増原宗一の怪異とロマン         星野 万美子


 増原宗一は異色で才気溢れた、幻の画家である。そんなに遠い昔の人ではない(明治30年頃の生まれか)から、この時代の関係資料のどこかに出てきてもいい筈が、鏑木清方(かぶらききよかた)の弟子であること以外、いったいどういう人なのか殆ど分かっていない。明治維新以降、西欧文化を敏感に吸収し試行錯誤を繰り返して大きく進展していた美術界は、関東大震災(1923)や二つの大きな戦争を挟んだ社会の激変に翻弄(ほんろう)されて流浪転移した。そしてどれだけたくさんの作品や資料が散逸したことだろう。遠くてもほんの100年程の近い時代でありながら、この時代の日本の美術は意外にも詳しい解明が遅れている。最近は国内の研究者達が精力的に紐解く作業を続けているし、海外の研究者達も熱い関心を示し始めており、混沌(こんとん)の時代こその画家達のエネルギー溢れる芸術活動はそれだけ魅力的であるということなのだ。増原は、研究どころか存在さえもまだ知られていない謎めいた画家である。かつての岡本神草(1894〜1933)もそうだったが、夭折(ようせつ)の画家にこういうケースが時々見受けられる。没年については昭和3年に遺作展開催(於東京上野)の貴重な資料があり、昭和初頭頃と思われるが確かではない。ところがこんな事情にも拘(かか)わらず、よくぞ遺(のこ)っていた作品を見てみると、誰しもがその特異性にはっとするような、幻の作者に代わって「すべてを語ります」と宣言しているような、実に先進的で鮮烈なものを携え込んでいるのだ。画家は死し永遠に黙しても、遺された作品が二度と戻らない当時を背負って何かデカイものを今の私達に雄弁に伝えようとしている。増原宗一は、これ程インパクトの大きい絵を描いているのに、何故今まで注目もされずに忘れられてきたのかと首をかし傾(かし)げずにおれない、そんな画家である。
[幻の画家と遺された絵の一人歩き]
 画家は絵を産むことによって、生涯見つめた真実と美を伝えることが可能で、そうして生まれた作品は画家の手元を離れて一人歩きを始める。作品が立派に代弁をするのだ。込められた画家の息吹とエネルギーが大きければ大きい程、絵は時代を超えて光を放って堂々と生きて行くのであろう。
 すばらしい芸術作品の一人歩きは美術に限られたことではなく、文学にも音楽等にも相当する。後世の私達は、作者がもうこの世に居ないのをいいことに、あるいは言い訳のようにして、作品を前に喧々諤々(けんけんがくがく)議論を闘わせる。人生や人間の問題について考える宿題と材料をもらい、夢を与えられ、また大いなる感動と楽しみを頂くこともできるのである。それこそが鑑賞の本分であろうし、作品がしっかりと一人歩きをしていることの実証でもあろう。
 ごく最近のこと、京都国立博物館での『大絵巻展』(06.4.22.〜6.4.)に、現存する最古の<源氏物語絵巻>(国宝、十二世紀)が出展され大盛況を呈し、長い行列ができた。私は対面するだけで至福。色褪(あ)せているとは言え、その歴史の重みに負けないで伝わって来る美しい線と色に、人の仕業(しわざ)というか作業というかメッセージというか、描いた人の意図するものが今も溢れ出て来んばかりに新鮮で身近に感じられ、それが驚きだった。「源氏物語」は言わずと知れた、平安時代に紫式部が書き、今では欧米やアジアでも良く知られる日本の古典文学である。執筆当時から大人気で貴族や天皇までが夢中になったらしい。早くから物語絵になり、和歌を詠む人の第一の教養書にもなり、繰り返し写本版本になって注釈書も数多く作られてきた。昨今も更に続いて遠い昔に何回もあっただろうブームがうねっては巻き上がり、人々を惹(ひ)きつけて止まないのである。もっとも我が国では物語を描くことが古くから行われ、紫式部も「源氏物語」の中で物語を絵画化して楽しむ様子を描いているが、それ自体が文学作品の一人歩きの明らかな現象である。文学としての源氏物語は、その純粋な姿で堂々たる一人歩きを続けているのは勿論のこと、それに留(とど)まらずに絵巻などに姿を変えて一人立ちし、本分と比類のない大きい別の世界をも築いたのである。作品の立派なひとり歩きの代表とも言えるだろう。作者の紫式部は、自分の作品が時代を超えてここまで品を変え姿を変えて愛され影響を与え続けていることに、さぞびっくりしているに違いない。

 一方で、研究者があらゆる手を尽くして、少しでも作者自身のことや作品が生まれた状況や時代背景等を明らかにすることも、忘れてはならない重要事項なのだ。それはまたとない発見となって後世にいつまでも伝えられる。私達に更なる驚嘆と喜びをもたらし、鑑賞する楽しさは倍増するだろう。作品の一人歩きに伴って、影になり日なたになってなされなければならない本当に大切な仕事だと思う。この検証作業は、まだ状況が分かり得る、作者の生きていた時代にできるだけ近いうちにやっておかなければならないのがポイントである。今の私達には、他の誰でもない私達自身がやっておかねばならない仕事があるのだ。当画廊が目指す重点でもある。増原宗一のことも今のうちにもっと明らかにされることを願っている。紫式部のことは、その時代に近い人々が価値を見極め伝えてくれたおかげか、当時の人としてはかなり知られているのだろうし、今改めて近辺を調べ直すにはあまりにも遠過ぎる時代の人であろう。それでも、もしもっと新事実が分かれば、もっと面白いだろうし、もっと知りたいし、もっと楽しくなるだろう。
 現在見つかっている増原の作品は、ずっとどこかで長い間眠り続けたままであったが、やっと発掘の日の目を見た。画家の手元を離れ一人歩きを始めても、運命に翻弄されたのであろう。それでもかけがえのない画家のメッセージを一身に背負った作品は強く生きていたのだ。その運命的に背負っているものは、目にも鮮やかに光り輝き始め、こうして時代を超越して私達の心を捉(とら)えて深く入り込んでくるのである。幻の画家・増原宗一が遺した絵は、今まさに表街道に躍り出て一人歩きを始めたばかりである。
[怪異と言われて]
 師である鏑木清方は、増原宗一の絵を「怪異」と表している。なるほど、本展出品作を観ても、まだ未発見の作品図版を見ても、どこかしこに漂う怪異さに誰もが息を飲むであろう。女性の主題が圧倒的だが、一般的に言われる美人画でないのは一目瞭然である。
 例えば、歴史上の人物<伊賀の方>(宗一画集−4、p.34)と、<同>(宗一画集−5、p.35)などは怪異そのものである。伊賀朝光の娘であったので「伊賀の方」と呼ばれたその題材の女性は、北条政子の弟で鎌倉幕府第2代執権北条義時の4番目(もしかすると5番目か)の正室であったが、夫(義時は急死している)を毒殺したという噂で残る人なのだ。先妻の子泰時に対抗し自分の産んだ子政村を次の執権にするために夫を毒殺‥‥‥ところが政子の肩入れで泰時が執権になり、「伊賀の方」は失脚、自害したとも、謀(はか)られたとも伝えられている。それにしても、何故この「伊賀の方」には蛇が絡(から)んでいるのか、その蛇は毒蛇なのか。女の執念としての蛇なのか。どこか西洋風の美女に描かれているが、同じく美女で名高いクレオパトラが毒蛇に自らを噛ませて自害した話と結びつけているのか‥‥本作が発見されたらさぞ面白いことだろう。

 また<誇>(宗一画集−8、p.38)は、鳥の闘争が着物の柄になっており、女性の、今まさに恐い鳥の顔にならんとする凄まじい形相と共に、恐ろしく怪異である。増原の見ていた鳥というものは、花鳥風月の雅(みやび)なそれでは決してない、太古に闘争を繰り返していた巨大猛鳥の素質を持続している激しい鳥である。この資料図版から色が選別できないのだが、これ等の鳥を鷺(さぎ)と烏(からす)とするならば、昼と夜を表すかもしれない。或いは「鷺を烏」「烏を鷺」のことわざが意味するように、理を非に非を理に言いふくめ不合理を押し通すこととすれば、そのタイトルが示す通り、誇り高き故にそれらしき何らかの不条理な事象に対抗している、多分孕(はら)んでいる女性の怒りの像とも考えられる。
 <戀(こい)を語る眞女児(まなこ)>(宗一画集−11、p.41)は『雨月物語・蛇性(じゃせい)の婬(いん)』に登場する(本当は歳とった大蛇の)女主人公である。1921(大正10)年に谷崎潤一郎の脚本で映画化されたから、増原はその映画を見たかもしれない。中国でも我が国でも昔からある、蛇=女の執念という通念を作品化した怖い女の話である。増原の絵の中の人物は、勿論人を惑わす物の怪(け)だから一見美しく描かれている。でもよく見ると、その眼は執念のそれであり、手は何とも怪奇でくねる蛇を思い起こさせて、普通ではないのだ。師・鏑木清方に、有名な<妖魚>(大正9年)と共に、その次の年に<雨月物語>(大正10年)で同じく『蛇性の婬』に主題を求めた作品があり、増原の絵を怪異と表した師自らも、怪異性を描いている。ところが、清方は自著で、第2回帝展出品作である<妖魚>の屏風を久しぶりに出してきた折に、「‥‥‥かふいう画材への興味もうすれ、‥‥‥自分の作ながらどうもそんな気がしないまで、親しむでもなければ、疎(うと)むでもなく、‥‥‥ただ在(あ)るものをあるがままにごく淡い関心で接するだけのことである。」と述べているのは面白く、一旦は怪異的なものを好んだが、もうそれは卒業だとでも言っているのだろうか。それにしても、清方自身が後年あまり良しとはしなかった<妖魚>が彼の代表作の一つであり、時代を先取りした名作であることは皮肉である。

 <毛抜きの姫君>(宗一画集−14、p.44)は、歌舞伎十八番のひとつ『毛抜き』にある、婚約中の姫君「錦の前」が毛が逆立つ奇病にとりつかれている、その場面を描いたものだろう。『毛抜き』は1842年(寛保2)に2代目市川團十郎が最初に演じ、1909年(明治42)市川左團次が復活させて現在に伝えられている。主人公の粂寺弾正(くめでらだんじょう)が毛抜きで鬚(ひげ)を抜いていたら、その毛抜きが勝手に立って踊り出すのに、銀の煙管(きせる)は反応しない。そのからくりから、怪しいのは天井裏と察して槍で突くと、忍びの者が磁石を操っており、姫の鉄のかんざしに反応させて毛を逆立たせていたのを見破るという話である。話の落ちは勇壮なものになってはいるが、女の命である長い黒髪が天に向かって逆立つさまは、女が持つ怪異な特性ゆえに人を震え上がらせる要素を備えており、話の中心となる強烈に印象的な部分である。増原は写真のネガのような逆接的な手法でその異常を表し、その髪はまるでメラメラと燃え上がる執念の炎のようでもある。
 以上の5点はまだ未発見だが、怪異ゆえにどこかに息を潜めてじーっと隠れているのであろうか。これら増原の絵画には、怪異な女の表現に伴って、蛇や鳥(平和なというよりも攻撃的な気性の激しい鳥)が、不思議に効果的に絡んだり連想を誘うような設定となって登場するのも注目すべき点だと思う。
 また植物の表現にもどこか怪異な趣味が覗(のぞ)いていると思う人もいるかもしれない。<ざくろ>(宗一画集−35、p.54)や<おもと>(宗一画集−33、p.54)はアニミズム的でもあるが、その題材の選び方や描き方といい、絵の真中に紅(あか)く熟した実を真正面に据え、周りに少し怪異的な葉っぱをアレンジしていることといい、男性の目から見た明らかな女性そのものを表現しようとした意図が感じられ、植物を描いたものとしては怪異と感じる人もあるだろう。他にも一見そうとは見えない作品も、どこかに怪異な要素を含んだものが多いのは事実で、ただ単に師が言う「怪異を好んだ」では済まされない何かがあるのだろう。怪異は何故こうもして増原の心を捉え、何故こんなに執拗にこだわって描かれなければならなかったのだろう。あるいは、はたして増原はそれをことさら怪異と意識して怪異を好み怪異を描こうとしたのだろうか。

[女性と文芸と水と]
 増原は多分夭折したと思われるが、若き日のこの天才的画家は、同時代の多くの画家がそうであるように、女性の、特に内面に目を向けていたと思われる。自分にはないものに興味を持ってこだわり、懸命にその中に真と美を求めるのは人の常で不思議なことではない。増原にとって女性を見つめることは文芸(文学や芝居)に触れることでもあり、それが並々ならぬものであった点は一つの大事な特徴であろう。師の鏑木清方は多方面で才を発揮した大家であるが、やはり文芸に多大な興味を示した。江戸情緒溢れた下町に生れ、文芸や芸の道を嗜(たしな)む父母の影響を受け芝居を好み、泉鏡花や樋口一葉の文学に親しみ、自身もたくさんの文章を書いた。山田肇編『鏑木清方文集』全八巻(昭和54年、白凰社刊)の一巻にあるが、自身の絵づくりについて清方は「強ひて名づけるのだったら、主情派」と述べている。増原は師のこういう面を受け継いで、または強い共感で以って大きな影響を受け独自の世界を追求したのでは、と私は考えている。文学は古今東西を問わず飽くなき「人」の探究をするものであり、それを基に芝居も生れ、現実の女性も文学に登場する女性も「人」であることに変わりはない筈で、彼の作画姿勢にはそれ等が常に入り混じっていたように思う。現実の女性もそういう文学的な眼をだぶらせて観ていたのだと思う。写生をしていてもその対象が何らかの文芸の登場人物と重なっていたのでは、と思う。単なる写実ではなく、そういう深い示唆(しさ)を含んで描いたからこそ、強く語りかける絵になった。内容と含みのある女性の表現になった。
 <夏の宵>(表絵、図版(1)、p.15)は、世界的な潮流をも汲みつつ日本のその時代を敏感に先走って象徴するような、様々な要素をたっぷり備えている名作である。この絵は、常に私にある事柄を想い起こさせ、それがどうしても頭から離れないでいる。真中の主人公の女性に、『源氏物語・宇治十帖』に出て来る「浮舟」がだぶって見えるのだ。湯上がりのこぼれんばかりの美しい姿を描いているが、増原はその女性の中に浮舟を思い浮かべていたのではないか。実父より身分が低い継父の娘として育てられた生い立ち、匂宮(におうのみや)と薫との三角関係に翻弄されて入水し、助けられて尼になっていたにも拘わらず死んだものとされ、生きていたと分かってまた追いかけられたが応じなかった、誇り高い不運の女性である。宇治にかくまわれたことや、源氏物語の江戸絵本に出てくる、匂宮が浮舟を舟に乗せて対岸の隠れ家に連れて行く場面などが増原の心を大きく打っていたのか、浮舟だけではなく、宇治川と水を彷佛(ほうふつ)させるものが他の作品や、彼自身が描いたと思われる軸装の図案にもよく出てくるのだ。特に浮舟の「入水」が彼の心を捉えたと思う。満々とたたえた巨大な水瓶の琵琶湖からどっどーっと送られて来る宇治川の水量ときたら、市内の鴨川を見慣れているとちょっと恐ろしくさえなるほど凄いものである。その宇治川に、哀れな身を嘆くとはいえ入水までしてしまった浮舟の、恐いほどの凄さと一途さと誇りの中に怪異を見、そして毛髪の一本一本でさえきっとこのように美しかっただろう浮舟の美しさと、彼女を代表とする女性への強い憧れとロマンが、<夏の宵>の美女に重なっていはしないか。怪異と言われるような表現になってしまった、女性への恐れ、女性の男にはない強さ、奇怪な不可解な存在と共に、同時に感じる、得(え)も言われない不思議な甘さ美しさ、そんな怖さも打ち消して昇華していく天女のような崇高な美しさを、この作品に見事に表現しきっている。湯上がりの美女であり、入水した浮舟でもあるこの主人公が羽織る着物の柄は、見事に渦巻く水模様以外になかったであろう。両側の女性とは別個の世界からすーっと表出したように描かれているのも、そこに文学的なものを意識しているからに違いない。
 女性は実はそういうもの、母体になれる女性というものはそういうもの、男性には永遠に分からない‥‥‥それだけ複雑怪奇なものと素晴らしいものを合わせ持っている、それがとてつもなく大きいからこそ表と裏も想像を超えたものになる、それが光になったり影になったり‥‥‥‥洋の東西を問わず、文芸に表しても表してもまだ分からない永遠の命題、女性だけでなく「人」というものは、違う観点から見れば所詮そのようなものなのかもしれない‥‥‥そこのところを、増原は豊かな感性を持っていたが故に、思わず深く覗き込んだ。

 増原が他にも描いた浮舟に、<浮舟の君>(宗一画集−28、p.51)や<雪女>(宗一画集−23、p.50)の掲げる扇子の絵などがある。何故浮舟なのか。増原宗一はひょっとして宇治や三室戸(みむろど)あたりに住んでいたことがあるのかもしれない。<月の三室戸>(図版(10)、p.20)と、<同>(宗一画集−26、p.51)のように宇治川から見ただろう三室戸そのものを描いてもいるのだ。
 ごーごーと流れる宇治川の水は、浮舟といつも重なってそこらじゅうに特徴のある水の表現ともなって出て来るのである。水というものが描く、とどまることを知らずどこまでも流れゆく曲線は、女性を描く流麗な線とも折り重なって、終始増原の心に纏(まと)わりついたのだろうか。小勝禮子氏が「大正の日本画ー水の女、水の風景」(『大正の新しき波 日本画1910-1920年代』展1991栃木県立美術館他 カタログ)で、玉蟲玲子氏が「流水のモティーフをとおしてみる鏑木清方の女性像」(『鏑木清方展』1993静岡県立美術館他 カタログ)で、それぞれ緻密な研究をされ、鏑木清方と女性と水との関連を述べておられる。奇(く)しくもその弟子である増原宗一にも、女性像に絡む水の表現がまさしく堂々と大手を振ってあちこちに出現するのは、まことに興味深い。
[真実とロマンの世界へ]
 増原と、同じく女性の内面に迫り特色豊かな世界を表現した甲斐庄楠音(かいのしょうただおと)(1894〜1978)と、どこか共通したものを見い出す人もあるだろう。確かに似ているところも多く、方向性としてはそうだったかも知れないが、見つめていたもの、そこから引き出したものは少し違っているのではないか。思わず深く覗き込んだ、不可思議な存在である女性の内にある限りなき奥深い世界、そこに増原はのめり込んで苦しんだ。そして同時に輝ける光を見い出して追い求め憧れた。答は出ずとも真剣に追求しただろう。遺 された絵がそれを雄弁に物語っている。上記の<夏の宵>に於ける文学的要素のように、増原が女性の中に怪異と共に見たものは、相対するロマンだったのである。どちらも否定せず真実として受け止めた増原独自の世界がそこにあると思う。決して怪異だけを好んでいたのではないのだ。
 <七夕>(図版(7)、p.12)は、増原のもうひとつの面を表す良い例である。そこに怪異は見受けられず、どちらかと言うと当時の最先端を行くような、非常にモダンな、かつ明るく優しい表現だ。七夕の季節に主人公が着ている着物の柄は桔梗(ききょう)である。桔梗は秋のものとしてのイメージが強いが、実は京都あたりでは七夕頃から咲き出す夏の花なのである。秋の七草のひとつでもあり和風庭園に似合う桔梗を、古来の四季花鳥図にある桔梗の描き方でではなく、わざわざ洋服の柄のような着物にしている。当時そういう着物が流行(はや)ったとも言えるが、それにしてもアレンジの仕方は全く新しい。加えて髪飾りは、日本髪には考えられない西洋的な最もバラらしい高芯剣弁のバラを配置している。増原の素晴らしい進取の気性の表れで、写生というよりも当時のモダンな雰囲気をより多く伝えているではないか。少女の表情も仕草も無垢な可愛さをしっかり見つめて明るく描いている。ただ持っている団扇(うちわ)の黒い三日月がこの無垢な少女の将来を暗示しているのかもしれないし、ひょっとして存在するかもしれない蛇のような指は、わざと袖にすっぽりと隠してあるのかな、と思えなくもない。

 <秋桜(こすもす)>(図版(12)、p.24)は、普通私達が慣れ親しんでいる赤やピンクのコスモスではなく、同じメキシコ原産でも少し系統の違うオレンジ〜黄色をしている「黄花コスモス」を描いている。黄花コスモスは今でこそ我が日本で品種改良が進み、姿も華やかになり初夏から咲いてくれるので人気が出てきたが、当時ならさして注目されることなく地味な存在だっただろう。葉の形もつき方も普通のコスモスとは全然違うのだが、増原は忠実に観察しており、その茎や葉の描く自然本来の真実の線をよく写し取っている。そうだからこそ、ただ単に美しいのではなく、真実ゆえの怪異を感じることもあるのだろう。ポピュラーなコスモスではなく、地味で蔭になっているからこそ新しくて繊細な、こんな綺麗なコスモスもあるんだよと言っているような、進取でデリケートな画家の眼が、女性に対すると同じように路傍の花に注がれた一点であろう。
 <落葉>(図版(13)、p.26)は、働く女性の健気で清らかな姿を、まるで天国のように柔和な心休まる秋の野山に溶け込ませて描いている。女は怪奇だけではない、その優美な世界にふさわしいのはやはり女性だという、憧れと尊敬さえもが込められているように思うのだ。
 増原は女の中に見た怪異を否定せず、かつロマンもしっかりと構築しているのが分かるが、この傾向は、女性を見つめる目が、どちらかと言うと、女性の中に後年仏性をも見い出すことになった秦(はだ)テルヲ(1887〜1945)の方に近い気がしている。女性の内なる真の表現をしたいと思った時、怪異なものと天女舞う世界の両方が交錯して見えたのであろう。それ等がある時は、作者自身が蛇や鳥に感じる凄まじい怖さと怪しさを背負い、またある時は花々の得も言われない麗しさと共にロマンと憧れを掲げて表現されたのであろう。彼の目は常に女性にこの上もなく熱く注がれているのだ。そしてそのものの見方に彼独特の特異な奥深い追求と高い理想があった。秦テルヲは地べたを這って生きていた女性達そのものをえぐりその中に潜む母性や仏性を見い出して行ったが、増原は最初から、そして多くの文芸作品を通しても、女の真実の凄さとその対極にある清らかな美しさとを同時に観ていた気がする。真実を探ろうとすればする程、深みにはまり込んでいく凄さの中に怪異を見、其れ故こそ、表にふっと見え裏にふっと隠れ、また見えて来る美しさの中に安寧なる永遠の美を見た。そこでは文学と、花や鳥、蛇、水が、謎を解きたい思いを背負って目まぐるしく交錯したのだろう。増原の絵にはこの両極が見え隠れして、巧みに表現されている。それこそが彼が見た女性の真の姿なのだろう。師が自らを「主情派」と呼んだが、それをしっかりと受け継ぎ正面切って体現したのが、他ならぬ弟子の増原宗一ではなかったのか。

 増原の内に巻き起こった現実の女性と文学と自然との交錯、その歓喜は、思わず彼に絵筆を握らせた。複雑怪奇なあらゆる要素を内在した女性という存在が醸(かも)し出す、周りに渦巻きちょっとした動きで円を描く曲線、流れて取り巻く華麗で定まらない美しい線、それ等は計算できない、予測できない、そんな不思議な魅惑的な線であった。描かずにはいられなかったであろう。そして勢いそれは、これ以外にはない線となって画面に現れたのである。もっとも日本画家は多かれ少なかれそうしたものであろうが、増原が怪異と共に見たのは、渦巻く流麗な線の先にある永遠の美しさであり、夢のような甘美な世界であった。そこには花々が咲き乱れ、桜花爛漫(らんまん)の着物を纏った女性達を取り巻いているのだ。<笙>(宗一画集−6、p.36)や<春>(宗一画集−7、p.37)や<羅浮仙(らふせん)>(宗一画集−16、p.46)などは、そんな女性像である。花々は実に女性像によく似合い、そこに居るのはまさしくこぼれ咲く花のような天女であり、魅惑的なロマンの世界である。増原は決して怪異だけを好んでいたのではなく、怪異も真実のひとつ、しかしそれさえもが魅力となるような、そんな女性の内なる不思議さと哀れさと美しさとを見い出していたのではないだろうか、と思っている。それは、増原宗一だけではなく、平安の「源氏物語」の昔から、私達が延々と取り組んでいる永遠に解けない課題であるのかもしれない。
 増原宗一の、宇治川の豪流のように溢れ出る才気の表出はこんな風にして起こったのでは、と勝手気侭(きまま)な想いを巡らしてみた。それにしても、彼は私達に何とも大きな宿題を遺してくれたものである。夭折が惜しまれる。
                             平成18年 6月


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