鳴呼画聖 澤部清五郎先生     前北野天満宮宮司 浅井輿四郎































 豫(かね)て御昵懇(じっこん)の星野桂三氏より澤部清五郎先生の御遺作展を、七月に開催されるに当たり、先生の憶い出を、筆にとの御依頼を受けた。私には忘れ難い偉大な先生は、語り尽くせない懐かしさに喜んで引き受け、拙い文を綴らせて頂いた。
 先生は私の恩人でもあり、現代の拙宅は、北野天満宮北門前にある先生のお宅に隣接する土地を分譲して頂いたものであり、慈父母の様に、先生御夫妻からの恩寵に浴した。先生の温かい穏やかな御人徳は、近隣の人達からも慕われられていた。アトリエにつづく広大な裏庭には四季美しい薔薇が薫り、御栽培も大変だっただろうと思うが、「描かれた薔薇の花名がわからない作品は駄目」、と常に仰言って、熱心な植物学者でもあった。先生は洋画の草分け浅井忠画伯に私淑され、やがて渡米後、佛蘭西に留学されるや、梅原龍三郎、安井曾太郎画伯に迎えられ、楽しい思い出の青春を過ごされた。
 先生は西陣のお生まれで、俵屋という禁裡御用達の油問屋の次男として明治十七年にお生まれになり、御先祖は女官でもあり、墓碑には、正徳三年四月二十七日、宝泉院殿涼清日涌大姉と、院殿の法名が刻まれている。又、画材を近代織物の巨匠二代川島甚平衛氏に認められ、生涯を洋画家としての道と、染織を中心としたデザイナーの道に捧げられた。則ち青年期に、国宝の平等院や、金閣の扉絵、天井画を模写されたお陰で、昭和二十五年七月三日金閣は炎上したが、其の修復に往事の模写が貴重な資料となった。壮年期には、菩提寺本隆寺本堂の襖絵五十六面、その塔中是好院二十三面を制作寄進していられる等、玉筆は枚挙に遑(いとま)なく、デザインでは、川島織物の奨めで、西欧的な美意識を、日本的な本質に活かされた。
 先生はヨーロッパより御帰国の年、天皇御即位の御大典に際し使用される、天皇、皇后両陛下の専用御料車の内装を委嘱され、感激して見事豪華な装飾を果たされ、国賓へ贈呈の見事な綴れ錦の数々の記念品を、謹製され、その功績に輝かれている。然し、寡黙な先生は、自らその栄誉を口に出される事なく、時につけ、折にふれ、御生涯の足跡を御令室様より承ったことである。



























































 又、北野天満宮の責任役員としてよく御高配を賜り、毎年絵馬奉納展とて、夏休みの児童の図画作品の審査員を日本画の三輪晁勢、洋画の川端弥之助先生にお願いしていたが、川端先生は、澤部先生が恩師のゆかりから必ず御来宮の途次、御挨拶に立ち寄られたのも、澤部先生のお人柄が偲ばれる。
 又、近隣の心易さから、果物や野菜をお届けすると、数日後それを色紙に写生して頂く等、律気な御芳志に感激した。何時かお得意の鮎の絵を下さったので、早速表具してお見せすると、下の余白を切り過ぎて「落鮎になったね」と苦笑いされ、如何に本紙と実像の釣り合が大切であるか、ご教授示下さった。
 先生の御令妹が黒田重太郎画伯に嫁され、美しい方と聞き及ぶも、今に残る。《 梳 》(くしけづる)(現・京都国立近代美術館蔵)は、妹様がモデルの由である。
 又、「友は何れも本通りを歩いたが、私は目立たない脇道(わきみち)を選んだ」との御言葉に、私は感動した。
 先生は、御先祖来の熱心な佛教徒であったが、御令室つた様は、ギリシャ正教の信徒で、兼々「人には夫々の信仰がある。」と黙認されていた。夫唱婦随の御両人は年こそ異なるが、共に北野紅梅町の聖ヨゼフ整肢園に、知人の医師が京大病院から出向されていたので、入院され臨終を迎えられた。
 芦屋にお住居の御息女、大藤よし枝様は、京都は冬寒く、夏は暑いため、遂に御定住なく、最近みまかられたと聞く。其の御息女が澤部の家名を継承されている。
 現在は、広い御邸宅のあと、三階建の住宅が9軒竣成され、以前の面影はない。私は先生御逝去の昭和三十九年八月二十六日より毎年墓参をつづけて三十九年目になる。墓前には、川島家よりの献燈籠があり、隣に黒田家の墓碑がある。
 表記の先生の肖像画は、かって先生の畏友霧島正三郎(之彦)画伯の筆で、先生御気に入りを写真にして下さったものであり、今も机上に飾らせて頂いている。
 「先生、やすらかにお鎮り下さいませ」と祈る私も、いつか先生の歿年の齢となった。
                     (平成十四年五月二十五日)






























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