京都洋画の先達・ 伊藤快彦遺作展
忘れられた画家シリーズ-34

と き  2012(平成24)年9月4日B〜10月6日F
ところ  星 野 画 廊         
10:30AM〜6:00PM(月曜休廊)
京都市東山区神宮道三条上る TEL.075-771-3670

【後 記】  ・・・・・・・・・・   星野桂三

 今からもう半世紀も前になるのだが、昭和39年(1964)頃の私は同志社大学在学中で、授業の合間を見つけては英語会話の勉強に夢中になりESSの活動にのめり込んでいた。英語のディベートやディスカッションでは、内外の政治経済の諸問題と共に、母校同志社の創立者である新島襄(Joseph Hardy Neesima)についての命題も与えられて、新島の伝記を読みあさり学ぶことも多かった。真冬の早朝、有志打ち集って若王子山にある新島襄の墓前に詣でることもあった。遠い昔(明治23年=1890)1月に同じ険しい山道を新島の棺を担いで葬儀の列をつくった諸先輩に思いを馳せ、何か厳粛な思いにかられて朝もやの中で佇んだことである。昭和40年(1965)アイゼック(AIESEC)の交換留学生として渡米した時、ボストンで開催されたセミナーの開催中に時間を割いて、アマーストカレッジ(Amherst College)を短時間ながら訪問し、新島の留学生時代の一時期を想像する機会も得た。この時はまだ、将来の自分が新島襄の肖像画やその作者と関わることなど全く知らなかった。
 在学中から外国人観光客相手の画廊で語学を活かしたアルバイトに精を出し、大学卒業後は美術の分野での活動を本格的に深めるようになり独立した。昭和54年(1979)に明治期の作品コレクションによる「明治の洋画家達」展を「忘れられた画家シリーズーB」として開催した。この時既に田村宗立や伊藤快彦の作品を並べている。田村宗立の油絵を発掘して以来、明治時代の洋画草創期の画家たちや作品の蒐集が画廊活動の重要な分野のひとつになっていったのである。
 ある時、山科の国道近くの古美術商の店先で迫力ある筆致で描かれた「林檎」の絵に出会った。ひと目で気に入り購入した。関西美術院の管理人として同院で寝泊まりしていたことのある洋画家の津田周平先生(当時京都市立芸術大学名誉教授)に鑑定をお願いしたところ、しばらくしてからあれは伊藤快彦の作品に間違いないとお墨付きを頂いた。「林檎」の裏面のダリヤの絵にある李朝白磁花瓶を伊藤快彦のアトリエで何度も見かけた覚えがあるとも言っておられた。
 展覧会図録の後記を書き始め、昔の記憶をあれこれ呼び起こしているうちに、最初の「明治の洋画家達」展に出品した大事な作品のことを思い出したのである。カラー頁の撮影はおろか印刷の校正まで終わった段階では,最後の参考図版のモノクロ頁の箇所に慌てて挿入するしかなかった。64頁に掲載している<林檎><ダリヤ>の両面画がそれだ。随分昔に自分の手を離れてしまい、長い間お目にかかっていないが、アルバムの中にある旧い写真からでさえその絵の迫力が見るものを圧倒するようだ。30号の画面一杯に瑞々しい林檎が13個描かれている。その存在感は、#5<少女像>を描いた画家ならではのもののように思える。この絵を見出した頃には、昭和初期のものかと考えたこともあったが、今では作者のもっと若い時分のものに属する絵と考え直したい。
 同じ頃、山科駅近くにあった古い建具や家具などを扱う店の片隅で、家具の隙間に押し込まれていた2枚の扁額板絵を見つけた。黒い漆塗りの縁取りがしてあり、板の木目も鮮やかな横長の画面に果物や花などが描かれていた。署名は墨がかすれてよく見えない。朱肉の大きな印が押してあり、部分的に「彦」という字が見えなくもないが、当時の私ではまだ判別できなくて買うこともせずに行き過ぎた。後日、あれは伊藤快彦ではなかったかと思い直してその店に行ったが、既に誰かが買った後だった。それからかなりの月日が過ぎた頃、京都市内の古い町家の広座敷を会場にした古美術市場で2枚の扁額の油絵を見かけた。あの時の絵だと私は直感した。下見を終えて帰る私の肩をとある古美術商の古参番頭さんがとんとんと叩いて表に連れ出して、耳元でひそひそ声で囁いた。
 「あの絵を欲しいんやろ、多分あんたしかあの絵のことを分かる人はおらんやろし、私にまかしてくれへんやろか」
 お互いに意地を張って競り合いをして高額になること避け、後刻「くじ」を引くことを提案してきたのだ。結局その番頭さんが競り落とし、私は少し多めの利付けをして2点とも入手する事ができた。
 板の上に描かれた油絵といえば、ある時大変残念な思いをしたことがある。東山三条の南で東大路通りに面して小さな古道具屋さんがあった。個性派俳優のアンソニー・クインを彷彿させる風貌の偏屈な主人だった。たまにはどこから掘り出してくるのか珍しい品が出ることがあるのでよく通った。ヴァイオリンを手にかざして制作者の表示を読んでくれと言われたことがある。「ストラディヴァリウスと読めへんか」と言われてみると、確かにそう読める。「もうわしは大金持ちやなー」とうそぶいていたが、その決着がどうなったかは知らない。
 その店先で保存が極めてよい明治時代の細密描写の油絵風景画に出会ったことがある。分厚いケヤキの一枚板に描かれた扁額だった。署名は漢字で大鳥圭介冩とあった。嘘か真か工部美術学校の校長を務めた人の名前だった。大鳥圭介が油絵を描いていたのだろうかと不思議に思い、主人の言い値では買えなかった。漫才師の鳳啓助・京唄子の人気絶頂期の頃だったので、ふたりの「オオトリケイスケ」をもじった駄洒落を口にしてその場を離れた。数日して例の絵を値切って買おうと店に行ったが、そこには美しい木目に輝く無垢の一枚板があった。おじさん曰く「絵なんて描いてない、板だけの方が高く売れるんや」。絵具はきれいさっぱりと洗い流されていたのである。そういえば情けない絵が描いてあるより,何も描いていない金屏風の方がうんと高く売れる世界である。あれほどがっくりしたことは後にも先にもない。
 京阪の古書店を巡って参考資料の収集に奔走していた頃,キャビネ判ほどの小さなブックレット(表紙共で8頁)を見つけた。『初期洋画展 明治編』と題された東京八重洲口近くのふじきギャラリーが発行した売り立て目録である。刊行の日付はなかったが、あとがきに「明治101年の新春をむかえ」とあることから、昭和43年(1968)頃のものと思われる。図版には浅井忠のパステル、水彩、油彩が計5点、田村宗立<東山雪景>(現神奈川県立歴史博物館蔵)、都鳥英喜らの作品があり、評論家の隈元謙次郎氏の巻頭文によれば、それらは都鳥英喜の遺族から出たものだという。また残りは伊藤快彦の遺族から出た作品とあった。カラー図版で紹介されている山本芳翠<西洋婦人像>(8号油絵)は現岐阜県立美術館蔵の<西洋婦人像>そっくりの絵だが署名はない。伊藤による模写の可能性もある。原田直次郎<観音>(擦筆水彩)は代表作<騎龍観音>の習作らしい作品だが署名がなく、同じく模写の可能性がある。原田の<滞欧風景>(4号油絵)の他には伊藤快彦の油絵が6点掲載されていた。それらは#38<勾玉のある静物>(現東京国立博物館蔵)、参考図版#17<帽子の男>、#18<八瀬の女>,#19<筍>、#20<厨房>、#21<少女像>である。
 私が明治期の絵画に興味を持ち作品の収集を手掛け出した頃、既に京都のめぼしい作家の遺族宅には東京の画商の手が伸びて,多くの作品が流出していた。また後で耳にしたところでは、伊藤や都鳥宅から流出した水彩画の多くが浅井忠の作品に化けて美術市場に出回っていたそうだ。伊藤宅にはこれ以外にも「風呂敷」と呼ばれるブローカーたちが度々訪れていたらしいことは、私の画廊に出入りしていた別のブローカーの口から聞かされた。直接の依頼を受けない限り、私は作家のご遺族宅へは遺作をねだりに行ったりはしない。神社への参拝をしたことはあるが、伊藤のご遺族のもとにも足を向けることはなかった。5月に本展開催を決めて、7月下旬、展覧会図録の制作中に、伊藤快彦の墓参と報告をかねて熊野にゃくおうじ若王子神社を訪れた。
 若王子界隈へは小中学生の頃、学校の水泳教室が疏水分線を利用した市営プールで開催されるときに何度か行った記憶がある。うっそうとした森の中にある狭いプールだったが、今はない。南禅寺から紅葉の名所永観堂を抜けた辺りの山際から、北方の銀閣寺へと繋がる疏水沿いの小道は哲学の道として名高い。その南端の出発点に位置するのが熊野若王子神社である。神社の手前右手にある「新島襄墓所」の小さな矢印を頼りに、細く急な山道を辿ること数分で左手に若王子神社の墓所が見える。展覧会開催の報告墓参をした後、その分かれ道から右へもっと急な坂道を登ることにした。約20分で同志社の墓所に辿り着ける。この界隈はその昔は熊野若王子神社の社領だった。だからこそ伊藤快彦が東京滞在中に新島襄の死と葬儀の模様を伝え聞いて余計に感動したのである。ようやく辿り着いた新島襄の立派な墓所の左隣にややこぶりな新島八重の墓がある。その兄の山本覚馬(1828-92)の墓や明治・大正・昭和と活躍した思想家で歴史家の徳富蘇峰の墓も分骨されて同じ同志社墓所にある。山本覚馬は新島襄の同志社英学校設立に大きく貢献した他、明治5年(1872)には日本で最初の内国勧業博覧会を開催するなど明治初期京都府の勧業政策を推進した偉人である。来年のNHK大河ドラマでは新島八重が会津のジャンヌ.ダルクとして取り上げられ、八重をめぐる人間模様が茶の間で親しまれるだろう。その時には、今は静かな若王子山にさぞや多くの観光客が押し寄せ、急な坂道に難渋するかもしれない。なお徳富蘇峰のお墓と背中合わせの位置に、秦テルヲと共に大正日本画壇に新風を吹き込み、国画創作協会展で活躍した異色日本画家、野長瀬晩花の墓石がある。
 #35<山間清涼>はこの若王寺山内の入口付近の清流を利用した茶店の様子を描いた絵である。以前は散歩中に茶店の残骸のようなものが谷間にまだ見えて、気味の悪い光景が残っていた。現在その姿はない。近在の人々が真夏に涼をとったその小さな清流近く、若王子神社の少し山際に哲学者、和辻哲郎(1889-1960)が瀟洒な居を構えていた。和辻の死後に異色の洋画家で宋元画のコレクターでもあり、京都時代の岸田劉生とも親交のあった岡崎桃乞(1902-72)が住んでいた。現在の住人は哲学者の梅原猛氏である。
 本展は、伊藤快彦に洋画家になるきっかけを与えた<鮭>の油絵の作者、高橋由一の大展覧会が京都国立近代美術館で開催される機会に合わせて開催することにしたものである。伊藤が感動した由一の油絵の迫真性は時代を超越して今、21世紀の人々にも新たな感動を与えることだろう。写真より、よりリアルに迫真的に描きたい、見る者を驚かせたい。奇しくもそれは由一の絵画を志す動機と同じだったはずである。伊藤は、神社の神官と洋画家の二足のわらじを履いた。神官になるために古典を習い、伝統文化を習熟したことが、彼にしか描けない美の世界の実現に大きく寄与したと言える。しかし文化的素養を裏付けとして描かれた数々の作品は散逸し、所在も分からない。限られた作品しか現存しないなか、これまで伊藤快彦は正当に評価されることなく美術史に埋没してきた。学識豊かな研究者の間では彼の名前はよく認識されてはいるだろう。一般美術愛好家の中には、#5<少女像>(京都市美術館蔵)が、今爆発的人気のフェルメールの<真珠の耳飾りの少女>のバタ臭さと相対する、東洋的な少女美を醸し出す名作であることを認識している人もいることだろう。また同志社蔵の<新島襄像>はよく知っていても、その作者のことはよく知られていないことだろう。
 私が何故本展に敢えて「忘れられた画家シリーズ」名を冠したのか、その義憤のようなものを理解して頂きたいからである。本図録では、伊藤快彦の生きた時代、明治を少しでもよく理解できるように、特に古都、京都の旧い環境の中で西洋画がいかに受容され、どのような苦難が待ち受けていたのか、そうしたことを想像できるように、額装、衝立て、扁額、軸装などを含めた図版を多く入れることにした。
 本展図録の制作に当たり、実に多くの人々のご協力を賜ったことを感謝する。なかでも2008年度修士論文『伊藤快彦研究』を執筆した石井香絵氏(現、早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程在学)より多くの参考図版を提供して頂いた。この論考がなければ本図録作成にはより大きな苦難があったことだろう。5年前、指導教官である丹尾安典氏の示唆もあって、彼女は伊藤快彦を研究対象と定めて何度も京都に足を運ばれた。彼女の本気度を測りながら、その来廊に合わせて伊藤の作品をぼちぼちと倉庫から取り出して見せるようにしたが、実に研究熱心な学生だった。その修士論文の後、早稲田大学美術史学会の『美術史研究』第48冊に「伊藤快彦作《新島襄》の考察」を発表された。こちらの論考も大きな助けとなったことを深く感謝している。
 本文を書いている最中に嬉しい報告が入った。本展とは関係ないことだが少し触れてみたい。筑波大学大学院の白田誉主也氏が博士論文「日本画における寒冷紗を用いた表現の考察」で見事博士号を取得された。野長瀬晩花と(特に)秦テルヲが多用した寒冷紗に依る日本画の研究論文である。同著を近い将来の秦テルヲ展で改めて活用させて頂く所存である。過去に秦テルヲの仏画を研究して博士号を取得したアメリカ人研究者がいた。岡本神草 の研究で博士号を取得した日本人女性研究者もいる。いずれも星野画廊の所蔵品や資料を糧にもして大きな成果を挙げられたものである。本展開催により、新たな研究が芽生えることを念願している。
2012(平成24)年 8月末日  

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