没後30年 不 染 鉄 遺 作 展
忘れられた画家シリーズ(31)
2007(平成19)年 4月3日(火)〜4月29日(日)

 

【後 期】

 30年ほど前の京都東寺の朝市、それが不染鉄の作品に出会った最初だった。寺の北はずれにある、がらくたや古道具雑貨が並ぶ一角で、一隻の大きな機帆船が描かれている絵に出会ったのである。額もなく、「たとう」という紙製の入れ物に入れられた画紙は古寺の土塀に立て掛けてあった。当時の私には「鐵二」と署名のあるその絵の作者の見当もつかなかったが、細密な筆捌きに惹き付けられた。値段が貧乏画商でも買える程度のものだったので喜んで買った。三条大橋近くにあった画廊に持ち帰り、手許の資料類を当たってそれが不染鐵二という画家のものと分かった。その後、方々で集めまくった展覧会図録などを調べていくうちに、彼がなかなかの絵描きであることが判明した。古い図録に掲載されている静かな村落や海岸風景などの、詩情あふれる素朴派ともいえる画風にますます魅かれていった。
 25年ほど前には大きな板に極彩色で描かれた蓬莱山の絵に古美術市場で出会った。ほぼ同じ頃に同じ市場で戦後の作品と見られる廃船を描いた掛け軸を見かけた。署名が収集のターゲットにしている大正から昭和初期にかけての「鐵二」でなかったことから、購入を見送った。京都国立近代美術館にほぼ同じ図柄でもっと大きな作品が収蔵されたことを知り、「しまった、あれは買っておけばよかった」と後悔するのはずっと後年のことである。1995年に奈良で開催された遺作展でその絵が出品されておらず、今でも行方が気になってしかたがない。
 話を戻す。例の大きな板絵の蓬莱山は、不染鉄が衝立用の見事な板にどこかで出会い、渾身の力を込めて描いた力作だったが、競り値が当時の私が出せるふところ具合の限界を越え、市場の老主人に僅かの金額の差でさらわれてしまった。「額装するには支持体の板自体が重すぎる。持ち上げるにもひと苦労するし、どうせ買い求める人もないだろうし、買えなくてよかったのだ」と、言い訳のような慰めを自分に言い聞かせあきらめたものである。ところがそれから20年も経った数年前のこと、同じ市場にその絵が再び現れた。この時には私の気持ちが奮い立った。何が何でもこの絵を買わなくてどうする、と強い希望で友人に落札を依頼したところ、不思議なことに以前の落札価格と同値で落札できた。作品があまりに重い衝立用の厚い板の上に描かれていたために、作品の出来に注目した業者たちでさえ逡巡したのではなかろうか。
 不染鉄の蓬莱山の板絵が画廊に届いて画面の詳細を吟味する。さてどのようにこの絵を料理したものかと思案し、ふと倉庫に中身が空の衝立があることを思い出した。周囲に立派な木彫のある衝立が木枠組みのまま置いてあったのである。昔、梶原貫五の20号の裸婦の絵<うたたね>が入っていたものだ。「大正の絵画」展(1991年)の折に衝立からはずして別の額装を施して、コレクターF氏に納めていた。倉庫から引きずり出して、洋服の着せ変えのように板絵を当てて見る。衝立に少しの細工を施せばぴったり収まるのではないかと考えた。早速近くの額縁造りの名人、博宝堂の太田さんの登場となった。関西美術院の画家たちとの交遊があり、彫刻家でもあり、実に器用な人である。いつも難しい額装の注文をして悩ませることばかりなのだが、この衝立ての件ほど無理難題を吹っかけたことはなかっただろう。
 「“少し手を入れて”と星野さんはおっしゃるが、こんな堅い木で出来た衝立の寸法を容易く仕立て直すことなど出来ません」と逃れる太田さんだったが、度重なる私の依頼にとうとう根負けして「何とか考えてみましょう」と引き受けていただいた。2頁に掲載している写真をご覧いただければよくお分かりのことだろう。絵と衝立がずーっと昔からこのまま一体であったような自然の姿に仕上がった。この立派な仕事ぶりを作者の不染鉄に見せてあげたい気持ちにもなるほどである。本図録では太田さんに特別に依頼したほかの額装作品をいくつも掲載しているので、その見事な技の冴えについても楽しんで頂けることだろう。
 余談になるが星野画廊のある神宮道を「京都変人通り」と私は常々言いふらしてきた。昨春『季刊銀花』の取材を受けて吹聴し活字にもなった。変人の一番手はもちろん当画廊主である。2番手が額作りの名人である太田さん。最後の変人は、数年前に店を移してきた美術古書店主の山崎さんだ。3人は不況に喘ぐいろいろな商店主の中でも、頑固に自らの筋道を大切にして個性的な存在感を際立たせることで、それぞれの道で商売を続けている。変人でもなければ軽薄に流されがちな世の中に埋没してしまう時代、実にしぶとい存在なのである。
 山崎さんには昨秋に驚きのプレゼントをされてしまった。黒田重太郎の名著『京都洋画の黎明期』を再版されたことである。原本はこれまで何度となく述べてきた「私の画商出発時のバイブルで、再版することが夢」と言い続けてきたのに、先を越されてしまった。私情では残念とはいえ、非常に大きな仕事を為されたものと喝采を送りたい。新版では原本にはなかった人名索引も追加されているので、京都の洋画史をひも解く上での参考書として今一番のお勧めである。負け惜しみを言えば、原本に掲載されている作品の中で現存する作品がいくつもある。なのにカラー図版が、表紙の伊藤快彦<少女>のみであることぐらいか。難しい原文を易しい口語体にし、掲載図版を多くすることで素晴らしい本になるだろう。これを改めて目標としたいのだが、費用その他クリアーすべきことが多すぎる。やはり夢は夢のままであるのだろうか。閑話休題。

 画廊の看板展覧会にしている「忘れられた画家シリーズ」で発表すべく、人知れず収集した作品数がようやく20点を越えた1995年末、彼の第二の故郷である奈良の県立美術館から不染鉄遺作展開催の企画を告げられた。公立美術館での遺作展開催は喜ばしいことに違いないのに、何故かお株を奪われた無念さの方が先に立ち、心に波風が立った。よくよく波風が立ち、悔しい思いをするなあと自分でも情けなくなるが、それだけ思い入れが深いのだと理解していただきたい。奈良での遺作展に全面的に協力した後、同年11月に当所で自分流の遺作展を開催することにした。とはいえ作品数も少なく達成感からほど遠い展覧会であった。その後も作品の収集を続けて、ようやく本展開催に漕ぎ着けたところだ。
 10年前、奈良県立美術館では「純情の画家」、当方では「幻の文人画家」と不染鉄を称した。彼の芸術をどのように理解しようとそれは間違いではない。先の奈良での遺作展の切り口に感動した不染鉄ファンの多くにとって、晩年の絵手紙類の展示が一切ない当方の展覧会が不満足なものと思われることだろう。不染鉄が晩年によく描いた、画面一杯に細々と記された文章を私はあまり読む気にならない。だからと言って否定しているのではない。却って描かれた文字そのものを絵画表現の図柄の一部として自由に楽しんでしまうのである。「美を楽しむ」というのはそんな気楽な気持ちでいいのではないか。修業時代に絵巻物を熱心に模写していた不染鉄らしく、物語の部分とその話を描いた絵の部分を同じ画面に渾然一体に融合させている。お話しを読めば、彼の日常や人となりがよく分かり楽しい。ところがそのことばかりにこだわっていると不染鉄の絵画の‘美’そのものを見失ってしまう危険性があると言いたいのである。本展では、純粋絵画の分野での評価を問いたい。
 当然私のような美術専門家には「佳い絵でしょう、凄い作家でしょう」と世間に紹介するにあたっては、それなりの裏付けと自信がなくてはならない。そのためには方々の展覧会で名品とされている古今東西の作品と出来るだけ対面するように努めている。あまり取り扱うことのない現代美術の作品展さえ見て廻る。観る眼を養い、感性を高めることが、自ら開催する展覧会を揺るぎないものにできると考えている。そのような当たり前の事をわざわざ書かなければならない程、近頃の美術関係者の方々の腰は重い。ひと昔やふた昔前の情報に頼りきったデスクワークで済ませるか、流行の事象に捉えられて刹那的な動きをする現代の風潮に振りまわされてはいないだろうか。もしそうだとしたら美術フアンをがっかりさせるだろう。
 不染鉄はそうした厳しい吟味をパスしてきた作家である。2年前の愛知万博を記念する特別展「自然をめぐる千年の旅〜山水から風景へ」展(愛知県美術館)の会場で思いがけず不染鉄の<南海之図>に再会した。10年前の遺作展後に京都国立近代美術館に納入したものだが、近美の手により貧しかった表具が素晴らしい表装に新められていた。鎌倉時代から昭和世代まで古今の名品が並ぶ会場の中で、横山大観の<或る日の太平洋>や浦上玉堂<凍雲篩雪図>と同じ壁面に飾られ、一歩もひけを取らない輝きのある画格を放っていた。全国各地から訪れた美術専門家に「不染鉄って何ものなのだ?」と記憶に留めさせて余りあるものだった。
 
 展覧会の準備が大詰めに近づいてきた頃、京都市議会で都市部では異例の厳しい高さ制限と、屋上看板、点滅電飾広告の全面禁止などを盛り込んだ「新景観保全条例案」が可決された。これまで私たちをはじめ数々の京都市民が、京都の歴史的景観を守るために様々な運動をしたり発言をしてきたことが、ここになってようやく行政の重い腰をあげさせたのである。市中心部の具体的な高さ制限を最高45メートル(15階建て相当)から31メートル(10階建相当)に引き下げる。歴史的な景観や眺望を保全するために周辺部の建物や広告物も規制する。ゆえに新規制を上回る高さのビルやマンションは京都市内で約1800棟にも達するという。これまで野方図に開発業者側に立って近隣住民の反対意見を押し切って建設が許可されてきたマンションの多くが、建て替えの時に大幅な制限を受ける。だから言ったじゃないの。このようなことになる前に、もっと昔に手を打っておけば、京都の町中の景観はここまで悪くならなかったのに。しかし日本人は何かが滅茶苦茶になり、どうしようもなくなってからでしか動き出さない人種である。が、今ここで手を打つことは決して遅過ぎることはない。いっそのこと街頭に溢れている自動販売機も一掃すればどうだろうか。けばけばしいネオンや自動販売機のない静かな京都の町並みの復活こそ、日本人の心のふるさととしての存在感が強まり、翻れば京都全体の財産価値が上昇することにつながるに違いない。しばらくは建築・不動産業界や広告業界からの反発は強まることだろうが、歴史的風土として将来的価値の創成を目指し、市民がこの条例案を推進することに協力しなくてはならない。
 画廊のある神宮道の美観を損ねていた電線の地中化計画も、私たちの長年の要望がようやく実り、今年6月には工事が始まる。来年中には界隈のすっきりとした景観が蘇ることになるだろう。
 
                     2007(平成19)年3月末 
                     星野 桂三

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