没後75年 夭折の日本画家
岡本神草「拳の舞妓」への軌跡展
もう1点の「拳を打てる3人の舞妓」を89年ぶりに初公開!
2008(平成20)年6月14日(土)〜7月12日(土)

  岡本神草もうひとつの異才 
−方久斗との競作<海十題・山十題>とその後− 


                                 星野万美子
〔はじめに〕

 気候変動が心配な昨今である。「今年も暖冬」の前触れとは裏腹に寒い冬になり、京都はひと昔前では当たり前だった底冷えに久方ぶりに震えた。地球温暖化で起こる爆弾低気圧(急速に発達する低気圧)という聞き慣れない気圧の発生が原因の寒さといい、うすら寒いものをも感ぜずにはいられないが、何はともあれ、西の名刹・鹿苑寺の金閣は真白の雪を冠り、冬なお蒼い庭と計算された通りの端正な美しさを奏でてくれた。日本独特のくっきりした四季のうつろい、その美しさと意義をあらためて思い起こすできごとだった。
 その真冬ただ中で、ひそやかながら暖かく赤く燃えていた場所がある。東山を臨む美術の殿堂・京都国立近代美術館で開催された「日本画変革の先導者・玉村方久斗展」(神奈川県立近代美術館 平成19年11/ 3〜12/16 、京都国立近代美術館 平成20年1/8〜2/17)である。殆どの鑑賞者にとっては初めての方久斗との対面だっただろうに、圧倒的な芸術性と素晴らしさに突き動かされ、ひととき上気し熱くなったという。
 人のむやみな経済活動が期せずして気候変動を招くように、時代の趨勢(すうせい)というのは時におそろしく、芸術の偉業がすっぱり放り捨てられる日常が易々と居座ってしまう。文化活動は人々に直接に「お得」感として伝わるようなものではなく、目の前の損得だけにうつつを抜かしていれば、美しくていいものははかなく永遠の彼方へと消え去っていく。豊かな文化を担うという人類だけに与えられた特権を持ちながら、煩悩(ぼんのう)に翻弄(ほんろう)されもする私達が併せ招く危険な落とし穴である。
 この百年、戦争と混乱で、或いは熾烈(しれつ)な政治・経済競争の困窮の中で、情報は極めて限定的だった。私達は目に見えにくい大切なものをうっかり置き去りにしたまま気づいてさえいない。岡本神草(1894〜1933)と玉村方久斗(1893〜1951)はそのような画家である。今一度壇上に上げてみれば、稀にみる高い芸術性と貴重な美術史的価値に相応の評価が下されることは間違いなく、国境を越えて愛されることになるだろう。まさしく私達日本人の宝であり誇りのはずだ。そのステップを踏むことさえさぼりがちであったのは遺憾であるが、最近はありがたいことに、熱心な内外の研究者達の努力の甲斐あって、徐々に発掘解明されつつある。
 神草については、<口紅>(大正7年、第1回国展 {国画創作協会展}、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)が現存するただひとつの神草の、しかも異彩な美人画の名品として知られていたが、<拳を打てる三人の舞妓の習作>(大正9年、第3回国展、京都国立近代美術館蔵)が発掘され登壇するや、<口紅>を凌駕(りょうが)せんばかりの旋風を巻き起こした。方久斗は今の今まで全くチャンスがなかったから余計に人々をびっくりさせてしまったのかもしれない。
 このふたりは、きらめく俊英を輩出し続けた京都美工(京都市立美術工芸学校)および京都絵専(京都市立絵画専門学校)の、年齢は1歳学年は3年違いの同窓生である。その後の行く道があまりに違ったふたりの関係が、若い日に具体的にどのくらい密接であったか知るすべは今のところないが、ふたりの競作<海十題・山十題>(大正4年頃)の貴重な作品が遺っており、明らかな接点が何かを雄弁に語ろうとしている。方久斗展によって明らかにされつつある方久斗の全貌に引き続き、本展で新発表となる神草の遺作や、日記等の資料から更なる考察が可能になった。未公開の扉をそっと開けてみれば、画家から肉声のメッセージが湧き出てくるようでわくわくする。同時代に生きるできるだけ多くの人に、この感動を一緒に受け止めてもらいたい。

 

<海十題・山十題>に垣間見るふたつの若き才能
  岡本神草(明治27年生)と玉村方久斗(明治26年生)は、京都絵専をそれぞれ大正7年、大正4年に卒業、共に在学中から旧き良き京都画壇に彗星のごとく現れ、新動向を背負って走り抜けた駿馬であった。若いふたりは競作を試み、神草<海十題>・方久斗<山十題>を発表したのである。切磋琢磨してできあがった両作品の素晴らしさは何の予備知識がなくても鮮やかに伝わってくるが、描かれた時代を考え合わすと鑑賞の深さはもっと増す。神草の名作<アダムとイヴ>(大正5年頃)にも言えるが、伝統的日本画の長い眠りから目覚めた蝶達の中でも、抜きん出て鮮やかに高らかに飛翔したと言える画期的な仕事だ。
 当時日本画革新の動きは、伝統的な京都にあっては竹内栖鳳を師とする流れがあり、若い画家達の底からのうねりとなって盛り上がっていたことに注目せねばならない。京都美工の同窓生有志で結成した、岡本神草、玉村方久斗、甲斐庄楠音、伊藤柏台、不動立山らの日本画研究団体「密栗会(みつりつかい)」(大正4年)は、血気盛んな若者の集まりでひとつの象徴であった。<海十題・山十題>は、その数少ない展覧会の出品作と思われる。
 長い歴史と伝統が根づいているからこそ、その長所も短所も知っているのが京都の特徴で、伝統と革新は今も京都が常に心がけている合い言葉である。が、そこには底知れぬ葛藤(かっとう)があり、相反するもののどちらかだけが完結に至ることはなく、互いへの尊重や譲歩や融合を経て両立させることでより良いものが生まれてくるのだろう。
 海に接した神戸出身の神草が<海十題>、山に囲まれた京都出身の方久斗が<山十題>でやろうということになったのは当然の成り行きとして、ふたつの若き才能は、日本画の伝統と革新という共通の問題意識を持ちながら、互いを激しく意識して刺激しぶつかり合ったことだろう。結果は甲乙つけがたく、両者一歩も譲らない緊張感に満ち、強烈な個性を満たした興味深い作品になった。1989年4月、作品の新発見に伴い当画廊で小さなカラー図録を作って展覧会を開催した時は、「この時代にこんな作品を!」の驚きと共に、ぐんぐん攻め入ってくる作品の新鮮さに圧倒されたことを懐かしく思い出す。


方久斗<山十題>に見る連続した時間と場所の描写
 <山十題>は、京都時代の方久斗(北斗)の代表作と言え、まるで薄衣に包まれた宝石が透けて見えるようだ。卓越した才能が凝縮して詰め込められ、画面の隅から隅までが躍動している作品である。伝統的な日本画の素地を十分に踏まえながらその枠を越え、新しき風が爽やかに吹き渡っている。日本画とか洋画とか、旧い新しいとか、それ等を決して否定もせずこだわりもせずおおらかに包み込んで、ひたすら雄大な美しさを描ききった傑作だ。自然の驚異を備え人を寄せつけない山々の姿ではなく、人格化されたように親しみ深くリズミカルな山並みが、その特性を逃すこと微塵(みじん)もなく鮮明に描かれており、新感覚である上に、並々ならぬ技術的才能も見えてくる。
 例えば<湖東の山>。描かれている三上山(近江富士)あたりと思われる山々の特異な姿は、ドライヴ途中の琵琶湖周道路のどこからでも形や方向を変えて見え、まるで山が生きているようなダンスをしているような錯覚に襲われる。方久斗はそこを見逃さなかった。少し腰をくねらせたような山にすっと簡単に一筆で描ききったが、色や雰囲気といい美しさといい、「実物そのもの」、「まこと絵のとおり」、と頷けるのが摩訶不思議。描かれた、簡単そうに見える筆跡は、太陽の営みに従って自在に変化する山の折々の姿を、それ以外にはあり得なかっただろう一筆で表し、自信に満ちている。連続した時間と場所を抱え込み、山と空気が絵の中で息づいているのだ。一枚の絵の中に、膨大な時を刻み遥かに連なっている山をみごとに表現している。
 <湖東の山>は、決して軽妙なタッチで描いたものではなく、細かに計算された線と面であり空間と色なのだ。他の山についてもそれぞれに、自由闊達(かったつ)というか原点に戻って風景を独自に丹念に計算しており、その感覚と綿密さには印象派以降に起こった美術の新しい動きに通ずるような精神性を感じる。南画の精神に通ずるものを思い起こすこともできるだろう。画家の厳しいフィルターをくぐり抜けた、時と場をも包括した真の姿に接すればこそ、私達はいつまで観ていてもあきず爽やかな空気に包まれて癒(いや)される。それにしてもいったい彼はどこからどのようにして山の連続する風景を見、時を越えてきた個々の山の特徴を知り得たのだろうか。画家の心の眼のするどさに脱帽だ。

 

神草の<海十題>に見る人間への愛着
 神草の美人画の強烈な個性に親しんでいる人は、彼の初期作品<海十題>に「えっ」と驚くと共に「ああ、なるほど」と頷くかもしれない。小さな画面に輝かしい才能と都会的な斬新性を充満させた革新のトライアルであり、「密栗会」のリーダーたる堂々とした作品である。荒々しく人の営みを飲み込むような、或いは地球を支配せんばかりのとてつもなく大きな海ではない。身近で楽しい海を人や生きものの営みと共に描いており、いかにも港町神戸で育ったならではの新感覚の海の表現になっている。角度を変えたものの見方と並ではない芸術的センスに溢れているが、それは当時はやった大正ロマンティシズム風、またはハイカラなだけなのだろうか。
 神草は、京都が全ての面で伝統と革新のはざまで苦しむように、神戸で生まれ育ち京都で学べばこそより深い悩みを日本画の世界で抱えていたようだ。伝統的な日本画を研鑽しながら、西洋やその時代の新しい波を貪欲(どんよく)に引き入れようとしたが、多感で思惑が深かった分悩みは大きかっただろう。<海十題>には<アダムとイヴ>同様、ハイカラだけではない、日本画の可能性を拡大し変革しようとする試みが読めるのだ。題材の選び方、構図の取り方、線や色の使い方など全ての面でトライしている。
 その頃の多くの画家は、目新しさで一世を風靡(ふうび)した時代の寵児で、京都府立図書館でも華々しく展覧会(大正元年)をした竹久夢二に大きく影響を受けたとされる。神草の場合、それだけとは簡単には言い切れない深い葛藤が後々の作品に出てくる。ハイカラな雰囲気の中にふと感じられるのは、技術的に或いは題材となるものの見方に新しい風を吹き込んだだけではない、切実に描きたかったテーマというか、今迄の日本画の世界になかった非常に人間くさい、人間のなすことや人間そのものへの強い興味と愛着である。方久斗が、<山十題>で山に真正面から迫っているのに比べて、<海十題>と言いながら、海よりも海にまつわる人や生きものの様子や暮らしにより関心を寄せており、後の美人画に見る人間追求へと移って行く予兆が既に感じられる。神草の関心そのものが西洋的であったと言えるのではないだろうか。 
 現在、近代日本画の高い芸術性は一部で熱烈な外国人ファンを作るほどであるが、ほんの一昔前まで題材の面白さや構図の素晴らしさはさておいて、日本画の平面的な表現と空間の美しさはなかなか外国人に理解されにくい感があった。「近代日本画は外国人には理解されるものではない、展覧会をしてもさっぱり反応は薄い」というような一種あきらめに近い意見も多く、若い日に通訳ガイドしていた私に投げかけられた西欧人の感想は、あらかた「ふーん、確かに変わっているな」というような、違いを認める程度のものが多かった。私には「それは何故だろう」という疑問と悔しさがずーっと渦巻いていた。西洋画が導入されるにつけ、長い歴史を持つ日本画の独自性ゆえの誤解や疑問を神草は密かに抱え持って、それで終わることなく何とか打破しようと日夜研鑽していたように思えてならない。
 神草の日記には、頻繁ではないが方久斗との交流の記述も見受けられる。競作<海十題・山十題>が神草の手元に遺されていたのは、方久斗が制作の翌年東京へ行ってしまったからであろう。その後、京都に残った神草が国展出品の為に上京しても方久斗に会った形跡はなく、また方久斗が京都に帰ってきたことも見受けられず、神草が夭折(38歳)したこともあってか、行く道があまりに違ったためか、ふたりは相交わることなく京都と東京でそれぞれ画技を磨いたことになる。

 

神草の赤、方久斗の青
 昨今日本の苺が海外で爆発的な人気となっている。日本の苺の改良は年々すばらしく、その大きくて甘くておいしい魅力が人を虜(とりこ)にするのも当然だが、特に中国ではその美しい赤が人を惹(ひ)きつけて止まないという。30年以上も昔、仕事で香港のセレブな人たちをよくお世話したが、彼らは日本の金魚と苺を大層好んだ。羽田を離れる日になると出立する直前に、決まって注文しておいた立派な金魚と苺が業者から空港に届けられたものである。4時間ほどで帰国できる彼らにとって、新鮮な金魚と苺は最高に喜ばれるおみやげになるということだった。中国では赤は高貴でおめでたい色でもあるが、赤は中国人でなくても人を惹きつける重要な色であろう。それと好対照になる魅力的な色は青で、絵画においても赤と青の使い方を観よ、と言われるくらいだ。シャガールは赤と青の名手であった。神草も方久斗も例外ではなく、特に神草の熱き血を表した赤、方久斗の自然の風を思い起こす青は、特記すべき美しさを満たしている。彼らがそれぞれ赤と青の名手であったことは、いかにもふたりの相違するしこう嗜好を象徴的に示唆(しさ)しているように感じてならない。
 方久斗展の講演会で子息の玉村豊男氏が、「ホクトズブルー(Hokuto's blue)と言われるほどに方久斗はターコイズブルー(トルコ石のような色、緑がかった明るく澄んだ青)をはじめとした色々の青に凝った」と述べられたように、実に多種の青が多彩に駆使されており、目を引かずにはおれないくらいに美しい。物語の人物と共に、それを取り巻いている空気と時間、場面や状況をより伝えようとした彼にとって、必ずいつどこでも人と共にあったまわりの自然の様子は、アースカラーの中でひときわ光を放つ緑を含めた青を効果的に配置することで表現できたのかもしれない。山を主題にしたものは山そのものに迫真し、緑に溢れ水を貯え空を映す山に代表される自然は、限りなく美しい青もしくは蒼々(あおあお)した墨で表現する以外のなにものでもなかったであろう。巧みな青の名手は、何を描いても頭の中には青が巡っていて、物語の中の人物を描いてもキラリと光る青を使って画面を引き締めていくのである。いつも飄々(ひょうひょう)としていた画家が、豊かな精神を大きく自在に飛ばせて目にするものは、きっと宇宙に繋がった地球の美しい青だったに違いない。
 海を主題にしても、海をバックに人や人の作ったものや人のすることに関心があった岡本神草は、生きた肉や血の色(エジプト王家墳墓の壁画でも現世の人は全身赤い肌で表されている)である赤を大なり小なり常に意識した。舞妓の着物は赤地を特に好んだ。代表作のひとつ<口紅>では、美人の全体像でも着物でもなく、口紅という言葉が連想させる赤への関心が、赤い口紅だけを特別に描いてはいないのだけれど、印象的に描かれた赤い胴裏(袷の着物の裏につける布)と共に、もう既に神草のひとつの嗜好(しこう)として出ているようだ。
 本展で新発表の<拳を打てる三人の舞妓>の修復にあたり確認されたことのひとつに、裏彩色が結構厚く施されていたことである。髪に漆黒、腕全体と顔や首に赤を混ぜた白、着物に赤が多量に塗られていたのである。顔の白粉(おしろい)に隠れた赤は当然ながら、着物に隠れるはずの二の腕までをべっとりと赤を混ぜた白に染め、表はグレー地の着物の裏全体に真紅を大量に施している。そのこだわりは、表面的な美ではない、表から微かにだが確実に見えてくる、肉の下の脈動や生きた体をくるんで体温を伝える下着をも表現しようとした画家の熱き思いを、それこそ絵の裏側から「裏付けている」ように思えるのだ。
 その後の作品にも赤はいたるところに現れ、どれもシンソウズレッド(Shinsou's red)と言いたいくらいに、深く美しい赤である。赤は人間が最初に作り出した色であると言われ、太陽と血液の両方を表すはっきりとした色として好まれたらしい。我が国でも万葉集に「真金吹く丹生(にふ)の朱(まそほ)の色に出て言はなくのみそ我が恋ふらくは」(東歌 巻14・3560 金を精錬する時に使う丹生の赤土のように、あらわに顔色に出して言わないだけだ、私の恋する思いは)とある。神草は、鳥居や金魚や若苺の銀朱(ヴァーミリオン)ではなく真朱のような、つまりもっと赤い、熟しきった苺の或いは鮮烈な清き血の色を好んだ。神草がもともと重要で美しい色である赤に特に惹(ひ)かれていたとしても、美人を通して人の描写に終始していく画家が、エジプトの人があの世の青に対して現世を赤と考えたように、遠き昔の日本人が赤を炎のように燃える想いに例えたように、血が充満している人間の内へと入り込めば、鮮血の赤が圧倒的な存在を占めるは当然の帰結だったのだろう。 
 同時代に颯爽(さっそう)と駆け抜けたふたりの同窓の画家は、たまたま赤と青に袂(たもと)を分かつようにそれぞれの道を追求した。西洋風を好んだ神草の赤は、西洋画がそうであるように、赤き血をたたえた人間への関心をどんどん深めていった画家自身を象徴している。方久斗は多才を発揮して多方面へのチャレンジをするが、還(かえ)って日本画が伝統的にやってきたことを方久斗なりに成し遂げて行くことに関心が戻って行くのである。物語や草花や自然の世界だ。一方で血なまぐさい物語を描きながら、何だか清涼な日本的な空気を感じさせるのは、山や自然を思い起こさせる青の世界が広がっているからだろう。

 

神草と美人と顔とまつ毛
 神草の初期の活動についてであるが、<海十題>に見せたハイカラな部分はさておき、一般的には異色の美人を描いたとされる。その異色の雰囲気はどこから出てくるのか、画家は美人の中に何を見、何を表現しようとしたのだろう。またひとつ、発掘された作品の、特に展覧会に出品しようとしていただろう大作に未完成が多く、第3回国展(大正9年)出品の時間切れで<拳を打てる三人の舞妓>を切断し中心部のみを出品した事実が示すように、本当に単に時間切れになったという理由だけなのだろうか。なぜならどの作品も顔は殆ど完成させているのだ。ひょっとして両方の謎解きのヒントは美人の顔の表現にあるのではないかと思うのである。
 最近街を歩くと、アイラインとつけまつ毛とマスカラで重装備した目元ぱっちりの美人が闊歩(かっぽ)している。テレビのCMの大画面或いはアニメの少女を見ているみたいだ。文学を連想させるしなやかで涼やかな目にはなかなかお目にかかれそうもない。彼女等の目の化粧へのこだわりは一目散で、女性である私でも呆気(あっけ)にとられて見入ってしまうほどだ。まつ毛のパーマまであるらしい。人間離れした濃い化粧はリカちゃん人形かバービー人形にしか見えず、健康的で明るい彼女等の本当の良さや美しさを隠してしまっているように思えるのだが・・・
 通りすがりの美人はそれでいい、でも内から滲(にじ)み出てくる人間性ある女人を見ようとしたら、濃い目の化粧はさぞかし邪魔になることだろう。真なる美を求める絵描きにとって、心や性格や意思を映す目の表現には苦心する筈だ。まつ毛は、女性がつけまつ毛したりカールしたりマスカラで塗りたくったりして飽くなくこだわって止めないほど「ものいうもの」であり、目の保護という役割なんてどこへやら、目を通じて心の動きを察知されないように「化ける」ための最たるもの、化粧の真髄なのかもしれない。厚化粧を施してまでこだわるまつ毛と、心の動きを察知されずに闊歩することとは無関係ではないのだ。そういう目に対するまつ毛の在りようの大きさを絵描きが見逃すはずがない。
 夢二式美人はやたら瞳が大きく特に下まつ毛が強調されているのが特徴で、細身でくねったポーズと共に、現実離れを強調して人々の心をくすぐった。目は切れ長で両端上がりではなく楕円型で両側に少々垂れていることが新しく、その憂いを含んだ目にまつ毛は大きな役割を果たしたのである。
 浮世絵は甚だ現実離れであるからこそ大胆で奇抜な面白さが受けたが、歌川国貞や菊川英山はまつ毛の多い美人を描いて人気があったらしい。まつ毛がアイラインのような役目を果たして切れ長の目をますます印象づけたり、細い線で目全体を覆い尽くしてかげ翳りを作ったり、まつ毛を描くことは目を表情づけるのに一石二鳥であったようだ。
 日本画における美人画と言われるものはどうだろう。頭髪の生え際のようにごく繊細なきれいな線で描写されたり、濃い目のアイラインと見まがうばかりに、或いはまつ毛の一部だけを描いて語りかける目の表情を作ったり、男性像にも多く見られるがまつ毛と目の縁どりを完全に一致させて、といろいろであるが、往々にしてまつ毛には意識している跡が伺える。どの場合においてもまつ毛は目の表情を妨げてはいけないのである。まつ毛は現実離れを助ける道具になり、また目の表情を造り上げる重要な要素になり得るものでなければならなかった。
 神草の<アダムとイヴ>は実に不思議な絵である。美人画の神草が、アダムとイヴという大きな目を持つ西洋人を意識して描いたとはいえ、細い肉体に比してのまつ毛の表現は強烈で、甚だしいこだわりが感じられる。描かれた肉体はあまり西洋的ではなく、エジプト王家の墓に描かれた人の体型を彷彿(ほうふつ)させ、画面全体には現世示す同じような赤色を使っている。古代エジプトでは実際に太いアイラインを引いて強烈な太陽から目を保護したらしいから頷けるが、神草はそのエジプトを意識して、或いは夢二の下まつ毛を意識して、ただそのように目を描いたとは思えないのだ。上まつ毛は太いアイラインと化し、下まつ毛は最近の女性達をもあっと言わせるほどの「これでもか」と言わんばかりの、他の部分に比してあまりの強調である。東洋人の小さめで細い目にとっての黒いまつ毛は西洋人のそれよりも目立つ存在で、よくよく見ればパサパサと動いて目を印象づけたり伏したり翳(かげ)ったり上目遣いを助長したり、まつ毛こそが美人の目の表情を作っているのかもしれず、神草もそう意識していたのだろうか。まつ毛を描くか否か、どこまでどのように描くか、その試みは後々の作品にもこだわりとして現れてくる。
 <拳を打てる三人の舞妓の習作>にはまつ毛がない。<アダムとイヴ>であれだけ意識して描いたまつ毛は、とうとうすっかり忘れられているのだ。むしろ目の奥と瞼(まぶた)の表現に凝っており、肉の下に赤い生きた血が脈々と流れている。まつ毛よりも眼球よりも内にある何かが迫ってくるように描かれている。神草は、わざわざまつ毛のない顔でいったいどんなものを表現しようとしたのか。一番外側で目を保護しているまつ毛を排除してまでえぐろうとしたもの、見えているものと見えないけど内にしっかりと在るもの、とことん突き詰めて求めたリアル性から見えてくるものは・・・
 菊池契月の門下になり、伏し目以外の目にはまつ毛をあまり描かない師のもとで神草の葛藤は続く。<骨牌(かるた)を持てる半裸女>(大正12年)と<五女遊戯>(大正13年)にはまつ毛が復活されるのだ。施されているまつ毛を見てみると、<アダムとイヴ>のまつ毛とは全く違う方法で、しかもよく見ないと分からないが、周到に意識したまつ毛がちゃんと描かれているのだ。<骨牌を持てる半裸女>と同じモデルを描いた本展初出品の<舞妓>もそれ等に類している。はっきりとしたよくある日本画の線でではなく、非常に柔らかく薄くぼやかして、しかししっかりと描かれているのだ。まつ毛が翳りを作り、立体的な奥行き性を感じさせて眼球の深さを強調し、尚もっと奥に何かがあるぞと言わんばかりの効果を醸(かも)し出していると言えよう。まるで洋画を観ているようである。まつ毛を排除しなくてもいい境地だったのか、わざとそうしたのか、それ故かどうか<拳を打てる三人の舞妓の習作>のような凄みや怖いものはないが、奥の奥の何かを感じさせる描き方は依然として特異で、神草のこだわりを感ぜずにはいられない。
 <アダムとイヴ>の強烈なまつ毛から、まつ毛なしの<拳を打てる三人の舞妓の習作>へ、そして<骨牌を持てる半裸女>や<五女遊戯>の洋画的なまつ毛の表現への道程は、日本画洋画に囚われずに神草がひたすら意識した人というものの真実の探求、悩みそのものであったような気がしてならない。

 

<モナリザ>に眉毛とまつ毛はあったのか
 神草が<岩窟の聖母>などのポスターを画室に貼ってまでインスピレーションを受け続けようとした、イタリアの巨匠レオナルド・ダヴィンチの、かの有名作品<モナリザ>(1503−1510年頃)には、どう見ても眉毛とまつ毛が発見できない。ところが2007年、フランス人パスカル・コット(Pascal Cotte)氏が、2億4000万画素のカメラを用いてデジタルスキャンした結果、「実はこの絵にはもともと眉毛とまつ毛が描かれていた。顔のうぶ毛等も描いてあったが油絵具の劣化で消えた可能性もある・・・」と発表した。<モナリザ>はダヴィンチが長く手元に置いていたと言われており、画家自身が描き直したのかも知れず、消えた可能性についての真偽のほどは明らかでない。
 2008年1月にはドイツのハイデルベルグ大学図書館が、<モナリザ>のモデルは、専門家の間でおおよそ肯定されていたとおり、伊フィレンツェの富豪ジョコンドの妻であると結論づけた。役人でダヴィンチの知人が、当時の書類の欄外に「ジョコンドの妻の肖像画など計3つの絵画をダヴィンチが作成中」の書き込みをしていたということだ。
 モデルは若い未婚女性か未亡人、またはダヴィンチ本人と話題をふりまいた名画であるが、例えそれが世俗的な豪商の3番目の妻と分かったところで、人が持ち得る謎の微笑(ほほえ)みと神秘的な美しさになんの変わりもないはずだ。むしろ画家がどんな描写を試み、何を表現したかったのか、現実に存在する眉毛やまつ毛をどのように取り扱おうとしたか気になるところである。また肉体的にも精神的にも純粋な人物像として描いたとされる、フェルメールの<真珠の耳飾りの少女(青いターバンの少女)>(1665−1666頃)の不思議な魅力について、「まつ毛が描かれていないのでは」として論議になったこともある。
 確かに西洋画にまつ毛の表現を発見する方が難しい気がする。油絵の具をあれだけ巧みに使いこなす西洋画家達にとって、日本画独特の邪魔にならない繊細な線によるまつ毛、それに代わる表現方法に不可能はなかった筈である。肉体でも顔でも徹底したリアルな肉質感の表現にこだわっても、まつ毛の有る無しに対するこだわりは小さく必須のものではなかった、ひょっとして眉やまつ毛は東洋人独特のこだわりであるのかもしれない。私達はモナリザの神秘的な美しさに魅了され、青いターバンの少女に限りない憧れを抱いてきたが、それはまつ毛のせいだったのかと思えなくもないほど、まつ毛なしの目は心を映して心に迫ってくるのだ。リアルであってリアルでない、だけどそこから真の美しさが見えてくる。画家達の表現の苦しみが伝わってくるのだ。

 

顔に始まり顔に終わる神草の美人画の謎
 改革の波に泳ぐ日本画の女性表現において、創造の賜物としての立派な造形である人間の肉体、そのリアルな表現を日本画で試みた甲斐庄楠音がいた。蔑(さげす)まれてしまう、ゆえに荒れ果ててゆく、悲しい性(さが)を背負わされた女性というものに仏のような慈愛の母性を発見し、その両面を描いた秦テルヲがいた。
 神草はいつも顔を見ていた。顔に滲み出てくる表情を通して内なる謎を探ろうとした・・・女の魅惑的な美しさや愛(いと)おしさ、抗しがたい怖さと凄さ、そのもっと先にはいったい何があるのだろうと。神草の大作や出品作品には顔を仕上げて後は放ったらかしているような形跡があり、彼の人間への執着は顔の執拗な表現の中にこそ垣間見えてくる。「目は心の窓」とか「目の色を変えて」とか「顔色を見る」と言うように人の魂の内は如実に顔に表れ、神草は顔を見ようとし、顔にこだわったのだ。
 そして彼が理想を重ね合わせてそこに見たものは、女性の内部に奥深く秘められた高貴な精神の久遠(くおん)の可能性であった。神なるマリアなる観音なる女性の神秘である。美人だろうが舞妓だろうが、人の奥まったところに必ず宿っている、何を以っても説明できない、不思議の極みである神秘性に辿り着いたのだ。舞妓はもはやただの舞妓ではない。契月塾に入ってからの美人画にもどこか神秘的な美しさを求めている画家の姿が見え隠れし、こだわりは去っていない。神草が抱いたのはあくなき人間の探求という西洋画が長い歴史を通じてこだわった点であることと共通しており、彼がそこに見たものは西洋東洋の枠を超えた神秘であった。
 顔の表現にこだわった当時の他の例としては、村上華岳に注目される作品<女の顔>(大正8年頃)がある。当時の画家達は、同じ時代の空気を吸って互いに刺激し合ってそれぞれの試みをしたが、顔の表現へのこだわりの真剣さについては神草の右に出る者はなかったのではないか。<海十題>に片鱗を見せた、海と言いながら実は人間の姿を追い求めていた画家は、すっかり人間讃美の西洋画の世界に向いていたのである。
 神草は<拳を打てる三人の舞妓の習作>においてまつ毛を描いていないと述べたが、<モナリザ>や<真珠の耳飾りの少女>と共通するまつ毛へのこだわりを捨て、顔の生きた血がうずまく肉質と丸みや奥行きや立体感をも表そうともがき、そこに神秘的な何かを見ようとした。同時に、追い求めた美人は内側から訴えてくる本当に生きた人の真の姿でもあって、顔からそれを読みとろうとすれば実在するまつ毛を描かなくてはならなかったり、まつ毛を描くか否か、ダヴィンチやフェルメールさえ迷ったリアル性を求めれば求めるほどの苦しみにつきまとわれていたのかもしれない。神草の日記に記されている制作過程を見ても、顔、顔、顔・・・と、顔を描いていたという記述が毎日のように綴られている。とりわけ顔を、他の部分よりも圧倒的に意識したことが想像されるのである。
 岡本神草は日本画において西洋画が目指してきたものの表現を徹底して試みているのであり、それは竹久夢二に影響された顔の新規な表現や、女性のしなだれる美しさの表面的な表現とは全く違うものである。伝統的な美人画から脱皮しようと試み、その過程において夢二に刺激され、ダヴィンチに憧れ、西洋宗教画に学んだが、美人の顔に潜む神秘の表現へと彼独自の進展を、日本画の中で押し進めていったのである。
 顔を描いたら、神草の気持ちとしての目的はほぼ完成していたのかもしれない。でもそれでは絵として特に伝統的な日本画の世界ではあり得ず、契月に学んだところで葛藤は消えなかったであろう。夭折した神草にとっては今後の追求を果たすことができず誠に残念であったろう。私達は作品とその道程を探ることで神草の遺した素晴らしさを心して受け止めることにしたい。<海十題>に見せた全く違う観点から日本画をえがくことの可能性、美人画に見せた、西洋の長い歴史が追求してきたと同じ人間そのものの飽くなき描写は、現在私達が洋画日本画の境目や美人画の範疇(はんちゅう)を意識せずに原点の心で芸術を鑑賞する、その第一の扉を開く活動でもあったと言える。西洋絵画に美人画というものが存在しないように、目指していた方向から言えば、神草は美人画というよりも女性像あるいは人物像を描いたと言う方がふさわしい。 

 

歴史に残る痕跡
 自然におののきながら美しさに打たれ、人間のドラマに共感して涙し、人は古今東西同じ心や感動を共有してきた。人が本来持っている高貴な精神を呼び起こし刺激して、人生を豊かにしてくれる、それが芸術家達である。いつの時代でも鋭敏なアンテナを持って私達の先頭に立ち、例え荒波寒波をもろに受けても、人が人たる英知や芳醇(ほうじゅん)な感受性を失うことがないように、声高に叫ばずとも黙々と作品にぶつけて遺してくれている。私達はそんなメッセージを受け止めてこそ豊かさに浸れるだろう。
 「密栗会」は時代の先端を切り開いて新しいうねりとならん画期的でまじめな活動であったが、残念ながら長く続かず、若き画家達の奔放な才能が飛び散ったようでいかにもそれらしい。玉村方久斗、甲斐庄楠音、岡本神草などのその後の作品の質の高さを見れば、彼らの若き日の1ページがどれほど重要で影響を及ぼすものであったかが分かる。歴史に残る痕跡はどんなに小さくても見逃してはいけないキラッと光るものがあるということだ。
 あらゆる人にとって正確な歴史の体得がまともな将来を築く力になるように、岡本神草や玉村方久斗が率先した日本画の改革とか変革というのは、それが進展した先で生まれ生きている私達には実感として分かりにくいが、タイムスリップしてその場に我が身を置いて見れば、大事な点を見落とすことはなく、芸術鑑賞の腕はうんと上がるであろう。神草と方久斗だって日本画の素晴らしさを知るからこそ、伝統を重んじ、世界に真価を問うべき更なる発展を目指しての改革をしようとしたのである。画家だろう、鑑賞者だろう、人のそういう方向性こそが素晴らしい芸術を生み出していくのだ。方久斗は多方面の新思潮に突っ込んでそれぞれで活躍したが、それゆえ還って日本画の奥深さを思い知っていたのかもしれない。神草は洋画に転身せず、洋画が目指した世界を日本画で追求した。ふたりは生涯決して日本画から離れようとしなかったのである。
 伝統と革新のはざまで模索をしながら双方を大事にしようとすることは、とどのつまり「白か黒か」で決しようとする単純な国民性、新しいものの導入の為なら旧きいいものまでばっさり切り捨てて平気な愚直とは全く違ったものである。先人を学び模索を執拗に繰り返すことこそが文化を発展させることに繋がるだろう。流行(はやり)を作りそれだけを追っかける風潮や、議論や対立など面倒くさいことは極力避けて通る世論に牛耳られた現在では「ダサイ」と言われそうだが、実は大切なことなのだ。人が人たるためには、芸術家が命を削って作品に込めた静かなメッセージを、尊敬を込めて受け止める余裕を持たねばならない。人が人たる英知や芳醇な感受性を持つことこそが、未来の私達の豊かな幸せに繋がっていくからである。

                         2008(平成20)年5月


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