自然・田園・文化に見る日本人の情景     星野万美子


〔はじめに〕
 最近京都では旧い町家を再利用した店鋪やオフィス、アトリエやレストランなどが耳目を集めている。大正・昭和初期頃のインテリアをはじめ、当時の柄いきを利用した洋服や雑貨小物なども人気がある。懐古趣味で新和風に仕立てるのではなく、大正・昭和のデザインや生活様式そのままが珍しく、全く目新しい新鮮な要素として受容されている点が特徴である。外国人の感じ方と似ているのだ。日常的にどこにでも世界が手中にあって、国際的という言葉を使うことがはばかれるような世相でもある。若者の中にはシャイな日本人は見当たらないし、颯爽として、彼等独特のファッションはパリやニューヨークを抜いて世界を先行する勢いである。戦後を象徴する団塊の世代は、定年のイメージにはほど遠い若々しさで、かっこ良くて活力も充分、今までと同じように先へ先へと歩を進めていくのかもしれない。戦後という言葉もどんどん風化している。いまさら限定的に「日本人の情景」を頭に描くこともなければ、特にそうしたいとも、しなければとも思わないだろう。
 でも、ちょっと待ってほしい。先と言っても前が霞んで見えてこないし、どちらへ向かっているのかと聞かれても誰も説明できないのが実情だろう。各層の日本人が身につけた「かっこ良さ」の裏側で、何かがおかしい、どうも晴れ晴れとしない、喪失感や焦燥感や疲弊感が広がってきてはいないだろうか‥‥気持だけは新しく新世紀を迎えたところで、相変わらず日本人お得意の‘事なかれ主義’で進もうとしたところで、ずっしりと重い荷物を引きずっているのを、誰しも心の奥で感じているのでは‥‥‥
 激動と繁栄の20世紀に物質的な豊さとして得たものは数知れないが、反動として、精神的な荒廃を筆頭に未解決の問題を山のように抱えているのが今の私達である。そっと紐解いて内を覗いてみれば、どこへとも消え入ってしまいそうな記憶を頼りに、なつかしい「日本人の情景」を追い求めて涙している人は案外多いのかもしれないのだ。先人の歩んで来た道を辿(たど)り、その智恵を今一度静かに想い返してみたい。かっこ良くはないかもしれないが、心に灯(あか)りがともされるかもしれない。先人の遺作の数々を通して、「日本人の情景」の中に今こそ我が身を置いてみたい。何か重大なヒントが隠されているような気がするのだ。
〔もったいない宝の持ち腐れ〕
 昨今は、グローバリズムの名のもとで、何かと言えば地球規模で見聞し思考することに慣れている。画一化が進んだせいで、どの地方都市も良き特性が無くなって同じようなたたずまいになり、乗り遅れた所は過疎になった。狭い国土を有効利用してきた先祖の智恵からは考えられない弊害である。地方には古来、「貴種流離譚」(きしゅりゅうりたん)のロマンと共に発展した奥深い文化が根付いている。若い英雄が都落ちして他郷をさまよい試練を受けるが、里人達が力になって助けると共に、持ち込まれた都の文化をその地に融合させて培(つちか)い、英雄は尊い存在になって祀(まつ)られるというような話だ。それも消えていくのだろうか。外国との垣根が低くなった。今や日本人は世界の隅々にまで行って活動している。情報が目まぐるしく飛び交う騒がしい世情の流れにまかせて、人の考えや生活の仕様が変幻自在に多様化している現状である。
 一方で、先へ歩を進めているばかりの日本人を尻目に、外国人が抱く「日本人の情景」は、未だに驚くほど食い違っているようである。日本への理解が深まっている反面、尺度の違いからどうしても誤解が発生している。日本人は他を真似ることは得意だが、自分達を理解してもらうことは苦手で、今の若者も同じく、その努力を誰もしていないからである。21世紀は内紛が絶えない時代だろうと言われて久しいが、特に宗教や考え方から来る違いはますます根深くなるばかりだ。グローバル化を進める前に互いが理解し合うことが、昔も今も通じて変わらないポイントだろう。先を走っていく人は、「日本」「日本人」と意識すること事体に異論を唱えるだろうが、反対に、世界の人々と理解し合うためには“互いの違いを認め合う”ことから始めようとする意見も多いのではないか。違うのが当たり前だからである。
 少々脇にそれた例だが、「結婚とは互いの違いを発見することである」とよく言われる。相手との違いを知ることにより自分の知らない世界を知り自分を振り返り、試行錯誤をしながらも互いに尊重し合うことにより信頼が生れ、共に人生勉強をして成長する、ということだ。所詮、結婚に限らず、人同士の理解はそういうものであると思う。肯定否定する前に、先ず自分で自分を知ることが大切だし、それでこそ相手を理解する資格と相手に理解してもらえる条件を備えることになる。世界との交流が当たり前の現代こそ、先ず日本人は日本のことをよく知り、日本人であるべき素地を携(たずさ)えていなければならないのではないだろうか。
 文化不毛の国や、文化を粗末にする国に尊敬が集まることがないように、いくら言葉の壁を克服したところで、いくら外国に迎合して馴染(なじ)んだところで、日本の文化的素地を持たない日本人が尊敬されることはない。ただ根無し草のように思われ信頼が薄くなるだけである。それは文化人だけの話ではなく、諸分野で活躍する人においても、一般人においても同じである。
 私達日本人は長い歴史に培われた立派な固有の文化を有しており、世界でも稀に見る幸せ者なのである。しかし、その貴重さに私達自身が気がついておらず、或いは誇りとして尊重していないのなら問題である。外国で暮らすことも多かった白州正子は、素晴らしい美的感覚と洞察力で以って日本再発見をたおやかな文章で綴っている。「自然が語る言葉に耳をかたむけること‥‥無意識の中に、曲がりなりにもつとめてきたのはそれであった。‥‥それは未だにかたことしか漏らしてはくれなかったが、今のような息苦しい時代に、大きな慰めとなったのは事実である。」(『かくれ里』より)と述べているが、常に自然体で自然と共にあった日本文化と日本人の心の原点に立ち戻るという姿勢を、私達はどこかに置き忘れてしまっている。白州正子は「日本人が古来自然を聞いて培ってきた大いなる精神性に基づいた宝物」を見直し、顕彰する、そんな作業を忘れていないだろうか、と作品を通じて警鐘を鳴らしているように思える。外のものや先のものを追うあまり、折角持っているものを「宝の持ち腐れ」のまま放置しているのは甘過ぎる考えで、それを持たない外国からすれば、何と“もったいない”ことであろうか。

〔時代を背負った美術の重要性〕
 もったいない宝の持ち腐れは物心両面で種々あるが、そのひとつに、明治期以降の激動の社会情勢のもと置き去りにされた美術作品がまだ数多くあり、しかも封印されかかっているのだ。遺産を引き継ぐべき私達が無為無策で何んとしよう。世事に流されずに、常に鋭い感覚を持って森羅万象(しんらばんしょう)と物事の原点を眺めていた非凡の画家達は、理屈抜きで時代を超えて、私達日本人ならではの貴重で忘れてはならないものを、生き生きとした作品に仕上げて遺しているのだ。大声では語らないが、理念を込めて静かに訴えかけ、教えてくれ、癒(いや)してくれる。正真正銘ゆえ嵐の中に居る私達にとって頼りになる羅針盤となるものだ。今どきのバブル的諸業の中からは絶対に生まれない、むやみに他の国を真似ていては絶対につかめない、損得目当ての競争ばかりしていては絶対に見えてこない、日常茶飯事に追われていては絶対に気づかない、ずっしりと重い私達自身の財産なのだ。かけがえのない価値を担っていることは時代が進むほどに分かってくるはずである。
 第二次世界大戦直後からの日本に現に生きて暮らした私達は、その時代の生き証人でもある。激変した過去に直結している立場から、今回「日本人の情景」というテーマに沿って厳選した上で、「これは」という美術作品をひとつのかたちにして顕彰しようと試みてみた。日本の過去未来をもすべてを含めた日本人の情景は語れる筈もなく、そのような大それたものではない。同時代を生きてきた日本人なら、きっと同じ思いを抱いているだろう情景を、芸術作品を通して検証しておきたいからである。先人達が連綿と続けて遺してくれた功績があればこそ、初めて成り立つものであることも加えて知っておきたい。「受け継いでいく」というのはそういうものだろう。私達が現時点で実感し、体験し検証した記録は、やはりきちっと留めて必ずや未来に受け継いでもらわねばならないのだ。
 そもそも、人知が築き上げてきた学問や技術や芸術とは、そうして初めて成果を発揮するものであろう。「いいや、美術は違うよ。美術は学問と違って、いつだってプリミティヴ(primitive)なところから発してプリミティヴであることに意味がある。決して他の人がやったものを継続するとか、人の功績の上に立ってやるものではないだろう。」と、特に現代美術に携わっている多くの人達は言うかもしれない。確かにその面が大きいのは否定するものではないが、でも少し違うと思う。たとえある作品が、芸術家の全くプリミティヴなところから生れた作品であっても、他の人の作業を明らかに継続するのではなくても、先人達から受け継いだからこそ存在する時代と状況が、まるでDNAのようにちゃんと組み込まれているのである。知らないところで、意図しなくても、確信的に作品の中に隠れているのだ。観る者は、それを発見する楽しみに心が踊る。作者が生きていた時代、生きていた世界、生きていた国の文化をどこかに背負っているから作品はますます素晴らしいのであって、そこに鑑賞する価値があり、私達の心の琴線が打ち震えるというものだ。人はひとりでは生きてゆけず、社会の恩恵と影響を必ずや受けて生きるのであり、芸術は人が造った社会あって人が産み出す以外の何ものでもないのだ。美術史を辿り、各時代の優れた美術を漏れることなく顕彰する重要性は、現代美術を理解し将来につなげてゆくためにこそ必須とも言える。
〔農耕民族としての日本人〕
 この分野のコレクションを一堂に並べて見ると、「日本人の情景」の玉手箱を開けたようで楽しい。その場でその空気を吸っていた画家達が、繊細なフィルターを通して描いた日本の真実のままが映し出されている。タイムスリップしたように臨場感に溢れ、真に迫ってくる新鮮さだ。この国に先祖を持つ人なら、記憶のポケットにしまっている望郷の念が頭をもたげ、ほっとした温かさにやさしく包まれることだろう。日本人は豊かな自然と肥えた土と豊穣な海に恵まれ、土に足を付け、土を耕し、土と海からの恩恵を授かり、美しい田園から文化を育んできた長い歴史を持っているのだ。日本人自らの眼で記録した自らの姿が、これ等の作品にはぎっしりと詰まっており、自然と田園と文化が私達のかけがえのない宝物であることを伝えてくれている。
 【歴史上の人物】(1〜11)や【家族の情景】(12〜40)は、その時代の風俗や生活を手に取るように伝えており、ユーモラスでほほえましく、描かれた先輩達の姿に限りない親近感と心温まるものを感じる。私達とは違う生活スタイルなのに、なぜか懐かしく、なぜか不思議に楽しくなる。先祖があってこそ生れた自分を認識して、遠くで微笑(ほほえ)んで見てくれているお父さんお母さんの無限大の優しさを思い出すだろう。私達の血潮の中で遠い昔からずーっと送り継がれてきた奥深い愛に満たされ、決して根無し草ではない豊かな自分を見い出すだろう。そこからは今時の‘キレる’ような発想は生まれてこない筈である。
 【働く情景】(41〜72)と【様々な情景】(73〜113)は、日本人に生来備わった勤勉で礼儀正しい、だからこそ今日の繁栄と文化を手に入れることができた、そんな先人達の在りし日の姿をまざまざと見せてくれる。日常の色々な風景に居る絵の中の人物は、あの人でありこの人であり自分である。これほどのいいお手本はないであろう。忘れかかって路頭に迷いかかっている現在の私達に、反省への入口を指し示してくれてはいないだろうか。
 数ある情景の中で特に、二千年の昔から日本人の営みの根本であった農耕の風景には、もともと農耕民族から出発した日本人の誰もが多かれ少なかれ限り無い郷愁を感じるのではないだろうか。田園と米麦に携わる情景を描いた作品は、「心の目」まで失ってしまった現代の私達に、日本の土の歴史というか、日本人の原像ともいうべきものを蘇(よみがえ)らせてくれるような気がする。これらの作品ははるか戦前のものであり、向都離村が雪崩(なだれ)を打って起こり、その後に出来上がった今の農村の形態を映すものとは違っている。「現実は?」とふと見れば、もう見当たらないようなものばかりである。
 近代化と共に農業の方法が変わるのは当たり前のことだろう。が、変わり方が果たして二千年の歴史ある農耕の営みに添っているかどうかは、疑問だと思う。狭い国土ならばこそ、必死で土地の有効利用を考え収穫量の多い方法を編み出してきたのが、日本の農業の素晴らしさである。そこから世界に誇れる輝かしい智恵と知識の集積が生れた。今では日本は世界の指導的立場にあり農業技術は屈指である。何がなんでもアメリカ式大機械化、大規模農場経営、農産物の工場化が私達に馴染むのだろうか。農業大国フランスは農業を非常に大事にし、自給率が高い。昔から食を大切にするお国ならではだ。最近はパリ郊外に無農薬有機栽培野菜の専門の市が立つほどである。太陽と土の恵みを受けた無農薬有機栽培野菜などは決して大規模機械化でできるものではないのだ。日本食の世界的ブームが起こっているというのに、私達消費者は食の安全をこれほど願っているというのに、まるで家畜の餌のような発想(家畜の餌もそうでは困るのに)で米や野菜を作ってほしくない。手間ひまをかけていいものを作る、これは日本人のお家芸ではなかったのか。昔の“きつい、苦しい、汚い”だけの方法ではなく、近代的な方法でお家芸を守ることだって日本人の智恵なら考え出すことができると思う。ひと昔前のこれ等の絵の中に燦然(さんぜん)と輝いている田園の情景は、農耕の苦しみではなくて、生きることの基本とその喜びを教えてくれているのではないだろうか。何かが間違っている。いったい、どこでどう間違ったのだろうか。
〔壊れていく自然の風景〕
 司馬遼太郎が「日本で最も奥深い地」と言い、白州正子が「いつ訪れても近江路には光があふれている……底知れぬ秘密が隠れているえたいの知れぬ魅力ある場所」とこよなく愛した近江路は、比叡山を挟んで隣で近いこともあって、私自身もこの頃よく辿るようになった。なつかしい心のふるさとのような日本の原風景が、今でも鮮やかに蘇るからである。近江で自然と田園と文化と人の暮らしのあり方は、今はどうなっているのか探ってみたい。はたして絵の中のような情景は見つかるであろうか。
 近江は古代を通して有力氏族の地盤であり、天智天皇の近江政権を支えた地であった。その後も都を控えた要所として歴史上の事柄に溢れているのに、京都の影に隠れてあまり知られていない。歴史もさることながら、地形がなせる風光明媚の四季おりおりの多様さは絶品で、自分の国はこんなに美しいのだと改めて思う。琵琶湖の悠々とした水と周りを取り囲む青い山々、平原のようなゆたかな青田とどこまでも広がる空が、いつ訪れてもまるごと全部違った表情を見せてくれる。自然の為せる技の極地−山紫水明と呼ぶにふさわしい光景がそこには広がっているのだ。冬の張りつめた澄んだ空気と雪を華麗に被(まと)ったあの山この山、沈む夕日がたゆたう湖と茜(あかね)さす空と対岸、山と湖を取り込んで豊かに茂る雑木林の早春の木々の初々しい息吹が特に素晴らしい。農産物が豊かでとてもおいしいのが楽しくもある。ストレスが溜まりそうになると近江へ出かけるのが我が家の習慣になった。古刹名刹(こさつめいさつ)が多いのも湖国の特徴で時間がとれる時は廻って見るが、京都のものと全く違う、自然さ、何気なさにびっくりする。すごい仏像が間近に手に取るように見られて驚くことがある。自然体で自然の中におわします神仏が常に人々の真中にあり続けた、本来の寺社の姿を彷佛させるのだ。自然との見事な一体感と共に、白州正子の「自然が語る言葉」が本当に聞こえてくる気がするのである。
 そんな近江で、私が涙せずには通れない所があるのだ。国道一号線である。戦後旧東海道に平行して新しく造られた国道であるためか、歴史の重みに何も遠慮することなく、発展と便利という名のもとどんどん毒されていった感がある。車の多さと共に、量販店、自動車屋、パチンコ・ゲーム屋、種々の食べ物屋、コンビニなどがあるのはまあ仕方ないとしても、仰々しく派手な看板と広告塔がひしめき合って隙間なく延々と続いている。むき出しのままの工場も点々とあって、景観への配慮は零点、湖国の美しさと程遠い場所になっている。昔この辺りも、美しい近江富士の麓(ふもと)を、象の足跡の化石で有名な野洲川が悠々と流れ、向かい側には東大寺造営の材木を産出した甲賀の森などが蒼々(あおあお)と連なって、気候温暖、京都に都ができる以前から渡来人を含めて人々の暮らしを支えた豊かな土地であった。その後東海道が真中を突っ切って発展もした。旧東海道筋の由緒ある町並みと共に、松茸山を背後に近州米が採れる田園地帯が広がって、自然と歴史と文化が調和した麗しい風景であったことが偲ばれるが、今は誰も想像もつかないだろう。鈴鹿峠手前の土山あたりまで行かないと、心洗われる里山と田園の風景に出会えないというありさまになった。発展の仕方にもいろいろあるだろうに、美しき田舎が戦後の経済発展という名のもとで何だか急いで崩れ落ちた、食い止めることができなくなった典型のように見えるのである。

〔崩れ落ちた地方と田園と文化〕
 今ではマスコミ等でもあまり語られないが、戦後のどたばたの中で、財閥解体は突き詰めてまではやられなかった一方で、農地解放(農地改革)は徹底的に成され、家族制度の変換と共に地方に大きな問題を残した。向都離村の加速である。近江のこの地もこの影響をもろに受けたと思われる。農地解放は、戦後日本の民主主義改革という「葵の御紋」を掲げて、付随して起こるあらゆる問題点を熟慮検討することはなく、その場凌ぎで実行された。GHQの名のもと政府は地主から強制的に農地を取り上げ、代価は非常に不当な安い設定で、しかも向こう24年払いの「農地証券」(即金価格の4倍)と引き換えた殆どの人は、証券がすぐ後の大インフレで紙くず同然になるという詐欺のような憂き目に合ったらしい。地主層は没落した。「あたら英才を野に埋めて」とも言われた在村地主の多くは、先祖伝来の田を生きかわり死にかわりして守ってきた。農業の基本である耕種の方法はもちろん、水利、品種改良、病害虫の駆除などを研鑽し、また経営の改良や次世代の指導などをして、農村の発展に寄与してきた。村の長ともなり、地方の文化をも支えていた。イギリスで言うならばカントリージェントルマン(普段は地方に住みいざという時には中央に出て不正を正すイギリス貴族のこと、時流に流されず自らの考えを身をもって実行する紳士をも指し、最近脚光を浴びてきた白州次郎のような存在)である。彼等はものの見事に崩れ落ち、農村の秩序は混沌化した。そして都会へ頭脳が流出した。2千年以上土にへばりついて耕し、暮らしと共に営みを続け、自然に生れた地域性や秩序、培った文化や特色が、あまりに急な変遷で、根こそぎひっくり返ってしまったのだ。
 小作人は自作農となって成功した人もいるが、タダ同然で土地を与えられても、自作といういわば経営のノウハウを体得できず農業での発展の道を見い出せないという問題も起こった。土地が細分化されて零細農家ばかりになり、その後の近代農業発展のひとつの足枷(あしかせ)にもなったのも事実である。現在、実際に小農家には援助金も出ず、零細自作農がどんどん減り、大きな機械を所有する大農家のみが、例えば50ha以上の農地を耕作しているという。以前の地主の時代とどう違うと言うのだろう。解放された農地はその後転売地目変更で高値がつき、長者になった自作農もいるという。何のための農地解放だったのだろうか。
 確かに、戦前の地主と小作人の関係は封建性の象徴のひとつでもあっただろう。結果として作物の採れる農地はすべからく解放されたのであるが、そのやり方が誠に拙速で不条理であった点は否めない。そしてその後の農業と村の発展は、地主層の大きな犠牲に応(こた)えるような施策を執らなければならない筈なのに、逆の方向へ進み、日本列島改造とか土地神話を造り出すものとなった。日本全体の経済はおかげで飛躍的に発展したかもしれないが、土地を取られた地主層も、自作農として真に農業を支えようとした人達も、まるごと農業と地方はとり残されたのである。めった裂きにされた農村には、あらゆる難問が降りかかった。村はひっくり返ったままで、大都会にあらゆるものが集中した。長きに亘って地方の文化を支えてきた代々の家族達は離散し、残る者帰ってこない者の間で軋轢(あつれき)が生じ地方の問題のひとつになっている。あの手この手で犠牲ばかり強いられた地方で家や田畑を継ぐことが至難になってしまった。「日本の近代都市は、近世までのストックをほとんど使い潰し回転させてできた」とも、「農地解放つまり地方を売り払うことによって戦後の経済成長の原資を得た」と言われる所以(ゆえん)である。そして、都会へ出た人も地方に残った人も、日本人は皆デラシネ(フランス語の根なし草、物理的にも精神的にも故郷を失った人の意味に使われることが多い)になってしまったのである。心を喪失したのである。
 近江の国道一号線の周りは、まがいの経済発展に蹂躙(じゅうりん)され、秩序の崩れ落ちてしまった由緒ある地域の、哀れな姿の代表のように私には見えるのだ。不条理の上に成り立った発展、犠牲を一方的に強いたまま「もう過去のことだから」で済ませて、果たして本当の地方の進歩が今後望めるのだろうか。民主主義改革とは名ばかり、単に頭がすげ替わっただけではないのだろうか。農耕民族として田園と文化と共に歩んで来た私達の長い道のりの歴史は、このような強引で拙速で不条理な発展を決して歓迎しないだろう。近江で私が見つけたものは、経済発展の犠牲になった景観破壊と、壊された美しい田園と文化の哀れな姿であった。
〔イギリスに見る田園の美しさ〕
 最近、ガーデニングという素敵な響きの言葉と共にイングリッシュガーデンが一世を風靡(ふうび)している。湖水地方やコッツウオルズの田園風景やナショナルトラスト運動が紹介されたりして、ブームに拍車をかけた。日本には昔から庭園の伝統があり、何のことはない園芸は古くから盛んで本家本元なのに、何をいまさら……と思っている人も多いだろう。花狂いの私は、おかげで世界中の草花をあれこれ容易に手に入れることができるようになって嬉しい限り、狭い庭を工夫して相変わらず私流のガーデニングを楽しんでいる。
 イギリス人の園芸に賭ける執念は並々ならぬもので、日本人の比ではない。それは彼等に与えられた、泥炭(でいたん)地質や荒野が多く、冷涼すぎる気候などの自然の厳しさからくるものであるかもしれない。初めから豊かな自然に恵まれ、植物の自生も多い日本とは訳が違うだろう。イギリスに於ける植物に対する愛着は、国家プロジェクトでもあり歴史的なものでもある。どんな奥深い険しい所でも危険を押して世界中を廻り、美しい花、珍しい植物を自国に持ち帰るというプラントハンターの大活躍で、世界最高峰の王立キューガーデンができた。もっと緑豊かな田園地帯の保存と構築に、もっと華麗で可憐な花々を咲かせる庭にと、国こぞって夢を賭けたのだ。自国にはない植物を創意工夫して根付かせ繁殖させる智恵と努力には頭が下がる思いだ。そして世界中が注目する美しい田舎と庭園を造りあげ、押しも押されぬ園芸大国になった。エミリーブロンテの「嵐が丘」のような、寒風吹きすさびヒースしか生えない荒野のイギリスのイメージはすっかり変わったのである。
 イギリスの田園と庭園の美しさは初めからすべてがあった訳でもなく、人々が自然を大事に保存しながら、より良く手を加えて造り上げてきたものだということに注目せねばならない。イギリスでは産業革命の後、自然と田園と庭と植物の美しさと、その中で暮らす心地よさに目覚めたのである。200年も前に、である。コテージガーデンは田舎にコテージを持ち、そこに自然と調和するような庭を造るという発想から生れた庭のひとつのスタイルで、私達は最もイギリスらしい庭と感じて限りなく憧れる。ウィリアム・モリスは、そういう生活の中から素晴らしいデザイン、まるで自然と庭園と植物のパラダイスに身を置いたような、美しさの極地の150以上に及ぶパターンを生み出した。心休まる美しさはインテリアの数々だけでなく、着るものや小物などにも活かされ、今も人気沸騰中である。18世紀に産業革命を成功させたイギリスは、19世紀に入りますます国力を充実させ海外へも進出するのだが、同時に、自然回帰をした点がすごい、と私は思う。産業革命と海外進出に伴って工業や経済の飛躍的な発展が怒濤(どとう)のように押し寄せた、その一方で、自然と田園と植物と文化‥‥その価値にきちんと気がついて、しっかりと同じだけの力を注いだ、そのバランス感覚の素晴らしさに感心するのだ。
 苦労をして緑なす田園を造り上げてきたイギリスから見れば、日本は羨ましく見えたことだろう。国土の端々までむせ返るような緑に覆われ、植物がいくらでも育つ気候と土をふんだんに有しているからだ。正反対のような条件を持ちながら、現状はと言えば、イギリスの田舎が格段に美しい、日本は崩れていく一方、というのはあまりにおかしいのではないだろうか。イギリス人が憧れ求めた自然と田舎の美しさを日本人だって分かっている筈なのに、どうして逆方向へと舵を執っているのだろう。しかも、私達にとっての田園は生きる糧(かて)をいただく大切な場所でもあるのに、わざわざ目を逸(そ)らし、先祖にそむき、そこに育まれた文化をないがしろにし、田畑を放って荒廃させて、その先に、私達はいったい何を求めているのだろう。どんな目的に向かって毎日の暮らしを積み上げているのだろうか。これは皆の問題である。
〔確かな日本人の情景を〕
 日本人は恵まれた自然の中で農耕民族としてスタートし、常に田園と共に生きることに基盤を置いて、自然が語る言葉を聞き、そこから文化を築いて長い歴史を重ねて来た。ところが、すべてを経済中心に考え行動する現代の風潮は錯誤としか言えず、そこにどっぷりと浸かってしまった私達は、農耕を忘れた訳ではないが、軽んじるようになった。古代は古代の、近世は近世の、そして現代は現代の、本来の自然と田園と文化と人との関わりがあっていい筈である。長い歴史の中でも、現代ほどその麗しい関係をいとも簡単に潰してしまった時代はなかったのではないか。日本人は根っこである大切なものを軽んじて、つけあがっているのではないか‥‥‥土にしがみついていることが後進性の代名詞とでも感じているとしたら大間違いである。母なる土こそが人を育み、偉大なる精神と文化を培ってきたのだ。そして人は土に還っていくのである。
 スマートにマネーゲームだけに興じている人達は、食料危機があり得ることなど予想もしていないのだろう。自給率の低い日本が、いざとなればどういう目に合うかなんて考えたこともないだろう。マネーさえあれば、なんとでもなると思っているのだろう。マネーをゲーム化しそれを黙って見過ごすだけの社会だとしたら、そこから生まれる奥深い文化なんぞ私には想像もつかないのだ。そのままでは糸の切れた凧と同じである。エコノミックアニマルそのものである。でも、文化とその遺産を貴重に思う‘人としての基本’が備わっているならば、経済力で以って文化保護の先頭に立つこともでき、社会への還元を果たして大きな貢献ができると思う。産業革命後のイギリスが自然回帰したように、世界の富豪が文化を熱心に保護して遺産が受け継がれたように、それでこそ人としてのバランスがとれるだろう。
 今頃の地球の異常気象を見よう、内戦の絶えない実情を見よう、国同士の軋轢を見よう。そして賢い国がとっている政策をよく観察すれば、私達日本人が如何におめでたいか分かるというものだ。最低線の“食べる”確保さえも自分達でできなくなれば最後である。日本の文化を背負わなければ最早日本人とは見なされない。私達はせっかく豊かな条件を備えながら、もったいなくも自然と田園と文化をおろそかにし、経済の発展ならいいのだが経済の餌食(えじき)にならんとする方向へと向かっているのではないか。これが20世紀から引きずってきた最大のお荷物であろう。このままでは全く前近代的で、世界の先進的な潮流に乗り遅れるのは必至である。違いをいつまでたっても理解せず、後から後から成長してくる国々と同じレベルで競っていては洗練があり得ず、先進国としてのリーダーにはなれない。
 自然と田園と文化を土台に生き繋(つな)いできた先人の貴重なメッセージを汲みとってこそ、先が見えてくる筈である。大正・昭和をノスタルジアで軽く片付け、目先の経済優先でやみくもに進むだけではいけない。彼等が受け継いだ美しい宝物を今度は私達が確実に受け留めてこそ、バランスの取れた本物の発展ができるのだ。21世紀は環境の時代とも言われる。先般選出された安倍新総裁の言う「美しい国、日本」は、そんな風潮を示唆したのかどうか、耳に快い言葉ではあるが、所信表明を聞いた限りでは「美しい国」の言葉だけが一人歩きしていた。イギリス人ならとっくに気がついている、日本人の宝である自然と田園と文化が、少なくとも正当な評価を受けて保護される具体策がなされるのだろうか。しっかりと見守りたい。私達が集めた汗の結晶であり、先輩画家達の魂の塊(かたま)りである113点の「日本人の情景」が、21世紀にふさわしい確かな日本人の情景を新たに造り出す、その原資たることをひたすら願うものである。
 
                    2006(平成18)年 10月 末日


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