画室での求道、その彩(いろ)とかたち
静物画名作コレクション

2008(平成20)年10月11日(土)〜11月16日(日)

【後 記】―作品解説を兼ねて―                  星野桂三

 当画廊コレクションのうち静物を主題にした作品群は、昨年7月に開催した「瓶花静物」展と本展をセットにして、やっと紹介できる分量になっている。日本画にも優品はあるが、今回は油絵に限った特集である。「静物画」では広範囲な対象(花、花瓶、果物、木の実、野菜、魚介、器物、玩具、道具類など)が描かれる。概ね画家が身辺で親しく愛玩するもの、友人からの到来もの、季節を象徴する新鮮な果実や野菜、様々なものの色や形の妙などが絡み合って、画家の創造意欲がかきたてられる。画架にキャンバスを立て、描こうとするものを並べ、光線を工夫して構図を決める。
 静物画とひと口に言っても知らず知らずに画家たちの個性が際立つようになるから不思議だ。表紙に掲載している須田国太郎の小品はその典型であろう。卓上に並ぶ盛り籠や瓶、水差などの赤茶けて抑えた色彩が、白い布(だろうか)に映える。その背後にいる男は古物屋の親父かも知れない。スペイン留学中に目にした光景を思い起こして描いたものだろうか。これまで須田国太郎のどの遺作展でも紹介されていない新発見の作品である。小品ながら須田の特徴が余す所なく散見でき、大作に引けを取らない魅力ある優品と自慢したい。
 明治末期頃には杉や欅の木目を生かした作品が伊藤快彦(作品#5、#6、#7)、吉益耳童(作品#8、#9)や桜井忠剛らにより描かれた。暗い座敷を飾る扁額とし京都の金持ちにもてはやされたようだ。それを縦に描けば床の間の軸装の替わりや柱掛にもなっただろう。京都の由緒ある城や社寺には杉板に描かれた絵画がいくらでもある。しかし材質が油彩ということで、より立体的で迫力ある画面が可能となり、好事家が求める恰好の物になったと思われる。川村清雄が得意とした黒い漆塗の板に油彩で描く方法は門下生の桜井忠剛(図版#10)に引き継がれた。能面や謡曲本、能装束などは、当時の画家たちの知的レベルの高さと教養の深さを物語る。同時にそれらを珍重する裕福な愛好家がまだたくさんいた証しでもある。余談ながら、黒田重太郎が鹿子木孟郎の室町家塾に書生として入門した頃のこと、ある日、師匠から「ゆや」神社近くにある浅井忠先生のお宅に届け物を命じられ、尋ね歩いたが見つからず難儀した。その「ゆや」神社が「熊野(くまの)」神社だったのだが、鹿子木は謡曲の「熊野(ゆや)」が頭にあり、地名の読み方を間違えて黒田に告げたことによる混乱だった、と黒田の回顧録にある。浅井忠の聖護院洋画研究所が熊野神社近くにあったという記録から、最近でもよく、「では実際にどこでしたか?」と問い合わせがある。私宅も岡崎ですぐ近くだから、地域の歴史を研究している市民研究家らと共に、あの家あたりかな、いやこちらの方じゃないかなどと当たったこともある。しかし判然とせず、どうやら現在の熊野神社の交差点あたりにあったらしい、という公式的見解に落ち着かざるを得ない。
 織田東禹(作品#3)という画家がいたことなどほとんどの人は知らない。版画家の織田一麿のお兄さんだと言えば、あぁそうですか、そんな兄さんがいたのですかと思われるだけだろう。1895(明治28)年に大阪に移住し、1903(明治36)年の第5回内国勧業博覧会に大作を出品、日露戦争には大阪毎日新聞社の絵画部担当記者として従軍している。1902(明治35)年1月に日本と英国の間で締結された日英同盟は、多分にロシアという大国を意識して牽制したものだったと言われる。2ヶ月後、織田東禹はその記念画として本作を描いた。薔薇をあしらったり、しゃれたガラス器の上に英文のメッセージを置くなど、多分に象徴性の強い画面構成である。色彩も明治の絵画としては水彩画に近い処理を施している。それは東禹自身が英国風の水彩画を勉強したことや、個人的に英国に対する思い入れが強かったことも影響しているのではないだろうか。
 杉本秀吉(作品#4)の詳細は分からない。1880(明治13)年に京都府画学校が開校された。翌年洋画担当教師として田村宗立が赴任し、1889(明治22)年までの在任中に教えた画学生の中に杉本の名前が出てくるだけだ。本作を入手して20年以上も経つというのに一度も画廊で展示したことがない。画面が日本の定型サイズでなく、額を別注しなくてはいけなかったからだ。今回はきちっと額装することにした。瑞々しい西瓜の切り口をさも美味しそうに描写する能力は並々ならぬものがある。明治リアリズム絵画の典型作品として楽しんでもらえるだろう。
 里見勝蔵<静物>(作品#11)は、画家の京都二中の同窓生宅に保存されていた。セザンヌの林檎の静物を想起させる画面に署名はないが、裏面にかろうじて里見勝蔵の特徴的な署名らしきものが見える。二科展に静物画を描いて入選していることから、その時期に属する作品と思われる。意図的かどうか分からないが、テーブル掛けの色や文様を、セザンヌが描いたエクスプロヴァンスの山に見たてて楽しむことができる。
 早世の画家のひとり、船川未乾(作品#12)がヨーロッパ留学中にピカソやブラックの薫陶を受け、日本人離れした明快な色彩と輪郭線をもつ静物画を描いたことは、通には知られている。渡欧前の本作では既にブラックへの憧れが容易に見てとれるのだ。全体に何やらもちゃもちゃした暗い画面に浮かび上がる机上に配置された様々なものが、若き画学生の生活環境を示唆して興味深い。携帯電話や電子ゲーム、デジタル大画面のテレビが占拠する部屋、蛍光灯の明るい室内に目が慣れた現代人には信じられないだろうが、当時の日本家屋では当たり前の明度であり、それが故に却って深い思索も可能となったのではないだろうか。
 田中善之助(作品#13、#31)は、京都西陣育ちのおっとりとした性格(黒田重太郎による)とは思えない大胆な筆法により、我が国フォーヴィストの先陣を承った。初期浅井忠時代の水彩画には師譲りの情感を漂わせていたが、黒猫会や仮面会時代の油彩画には既にフォーヴィスムの芽生えが窺える。滞欧期に画友梅原龍三郎と同じくルノワールの赤に魅せられ、欧州各地の風景を暖色の強いタッチで多数描いた。帰国後は 春陽会に招かれ生涯の作品発表の場とし、個性的で大胆な筆致によるカラフルな作品を描き続けた。没年が終戦のどさくさの折でもあり、正当に評価されてきたとは言い難い。
 同じフォーヴの画家の代表、里見勝蔵の<桃>(作品#28)は抜きん出ている。本作も京都二中の同窓生の家にあった。里見はヨーロッパ留学に際し同窓生たちから多額の資金援助を受け、帰国後、御礼の意味を兼ねて滞欧作を土産としたらしい。京都近辺から里見の滞欧作の優品が今も時々発見されるのはそうした事情による。旧蔵者の家には<桃>と共に4号の自画像が飾ってあった。残念なことに支持体の板が何らかの衝撃で縦に真二つに割れていたから購入しなかった。1990年のことであった。本作を翌1991年に開催した「明治・大正・昭和静物画コレクション」展図録の表紙に採用し、以来幾多の画商やコレクターの方々から問い合わせがあったが、私流の非売品に近い価格を付けることによって売るのをためらってきた。もう充分手許で楽しんできたから本展ではそのようなこともしないことにする。里見の描いた<桃>と<柘榴>(作品#30)を見開きの頁に掲載している。同じ黄色のバックとはいえ、両者の趣きががらりと変わる。署名の変化にも注目していただきたい。滞欧の熱気が冷め、少し和風の趣きに惹かれてきたのだろうか。同じような花瓶に柘榴の絵を1936年頃にも描いているが、瑞々しさから言えば本作が数段上に属するだろう。
 次に青木大乗を中心に大阪で活動した新燈社の画家たちの作品を並べてみた。青木<赤絵瓶花静物>(作品#17)は昨年の「瓶花静物」展にも出品したが、名作でもあり周辺画家との関連から改めて出すことにした。北村種三<秋果図>(作品#18)には新燈社20周年記念展の出品シールが裏面にあるが、制作年はもっと遡り大正末期頃になるだろう。筑紫浩村(作品#29)は大阪の商家のご主人だが趣味で油絵を描いた。青木大乗が手ほどきをして、最終的な仕上げの段階では青木の手が大分入っているのではないか、と大阪の古参洋画家(故人)に教えられたことがある。浅井忠門下生の三井文二(作品#19、#20)もこの時期に新燈社の画家たちと交流している。大阪市立近代美術館の建設が随分長い間ほったらかしにされ宙ぶらりんの状態できたこともあり、まだ新燈社の活動についてまとまった研究が為されていない。新燈社関係の顕彰が待たれるところだ。
 伊谷賢蔵の生涯を通観し他の画家と比べてみると、初期から晩年まで充実した絵を続けて描いている、と画廊でいつもお客様方に説明している。一流とされる有名画家であっても頂点となる時代を別にすると、勉強期であったり、余録のような後半生だったのではと感想を持つことが多いが、伊谷賢蔵は各時代を通して粒ぞろいの作品が揃う数少ない作家であると思う。故郷の先輩である前田寛治に傾倒した青年画家らしく、いわゆる「前寛ばり」の絵とはいえ初期の<静物>(作品#21)は時代の雰囲気が醸し出されて好ましく、晩年の円熟した<栗と柿>(作品#66)、絶筆に近い<雛罌粟と苺の静物>(作品#67)の枯淡の境地、それぞれにこの画家ならではの魅力が溢れている。今回は静物画の紹介だが、裸婦、人体、家族、群像、風景、国内外のモチーフをも多様に描き、粘り強くしっとりとした色彩は、日本の風土に根付いた感性豊かな画家の高い精神性を示すものである。
 ここ数年、林重義の作品があちこちのオークションに売りに出されている。私は画商修行の時代からこの作家とは因縁深い。といっても大酒豪でアルコール中毒の末に早世した画家と直接の面識があるはずはない。京都の下鴨にお住まいのご遺族を鑑定などで数度おたずねし、初期の草土社風リアリズムの風景画や静物画を直接見せていただき勉強したものだ。また神戸にお住まいの林重義の弟子という古参画家上田清一氏にもいろいろとお話を聞き、この画家にはとりわけ注目している。ところが林のみならず阪神間で活躍した他洋画家が正当に評価されているかどうか疑問符がついてならない。阪神淡路大震災以後、当地を襲った大不況が関西美術界の大スポンサーたる名家から数々の美術作品の流出を招き、その後の関西経済界の大沈下も加わって、相場の下落兆候に歯止めがかからぬ状態が続いている。林重義や伊谷賢蔵といった手堅い相場を維持していた画家であっても、一時の価格の半値近くに暴落している。少し資金力のある方々にとって、今ほど良質の美術品をコレクションする好機はないと思うが、様々な経済指標がその動きに待ったをかけている。<静物>(作品#16)は25年程前に収集した作品だが、<百日草のある静物>(作品#27)は最近になって世に出て来た。<百日草の静物>という非常によく似た20号の作品が1926(大正15)年に二科賞を受賞した4点のうちの1点として知られているが、本作は新発見と言える。こうした作品が売りに出されることもあるから、不況が一概に悪いと決めつけることもできない。
 新井謹也(作品#22)の伸びやかで清々しい筆致の油彩は、文人画と言えるような作品だ。浅井忠門下生の中で、油絵を捨てて陶芸家の道を歩んだ唯一の作家である。名誉欲が少なくその力量の割には富本憲吉や近藤悠三らの陰に隠れがちだが、独特の味わい深い陶磁作品を多数遺し専門家が密かに注目する作家である。油絵を全く捨てたわけでなく、時々はスケッチ程度の作品を描いていたようだが、これがまた素晴らしい。描かれた番茶器は自身の陶芸作品だろう。浅井忠時代の画家やその遺族たちが「キンヤさんのもの」として、日常の生活の中で彼の陶磁器を愛用し大事にしていたことが思い起こされる。
 新井謹也と同じく陶芸と油絵とを両立させた作家に田中太郎がいる。<蜜柑と枇杷>(作品57)に出会い、それまで全然知らなかった画家のことを調べてみる気になった。1991(平成3)年の「静物画コレクション」展開催の折に辿り着いたご遺族から、酒井田柿右衛門や今泉今右衛門、また坂本繁二郎らが寄稿している『田中太郎還暦記念画集』(1964年)などの資料も頂戴した。その後、<六つの桃>(作品#36)を入手した以外これといった作品と出会うことがなく、他の作品に言及できないが、少なくともこの両作は名作の範疇に入るべきものであろう。
 1923(大正12)年の関東大震災を機に京都に居を写した岸田劉生は、祇園のお茶屋に入り浸り骨董蒐集に明け暮れていた。宋元画や初期肉筆浮世絵のコレクションなどはみごとなものだったらしい。その遊蕩生活のスポンサーの一人が岡崎義郎、岸田の「デロリ」とした名作<岡崎義郎之肖像>(1928年)のモデルでもある。岡崎は劉生の影響を受けて自らも宋元画の蒐集を始め、桃乞の雅号で油絵も描いた。<夏果五題>(作品#37)は額縁までいわゆる「劉生額」という凝りようである。哲学の道近くにあった旧和辻哲郎邸をアトリエとした。同所は現在哲学者梅原猛氏に受け継がれている。
 20年以上前、真田久吉の<静物>(作品#41)に出会い、ひと目で白馬会の画家だろうと思った。どのように見ても明治の終わりから大正の初めの絵の雰囲気であるのに、画面には1938年の年号が入っている。岸田劉生や斉藤与里、そして萬鐵五郎や木村荘八ら後に大家となった画家は別にして、フュウザン会系の青年画家たちの全てが大成したわけではなく、彼らの後半生が語られることは少ない。真田もそうして忘れられた画家になっている。本作以外に私が目にした作品はないのだが、洋皿の上に描かれた正体不明のものの詮索もせず、ただひたすら作品全体の雰囲気に酔いしれている。そんな楽しみ方もいいではないか。真田がわざわざ白馬会風の小品を描いたのも私と同じ思考によるのかも知れない。
 霜鳥之彦<秋果図>(作品#23)は、いずれ開催するはずの遺作展まではと前回の「静物画コレクション」展にも出さず温存してきたものだ。強靭な地肌に油絵具の深く鮮やかな色彩と強いタッチで描かれた充実期の作品だ。本展で省くわけにはいかない。画面にはS.Shimotori と英文で書いてあるが、これだけで作者の名前や経歴などを把握できるコレクターや美術関係者はほんの一握りだろう時代が長く続いた。ここ20年千葉県立美術館の学芸員M氏や京都国立近代美術館の学芸員S氏らの熱心な研究活動により、少しずつ世間でその名前が知られるようになってきている。遺作展開催に向けて充分な質と数が誇れる画廊コレクションが揃い公開する日は近い。
 伊庭伝治郎(作品#32、45)と水清公子(作品#34、47)は、松村綾子(作品#61、62)、伊谷賢蔵(作品#66、67)、福井勇(作品#48、#70)らと共に昭和前期の「白亜会」の画家たちである。京都の洋画は、明治末期の浅井忠と関西美術院の画家たちの時代に第一次の隆盛時を迎えた。その伝統を引き継ぎ第二期とも言える充実した作家と作品を世に示したのが、黒田重太郎が中心となり二科展に出品する若手洋画家たちを糾合した「白亜会」である。30年ほど前になるが、同会の津田周平(前回の「瓶花静物」展に出品)氏から当時の記念写真を数多く提供していただき、それらは方々の展覧会で参考資料として活用されているが、会の活動自体を回顧した展覧会はまだ開かれていない。いつかは小規模でもいいから展覧会を開催したいと準備しているところだ。
 田辺至(作品#52)は、かつては帝展審査員として日本の洋画壇の売れっ子としてもてはやされた。修行時代の私など価格の面で到底取り扱うことができなかった巨匠である。昭和初期の全盛期の裸婦像を扱って一流画商の仲間入りを果たしたいと念願してきた。残念ながら彼の裸婦像には偽物以外お目にかかっていないが、静物画を購入する機会が巡ってきた。先輩画商の話では、田辺至ら旧帝展の花形作家で今や顧みられない画家が多数いるとのこと。そうした画家たちを主に取り扱ってきた東京の大手N画廊などの衰退も一因だろうとも。昔のコレクターたちの跡を継ぐ世代が育っていないこともある。フィギュアと言われるおもちゃの人形の出来損ないか、漫画としか形容のできない軽薄な劇画タッチの絵の流行にしか目がいかない若手コレクター。その流行を面白げに特集する美術雑誌や一般マスコミ。過去の栄光を顕彰する私のような画廊は全くの流行遅れのレトロな存在。しかしそのような時代だからこそ、地道な活動が必要ではないかと思う。レトロでもよい、戦争や災害、様々な出来事を乗り越えて現代に生き残ってきた絵の顕彰にはその値打ちがある。田辺至のような巨匠達の絵が、この軽薄短小の時代だからこそ思いのほか安く買えると喜ぶことにしよう。
 戦後作品の中で第一に挙げたいのは、今井憲一の<筍>(作品#44)である。瑞々しい切り口の巨大な筍の存在感が観者に迫る。昭和前期のシュール系画家のひとりとして注目される今井憲一だが、今ひとつ全国的な知名度はない。存命中に数度須田国太郎の絵の鑑定にお宅を訪問したことがある。晩年のアルコール中毒気味の指先の震えを押さえながら、鑑定書を書いていただいた。残念ながら世間ではその鑑定書は通用しなかった。先輩画商たちは「今井先生が古参画家として須田の作品を一番よく見るとは知っているのだが、いかんせん知名度で劣るので世間で通用しない」と言う。「じゃあ誰ですか」と尋ねると、ずっと後輩の「芝田米三だな」と言う。一般的に鑑定書で通用するのが、遺族(たとえ絵に疎い素人でも)、そして弟子の中で有名な画家の名前となる。最近では猫も杓子も東京美術倶楽部の鑑定書を重宝するようになったが、画商を35年以上続けていると、そうした鑑定書など当てにしないですむ作品のみに目を向けるようになっている。話がそれたが、今井憲一がもっと評価されるべき画家であることを言いたいのだ。少しずつ増える今井作品の力強く、しっかりした質感のある油絵の魅力に虜にされているこの頃である。
 伊藤久三郎の<静物>(作品#51)が彼の抽象作品とあまりにかけ離れていることに驚く方も多いだろう。真夏が過ぎて清涼感漂う朝夕の空気が楽しめる初秋、それをみごとに描ききった手腕に見惚れてしまう。具象画家だ、抽象画家だとかのレッテルを容易く貼らないようにしたい。
 最近購入した作品の中で一番嬉しいのは小川マリ子<赤い静物>(作品#56)だ。以前に関西の女性画家たちの特集をしたことがあるが、機会があれば全国的視野で女性画家の顕彰をしたいと考えている。私の活動基盤が関西なので、関東の画家についてはこれまで積極的な作品の収集をしてこなかった。本作をオークションの売立目録で見つけたとき、即座に購入することにした。目録で見るかぎり作品の保存状態はあまりよくなかったから、安く買
えることを期待したが、落札価格は意外に高額となった。力強い輪郭線をもつ荒々しいまでの筆さばきと色彩に惹かれた私だが、やはり全国どこかに目の肥えたコレクターが競合相手としていたらしい。手許に届いた作品は写真で見るより数段に状態が悪かった。早速修復家に依頼し額装も新めたので見違えるように蘇った。後日小川マリ子の静物画がもう1点他のオークションに出ていたが、購入する価値が小さいように思えたのでパスした。目を付けている作家であればどのようなレベルの作品でもよい、という安易なコレクションは御法度である。
 桑田道夫の<静物>(作品#54)は、昨年麻田浩の遺作展が京都国立近代美術館で開催された折、戦後京都洋画の一動向を探るミニ企画展の参考作品として4階のコレクション展示室で並べられた。随分前にもう1点の同サイズの作品と共に古書店の紹介で購入したものだ。小さくても存在感のある画面からは、前衛に賭ける画家の青春時代の息吹が感じられる。ちょっと目には日本人が描いた作品とは思えない感覚である。桑田が活躍した時代、1950〜60年代京都洋画の回顧は未だ為されていない。あのミニ企画展示は、京都国立近代美術館で近い将来に開催される大規模な展覧会の序章であったと聞いている。
 石ころや瓦だけを好んで描いた地主梯助、その絶頂期の絵が<瓦>(作品#67)である。瓦の質感をこれほどみごとに描いた作家を他には知らない。地主は最初期に坂本繁二郎に師事して後はほぼ独学し、中学教師を勤め上げた後は画作三昧に過ごした。東京の初個展で小林秀雄に認められ、新潮社の日本芸術大賞を受賞(1971年)した頃が絶頂期である。本作は同年の個展発表時、朝日新聞紙上で紹介されたものだ。一時は相当脚光を浴びた作家であるが、最近はとんと見る機会がない。
 <柿・栗図>(作品#70)を福井勇芸術の到達点を示す作品と言うことに何の躊躇もない。簡潔に整理されてこれ以上あるまいという秩序で並べられた六つの赤い柿と四つの栗。しかも署名の場所がこれまた素晴らしい。いかにも「黙柿亭」(向井潤吉から贈られた)らしい名作である。
 本展で唯一の現存作家が芝田耕(作品#71)である。弟の芝田米三が安井賞を受賞して一気に売れっ子作家の道を駈け登ったのに、耕は地道に自らの道を辿った。鳥海青児のマチエールに似た厚塗りの初期風景を経て様々なモチーフの絵を描いたが、一時期の暗赤色を除き一貫する絵肌は褐色系で、透明感のある薄塗りの丁寧な仕上げを特徴としている。独立美術展でも最高齢のひとりとして毎年大作を出品し気を吐いている。物故作家を主に扱う当画廊にもよくお見えになり勉強家でもある。本作を入手してから一度も画廊で展示したことがないが、静物画の展覧会では絶対に出品しようと決めていた。芝田耕のある時期の典型を代表する愛すべき小品である。
 つづいて場違いな巨匠アルベール・マルケの<静物>(作品#72)である。我々がマルケの名前でイメージする絵とは全く違うモチーフであり色彩である。しかしグーグルで検索するとかなりよく似た静物画を見ることができる。1910年頃の初期にはこうした作品を手堅く描いたものらしい。ひょんなことから本作と出会い、あまりに巧みな筆さばきに圧倒され購入したものだ。裏面の木枠には絵を修復したときに書かれたらしい仏文シールが貼られている。 掉尾を飾る大橋エレナ(作品#73)はいうまでもなく大橋了介夫人である。ブラジル生まれのエレナはフランス留学中に同じく日本からの留学生大橋了介と恋に落ち結婚。夫了介と共に日本に帰国し主に阪神間で活躍した。また了介と共に故郷のブラジルで凱旋展覧会を開催した。了介の死後『大橋了介画集』を発刊するなどして了介作品を知らしめるなど多大な貢献をした。晩年は故郷に戻り余生を過ごしたが、芦屋市立美術館での大橋了介・エレナ展で久し振りに脚光を浴びたことが記憶に新しい。ブラジル移民100年の今年には相応しい絵だろうと考える。
 夏から本展の準備にかかり、試作図録のカラー図版原稿をめくりつつ感想を述べている間に、北京オリンピックがもう過去のものへと去り、開会式での様々な偽装問題も忘れられようとしている。なのに新しい米の偽装問題の勃発である。商いでは利益を追求するのが目的であろうが、手段を選ばぬ方法には全く納得ができない。売り手よし、買い手よし、世間よしの「三方よし」の家訓が生きる名家では到底考えられない醜態である。天下の総理大臣が2代続けてその重責を放り投げ「後は勝手にしてくれ」如くに逃亡する政治が大手を振る国である。商人が小人と化すのに何ら障碍が生じないのだろう。牛肉、ハム、洋菓子、和菓子、地鶏、米など様々な食品に群がる偽装商人たちの悪行がこれからもどんどん明らかになることだろうが、偽装は最近始まった訳ではない。ファッションやブランド品には昔から偽装がつきものであった。耐震偽装もそうだ。最終的には消費者の自覚が重要だと常々言われるが、昨今の偽装問題では一般消費者の打つ手がないのが実情だ。
 偽装問題が美術界には無縁だろうかという問いには明確にノーとは言えない現実がある。贋作とは古今東西縁が切れない世界、様々な偽装が為されてきているのだ。たとえ作品が本物であっても、質の偽装がはびこる。本来は良質の美術品が、取り扱う業者の質により貶められることが多々ある。私どもの取り扱うひと昔もふた昔も前の作品は特に問題が多い。ずーっと壁に掛けっぱなしのままで汚れが吸着し変色したり、物置にしまいっぱなしで黴だらけだったり、移送中に絵具がはげ落ちたり、キャンバスに穴があいたり、額が破損したり、たまには原型すら留め得なかったりする。そのままにしておくと売れないから、業者の中には適当な修理をして絵自体の印象をがらりと変えてしまう輩がいる。時代に合わない粗末な額を新装する。それならまだ良い方で、中には汚いまま、傷んだままの状態を「経年劣化による」とか言って、何ら手当てをすることなくダンピングしてネットで売りさばく。「元額のまま」という方便で費用をかけることなく、がらくたに近い状態で売り払う。そこには作品に対する愛情などこれ少しもなく、あるのは目先の利益追求の姿勢だけである。でもそれを偽装というのはこの不景気の世の中では気の毒でもあり、商売のやり方もいろいろあるのだろうと思うことにしている。
 そこで最終消費者の厳しい目が入ればよいのだが、残念ながら「安ければ何でもよい」という感覚のえせコレクターが跋扈しており、画商が良心を駆使して作品を正当評価しようとしても、「あそこは値が高い」と一言で敬遠されてしまう。悪貨は良貨を駆逐する喩えは美術の世界でも生きている。しかしほんの一握りの良心の固まりのような画商もいることをお忘れのないようにしていただきたい。良い絵がいかなものか、絵がどのような手当や額装により生き返るのか、その検証をしていただければ幸いである。
 美術品の流転にドラマは付きものと昔から言われているし、自らも様々な実体験もしてきている。とはいえ最近身近に起こったできごとは悲しいとしか言えないものだった。1992(平成4)年に開催した「日本の四季・日本の心」という企画展では図録を一年中使えるカレンダー仕立てにし、日本画と洋画各月1点、計24点の名作を紹介した。洋画の部で10月を飾ったのは曽宮一念の<夕ばえ(於、上総)>で、いかにも曽宮らしい気持ちの良い8号の作品だった。展覧会の後も長い間手許で売らずに大事にしていたが、ある青年コレクターに懇願され熱意に負けて手放した。その I 氏は当方の主要な展覧会には初日の朝一番の飛行機で駆けつけるなど、熱心で自分の美意識による異色のコレクションを手がけて来られた人だった。ここ数年音信が途絶え、当方からの案内状も転居先不明で戻って来るありさまになっていた。今年のとあるオークションにその油絵が売りに出た。カタログには保存が悪く絵具のひび割れや剥脱があると記されている。売却時には相当立派な額を施しアクリルも入れておいたから、余程のことがない限り作品自体が傷むことなどないはずだ。カタログでは裏面に貼っておいた星野画廊のシールにも言及していない。一体あの I 氏の身の上に何事が起こったのだろうか。嗚呼。
2008(平成20)年9月末    

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