経て今回、漸くここぞというチャンスをとらえ、私に悟らせようと核心を衝かれたのであろう。一方、その日の発言は、ご自分の絵画表現に対する信条でもあったかも知れない。そして、君は"一体感"を掲げているが、全出品者一人ひとりの心になり切ることが一体感と違うか、と恐らく相当な疲れを感じておられたであろう身体をいとわず訴えようともされたに違いない。無量の愛と言えば良いだろうか。
藤田さんは、亡くなられた後も、会の多くの仲間から、言葉に出さないが、常に深い尊敬の念をもって見られている。その理由のひとつにこのような優れた教育者としての側面があることを見逃すわけにはいかない。
さて、藤田さんの40代の中頃の、血気盛んな壮年期をご存知の方はどれだけおられるだろうか。その頃の藤田さんは、理論家でもあった。愛媛女子短期大学教授への就職も決まり準備に入られた頃、大阪市内での美術文化・関西地区会員会議での絵や会に対しての熱弁は止まるところを知らず、人を寄せつけない厳しさと迫力があった。
この藤田さんに、昭和51(1976)年、運命は、突然、身に余る大きい試練を与えた。脳血栓で倒れられたのである。翌年、脳血栓を再発、脳切開手術によって命は助けられたが、利き腕の右手と流暢なトーキング、それに身体の一部の機能の自由が奪われてしまった。
突如、画家としての前途を閉ざされたと思われる事態を前にして藤田さんはどんな心境になられたのであろうか。一時は絵の道を断念しようと真剣に思われたと聞いている。その後、身体の回復につれて果たして画家として再起できるのか。再起する場合何ができるのか、何をなすべきなのかについて、自分の全生活と人生を見つめ、全人格をもって真剣に問いかけられたことであろう。ここで藤田さんという人間が本来天性として持っておられ、培い磨いてこられた要素が、筆舌に尽くしがたい苦難と出合うことによって立派に引き出されて来たと思われる。
4年後には、美術文化展に復帰され、日常生活や描画活動上の様々の不便や困難と闘いながら、左手に持ち替えた絵筆で、今までの表現内容と異なる新しい絵画世界を創造し、発表してゆかれるまでになった。
“絵画世界の創造”となれば、技術面と情意面、すなわち精神・魂・思想(想念)面があり、それらについては、将来多くの方が研究していかれると思われるので、ここでは藤田さんの「日常生活」、「絵画表現活動」、「外部への発表活動」の3者を支え繋ぐものであろうと、身近で接しさせていただいた者の立場から印象深く思ったことについて少し触れておく。
先ずここで言わねばならないことは、ご家庭で藤田さんを支えてこられた奥様の存在である。奥様はこの上なく人間性が高く奥ゆかしい方で、藤田さんの落ち着いた画業の推進、殊に大病後の大活躍はこの奥様なくして考えられない。昭和40年代にお宅にお邪魔した折は、甚だお忙しい日常であったのに、お仕事をすっかり休みにし夜遅くまで歓待していただいたことが思い出される。その頃小学生であったお子様もおられ、大変ご迷惑であったと申し訳なく思う。
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