が原田直次郎の作品を模写した作品についてである。<靴屋の親爺>と<老人>の2作品の模写3点が、会場で伊藤快彦の模写と一緒に並べられていた。いずれも櫻井の画技が伊藤快彦と遜色ないことを示す佳品である。柏亭の誹謗能わざるものとの証明にもなっていると考えている。図録では写真のピントが甘くて誤解を生む原因になるかもしれないから、ひとことだけ付け加えておきたい。










































































  前回「国画創作協会の画家たち」展図録の後記でツバメの営巣の話をとりあげたが、後日談を少し付記しておくことにする。
 4月15日の昼過ぎ、通りの向側にある米屋のテントに営巣しているツバメと当方のツバメとが4羽、突如くんずほぐれつの大喧嘩を始めたのだ。通過する車に激突する寸前までの取っ組み合いしたり、地べたに叩き付けられたツバメもいる。あきれはててカメラを片手に見守っていると、当方の造りかけの巣で1羽が頭を逆さにぶらさがったままになった。撮影した写真を後でよく見て分かったことなのだが、そのツバメは相手に足を噛み付かれたまま離してもらえず、逆とんぼりのままの状態で数秒間ブラ−ッとしていたのである。4羽は、時間をおいてその午後中喧嘩を続けた。ところが翌日からは何事もなかったように巣づくりが再開された。
 ところが4月22日朝、画廊の日よけに完成しかかったツバメの巣が、何者かの手で破壊された。カラスではない。明らかに人間の手でされたと思われる徹底したものだった。朝の散歩から戻ったツバメ夫婦は、巣の破壊を見つけ、キキーッと鋭くひと鳴きして天空高くいずこかに飛び去った。邪悪な人間の所業に憤り、もう今年は駄目かなとあきらめかけていたところ、5月の連休明けの頃から、二羽のツバメが新たに巣を造り始めた。苔や枯れ草や小枝などをだ液でこねて作り上げる巣の形が、先のツバメとは微妙に違う。きっと別のカップルだろう。
 6月の始め、めでたく5羽が誕生した。7日から親ツバメがトンボをえさとして与えるようになった。最初は幼鳥が大きなトンボを口移しで受け取れず失敗し、画廊の前には生きたトンボや死骸がいくつも散乱するようになった。巣立ちは6月14日(火)の朝だったらしい。休日明けに画廊に出てくると、1羽の幼鳥が本当に淋しそうに、ぽつんと孤独に耐えるように巣に留まっていた。同日午後6時前、巣立った4羽が親鳥たちと賑やかに巣に戻って来て、癒されたようにはしゃぎまくっている様子に一安心したものだ。そして翌朝、巣には誰もいなくなった。今度は出遅れたひなも一緒に飛び立ったのだ。それから1週間、巣立ったツバメたちは、テントの古巣近くで寝ているらしい。それは、道路に落ちている糞の跡で分かる。
































逆さまにぶらさがるツバメ(05.4.15撮影)


トンボをやる親鳥(05.6.9撮影)


























 

 ツバメの観察がひと息ついたところだが、今度は自宅の方で朝晩忙しい。毎夜懐中電灯を片手に、もう片方の手に割り箸をもって、花壇のナメクジやダンゴムシ退治だ。朝食前の2時間はアブラムシやバッタと闘い、古葉や花がらを片付けて水撒きの毎日だ。裏庭のキッチンガーデンから収穫する新鮮なサラダ野菜は完全無農薬。自作の堆肥のお蔭かよく育ち、食卓に彩りを添えてくれるからなおのこと、ムシたちとの闘いは重要なのだ。これからはミントを効かした冷たいハーブテイーも楽しみとなる。
 今朝は庭で珍しくトカゲに出会った。例年なら早春になると、陽当たりのよいところでぼーっとしているトカゲをよく見かけたものだが、今年はこれまで全然見かけなかった。去年の夏に庭で見かけた大きな青大将にやられたのだろう、そう話し合っていたところだ。そうそう、ここ数日、小さくて可愛いカマキリの赤ちゃんを庭のあちこちで見かけている。このうち庭の虫たちの王者として君臨するのは僅か1、2匹だけである。厳しい世界である。
 厳しいといえば、画廊経営も厳しい。大不況がまだ続いている。とはいえ、あちこちの展覧会には画廊所蔵品の出品協力依頼が続く。8月20日から9月25日まで滋賀県立近代美術館(11月5日〜12月11日佐倉市美術館巡回)で開催される没後35年・黒田重太郎遺作展には、初期水彩や素描を中心に31点の黒田作品を出品する。9月17日から11月20日には、京都府園部町にある園部文化博物館で、ゆかりの画家岡村宇太郎(国画創作協会の日本画家)と田村宗立(明治黎明期の洋画家)両名の、小規模な遺作展が開催される。両展には画廊コレクションからそれぞれ数十点の出品協力となりそうだ。

                    2005(平成17)年 6月末

                       星野 桂三・星野万美子



























 


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