「川端弥之助と春陽会の仲間たち」展 2015年9月15日 ~ 10月10日

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 今から40年ほど前、私が画商として暗中模索の修行時代のことだ。古道具屋で見つけた一枚の古い油絵の作者についての判断を伺いに、嵯峨美術短期大学の川端弥之助研究室にお邪魔したことがある。明治期の京都洋画の歴史を関西美術院の画家たちの作品を発掘しながら検証する、そうしたことがようやく自らの仕事の端緒となり始める前のことで、今から想い起こしても恥ずかしいような絵を持ち込んでしまったほろ苦い記憶が蘇る。川端先生からは「なんだ、こんな絵のことも分からんのか」と口には出さずとも門前払いのような簡単な感想しか頂けなかった。その後数年にして、「飯田清毅の青春時代」「明治の洋画家たち」「関西美術院の画家たち」といった展覧会を1978〜79(昭和53〜54)年にかけて開催できるようになった。既に先生が体調不良で嵯峨美を退職された頃のことだった。今では星野画廊の作品蒐集の主要分野を占めるようになっている「滞欧作品」の、最初の展覧会を開催したのが1981(昭和56)年10月のことだ。その時、本展図録掲載#1<橋のある風景>を出品した。少し胸を張って恥ずかしくないような作品を並べられるようになっていたのに、ご闘病中の先生にご覧頂けないのが残念だった。

 2度目の「滞欧作品展」を1986(昭和61)年6月に開催した。展覧会図録の表紙を飾ったのが、三輪四郎<裸婦習作>(現在、目黒区美術館蔵)である。三輪は1922(大正11)年に川端弥之助と共に箱根丸で渡仏した関西美術院の新進画家だった。三輪と川端はアカデミー・コラロッシでシャルル・ゲランに師事したが、三輪は突然病に倒れて1924(大正13)年に急遽帰国、不幸にも同年9月26歳でその短い生涯を閉じた。川端が病魔に襲われた三輪の看病を献身的にパリのアパートで行ったことが、近年になって発見された川端の浅木勝之助宛ての大量の書簡類で明らかとなっている(現在本多典代氏が資料整理中で、近い将来に論考を発表されるという)。当時、三輪を知る現存の画家は少なく、当時の事情を尋ねようにも,川端先生はその時既に鬼籍に入られていた。

 川端先生の没後まもなくのこと、寺町通御池を少し北に入った所でシンワ画廊というコレクター上がりのOさんが経営している店があった。京都ではあまりお目にかからない靉光や松本竣介、鳥海青児といった画家たちの絵を並べていたので、勉強のためにしばしば訪れてOさん夫妻と言葉を交わすようになった。やがてそこに出入りしていたブローカーYさんとも知り合うようになり、時々川端弥之助の小品を持ち歩いていたので何度か見せてもらった。松本竣介や鳥海青児のコレクターとしてのOさんの眼にも叶うような立派なものだった。それより前、京都市美術館で開催された「川端弥之助遺作展(1984)でも見ることが出来なかった小品の佳作を眼にして、口には出さなかったが大いに感嘆したものだ。川端は画商取引のなかった画家だったので、彼はご遺族宅から作品を譲り受けて商売していただろうと推察した。私は作品購入目的でご遺族宅に足を運ぶことはなかった。先方から依頼を受けない限りはこちらからご遺族宅を訪問することは滅多にない。東京京橋で画廊を開き、やがて美術館の開設へとこぎ着け、サラリーマンコレクターの鏡のように尊敬されたUさんや、渋谷にあったK・I・コレクションギャラリーなどは、遺族リストを作って片っ端から訪問して、遺作展を次々と開催されていたようだが、同じようなことをマーケットの小さい京都でしても、実際に作品が売れてゆく期待を持てなかった。だからというか、自然にというか、作品が自然の流れで当画廊に集まってくるのを待ち、ある程度まとまった形になった時点で展覧会を開催するという経営姿勢を貫いてきたのである。

 今回、川端弥之助の遺作展を開催することになったのも、没後30年を記念して親族の手で開催された川端弥之助遺作展(新聞紹介記事参照)がきっかけである。同展は、川端の義理の兄で水彩画家の長谷川良雄旧宅「長谷川歴史・文化交流の家」で長期間開催されたが、残念なことに毎週土曜と日曜に限っての開催だった。週末に画廊から離れることの出来なかった私はとうとう一度も拝見することが出来なかった(このことの反省もあって今春から当画廊の定休日を毎週日曜と月曜に変更させて頂いている)。同展が京都新聞でかなり大きく紹介されたので、画廊のお客様の何人かはご覧になり、その都度私にご連絡やご感想を頂くことがあった。そういえば画廊コレクションにはいつのまにか川端の絵がたくさん集まってきている、一度それらを紹介する機会を作れないか、と考えたのが本展企画の始まりである。とはいえいつのまにかあつまった十数点の絵だけでは展覧会の形にならない。借り物の作品を並べることも潔しともしない。そこで川端の所属していた春陽会の画家たちの作品を同時に陳列することにした次第である。

 この歴史ある(1922年創立、翌23年5月第1回展開催)春陽会展には、関西系の洋画家も数多く出品しているが、京都で本展が開催されたのは、1924(大正13)年に京都市商業会議所で開催されたことがたった1回あるだけで、東京本店の後、名古屋と大阪での開催がほとんどだった。日展、二科展、独立展ほかの主要美術団体の巡回展が京都ぬきでは考えられていないのに、これはどうしたことだったのだろうか。あれこれと理由を詮索しても始まらないが、京都市民の間で春陽会といっても馴染みなく、同会の画家たちの名前に精通している人もほとんどいないのが現状だ。その中で川端弥之助は京都美大や嵯峨美での教職、はたまた京展審査員や京都市美術館運営評議員などの要職を務めた関係で、広く京都市民に親しまれてきたくらいである。しかし広く関西というエリアで見てみると、春陽会系の優秀な画家は多数にのぼる。ところが現在彼らの作品に改めて陽の当たる機会はそうありはしない。ひとえに核となるべき大阪市立近代美術館の建設が遅れに遅れていることも大きな要因となっているのではないだろうか。

 本展準備中の今夏は、気象庁の常用文句ではないが、これまでに経験したことがないような高温、多雨を交互に連続して経験させられた。「京都の夏は暑いですよ」とこれまで自慢するかのように話してきたが、全国いたるところで異常高温に襲われてしまったので、これからは大きな顔がし難くなり少し残念な気分である。去年の夏を想い起こすと、電力不足を心配して至る所で節電が啓蒙されまた実践していた。原子力発電ぬきでは日本経済に将来はないような論調が大手を振っていたが、今年はどうだ。国中の原発が一機も動いていないのに、自然エネルギーなどの効果的利用が発達したお蔭で電力不足を訴えるものはいない。なのに政府や一部企業は躍起になって原発推進を図る。しかも使用済み核燃料の行く先は未だもって解決されていない。近い将来パンクすること確実な問題を先送りにして、目先の利益追求のみを進める施政者に鉄槌を下し得る野党勢力もだらしないことこの上ない。こうした政治状況を創り出した張本人は、先の総選挙で一党独裁の芽を与えてしまった私たち国民である。それにしても戦後70年の節目の今年、時の総理大臣が出した記念談話のなんと空虚なことか。先の戦争責任を自らは全く関係ないどこか他人事のように片付けてしまった。論議が沸騰している集団的自衛権についても、「国民の理解が足りないのは自分の説明不足」とばかり声高に言い張り、国民が半ば背を向けていることに気がつかない様子は、まるで裸の王様を見るようで情けない。

 戦後70年を総括する展覧会が国内いくつかの美術館で開催されている。三重県立美術館「戦後70年記念・20世紀美術再見 1940年代」展、名古屋市美術館は14人の画家たちの作品に絞って「画家たちと戦争」展など。まだ見ていないが、会期中には是非観覧したいものだ。ほかにも自前のコレクションを使って様々な角度から戦後70年を回顧する展示が各地の美術館で開催されている。関係各位に敬意を表してペンを置く。

2015(平成27)年8月末

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