青春の熱き鼓動・滞欧作品


  【後 記】・・・・・・・・・・ 星野桂三

 当画廊で最初に滞欧作品を主題に開催した展覧会は、1980(昭和55)年6月の「忘れられた画家シリーズ10「田中善之助遺作その3『滞欧作品展』」である。約20点の作品を用意し、本書#32<赤い帽子の女>を案内ハガキに使用した。まだ神宮道に画廊を移す前のことで、三条通に面した画廊は、三条京阪を少し東に入った酒屋と下駄屋の間にある狭い階段を昇りつめた2階にある本当に手狭なスペースだった。この年、田中善之助の遺作展を都合6回連続で開催した。同年の年賀状には、本書#49霜鳥之彦<巴里郊外シャルトルの村>を、95歳の新年を迎えた画家の長寿にあやかる意味も込めて掲載した。
 それから34年の歳月が滔々と流れたのだと、本稿を書いている間も感慨が身体中を駆け巡る。一体この時間の経過をどう解釈すべきだろう。30年以上も前に仕入れた作品がまだたくさん売れずに残っている。これを悲しむべきか、また反対に売れ残って手元で楽しめると負け惜しみながら喜ぶべきなのだろうか。画商として歩んで来た道に間違いがなかったのだろうか。一般に知名度が低くて売れ難い絵ばかりで形づくってきたコレクションである。それが一体どうしたというのだ。数ばかり多いが、いわゆる巨匠とされる画家の作品がほとんどないだろう、それで立派なコレクションでございますと世間に自慢できるのか、と揶揄されるだろう。自問自答しつつこの年月が過ぎ去った。
 当画廊コレクションのうち、最も重きを置いている分野のひとつが滞欧作品である。前記の田中善之助展を別にして32人の洋画家による最初の「滞欧作品展」を、1986(昭和61)年の6月に開催した。今から28年前のことだ。前年開催の「発掘された肖像」展図録に引き続き、2冊目の展覧会図録を発行した。表紙絵には、26歳で夭折した三輪四郎の<裸体習作>(現在目黒区美術館蔵)を使用し、本書10頁の「巴里在住画家たち」の貴重なスナップをこの図録で最初に紹介した。同展紹介の作品が本書にも15点登場している。この時の図版は、表紙以外は全てモノクロでの紹介である。2回目の滞欧作品展である「洋画家の夢・留学」展は、1993(平成5)年5月から6月にかけて46人の50作品による展観だった。そのうち本書に掲載しているものは26点。また、3回目の滞欧作品展を2006(平成18)年2月から3月にかけて開催した。「洋画家と留学/美の交流の軌跡」と銘打って45人の日本人洋画家による63点と、8人の外国人作家による絵画を併陳した。
 滞欧作ばかりを偏重しているつもりはないが、何度観ても良いものは良い。そのことに大げさな理由づけは必要ないだろう。素直に作品を観れば誰でも分かることではないだろうか。全てとは言わないまでも、絵画の多くに込められた青年画家たちの感動を共有することは、滞欧作ほど容易なものはないように思えるのである。現在のように交通手段が発達していない、インターネットなどの情報獲得手段が全くない時代にこれらは描かれている。海路40日から50日の船旅の果てに目にするヨーロッパの光景が、いかに彼らの感動を呼び起こしたかを、私自身のささやかな経験により想像できるのである。
 1965(昭和40)年夏、交換留学生の選抜試験に受かり、片道切符を工面しただけの私は、2週間の船旅の末に到着したアメリカで、まだ明けやらぬロスアンジェルスの早暁をデッキに立って喰い入るように眺めていた。その就航が最後の移民船となる貨客船「サントス丸」の三等船室には、ブラジル移民へ写真交換だけで嫁入りを決断したご婦人方が大勢乗り組んでいた。二等船室には、エリザベス・サンダースホームの沢田美喜(1901-80)に引率された十数名の混血孤児たちもブラジルに向かう旅にあった。終点ブラジルのサントスまで船旅が続く彼らは、ロスで下りる私たちをデッキで羨ましそうに眺めていた。その光景が、熱狂のサッカー、ワールドカップ・ブラジル大会の連日の報道に接して、もう半世紀も前の出来事にも拘らず懐かしく思い出されてならない。あの人たちは今、どのような暮らしをしているのだろう。閑話休題。
 ヨーロッパに留学する画家たちにとって、私の小さな経験とは比べようもない途方もない出来事が待ち受けていたことだろう。公費で留学する場合は別にして、まず費用の工面から始まり、異なる言語の問題もある。現地での情報収集など、どのように解決していたのだろう。私たちは、彼らが活動した時代や背景を作品の鑑賞時にいつも考慮しなくてはならない。デッサンに使用するパン屑をかじり、飢えを凌いだ画家もいた。病に倒れ、本望を果たせなかった画家も少なくない。留学期にせっかく描いた作品が日本へ送る途中に海の藻くずと消え去ることもあった(川島理一郎など)。折角留学を果たしても、思い通りの成果も手にせず帰国することになった人もいたに違いない。様々なドラマが一枚のキャンバスの裏側に存在することを私たちは忘れてはならないのだ。
 過去、美術館などで開催される展覧会や作品の購入などには、日本美術史のほんのひとこまでの実績や功績に重きを置いた判断基準がまかり通ってきた。作品の価値を判断する上で、精密機械や科学技術による生産物ではない美術作品の善し悪しを、美術史に大まかな基準を求めるのは仕方ないとは思う。それでも美術史の表側に登場する巨匠と言われる画家たちの蔭に、多くの無名画家たちがいたことも忘れてはならない。時には彼ら無名画家たちにも巨匠を凌駕する作品があることも忘れてはならない。では、そうした無名の名品はどこにあるのだろう。その疑問に答えるべく制作しているのが本書である。それを偏屈画商の思い上がりと言われるかも知れない。しかし無名画家達のサポーターとしては、かなり強引であってもそう言わざるを得ないのである。そうでもしなければ一体誰がこうした隠れた名品たちに注目してくれるだろうか。まず作者がどれくらい偉大で有名な人なのか、市場価格は高いのか安いのか、美術史においてどのような功績を残したかなどと、作品の本質から離れたところから優劣を判定することを止めようではないか。
 芸術と無縁の世界では判断基準が明快だ。スポーツの一大イベント、サッカー・ワールドカップでは1点の攻防で国や選手の名誉が入れ替わる。田中将大やダルビッシュの活躍する大リーグ、国内のプロ・アマ野球でも、勝負は勝つか負けるか、三振やホームランなど、一番はっきりと分かる結果により、善し悪しが明確に線引きされる。桐生選手の活躍で脚光を浴びる陸上競技も僅か0.01秒の差で天地が変わる。人々はこうした分かり易い事柄に熱狂し、途方もない金を飲み込む究極のイベント、オリンピックの開催へと突進するのだ。
 ノーベル賞級の発見と最近の話題を独占してきたSTAP細胞の発見は、どうやら真相が明らかになり、話題も消滅しつつあるようだ。iPS細胞を上回る大発見と言われた研究が、実は本当にイージーなコピペ(コピー&ペースト)によりスタートし、割烹着姿の一女性研究者に翻弄され、研究所の予算獲得のために「大発見」の研究に猪突猛進したと思われる経過が明らかにされつつある。解り難い先端科学の分野での解り易い人間の落とし穴は、まことに単純な名誉欲に支配された末路にあるようだ。
 しかしこのような事象の裏側には、真摯な研究者たちが大勢いることも私たちは忘れてはならない。彼ら真面目な研究者たちが、陽の当たり難い研究室でこつこつと努力を重ねているだろうことを見つめ直したいのである。スポーツでも先端科学の分野においても、主人公は人間であることを忘れてはならない。だからドラマが生まれ感動が共有できるのだ。芸術の世界も例外ではない。一枚の絵の裏側に隠された真実を、知らない人々にいかに伝えるのかが、私たち画商の務めではなかろうか。そのようなちっぽけな使命感を支えに、この三十有余年を妻と共に歩んできている。
2014(平成26)年6月   

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