「生誕130年記念・秦 テルヲの生涯」展
2017年6月3日(土)〜7月8日(土)

【編集後記】・・・・・・・ 星野桂三

 星野画廊では過去に4回の秦テルヲ関連展を開催して来た。1984(昭和59)年11月に「没後40年・秦テルヲ遺作展」、86年には京都国立近代美術館新館開館を祝った「京の異色日本画家たち」展シリーズ(その開幕展として32点のテルヲ作品)を、96年には「秦テルヲ『京洛追想画譜』展」を、2000(平成12)年には「没後55年記念・秦テルヲの仏(ほとけ)さん」展を開催した。このような活動が功を奏したのか、秦テルヲ顕彰の決定版ともいうべき大規模な展観「デカダンから光明へ、異端画家・秦テルヲの軌跡」展が、2003(平成15)年から翌年にかけてに笠岡市立竹喬美術館、練馬区美術館、京都国立近代美術館で開催された。それから14年の歳月が流れテルヲの生誕130年に当たる本年を迎えたが、どこからも記念展開催の声がかからなかった昨秋、思いもかけない名品が忽然と市場にその姿を現した。「瓶原時代」の代表的作品のひとつ《慈悲心鳥の唄》と目される作品(表紙掲載)である。運良くその絵を入手出来た時、生誕130年を控えて現れたのも何か強い因縁のように思える。36年の長い時間をかけて蒐集したテルヲ作品を網羅した冊子を作成し、新出作品のお披露目展をしようと決心するに至った。

 秦テルヲに肩入れするきっかけは、浅井忠門下の田中善之助(1889-1946)遺作を大量に入手したことに発する。1979(昭和44)年2月に「忘れられた画家シリーズ③明治の洋画家達」展で紹介した善之助の《少女像》(明治末頃)が京都国立近代美術館に購入されたこともあり、気を良くして翌年に彼の遺作展シリーズを制作年代順に月替わりで6回連続して開催した。当時の画廊スペースは8畳ほどの小さなもので、全作品を一度に展示出来なかったのだ。その展覧会のために彼の絵画修業時代(浅井忠と関西美術院)のことなども詳しく調べ直した。明治末期の京都に於ける新興美術運動の象徴として「黒猫会」の結成(1910年 =明治43)が美術研究者たちの間で頻繁に取り上げられており、秦テルヲがその一員であることも知ったのである。関西美術院で洋画を学ぶ津田青楓、黒田重太郎、新井謹也ら若き洋画家たちと麦僊、竹喬,テルヲら日本画家たちが,洋画、日本画の垣根を取っ払い、パリ帰りの若き美学者・田中喜作を粘着剤として会合を重ねた末に黒猫会展覧会開催へと歩を進めたのだ。ところが出品作品の鑑査を主張するものと自由な制作発表を維持すべしという青楓、テルヲとの意見が対立し、終に解散となってしまった。理論的指導者、田中喜作の意見に同調した麦僊、竹喬、重太郎、善之助、謹也らが新たに「仮面会」を結成した。善之助とテルヲの接点はこの時点で途切れたが、テルヲのひとつ年下の善之助はテルヲ没年の翌年に肺結核により57歳で没していた。二人がほぼ同じ時代を生きたこともあり、テルヲの名前は私の記憶の中で鮮明に生き続けていたのである。

 ある日、その田中善之助遺作展シリーズの会場に一人のコレクターが、画廊への狭い急な階段をハーハーと息を切らせて上って来られた。体調が思わしくなかっただろうその人は、しばらくソファに腰を下ろして休憩され、やおら筒状に丸めて手にした一枚の絵を広げて尋ねた。

 「これを今、近くのヤマゾエさんで土産にもらったんですが、どう思われますか?」

 それはテルヲ没年の7月に描かれた憤怒の形相で空を睨む自画像だった。画面一杯に当時の心境が墨書されていた。私は初めて目にしたテルヲの実物作品の迫力に仰天した。

 「どうもこうもありませんよ、これは名作です。よくこんな絵が手に入りましたね」と私は答えた。こんな凄い迫力ある絵を描いた画家がこの京都にいたんだと、感激さえ覚えたものである。

 そのコレクターは木崎又二郎氏。前年(1978年)に山口八九子遺作展を開催した時に遺族の紹介で来られて以来、当画廊にしばしばお越しになっていた。木崎氏は、黒田重太郎の名著『京都洋画の黎明期』(1947年)出版の京都叢書関係者の一人であり、(後日知ることになったのだが)国画創作協会の画家たちのコレクターでもあった。その後しばらくしてから件(くだん)のヤマゾエ(山添天香堂)さんの店頭で額装されずに平積みにされていたテルヲの墨画作品をまとめて買った。麻布や寒冷紗に描いた絵もあったが、当時の私には高くて買えなかった(後年になってその時に買い逃した絵と次々と再会して購入することになる)。

 1982(昭和57)年4月に神宮道に画廊を移転後のある日、自転車で大和大路を走っていた時、通りかかった天香堂の小さなウインドー一杯に飾られていた絵が眼の端に飛び込んで来た。天香堂主人の山添三樹氏が1977(昭和52)年に京都近鉄百貨店の画廊で開催した「秦テルヲの世界」展図録の中でも主要作として紹介されていたものに間違いがなかった。まだ売れずに残っていたらしい。用事も忘れて店に飛び込んだ。当時は《二河白道図》と題されていた《佛化開縁之図》(#64)の値段を尋ねた。店番をしていた山添さんの弟さんが「ちょっと高いですよ」と答えた。なるほどすぐには対応出来ないほどの金額だったが、どうしても逃してはならない重要作品に思え、決心して購入した

 木崎さんが鬼籍に入られたのはその頃のことだったろうと思う。数多い氏のコレクションの中には、小松均(1902-1989)の代表作《八瀬》(第7回国画創作協会展、1928年)もあった。氏の瀟洒なお宅では画面が巨大(123.0×143.0 cm)であるために、飾られずにソファの裏側に立てかけてあった。その絵の売却を未亡人から依頼された。最初は京都市美術館に話をもっていったが、当時の学芸担当者に「画商とは取引をしない」と門前払いを受けた(京都市美術館は大魚を逃してしまったと私は思う)。たまたま画廊にお越しになった酒井哲朗先生(和歌山県立近代美術館から宮城県美術館に転籍されていた)に愚痴をこぼしたところ、東北出身画家だからと、即座に宮城県美術館への納入が決まった。後からどうして京都国立近代美術館に声をかけなかったのか悔やむところになったが、未亡人からは感謝され、木崎氏所蔵のテルヲ作品全てを譲って頂くことになった。例の自画像もようやくその折に星野コレクションの最重要作品のひとつとなったのである(#101 闘病五年紀念自像)。

 かなりの数のテルヲ作品が集まったので、1984(昭和59)年11月に没後40年記念の秦テルヲ遺作展を開催することにした。その時には京都国立近代美術館が所蔵していたテルヲの資料類(まだ未整理で段ボール箱に詰められた状態)を、当時の内山武夫先生(学芸課長)から全て見せて頂き、必要なファイルや写真の複写も許された。実に寛大な応対をして頂いたことで大きな借りができた思いがした(このこともあって、その後国展系の珍しい作品を一番先に同館へ紹介することにした)。当時としては精一杯のカラー刷り4頁の遺作展案内状の準備ができた頃、近くに住む漆芸作家の西村要象氏が展覧会開催に感動して、大切にしているテルヲと甲斐庄楠音《花札と女》を「貴方になら手放してもよい」と言われたのである。氏は老舗の京漆器店「象彦」の血縁に当たり、作家活動を止めた後も自由気儘な生活を謳歌されており、画廊には粟田山への登山散歩の帰りによく立ち寄られていたのである。さっそく華頂山内にある御宅で作品を拝見して譲って頂いた。大急ぎで額装して遺作展に間に合わせ会場に展示したところ、新聞・雑誌で紹介されて評判となった。京近美の代表的コレクションの一つとなっている《眠れる児》(参考図版#4)である。

 この展覧会に思わぬ人物から原稿用紙に書いたお祝いの言葉を頂戴した。件の山添天香堂主人、山添三樹氏である。画商として大先輩であり、その飄々とした語り口と風貌、そしてなによりも他人に追従することなく独自の審美眼により美術作品を取り扱われていた氏の商売姿勢を私は深く尊敬していたものだ。ここにその文章を掲載しておきたい。

星野画廊「秦テルヲ展」によせて

山添三樹 

画をあきなうものを画商という。それが店を持っていれば画廊となる。
その画廊が絵を並べる。おおむね「某々大家の先生がたから絵を頂き展観さして頂きます」と案内状が来る。
星野画廊からは、それが来ない。
売ッ子の絵を、頼んで描いて頂いて、並べて売ればもうかるに決まっている。
それを開店以来、この画廊主はしない。
私はこの人の、少しは先輩に当るからいうのだが、星野桂三の経営する画廊は、ひょっとしたら、京都で初めて生れた画廊らしい画廊ではないかと。
この度、秦テルヲの遺作展をこの人がやる。私がやろうと思っていたのに彼が先を越した。このけしからぬ男は、忘れられかけた力ある画家の絵を発掘して世に出す事に努めて、そのため画廊経営状態必ずしもよからず。
このたびもまた秦テルヲをかつぎ出して辛い思いをするであろうと思うと私も辛い。
しかしご覧いただきたい。これは星野桂三が、いつもの展観と同じく売らんが為に並べたものではない。先回の「山口八九子展」につづく、これはひょっとしたら〝買い〟ではないか。
夢二はお買い下さいといった。
華岳と波光は家が豊かであったから、ああ見て頂戴といった。
麦僊はどうだ上手だろう買えよといった。
竹喬は気が小さいから、こんなのでもよかったらといった。
晩花と紫峰は何といったか判らないが、多分何もいわなかったようだ。
そしてテルヲは欲しくば買えといった。
星野画廊が秦テルヲ展をするのは宿世の縁である。売らんかな画廊でない星野が、売る事を知らなかったテルヲと結びつかなければこの世に神はない。(天香堂主)

 1986(昭和61)年10月から12月にかけて京都国立近代美術館の新館開館記念展「京都の日本画1910〜1930」展を祝って、「京の異色日本画家たち」展を開催した。秦テルヲ、玉村方久斗、稲垣仲静、山口八九子、甲斐庄楠音、要樹平の6作家を1週間ごとに区切って特集陳列をしたのである。冒頭のテルヲ展には32点の作品を展観した。
(その時の図録後記より)

 近年、大正期の日本画を中心とした埋もれた画家の発掘作業が一種のブームになってきているが、ここに取り上げた異色の画家達も本当は異色となってはいけない人達なのである。本来芸術家たるもの、それぞれが個性豊かな異色の存在であるのが当然なのに、わざわざ〝異色〟の文字をつけなければならない。昔も今も大衆の嗜好は反対の極にあり、気軽に入り込み易いきれいな作品が重宝される。取扱う画商も個性豊かな作品を良いとは認めながらも売りが遠いと腰を引く。巷に溢れる若者向けのDCブランドやテレビの同工異曲の番組、これらと同じ路線を美術界も突っ走る。
けれどもいつの世でも極少数のつむじ曲りはいるもので、お蔭様で私のような零細画廊主が経営を成り立たせることができる。恵まれなかった画家達の遺産で日々の生活の糧を得ることのできる画商として、赤字覚悟の本展はせめてもの恩返しのつもり。是非一人でも多くの方々に個性豊かな作品を見て戴きたい。

1996(平成8)年7月に「秦テルヲ『京洛追想画譜』展」を開催した。(その図録の後記より)

 私たちが秦テルヲに注目してその作品収集に取り掛かった頃には既に、『秦テルヲの世界』という小冊子が縄手の山添天香堂さんの店先に置いてあった。山添さんが1977年に京都近鉄百貨店の画廊で開催した展覧会の図録として刊行されたもので、その中に「京洛追想画譜」13図が写真掲載されている。時間の経過とともに当時売却されたものが徐々に私たちの手許に集まってきた。入手した作品の数から考えて京洛追想画譜は複数あるものと思われるが、今回の展示品のうち6図が『秦テルヲの世界』掲載のものと一致する。これらは額装で出てきたが、他に軸装されたものも12点手に入れた。いずれも入手経路はまちまちで保存状態は極端に悪かったが、有能な表具師である山本陽光堂の手で蘇った。そこで近くの博宝堂に揃いの特製額を注文して衣装を新たにすることにした。このように手間暇と膨大な経費を掛けて展覧会をするだけの魅力と価値が秦テルヲの作品には潜んでいる。

 2000(平成12)年9月に「没後55年記念 秦テルヲの仏(ほとけ)さん」展を開催し、B5判42頁の展覧会図録を作成した。(その図録の後記より)

 病に侵されながらひたむきに突き進んだ画道一路。秦テルヲがその初期に描いた労働者、子供、淪落の女たち、後半生で描いたたくさんのほとけさん(敢えて仏画とは言わない)を観ながら、私達は、彼が本当に描きたかったものは何であったのか、再度反問することになる。

 「ほとけさん」を描きながらテルヲが本当に描きたかったもの、それは「人間」に他ならない、そう思うのである。この愚かしい、けれども愛すべき人間たち、でもやっぱり愚かしい人間たち。私達があまりに秦テルヲの仏画を高く評価するので、よく尋ねられる。村上華岳の仏画はどうですかとか、入江波光の仏画はどうなのですかと。秦テルヲの描いた仏は「仏」ではなく「ほとけさん」であると改めて言いたい。村上華岳や入江波光の仏画は崇高で、有り難い気配が濃厚であり、素晴らしい作品が多いことは否定しない。対してテルヲ描く「ほとけさん」には、「人間(ひと)の心」が感じられる。この画家の人生を一般の人々より少しは深く知っているからだろうか、極めて人間味溢れた「ほとけさん」に、時に不覚にも涙することを禁じ得ないほどである。だから、華岳は他所行(よそいき)の仏画であり、テルヲは「ほとけさん」である。華岳には華岳のよさがあり、テルヲにはテルヲのよさがある。憤慨するのは、美術市場で付けられる相場。天文学的な値段で取り引きされる華岳の仏画に対して、テルヲの「ほとけさん」がそれほど劣っていると言えるのだろうか。この展覧会を通して少しは認識を変えて頂ければ、幸いである。

 昨秋、秦テルヲの画家人生の中でも後半生の最重要な地である南山城瓶原(みかのはら)を旅した。2014(平成26)年に京都国立博物館での企画展「南山城の古寺巡礼」展でも明らかにされたように、平安時代の中納言兼輔の和歌

みかのはら わきてながるる いづみがわ いつみきとてか こひしかるらむ

にあるように、みかのはら(瓶原)は,奈良時代半ばに恭仁京(くにきょう)が置かれた地で、現在の木津川市加茂町にある平野の事である。「いづみがわ」は伊賀上野盆地に流れを発し、京都府南部地域を北へ流れて淀川に合流する木津川の古名である。この流域には南都奈良の東大寺や興福寺、春日大社、また摂関家等の中央貴族の領有となりその荘園が置かれたことがある。当尾(とうの)の岩船寺や浄瑠璃寺などが平安時代中期から後期にかけて建立され、浄瑠璃寺の本堂(国宝)に木造阿弥陀如来坐像 9驅(国宝)、木造吉祥天立像(重文)などが祀られている。木津川の対岸に瓶原を見下ろす急峻な山道を辿った頂上近くにある海住山寺(かいじゅうせんじ)の歴史は古く奈良時代に遡ると言われ、本尊の十一面観音立像は平安時代前期の作。どこかテルヲの描く観音像と面影がよく似ている。白洲正子もその著『十一面観音巡礼』の中で触れているが、このお寺だけでなく南山城の古刹にはどういう訳か十一面観音が多く祀られている。妻と子の姿に聖母子像をダブらせたテルヲが、次第に仏画を多く描くようになるのは当然の帰結と思う。

 急峻な山道を登った山頂近くにある海住山寺に着いてすぐに彼の絵にあるような杉の古木が目に飛び込んで来た。作品(#28 瓶原風景)でテルヲは屹立する一本の杉に自身を投影させて、眼下に広がる瓶原風景を描いた。しかし現在の境内からは高く繁った樹木に遮られて視界がきかない。恭仁京を中心に木津川一帯に広がる(テルヲが描いた)風景を実際には見られないのだ。当時は,京都の東山でもそうだったが、燃料を得るために周囲の山々から樹木の多くが伐採されており、眼下の見晴らしがはるかによかったのだろう。

 国宝・五重塔は鎌倉時代の建立。五重塔、杉の古木と紅葉、そして眼下の風景を僅かに望むスナップを紹介しておきたい。テルヲの描いた牧歌的な瓶原風景はどんどんその姿を変貌しつつあるが、まだ一部にその面影が残っている。

 今春、テルヲが吉原時代から決別して移住(1921=大正10年)した加茂町観音寺を訪ねた。浄瑠璃寺から加茂駅へ向かう西北の丘陵地帯にある地蔵院を中心にした小さな集落である。地蔵院に向かう道すがらの坂道で畑を耕している老農婦と(まるで往時のテルヲのごとくに)しばし言葉を交わした。地蔵院ご住職、桃野春生さんに話をうかがいながら周囲の光景に眼を見張った。《慈悲心鳥の唄》の背景などテルヲの数々の作品に描かれた農村風景が今も息づいていたからである。明治後期頃には関西本線の前身で明治の五大私鉄の一つと謳われた関西鉄道通称大仏線(加茂駅〜奈良大仏駅)の観音寺駅が近くにあったとも教わった。ここに地蔵院から見たスナップを掲載しておく。国道163号が木津から笠置、大河原、月ヶ瀬、伊賀上野へと横切って交通の便が格段に良くなり、周囲の環境が変貌しつつある中で、ここ観音寺地区には昔の風景が色濃く残っている。「一昨年の暮れにこの村に来て、平和な自然の胸に抱かれ、温かな土に培われて、私の思想に不可思議な光明を播た様だ」とテルヲが述べている(20頁参照)が、まさにその光景を実感している思いに包まれた。

 本著には、秦テルヲが遺した資料の数々と共に、増田無相氏の「秦テルヲ」と「続・秦テルヲ」(『落味』掲載記事)を転載しておく。両方とも美術研究者の北川久氏より随分前に提供された資料である。筆者、増田無相という人がどのような方か詳しくは分からないし、そのテルヲ芸術の理解の仕方には異論のあるところだが、ごく一般の人々の無理のない受け取り方であったろうと理解している。続編( 頁)ではテルヲの最期の頃の様子などが克明に記されている。病み衰えたテルヲが最後の最後まで真摯な画家であり続けたことを知り涙するほかない。合掌。

2017(平成29)年5月


観音寺にて(地蔵院より)

海住山寺境内

海住山寺近くより木津川遠望

浄瑠璃寺

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