【滞欧作品と有形無形の文化力】         星野万美子


 世界が急激に間近になりグローバル化が声高に叫ばれる今日、「滞欧」という言葉は時代遅れなのだろうか。電子メールがあっという間に地球を飛び交い、国内と同じように気軽に手軽に海外旅行ができる現在、「滞欧」という言葉に違和感を持つ人も多いかもしれない。しかし敢えて「滞欧」を使うのはそれなりの意味が含まれている。特に美術の世界では「滞欧作品」と特別に呼ばれるが、それは、明治・大正・昭和初期の美術をその時代背景と共に辿って行くと、看過できない重要な位置を占める作品が実に多いからである。同じ作家なのに「滞欧作品」に飛び抜けた佳品が多い事実を、私達は素直に認めなければならない。一体それはどうしてだろう。
 美術に限らず異国との文化の交流は、気の遠くなるような昔から、ちょっとの想像では語り尽くせないほどに、権力者の御旗ともなり、追い風を受けたり障害ともなったであろう。しかし、あらゆる政治的な変遷をものともせず、貪欲にそして連綿と続けられて来たものである。時には堂々と、時には水面下で脈々と静かに、人々はもっと広い世界の自由や希望を見つめて、「そこには無いもの」を求め続けたのではないか。最近言われている「文化力」というものは、そのようにして形成され熟成されていったと言える。一朝一夕には得られない有形無形の文化力は、人々の飽くなき真や美への希求から発して、異国との交流を通じてこそ切磋琢磨されて受け継がれて来たのだ。武よりも文の力とはそういうもの、最近の相変わらずの、武(金と権力)が謳歌している御時世の混沌を嘆きつつ、今だからこそ、「滞欧作品」が生まれた背景がどんな状況であったのか、また当時外国からの流入は如何なるものであったのか、内外の先人達の輝かしい努力の跡を辿ってみる必要を痛感している。時代はずっと後になるが、また少ない経験ではあるが、まだその豊潤な香りが濃く残っていた四半世紀以上前頃の、私の関わった民間レベルでの外国人との交流などを振り返って、考えを巡らしてみたいと思う。
 私は学生時代にたまたまアルバイトで通訳ガイドを始め、やがて在学中に国家資格を取って、卒業後も画廊を始めるまでずっと、通訳ガイドを本職として全国を飛び廻っていた。京都に来る観光客の内、外国人は一割にも満たず、その殆どが自分の足で観光するようになった現在では到底考えられないと思うが、その頃は目が廻るくらい忙しい仕事だった。個人客、団体客、パッケージツアー客がほとんどだったが、企業や団体等の招待客、国際会議や政府、オーケストラ等々の関係者達のお世話もした。大抵は羽田到着から伊丹離陸(その頃の国際線)までずっと、東は日光から西は瀬戸内海までの行程のバリエィションであった。或いは単発的に京都奈良観光、会議の合間の観光だとか、会社訪問とか、ビジネス後のホリデイ観光とか仕事は多岐に亘っており、世界中のあらゆる国の人達の案内と添乗をする、心身共にかなりきつい仕事だった。一方、私自身にとってはまたとない貴重な経験になったのである。特に日本を見る外国人の目は想像していた以上に違っており、驚きと落胆の連続で、また大いに触発もされた。違った目を持った外国の方々に何とかして理解してもらうには、先ず自分の国日本を冷静に厳しく客観的に見た上で、自信を持って話すことが必須であった。島国根性的発想は一切通用しないが、誇りは堅持すべきなのである。おかげで、日本の良さも悪い所も再認識することができるようになり、有り難いことだと感謝している。
 思い返せば数え切れない、実にいろいろな体験をした。USスチール会長御一行は自家用機で来日、私も乗るには乗ったが、それに限らず何かにつけスケールの違いに目を廻した。若き日の小澤征爾率いるトロント交響楽団の日本演奏ツアーに同行して、天才のデリケートな日常と楽団員達の様子にも接することができた。その後もともと好きだったクラシック音楽のとりこになり、ずっと京都市交響楽団を応援している。1960年代日本と香港との合作映画の主演女優であったユーミン(尤敏)に、その後マカオの大実業家夫人としての訪日でお会いした。映画で見た美人というよりも、その気さくで優美で素晴らしい淑女であることに感心した。シボレーの重役御夫妻の夫婦愛には真底心を奪われた。聾唖の夫人は母国語ではない私の英語を唇を読んで理解してくれ、思いやり深く優しくて堂々とした方だった。また御主人が夫人を見守る温かさは、こんなことが現実にあるのかと思うほど豊かなものであった。米上院議員の息女は重度の身体障害者で、秘書と看護士が同行しての来日であった。その頃の日本各所では身体障害者の受け入れが今よりも更に悪く、私も大変なつらい思いをしたが、日本のそういう不備にきついお叱りを受けた。スウェーデン王立研究所はじめスウェーデンの人達の案内もよくしたが、当時スウェーデン人の来日は珍しかったのか、ずば抜けた背の高さと美しい金髪と際立った青い目はどこでも注目の的になり、電車や船の中で必ずと言っていいほど日本人が声を掛けてきたものだ。私が言葉の橋渡しをして、ささやかな温かい民間交流が成立した。
 朝から晩まで走り廻る、苦しいけれど楽しい仕事であったが、常に決まって困ったことがひとつあった。客は、あらゆる国籍、人種、宗教、思想、職業、年齢等、また旅の目的も興味の中身も全てが違っているし、そういう人達を、時には入り混じって世話するのだから、その意味の難易度は相当高い仕事である。彼等にとって現場担当の通訳ガイドは、唯一の言葉が通じる世話係の日本人であるから、頼りにされ過ぎて「何でもあり」ということになる。それを我がままと言ってしまえばそれまでだが、民間外交の責を背負っている者としてはそうもできまい。大抵のことはきっちり、たっぷりと説明すると紳士的な理解を示してくれる。ところが、彼等の多くが、与えられた行程表では満足しない、これは少し問題だった。特に京都では「もういくつも同じような神社仏閣ばかりに連れて行かないでくれ、日本人がどんな暮らし、どんな考え、どのような人生、どんな楽しみ方をしているか……そんなことも知りたい」ということであった。多種類のツアーがある訳でもなく、大体外国人向けの行程表は決まったものが多かった。予算から乗り物等あらゆる予約まで既にアレンジ済みで、それに従って動かねばならなかったから、直前になってしかも現場での変更にはいろいろの弊害も伴った。しかし、日本文化の理解については初心者というべき彼等にとって、神社仏閣の事細かな違いは主眼ではなく、この長い歴史の中で世界に冠たる立派な文化を築いて来た日本人は一体どう違うのか、どうしても知りたいし学びたいというのである。いくら立派でも出来上がったものばかし羅列されてもつまんない、というのだ。「日本をもっと良く知りたい」という、日本人にとっては有り難い発想から生じているのだから、これは受けて立たねばならない。
 こんな客を満足させる為には、何よりも豊富な一般常識と楽しさが欠かせぬ条件だった。話題ができるだけ多種多様、浅くてもいいが多岐に亘っていることが必要で、説明にもユーモアやジョークをたくさん取り入れることに結構努力したものである。日本人家庭を実際に見てもらおうと思っても、日本人は社交性に欠けると言われた当時、ホーム・ビジット(home visit)をアレンジするのはかなり骨が折れた。数少ない協力者はなべてすばらしい日本文化の担い手であったが、大変な手間が掛かるものであったし、それらはすべて日本の「ハレ(晴)」の姿をお見せしたに過ぎないし、団体客には適用できなかった。彼等は日本の「ケ(褻)」の姿も知りたがった。仕方なく、自発的な創意工夫をして、行程表にはない種々雑多な所へ連れて行ったり、自分達で行ってもらう手配をしたりしたものだ。また私自身のことを日本人の一例として、時には夜遅くまでお酒に付合い、たくさんの実直な質問に答えながらお話するととても喜ばれた。特に旧東海道筋の古い家に生まれ育った私の父母・祖先・親戚のことや旧いしきたりに縛られた地域のこと、普段の家庭生活・風習・歳事記に出てくる実際例の話は評判が良かった。この仕事は臨機応変と実行力、機転が利かないと乗り切れるものではなく、またある意味で「演出家」にならねばならないのだ。
 当時のアンケートによると、米本国では日本は中国の一部、香港が日本の首都と本気で答える人が多いような御時世(「そうか、ああ…」と思うしかなかった)だった。そんな状況下で日本を訪れたいと思って来日する観光客はそれなりの見識と関心を持っている人が多かったし、大抵が『Japan』という案内書を抱えていた。同じ人間として異文化に興味を持ち、もっと見たい知りたいと思うのは当然のことで、そういう人達の日本旅行中の凄い質問の洪水は覚悟しなければならなかったのだ。そして、若い私は「日本の真の姿」をできるだけ知って帰ってもらわねばなるまい、誤解があってはなるまい、との熱意にひとりで勝手に燃えていた。大きな誤解に衝突すると、サービス業という立場も忘れて激しい応戦までやってしまったことが懐かしく思い出される。が、彼等にはむしろその方が受けた場合の方が多い。
 このような外国人観光客と同じ、それぞれ国は違っても人の思うこと、感じることに大差はなく、明治以降の多くの日本人画家達が、見たい、知りたいと思って海外を目指したのも当然のこととして頷ける。画家達は、芸術を通しての興味であり憧れであり勉強であった訳だから、なお一層その気持は強かったことだろう。異国の地で遺された作品だけではなく、その手法と伝統、またその空気みたいなものを感じ学び取る為に非常に貪欲になったことは容易に想像できる。そうだからこそ、実家に多大な費用負担をかけても、どんなに長くてつらい旅であっても、「行かなければならない」必須が彼等を欧米へと押しやったのだろう。彼等の旅立ちは、今日私達がやっているお気軽な海外旅行とは「月とスッポン」、比べものにならない長大な時間、大変な費用と労力、手間、そしてそれを上回る決心が必要であった。そんな状況においてこそ、画家達の貪欲な精神が高揚して芸術性が溢れ出し、希代の佳品が生まれたと言えるのではないか。今では死語か野暮語かになってしまったハングリー精神こそが、このような佳品を生んだのではないだろうか。現在の私達は、特にその点を頭において、この時代の「滞欧作品」を観る常識を持たねばならないと思う。時代背景の考察は大切で、理解を助ける大きな要素でもあり、それはまた時代がもっと進み変わればこそますます重要になって来るだろう。
 短い間ではあったが、私なりの波乱万丈の通訳ガイドの仕事の中で、パイオニアである三浦昇三氏のことをここに紹介し特記しておきたい。三浦氏は、私だけではなく当時の多くの同業の方々にとっても大先輩で人間国宝的存在だった。大正15年、当時の鉄道省観光局が実施した第一回の観光通訳案内業試験の合格者、つまり通訳ガイド第一号にして現役、模範とすべき第一人者だった。私が御一緒し薫陶を受けた頃は、既に第一線は退かれ、会社(阪急交通社)の重鎮というか宝物のような存在で主に研究活動をされていた。80才をとうに過ぎておられたが、大層お元気で小柄で古武士の風格、話すと温和で正真正銘のイギリス的紳士だった。もともとは横浜で貿易商をされていて英米に長らく滞在されており、夫人はイギリス人だった。外国人を受け入れる体勢もまだ整っていない業界初期(昭和初期)は、横浜に本拠を置いていた英国系や米国系の会社が主に外国人観光客を取り扱っており、日本交通公社がやっと基礎固めができた頃であった。三浦氏はその頃からずっと業界全体にあれこれと尽力されて来た。そして「昭和9年に神戸入港の外国人観光客を“市場開拓すべく”神戸に移り住み、以後ずっとそこを基地に働いてきた。(昭49.5.14.日本経済新聞文化欄より)」と仰っている。
 三浦氏50年の活動は華々しいもので、サマセット・モーム、ノエル・カワード、オランダのベアトリックス王女、ベルギー皇帝など、他にも聞くと錚々たる方々をたくさん案内された。私がよくお聞きしたのは、米国第32代フランクリン・ルーズベルト大統領(ニューディール政策、ヤルタ会談等で有名)未亡人のエレノア・ルーズベルト女史のすばらしさだった。エレノア女史は、第26代セオドア・ルーズベルト大統領(パナマ運河建設、日露講和条約等で有名、テディと呼ばれる)の姪でもある。夫君の没後も「夫の意志を継ぐ」として国連人権委員会米国代表として活躍され、国連世界人権宣言の起草に奔走された。F・ルーズベルト大統領がポリオ後遺症で身体不自由であったことは当時はあまり知られていなかったが、エレノア女史の昭和30年来日の時は、バンコクであった国際ポリオ学会の続きで、ポリオの権威グレビッチ博士と御一緒だったらしい。車窓に広がっている水田の美しさを褒めながら、畦道にずーっと大豆を植えてあるのを見つけて、博士が「あの緑の植物は何か」と質問されると、女史は「日本は国土が狭いので、あらゆる土地を利用している。畦道さえも無駄にしないで大豆を植えているのよ。お百姓さんのすばらしい知恵だ。」と答えられたらしい。当時農民が米軍射撃場の変換を求めていた事情があり、その心情を察して、博士に「あなたもお百姓さんの気持がよく分かるでしょう。」とも仰ったそうだ。三浦氏は「そういう夫人の観察の鋭さと、日本人への思いやりと、日本の驕らない、整然と した美しさと知恵への、偽らない理解に心打たれた。夫人には脱帽だ。」とよく仰っていた。私は他方で、エレノア女史の3回の来日をお世話された三浦氏の気品溢れた深い教養が、少なからず女史のこのような日本理解をお助けしたことを確信した。
 こんな面白いお話と共に、三浦氏は、駆け出しだった私には会う度に試験をされたのである。ある日例によって「コンニャクの花はどんな花か知っているか」と質問があった。三浦氏の難問にはたいていの人は正解できず、私も零点続きだったが、これは特別に難しい。コンニャクは植物の根から採るぐらいは分かるが、その植物の全体像も、ましてや花なんて見たことない。コンニャクは5年目ぐらいにならないと花が着かないそうで、4年でイモを掘り上げてコンニャクにしてしまうので、農家の人も知らないのである。三浦氏は農業試験場からわざわざコンニャクの花芽付きの苗を送ってもらい、自宅で栽培されたのだという。見事に花は咲いたのだが、結果は三浦氏もたまげるほどのものであった。なんとその花は、聞きしにまさるグロテスクそのもので、その悪臭たるや凄まじいものだったらしい。さすがの三浦氏も御近所に迷惑がかかりひどい目にあったと言われる。植物は大好きな私も、植物図鑑ではもの足りずに確認のためにそこまでされる三浦氏にはびっくり仰天した。私達通訳ガイドの協会誌『TRAVELCOMPANION』には、とても詳しくて親切な「ガイドのための植物考」「ガイドのための昆虫考」などを連載されたが、この分野に限らず、その博識ぶりは舌を巻くものであった。
 三浦氏のことはなかなか語り尽くせるものではないが、ここでは昭和49年に仕事を去られた後、偶然知り得た三浦氏と絵との関わり、イギリスとの関わりについても記しておかねばならない。現役で仕事中は、三浦氏がまさか私達が始めた画廊に関係があろうとは夢にも思わなかった。ある日のお便りで、三浦氏が明治期の洋画家・高橋勝蔵に絵を習っておられたことが分かった。師匠の絵もあると言われるので、神戸のお宅にお邪魔して見せてもらうことになった。ビルが建って神戸の海が見え難くなってはいたが、さぞ昔はきれいに見えただろうと思われる山手に近い瀟酒な洋風のお宅だった。高橋の「西瓜と葡萄」の油絵は、ざっくりと二つに切られた西瓜の前に葡萄があしらわれた卓上の静物画である。左横から射す光に映える果物を、暖かい色彩の織り成す陰影描写により捉えた佳品であった。高橋勝蔵は宮城県に1860年に生まれ、渡米してカリフォルニア・デザイン学校に学び、シカゴ万国博覧会で一等金賞受賞、帰国後は東京芝山研究所を開設した。そこで三浦氏は高橋に師事されたらしい。この時三浦氏より譲渡された作品は、現在は宮城県美術館の所蔵となっている。私達は三浦氏が描かれた巧みなパステル画もたくさん拝見した。師匠譲りの大変真面目な正当派の自然描写作品ばかりだった。折々に描かれていたらしく、こんなこともしておられたのかと、また感心しきりであった。この時お土産に頂戴した素晴らしいレンブラントの銅版画作品集を今でも大切にしている。私は三浦氏のパステル画の作品展をしたかったと思っているが、その後作品はどうなってしまったのだろう。


高橋 勝蔵 「西瓜とぶどう」(宮城県美術館蔵) 明治末期頃作  

 三浦昇三氏が仕事を引かれた同じ年、最愛の夫人のレオニーさんを亡くされた。私達が高橋勝蔵のことでご連絡を頂いた時はその後だったので、夫人にお会いできなかったのが残念だ。三浦レオニーさんは日本におけるイギリス刺繍の第一人者で、神戸文化賞を受けられた方なのである。貿易商を営んでおられた父上の関係で、三浦氏は若かりし頃長くイギリスに滞在されており、マンチェスター生まれの夫人とのロマンスの実を結ばれた。夫人は日本へ来て、洗練されたイギリス刺繍を紹介し、広めて下さり、この地に骨を埋められた。レオニーさんは人気作家であったし、その活動がその後の日本に於けるイギリス刺繍の自由な発展を促したことは言うまでもない。刺繍図案は『イギリス刺繍・たのしい手芸』『三浦レオニー作品集』などの出版物として遺されているが、唐草模様のような、或いはウイリアム・モリスのような、曲線をからめて図案化するヨーロッパ風の美しくて上品な絵柄である。刺繍作品はどのように保存されているのだろうか。
 三浦夫妻は生涯を通じて、日本を世界に、世界を日本に格調高く結んで下さった功労者である。世界との文化交流を、民間から一歩一歩良い形で導いて下さった大恩人であろう。その足跡は、いつの世も誰もが模範にするべきもので、有形無形の文化力に大いなる力を与えて下さるものであった。こういう方達があってこそ、今私達は世界との近さのメリットを安心して享受できるし、私達も後に続いて行かなければならない。忘れてはならないことだと思う。
 このように長々と三浦氏とイギリス人の夫人とのことを書き連ねたのは、本展で、明治期に日本に赴任したイギリス外交官夫人 F・ド・ラ・ポールの水彩画を出品しているからでもある。浅井忠等は渡欧してすばらしい水彩画を体得したが、今から100年以上も前に、水彩画の本拠であるイギリスから来られた外交官夫人が、この地で日本の美しい風景を水彩画で描いていた、そんな発見ができたのだ。尤も当時から新聞社関係の外国人が本国への報告に絵等を描いて送っていたが、知られざる民間レベルで既にこういう風に文化の流入があったことに、心惹かれている。松島、日光、箱根、江ノ島、淡路島、小浜など、異国の地で異国の風景をこよなく愛し描いた穏やかな水彩画である。まだ何かにつけ不便だっただろう日本各地を観光旅行された彼女の、素朴な感動が鮮やかに描かれている。この時代、彼女らを案内した方々はどのような人だったのだろうか、同業の先輩達の姿を私は水彩画の佳品を通して偲んでいる。かたや、日本人画家達が欧米へ赴いて描いた作品と、両方に数々の彼等の熱い思いを感じながら、その素晴らしさと時代の流れに思いを馳せている。
 私の生きて来た戦後の昭和と平成の20年足らずは、日本の「内側」をいい意味でも悪い意味でも瓦解して来た時代ではなかっただろうか。世界との関わりにおいて日本の歴史の中で、明治は「維新」という名の示す通り重大な変換をしたし、大正、昭和とそれをずっと続けて来たのだと思うが、世界の潮流がそうであったからとはいえ、それは上から、つまり行政から率先したものではなかったか。「戦後50年」という言葉がしきりに飛び交うようになった頃から、今度は「かたち」としての日本ではなく、「なかみ」としての日本に、とうとうとてつもない大きな変化が起こったように思う。古き良き日本の美徳、美意識、長い歴史が試行錯誤して培って来た精神土壌、絶対に即座には築くことのできない文化等は、脈々と受け継がれて行かなければならないはずなのに、またそういうものが日本の宝であり日本の個性であり世界に尊敬される大事なものであるのに、もはやどこへ行ってしまったのだろうかと捜さねばならない。そういうものが隅っこに追いやられ、小さくなって、息も絶え絶えでやっと生きているのみ、と感じるのは私だけだろうか。それこそ、“もったいない”。もちろん昔からのものがすべていい訳ではなく、封建性やそれに基づく因習など他にも国際社会の正しい通念に則って改善すべきものはたくさんあるだろうが、現状は惨憺たるものである。このままではこの国は羅針盤を無くした漂流船になってしまう気がする。「なかみ」を形作っている主役は「ひと」である。その「ひと」の心が甚大な変化を してしまった、それが一番の私の嘆きである。「内側」からの瓦解、悪い意味での瓦解が、もう始まってしまっている。一体、日本人は何を以って精神的支柱にしようとしているのだろうか。
 この嘆きを、どうかして希望に変えることはできないだろうか。過去の素晴らしい先人達が遺してくれた「有形無形の宝もの」をもっと真摯に、今一度受け止めてみてはどうだろうか。自分達が先祖から送り伝えられて持っているものが、どんなに素晴らしくかけがえのないものであるのか、気がつかなければいけない。私達の歩んで来た道を、外から内から、武ではなく文の力で以って、反省の糸口にはできないだろうか、とそんなことを考えている。
 有形であれ無形であれ文化力よ、今こそ立ち上がれ、と言いたい。この展覧会が、そんな一助になれば幸いに思う。
                          (平成18年1月26日)
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