創業35周年記念特別展 |
日 本 人 の 情 景 |
2006(平成18)年 11月1日(水)〜12月24日(日) |
【後 期】 どなたも同じような経験をされると思うが、このところ時間という大きな敵に悩まされている。思い返せば画商の道に入って早や35年が経ち、現在の神宮道に画廊を移して既に24年にもなるのだ。この間生きることに精一杯で、自身の過去を振り返ることなどあまりなかった。行け行けどんどんで突っ走って来た。商売柄昔のことをあれこれ調べて芸術家たちの作品の顕彰に励むことはあっても、それはあくまでも仕事上のこと、当然の活動だ。自身の過ぎ去りし日々を再考し、行く末を案じる世代に突入したのである。還暦を過ぎ、友人知人たちが定年を迎えて次々と現場から離れてゆく。まだまだそんなに年老いてもいないどころか、働き盛りのバリバリの身でありながら後ろ髪を引かれる思いで現場を去っていかなければならない、そうした人たちのことを考えると、私など定年の区切りもなく、だらだらと忙しさにかまけて生きてきはしなかったか。反対に退職金もあり年金もあって生涯の計算がそれなりに出来る彼等とは違い、老後の保障が何もない自営業者としては少しの不安もないと言えば嘘になる。倉庫に腐るほどの在庫を持ち、必ずや佳品に光を当てようとする作業に没頭して、次から次へと作品を買い続けてきた身に、ずーっと続く不況の厳しい風がそうした不安感をいやが上にも煽る。時間が足りないのである。政府発表で「日本の景気はいざなぎ景気を上回る景況感がある」といかにも景気が回復しているようなことを強調するが、商売人たちは誰もそれを信用しない。バブル景気の頃の「いざなぎ景気」と同じ景況感とはよく言うよ、到底頷けないのだ。バブルで地べた以下に落ち込んだ景気がそれからは徐々に回復途上にある、というなら分かる。それでもまだ地べたから少し上がったという程度であろうか。 |
大阪で様々な不正経理や同和利権の問題が日々報道されているが、ここ京都で同じような疑惑がないはずがない。清掃業務を担当する環境局問題が報じられているが、ほんの表面的な処置で根本解決にはほど遠いものになるだろうことは、これまでの経験から想像できる。京都の景観問題では、様々な局面で市民運動の手助けをしてきたのだが、その度に同調してくれるはずの近くの人々に煮え湯を飲まされ、嫌な目に合ってきた。傍観者であることで自分の保全を考える人たちのいかに多いことか。時には傍観者であるだけでなく、陰で足を引っ張る言動をされることも多かった。人間の性善説を信じることが出来なくなり、性悪説に傾くのは仕方がないと思えるほどである。 毎日、新聞記事を読むたびに目にする嫌なニュースの圧倒的な数の多さ。母親が我が子を殺す。子供や孫が親族を殺す。愛人の手を借りて伴りょを殺す。通りがかり殺人。酔っ払い運転やうっかり運転にによる殺人。また殺人がゲーム感覚で為されるようになったのも現代の特徴か。テレビ広告にはびこる貸金業者の多いこと。「返済計画を充分に」などとにこやかな笑顔での宣伝文句の陰で泣く多くの人々がいる。ここにも命を担保にせねばならない大勢の人間がいるのだ。 いわゆる団塊の世代のサラリーマンたちが、来年大量に退職する。大勢の熟練者たちが会社を去らなくてはならない。再就職先はこの時代ゆえあまり期待出来ない、それどころか、反対に彼等が去ってしまう企業の中には、伝承されるべき技術力が急激に落ちてしまう心配があると聞く。では若い世代が育ってきているかというと、企業がリストラや経営合理化を推進するあまりに、派遣労働者や偽装請負いなどの実に汚いやり方で、労働力を不等に安価に調達することに慣れてしまっている。昔、女工哀史なんて言葉があったが、現代の労働環境はその時代よりずっと劣悪で陰湿でしかも広範囲なのだ。 …………………………………………………………………………………………………… 「日本人の情景」展で取り上げた作品に描かれている人間たちには、このような嫌な局面はなかったのだろうか。多分あったとしても極く些細なもので、今日問題となっている人間性を疑う所業とは大きく隔たりがあり、私たちが絶望感に捉われるような程度ではなかっただろうと信じたい。絵の中にある家族の姿、働く人々の姿、無心に遊ぶ子供たちの姿。こうしたものから私たちは過ぎ去ったものへの哀惜を感じ、昔はよかったなぁーと悔やむことになるのだが、それだけでいいのだろうか。日本人が日本人として目覚め、本当に美しい日本を取り戻すことができる時代を切望しているところだ。明治時代に日本を訪問した外国人の多くが、質素ながら礼節に富み、純粋で静かな心を持ち、謙譲の美徳に溢れている国民、と賞賛したかつての美しい日本人はどこへ行ってしまったのだろうか。古来脈々と受け継がれてきた日本人の本質が、昭和の大戦後の経済的発展の中で、いびつな金権体質の蔓延により見失われてきている。「美しい日本」を単なる語感によるセンチメンタルな呼び掛けに終わらせることなく、真剣に取り戻したい、と本展の末尾に訴えたいのである。 岡山県立美術館で開催されている浦上玉堂展で、これまで見たことのない良質の文人画の世界を堪能した。多くの画面に登場する小さな苫屋の高士を理想の姿とする玉堂に共感し、筆墨豊かにあるいは幽かに、時に荒々しく表現される山水画の世界にひととき浸ることができた。現実の私は、最早失われてしまった日本をはるか彼方から呼び戻すことが不可能なことを憂いつつ、現状からも逃避できない画商の道をこれからも歩くだろう。 星野 桂三 |
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