藤田龍児さんの叡智・機知・一体感    中谷 健三















































 平成14(2002)年、藤田龍児さんが亡くなった年の4月29日にこんなことがあった。8月9日にお亡くなりになっておられるので、その3ヶ月余り前のことになる。
 美術文化展は、毎年晩春に巡回展として京都市美術館にやってくるが、その年は、東京から名古屋へ、そして名古屋展が終わってその日の夜に作品を積み込み、京都到着が翌朝という、今までにない慌ただしい転送で、京都で陳列作品の荷下ろしチェックを担当する私にとっては、作品が正しく積み込まれただろうかと気が気でなかった。
 日本庭園のある京都市美術館の東玄関前で、午前11時、予定通り着いた大貨物車から、絵画、デザイン、彫刻と、用意していたリストと照合しながら荷下ろし作品のチェックをし始めた。
 その作品搬入・陳列日に、いつもは2階の展覧会場で分担業務をしておられる藤田さんが、いつの間にか、その時はひとりで作業している私の3メートル後ろに来て立っておられた。そして3,40分経ち作業が後半まで進んだ頃、突然、「気い抜いたらあかんぞお!」と小声ながら鋭く高い声で、私に向かって叫ばれた。
 ハッと我にかえった。緊張が弛み、雑念も生じていたのだろう。後ろ姿で心の内を見抜かれたようである。平素、殊に晩年の藤田さんは穏やかで、こんな鋭い声を人に向かって出されることはなかったので、この凛として響く叫びの言葉は意外でもあり、心の奥までよく伝わった。
 考えれば、この小声ながら鋭い叱咤にはわけがある。藤田さんは、3,40代の若い頃に美術文化の関西事務所と運送係を兼務、その折に運送上のいろいろのトラブルを経験し、作品搬入・出に際してのチェックがいかに重要な業務であるのかを熟知されるようになり、その年のように余裕のない日程で作品が転送される場合に生じる危険については、充分に用心して見守っておられたのであろう。
 これは、確かに責任感の強い藤田さんが私に向かって叫ばれた大きい理由に違いない。しかしこれだけの理由であれば、今なお心に残る叫び声とはならなかったと思う。では別の理由とは…。これは次のような藤田さんという人間の真骨頂の一つを表していると今になって私には思えてならない。
 藤田さんと私とは外見も体質もよく似ていると言われることがあるが、仕事の内容や進め方は大違いである。藤田さんはしっかりした計画を基にして、堅牢な地塗りのマチエール造りから始まり、次に彩色やニードルによる根気強い緻密なひっかきの手仕事へと、気を緩めることなく作業を進め、作品を期限までに仕上げてゆかれる。それに対して私は、夢は大きいが仕事が充分でき上がらないまま出品の時期を迎える、ということの繰り返しで、学校勤めの多忙さをこの失態続きの隠れ簑にしてきた。
 美術文化の先輩として、同僚としての35年のつき合いを通じて藤田さんが、私のこの甘えを見抜いておられないはずがない。ところが藤田さんは思慮深い方で、言葉で他人に忠告することの難しさをよく知っておられるのか、今まで面と向かって私に注意されなかった。ここで言えば分からせられるという場面と実際に出合うまで気長に待っておられたのであろう。何十年を

























































































経て今回、漸くここぞというチャンスをとらえ、私に悟らせようと核心を衝かれたのであろう。一方、その日の発言は、ご自分の絵画表現に対する信条でもあったかも知れない。そして、君は"一体感"を掲げているが、全出品者一人ひとりの心になり切ることが一体感と違うか、と恐らく相当な疲れを感じておられたであろう身体をいとわず訴えようともされたに違いない。無量の愛と言えば良いだろうか。
 藤田さんは、亡くなられた後も、会の多くの仲間から、言葉に出さないが、常に深い尊敬の念をもって見られている。その理由のひとつにこのような優れた教育者としての側面があることを見逃すわけにはいかない。
 さて、藤田さんの40代の中頃の、血気盛んな壮年期をご存知の方はどれだけおられるだろうか。その頃の藤田さんは、理論家でもあった。愛媛女子短期大学教授への就職も決まり準備に入られた頃、大阪市内での美術文化・関西地区会員会議での絵や会に対しての熱弁は止まるところを知らず、人を寄せつけない厳しさと迫力があった。
 この藤田さんに、昭和51(1976)年、運命は、突然、身に余る大きい試練を与えた。脳血栓で倒れられたのである。翌年、脳血栓を再発、脳切開手術によって命は助けられたが、利き腕の右手と流暢なトーキング、それに身体の一部の機能の自由が奪われてしまった。
 突如、画家としての前途を閉ざされたと思われる事態を前にして藤田さんはどんな心境になられたのであろうか。一時は絵の道を断念しようと真剣に思われたと聞いている。その後、身体の回復につれて果たして画家として再起できるのか。再起する場合何ができるのか、何をなすべきなのかについて、自分の全生活と人生を見つめ、全人格をもって真剣に問いかけられたことであろう。ここで藤田さんという人間が本来天性として持っておられ、培い磨いてこられた要素が、筆舌に尽くしがたい苦難と出合うことによって立派に引き出されて来たと思われる。
 4年後には、美術文化展に復帰され、日常生活や描画活動上の様々の不便や困難と闘いながら、左手に持ち替えた絵筆で、今までの表現内容と異なる新しい絵画世界を創造し、発表してゆかれるまでになった。
 “絵画世界の創造”となれば、技術面と情意面、すなわち精神・魂・思想(想念)面があり、それらについては、将来多くの方が研究していかれると思われるので、ここでは藤田さんの「日常生活」、「絵画表現活動」、「外部への発表活動」の3者を支え繋ぐものであろうと、身近で接しさせていただいた者の立場から印象深く思ったことについて少し触れておく。
 先ずここで言わねばならないことは、ご家庭で藤田さんを支えてこられた奥様の存在である。奥様はこの上なく人間性が高く奥ゆかしい方で、藤田さんの落ち着いた画業の推進、殊に大病後の大活躍はこの奥様なくして考えられない。昭和40年代にお宅にお邪魔した折は、甚だお忙しい日常であったのに、お仕事をすっかり休みにし夜遅くまで歓待していただいたことが思い出される。その頃小学生であったお子様もおられ、大変ご迷惑であったと申し訳なく思う。























































































  心電図コホロギ細りゆく闇夜  光子
       (美術文化機関誌・復刊第7号、藤田龍児「余技か」より)
 さて、藤田さんの全生活と絵画表現・発表等の全業績を支え、そして貫く特質は何かと改めて考えた場合、言葉で言えば「叡智」、「機知・ユーモア」、「一体感(深い愛情)」ではないかと私は思う。
 その3点について事実に即して書いておく。
 叡智について─
 平成4(1992)年9月の第52回関西美術文化展で、「精神世界を希求する3作家」と名づけた特別企画が催され、藤田さんと安田勝彦さんに私を加えていただき、それぞれ大小十数点の作品を大阪と京都の市美術館で並べたことがある。この時、藤田さんは次のようなコメントを目録で述べておられる。
 「作品を発表してからの38年を区分すると、はじめの2年は抽象。その後の8年はシュール系の抽象。その後発病までは「山水画」風なテーマを消化しようとし、病後5年目よりカラッと画風を自由化しました」である。この中の"カラッと画風を自由化しました"にあたる、病後の藤田さんが示された表現内容の大変化には、美術文化の仲間一同大いに驚かさせられた。普通画家にはいろいろのこだわりがあって、技法面であればともかく、表現内容をこれほど大きく変えることはできないと思う。"自由化"と述べておられるが、これは広い視野に立って様々なことに考慮をめぐらせ、捨てることが容易ではないこだわりを超越してはじめてできることであり、藤田さんが本来持っておられ、磨きをかけてこられた類いまれな叡智の働きがあって始めてできることではないかと思う。
 機知・ユーモアについて─
 昭和61(1986)年、その頃、原稿の集まりの芳しくない美術文化協会の機関誌の編集を私が担当することになった。『復刊第7号』である。勤めの合間の仕事であり、全国の会員に向けて積極的な呼びかけをしなかったためもあって応募原稿は7通しか集まらなかった。その年、藤田さんは大阪北区堂島で個展をされ寄せていただいた。藤田さんは座っておられ、会のメンバーのAさんが作品を見ておられた。藤田さんには「余技か」という一文を機関誌に書いていただいていたので、「お蔭様で出来あがりました」とお礼を述べると、傍らに立っておられたAさんは「でも、原稿量がねえ」と口を挟まれた。もうメンバーに配られていたのである。編集者としては最も痛いところを衝かれた。まさにその時である。「ああ、そう言えば原稿料をもらっていませんなあー」と藤田さんはにっこり笑って即座に返された。藤田さんは窮地を救って下さったことになるが、若い頃藤田さんはこの機関誌の無報酬の編集にかかわり、原稿集めの苦労を知っておられたのである。藤田さんは卓越した機知・ユーモアのセンスの持ち主で、この特質が藤田さんの心を暗く指せず、出合った苦難との闘いに力を添えたと思われる。































































 一体感(深い愛情)について─
 平成15(2003)年3月24日の午後、東京都美術館で最近あまり見かけない光景と出合った。その日は近く開かれる第63回の美術文化展の作品陳列を完了し、美術文化の幹部約10名ほどが連れ立って、点検のため全会場を隈なく一巡していた。その折に陳列されているある作品の前で誰ともなく立ち止まり、そのうち仲間全員がその作品の前で釘づけになってしまった。何事かとその作品に近寄って見ると、それは藤田さんの遺作として出品されていた<啓蟄>であった。「いい作品ですね」と誰かが言い、全員が頷いたきり無言のまましばらく姿勢を崩さず眺め続けていた。
 この<啓蟄>は、以前から私にとって見る度に感銘が新たになる不思議さがあり、その上心地よいリズム感もあって心の底から喜びを湧き出させる作品であるが、この日、東京都美術館の大作群に囲まれていても、それをすっかり忘れさせてしまう伸びやかさがあって、しかもこの会場に掛けることによって一層美しく映えていたのである。
 それにしてもこの作品を過去に見ているはずの専門家グループの一人ひとりの目と心を、なぜこうも魅きつけて止まないのかと、展覧会後も思いめぐらしてみた。その結果、ひとつにはこの作品は日本人の心の中に古来から存在する、宇宙や大自然の万物との一体感を持って描かれているから、と感じるようになった。それは、地球のシステムを壊し、その未来を暗くしている人間中心の現代文明社会に警告を発し、しかもそれを救うヒントになると考えられる。この一体感の表現は、作者が空、雲、昆虫、野原、草、道、犬、人など描く対象の一つ一つになり切って魂を込め、深い愛情を注いで描いたから実現できたものと思われる。
   豆の花 ぼくが潜んで居る予感 寓蜂 
          (美術文化情報誌・復刊第7号「余技か」より)
 是非とも<啓蟄>をはじめ、藤田さんの各時期に描かれた他の作品の実物の一点一点、を改めてゆっくり鑑賞してみたいと思う。
                      (美術文化協会会員)
























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