鳴呼画聖 澤部清五郎先生 前北野天満宮宮司 浅井輿四郎 | ||
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又、北野天満宮の責任役員としてよく御高配を賜り、毎年絵馬奉納展とて、夏休みの児童の図画作品の審査員を日本画の三輪晁勢、洋画の川端弥之助先生にお願いしていたが、川端先生は、澤部先生が恩師のゆかりから必ず御来宮の途次、御挨拶に立ち寄られたのも、澤部先生のお人柄が偲ばれる。 又、近隣の心易さから、果物や野菜をお届けすると、数日後それを色紙に写生して頂く等、律気な御芳志に感激した。何時かお得意の鮎の絵を下さったので、早速表具してお見せすると、下の余白を切り過ぎて「落鮎になったね」と苦笑いされ、如何に本紙と実像の釣り合が大切であるか、ご教授示下さった。 先生の御令妹が黒田重太郎画伯に嫁され、美しい方と聞き及ぶも、今に残る。《 梳 》(くしけづる)(現・京都国立近代美術館蔵)は、妹様がモデルの由である。 又、「友は何れも本通りを歩いたが、私は目立たない脇道(わきみち)を選んだ」との御言葉に、私は感動した。 先生は、御先祖来の熱心な佛教徒であったが、御令室つた様は、ギリシャ正教の信徒で、兼々「人には夫々の信仰がある。」と黙認されていた。夫唱婦随の御両人は年こそ異なるが、共に北野紅梅町の聖ヨゼフ整肢園に、知人の医師が京大病院から出向されていたので、入院され臨終を迎えられた。 芦屋にお住居の御息女、大藤よし枝様は、京都は冬寒く、夏は暑いため、遂に御定住なく、最近みまかられたと聞く。其の御息女が澤部の家名を継承されている。 現在は、広い御邸宅のあと、三階建の住宅が9軒竣成され、以前の面影はない。私は先生御逝去の昭和三十九年八月二十六日より毎年墓参をつづけて三十九年目になる。墓前には、川島家よりの献燈籠があり、隣に黒田家の墓碑がある。 表記の先生の肖像画は、かって先生の畏友霧島正三郎(之彦)画伯の筆で、先生御気に入りを写真にして下さったものであり、今も机上に飾らせて頂いている。 「先生、やすらかにお鎮り下さいませ」と祈る私も、いつか先生の歿年の齢となった。 (平成十四年五月二十五日) |
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