星野画廊で開催した主な展覧会─85

画家たちが遺した美の遺産 その@

かけがえのない日本風景


星 野 画 廊 10:30AM〜6:00PM(毎月曜・第1日曜休廊)
京都市東山区神宮道三条上る TEL.075-771-3670
  


はじめに
 静かな海面を赤く染めて新しい年の幕開けを穏やかに告げる初日の出。安寧を願う人々の心を象徴するような平和な絵である。この一瞬、海が悪魔に変貌することなど誰が想像することができるだろうか。
 狭い国土の四方を海に囲まれ、国土の多くを占める山地を背後に控えた残された平地に人々はひしめき合って生きている。都会の人間は海の有り難さを忘れ、水を、海を汚す。山地もまた切り拓かれて餌食となり、果ては放棄され、ただの荒れ山と化し海を汚す。人間のこうした傲慢さに天は時々試練を与え続けて来た。懲りない人間は、経済発展の御旗のもと文明という栄華を求めて再び狂奔し始める。
 鉄槌は2011年3月11日に厳しく振り下ろされた。穏やかな人々の暮らしを支えてきた海は、突如悪鬼の如く無垢の民を沈め、文明の産物に襲いかかり全てを破壊し尽くした。M9・0の巨大地震による大津波。それは窺い知ることのできなかった地球の凄さが、私たちに明らかにされたものだった。
 1995年の阪神大震災は今から思えば範囲は限られており隣の大阪は無傷だった。ボランティアは日本全国から容易く駆けつけることができた。今では大震災の片鱗を捜すことが難しいほど復興も順調に進んだ。今回は福島原発破壊により全く別次元の地獄を産み続けている。それでもなお人々はこの地にしがみつき復活しようとしている。そこが「ふるさと」だから…。
 人間には誰にでも「ふるさと」がある。たとえ人種や国柄が違っても、それは心の拠り所としての存在だ。ときには実際にそこに生まれたとか住んでいたとかの体験は別にして、実体のないイメージとしての「ふるさと」的なものにも人間は惹かれる。
 画家はある日ふと眼にした光景に心動かされ絵筆を執る。キャンバスに描き遺された絵筆の跡は、画家のその時の感動を表現している。実際の風景や光景がその後消え去り変形されたとしても、画家が描き遺した作品には当時の生命が脈々と息づいている。風景写真にはない「生命」である。私たちはそこに日本人の「ふるさと」を見る思いがする。
 本冊子に収録した作品は、便宜上、春夏秋冬の季節で区分けし、日本の象徴のひとつである富士山の絵と大津波で猛威になることも知った「海の情景」を特集した。最終章には大都会の一隅で描かれ既に失われた風景を付録として入れてある。北海道から沖縄まで、描かれた日本風景美の遺産は、私たちが決して失ってはならない心のよりどころのはずだ。絵の中の風光や情景に接し、私たちが失いつつあるものや既に失ってしまった「ふるさと」の大切さを再認識すること、それは被災地へ想いを馳せることにも繋がるのではないだろうか。
星野桂三   

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かけがえのない日本風景―誇りの再発見 ・・・・・・・星野万美子
はじめに
 趣向をこらして催される観月会で、あるいはひとり静かに、ひととき仲秋の名月を愛で秋の訪れを楽しむ………いにしえに思いを馳せてみたくなるこの頃である。世界各地で天候異変が相次ぎ地球は悲鳴をあげているが、月は昔と変わらず冴え冴えと照らし続ける。お盆を過ぎたら凌ぎやすくなるはずの京都でも、8月下旬の気温は平均1℃高いまま、以前の鹿児島と同じ暑さだったらしい。今年の仲秋の名月は暑い最中に秋を待つ思いで迎えた。文学性や風情が感じられたしとしと雨は消え、降れば豪雨になる。未経験の自然の猛威が多発、アメリカでの事象と思っていた竜巻さえ身近に起こるようになった。私たちは近代的な便利さを求めることに貪欲であり過ぎた。二酸化炭素ガスを放出し過ぎ、とうとう母なる地球もバランスを崩しつつあると言われている。変わらぬ月はこの姿を何と見ているだろう。
 戦後の繁栄と平和な時代は何処へ、世界の力の構図が変わり不況は長引いて久しい。地震活動期にも入っている。東日本大震災(2011.3.11.)で自然のおそろしさを見せつけられ、福島原発事故で人類の奢りの骨頂を知らされ、打ちのめされた。台風12号(2011.9.5.)は十津川と熊野の山河を無惨に砕いた。繁栄の代価とも言うべきつけが回ってきたところに「泣きっ面に蜂」の災害の連続、私たちはもはや過去をゆっくり振り返ってなどいられぬ状況に追い込まれてしまったのだろうか。
 一方では電子化が生活形態を大きく変えた。情報が氾濫し押し寄せる現況は、知る喜びを越え静かに考えるチャンスを奪いそうな勢いである。スローライフやスローフードがわざわざ提唱され、世界中で禅の精神の静けさに関心が集まるのもその反動なのだろうか。
 あがいた末に、何もかも喉元過ぎれば忘れられていくとすれば問題である。過去の蓄積や智恵を失ってしまっては元も子もなくなるからだ。人は歴史に学び過去を糧にして生きるが、今その原則を忘れ、政界も財界も研究者も我々もなすすべもなくただ右往左往しているのだとしたら、それこそが真の平和ボケである。
 私たちは何ができるのか。多少の焦りを感じながら、成すべき仕事を一歩でも進めねばと認識を新たにしている。今日できなかったら明日はもっとできないかもしれない。無口な先人たちの雄弁な画業を振り返り、素直に心打たれ、教えられることから始めたい。襟を正して受け止め、未来のための確かな一歩を踏み出せればと願っている。
伝統文化の高い精神性
 今夏は、山里の火祭りとして名高い広河原の松上げ(京都市左京区 京都市登録無形民族文化財)を見せてもらった。昔この辺りは鞍馬炭の生産地として山の各所に炭窯があり、火災除けの神様の愛宕大明神に献灯し、五穀豊穣と無病息災を祈念したのがこの神事の始まりである。漆黒の暗闇と静けさの中、高さ20mの燈籠木(とろげ)へ放上松(ほりあげまつ)を豪壮に投げ上げ点火した後、無数のかがり火を灯し天に届ける粛々とした営み、炎があかあかと夜空に立ち上り川面にゆらめく幽玄な美しさに我を忘れた。この里から出た男達も皆帰郷して一致団結でこの伝統行事を支えていると聞いた。
 現在「伝統文化」と呼んでいるものは、当時は「生活文化」であったもの多く、声高に後世に伝えていかなければならぬと意識していた訳ではなかった。でもそれが新しいものにとって代わられるには忍びないほど美しいものであったから、どうしても遺したいほどの素晴らしいものであったからこそ受け継がれて来た。先人が彼等の先人の尊さを見抜き伝承し続けた、その鑑識の高さは脱帽に値する。
 伝統行事や伝統工芸だけでなく、心で聴く香道や直心の交わりを求める茶道、草木を生かす華道のように、高度な精神性を伴うのが日本文化の特徴であるが、その精神性は大自然と結びついた質素な暮らしの中から生まれ、人の生き方考え方に直結したものであった。人が人として歩むべき道を説いたのである。香を嗅ぐに作法をわきまえ、調合した香に源氏物語等から引いた典雅な命名をし、心を以て香木に接する。茶を入れるに、床の間の掛け軸を愛で一輪の花に季節を感じ、敵も味方もない直の心で茶をいただく。花を生けるに、草木を切り落とした後でも植物をあるがままの姿に生けて慈しむ。道を説く高い精神性は柔道や剣道などの武芸に於いても貫かれたのである。
 先祖が如何にして質が高く品のいい精神を抱くことができたのか、またその精神性が如何にして隅々にまで浸透して育まれたかは、現在からは考え難いほど不思議で、その土台に築かれた文化が生活に密着している点で唯一無二のものと言えるだろう。生きる為にはなりふり構わず人を蹴落としてまでではなく、日常的に和を求め礼を重んじ美を忘れない私たちのやり方こそ世界から注目を浴びている。今でもどこかで息づいているはずの、見失ってはいけない誇りであり、その特異性に私たち自身が早く気づくべきであろう。イギリスの産業革命後に起こったアーツ&クラフツ運動のように、時代の流れに逆行してでも旧き良きものを護る意義を噛みしめ、物心両面で護らなければならないものが山積している幸運と責務を感じなければならない。
「本」への帰還
 この頃電車やバスの車中で本を読む人が増えたようだ。文庫本にきれいなカバーをつけたりして、個性的で知性的な中高年が圧倒的に多い。本が携帯電話、ノートパソコン、ゲーム機等にとって代わられたかに見えていたが、回復してきたのだろうか。そんな小さな現象にもノスタルジーを感じてしまうが、実際に本を読む行動そのものも確かに見直されてきたようである。電子化が猛烈な勢いで進む中、その反省で本の良さが再認識されているのではないだろうか。本を手にする感触の温かさや、紙に刷られた文字や絵や写真の奥ゆかしさは何故か心を落ち着かせてくれる。本を読むことは長い歴史の中で培った人類の重要な行動パターンであり、そう易々と何かに代えられるものではないだろう。
 ラフマニノフ(Sergei Vasil’evich Rachmaninov 1873-1943 ロシア生まれ)作曲の「ピアノ協奏曲第2番」は、美しい作品としてつとに有名である。ラフマニノフの挫折の多い人生から、このような名曲が生まれる原動力はいったい何だったのだろう。故郷に咲き乱れていたライラックの花を基に「ライラック」という歌曲を作ったという。また曲が書けない時に「もう何年も(故郷の)ライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いていない」と語ったことはよく知られている。ライラックやライ麦や白樺は、いったい彼に何をもたらしたのだろう。
 ラフマニノフにとって名曲を産み出す原動力は、大切に心の奥にしまっていた故郷の自然の美しさ、その中にわが身を置いていた自分の過去の経験だったのではないか。それ等が糧となって素晴らしい曲の数々に生まれ変わったとするならば、人を生かすのは過去の蓄積かもしれない。1917年にロシアを出国してから一度も祖国の土を踏むことなくアメリカで没した彼は、「生まれとか主義とか何かを意識せず常に自分の頭に浮かんだものだけを譜面に写す」と言ったそうだが、彼の頭に浮かんだものこそ過去の感動と経験だったのだ。
 車中でも見かける本を読むことへの揺り戻し、ラフマニノフが頭から離れなかった故郷の風景を創造の力にしたことは、人間は単発的にではなく、過去から現在、未来へと連綿と繋がって生きることを表している。
明治生まれの祖父
 「お祖父ちゃんがおんぶしてくれる、ラッキー、と私は小躍りした。大好きな祖父と二人っきりの幸せな夕刻が今日もやってきたのだ」。私の幼き日の思い出である。
 日が長くなって外に出るのが気持ちいい季節になると、勤めから帰った祖父が、夕餉までのひとときを弟もいっしょに、散歩に出たり庭を観察したり犬と戯れたり、何かと戸外で遊んでくれることが常だった。暗くなってくると、ニワトリ達を天敵除けの高床の鶏小屋に移動させるのは日課である。ウサギや金魚の世話も楽しく、その折々で祖父はいろいろなことを話してくれた。
 祖父は私をよくおんぶしてくれた。弟は食事後の祖父の膝に乗るのが専門で、私には譲らないのである。祖父は「頭がお祖父ちゃんの顎につかえるようになったらもう乗せんからな」と言っていたのに、弟のくせに私よりも図体の大きい弟が、それを無視して膝の上でやんちゃする。あまり嬉しそうでない祖父を横目で見ていた私は膝に乗せてもらうのを我慢していた。そんな私の気持ちが分かっていたのかどうか、祖父は私をおんぶして家から少し離れた周りに広がっている田園をよく散歩してくれたのである。
 夕焼けに染まる美しい空と、遠くにはいつもの山々が待っていた。畦道の植物たちは緑深く瑞々しく息づいている。風が頬を撫でて通り、胸一杯空気を吸い込めば爽やかな薫りがした。ミミズクが住んでいるお寺の森が天を突くかのようにそびえ、その続きに民家の甍が波打つように並んでいた。まん中辺りでちょっと変わった屋根をしているのが私の家で、塀越しに母が手を振ってくれた。
 「今日はどこか行きたいか」と尋ねてくれると、即座に「豚に会いたい」と言うのが私の本音だった。「また豚小屋かいな」と言って祖父は街道を挟んで反対側の脇道に進む。そちらにも田園は広がっており、遠くの山々はいっそう高く、近くに清水(しょうず、と人々が呼んでいた湧き水)の小川が爽やかに流れていた。農家の豚小屋が私の目的である。昼間に行きたくても友達は「臭い」と言ってつきあってくれず、かといってひとりで誰もいない豚小屋へ行こうものなら、退屈しているたくさんの豚が一気に寄って来るので、お転婆の私も少々腰が引けていたのだ。
 当時の祖父も父も勤務から帰ると和服に着替えるのが常で、履物は黒の鼻緒の桐下駄だったが、雨後のぬかるみを下駄の祖父が豚小屋の中までおんぶしたまま連れてくれるのが嬉しかった。着物が汚れては大変と内心思っている私を尻目に、祖父は器用に歩いて豚の間近まで連れてくれる。豚は「待ってました」と言わんばかりにどかどか寄ってくる。賑々しくて大きな濡れた鼻が目の前で揺れ動くのは苦手だったけれど、小さな可愛い目とおどけた体つきが大好きで会いたくなるのだった。
 祖父は明治27年生まれで、明治・大正・昭和の流れを背負って生きた典型的な明治気質の堅物で、真面目金吉とかダンディーとか呼ばれた。背筋がしゃんとし体格が良く、旧くて新しく、厳格で柔和、羽織袴も山高帽も“トンビ”(二重マント、袖のないインバネスコートで和装にも合う)も着こなした。若い頃は剣道もテニスもしたらしい。私が今でも感心するのは、祖父の日常の立ち居振る舞いの美しさである。茶人でも文人でもないが、生活の中の所作がすべてお茶時の作法のように端正で自然で、私には到底真似のできないものだった。
 祖父は特に長子の私には説教や注意が多く、テストする癖もあって弟は嫌がったが、私は何故か平気だった。それより笑わない父がおっかなくて、質問はいつも嬉しそうに聞いてくれて冗談もよく通じる祖父に向けた。野の花摘みに夢中だった私だからか、「寄るすべのない野原で急に雷に遭ったら突っ立っていてはいけない、水路の窪みに沿うようにして横たわるのだぞ」、「高所から落ちる目に遭ったら、両手で頭を包み込み、鞠のように丸くなって転がるのだぞ」はほんの一例、蛇や毒草のことなど身を守る方法についてはうるさかった。
 私が少し大きくなっても、昔話や歳時記や作法は言うに及ばず、政界の汚職と天下りや近くの工場排水の危険性、古墳の調査のこと、稲作における灌漑用水の重要性にいたるまで、枚挙に暇がないほどいろんな話をしてくれた。子供だと区別せずに何でも教えてくれた。私は祖父が読ませてくれた「世界画報」(国際情報社)の大きな美しい原色刷りで、初めて美術作品の素晴らしさに触れ魂を揺さぶられたのである。
日本人の原風景
 風光明媚な景色に恵まれた我が国では、遠い昔から歌枕(和歌で詠まれる諸国の名所旧跡)が伝えられてきた。歌に詠まれて名所になっている例が多いのだ。平城京の頃の大和の各所を始めとして、蝦夷や陸奥から対馬や西海道まで、いわば全国の山や川、海や浦に加えて里や関や橋にいたるまでの地名が歌枕になってきた。「吉野山」と言えば桜を、「竜田川」と言えば紅葉というように地名がイメージを表すようにもなって、絵画はもちろん、工芸品や着物のデザインにまで発展して使われる。日本各地の風景は、人々を感嘆させ文学的で雅なイメージに昇華させるほどの魅力を備えているのだ。現在でも歌に詠まれ絵の題材になっている風景を慈しみ、わざわざそれを求めて旅行を計画する人も多い。
 中国山水画では「瀟湘八景」が画題に好まれわが国でもよく描かれたが、それを真似て「近江八景」(室町時代)が、江戸時代に松島、宮島、天橋立が「日本三処奇観」とされ好んで描かれるなど、西洋に比べて東洋では絵画の題材として風景への関心はもともと高い。風景画は私たちを慰めるだけでなく、夢を膨らませる入り口を提供してくれるからであろう。現在のダイナミックな映像は綺麗で確かな情報源になることはあろうが、歌枕や山水画、個性的な油絵のように奥深い感動を湧かせたり、イメージを抱かせる優雅な広がりを与えたりはしてくれない。
 名所旧跡でなくても、四季が移ろい山紫水明の地である我が国は素晴らしい環境に恵まれており画題には事欠かない。ところが自然風景が昔も今も変わらないとしても、その時代の空気と人々の営みを含んだ生きた光景は、繊細で走馬灯のように巡っては消えるものである。画家たちは、自然風景の中にあってその美しい瞬間と雰囲気をも必死に写そうとしたであろう。彼等が日本のあちこちで感激と共に描いた風景画は、どんな才能で以てしても再現はできない「日本人の原風景」を今に伝え、私たちの共感を呼び覚ますのだ。
「泥」の良さ
 未曾有の大震災と大事故の後、首相がまた代わった。短期間で首相が目まぐるしく代わることに日本の混迷を見る各国の反応もさりながら、今や世界中が政治的にも経済的にも行き詰まった様相を示しているのも嘆かわしい。野田佳彦氏は今までの首相と少しは変わっているかも‥‥この切羽詰まった非常時ならばこそ期待を込めて見ている人は多いだろう。好きな言葉として、詩人・書家である相田みつをの「ドジョウがさ金魚のまねをしてもしょうがねえじゃん」を挙げ、ドジョウになって泥臭い政治を目指すという、今までにあまりない考えを強調したからである。富山県の農家の6人兄弟の末っ子の父、千葉県の農家の11人兄弟の末っ子である母のもとに生まれ、自らを「ルックスは売り物にならない凡人」と称し、シティボーイには見えない理由はそこら辺にあると語って笑いを誘った雄弁家でもある。もし野田氏がその言葉通りの人物とするならば、今どき珍しい、泥のようにねっとりとして重い、だけど実は盤石な基礎を成し、渡来人かつ農耕民族であることからスタートした日本男児の本懐を受け継いだ奇特な人物のはず、真剣に泥田のドジョウになり内政外交ともに頑張ってもらいたいものだ。
 泥仕合とか泥沼とか泥臭いとか、泥は厄介で野暮なイメージを抱かせる言葉であるが、主食の米(稲)や、仏が座するという蓮の花や蓮根を育てるのは泥田である。世界のあちこちで「泥パック」の美容効果が認められているように、泥は滋養をたっぷりと含んだ有り難いものであり、ゆえに泥沼を住処とするドジョウは美味しく栄養価も高いのだ。今やどの世界でももてはやされる、お軽い、金魚のように装飾の多いシティボーイはもうこりごりである。昔から「男は中身」であったはずが、いつの間に「男はルックス」に変貌したのだろう。男は清潔と作法に心掛け、後は中身でがんばってもらいたい。その方が凛として味があるし、そういう中身の濃い人物が切に待たれている。
 「泥」の良さが見直されるのは、一気に駆け抜けてきた現代人が、何か忘れ物をしたような気がしてふっと来し方を振り返ったからではないだろうか。格好をかまうことが進歩だと信じてどん詰まった結果、泥臭いと思っていた先人のやり方がやっぱり優れていることに気づき始めたのかもしれない。
次世代への架け橋に
 私たちは世界でも有数の長い歴史と文化の国を祖国に持つ。新しいことにも意欲的で科学技術の蓄積も大きい。それ等を今こそ有効に生かして活力にするためには、先人の業績を真摯に受け止める余裕の心からスタートしなければいけない。進取の気性はいいが、過去とか古いものをやたら避けたがる国民性についてはそろそろ反省するべきだ。ラフマニノフのあの素晴らしい作品が、愛する故郷で過去に刻まれた深い感動から生まれたことを忘れてはならない。日本の伝統文化の高い精神性が世界の人々から尊敬されていることを、もっと知り、もっと大切に思うべきであろう。
 星野画廊が長い年月をかけて貫いてきたもの、それは泥臭い発掘作業と作品顕彰のし直しの連続であった。高みからではなく泥田に足を入れ浸り込んで見えてきたのは、戦争などの歴史のいたずらで泥に埋もれてしまった芸術佳品の数々だった。畦道を歩いていては決して見えない、埋もれた才能ある画家達の命の輝きだった。作品には遠い昔から受け継がれた日本人の品格が惜しげもなく詰め込まれていた。天変地異が起ころうとも失ってはいけない日本の誇りを再発見したのである。
 日本人のその故たる何かを背負った芸術作品は、この世に二つとはなく再生不可能、大切に保存され正しく顕彰され、次世代に受け継いでもらわなければならない。それは、他の誰でもない私たち日本人の責務でもあろう。今何かの手違いで世に知られることが叶わなくても、優れた作品が再び埋もれ、先人たちの魂が永久に葬られてしまってはいけない。文明は人々の智恵の中で継承されることはあっても、有形文化財である芸術作品は一度失えば取り戻すことができないからだ。私たちの長年の活動は、せめてもの記録として図録を作り、次世代への架け橋になりたいと願ってのものである。
平成23(2011)年 9月  
 
 後 記
 2003年5月9日宇宙科学研究所(現宇宙航空研究開発機構)が打ち上げた小惑星探査機「はやぶさ」は、それまでどの科学者も考えつかなかったイオンエンジンの採用で惑星間航行や自律航行に成功し、2005年9月12日に小惑星イトカワに到達、11月20日に着地した。しかし12月8日に「はやぶさ」からの通信が途絶えた。再び「はやぶさ」からの電波が受信できたのが翌年1月23日。それからほぼ1年にわたる必死の救出努力の結果2007年4月に地球帰還に向けて再出発した。プロジェクト担当者たちの苦闘は続いたが、3年後の2010年6月13日「はやぶさ」は丸7年、往復60億kmの旅を終え、地球の大気圏に再突入したのだ。地球重力圏外にある天体の個体表面に着陸しての地表サンプルを採取して持ち帰る旅、それはまさに奇跡に近い世界初の快挙だった。政府による事業仕分け作業中の「一番じゃなきゃダメですか?」発言に揺れ動いた、科学技術開発予算に対する不当な圧力をはね返す快挙でもあった。その後映画化されたりして日本国中が湧いた、最近稀に見る明るいニュースだった。
 旅には様々なかたちがある。「はやぶさ」の旅はその極端な一例でありどうかと思われるだろうが、殺伐とした現代日本では数少ない夢を語ることのできる旅として持ち出してみた。時代を遡れば1702(元禄15)年に刊行された俳人松尾芭蕉の『奥の細道』や紀貫之の『土佐日記』(935年頃)などの歴史的文学とされる紀行文をまず思い浮かべることだろう。私の本棚に並ぶ美術関連書物を拾ってみると、『欧州絵行脚』(1911 三宅克巳著)、『畿内見物・京都之巻』(1911 金尾文淵堂)、『瀬戸内海写生一週』(1911 太平洋画会画家8人共著)、『十人写生旅行』(1911 小杉未醒編集、太平洋画会画家10人著)、『水彩写生旅行』(1911 大下藤次郎著)、『欧州芸術巡礼紀行』(1923 国画創作協会同人著)、『絵の旅から』(1926矢崎千代二著)、『南米絵の旅』(1933 矢崎千代二著)、『山旅の素描』(1940 茨木猪之吉著)などがある。仕事柄いつかは必要になるだろうと買い集めてきた古書の一部である。
 明治末期から昭和初期、画家たちが各地を巡りその印象をスケッチした挿絵や文章は読者を惹き付けてきた。中でも水彩画による旅のブームの仕掛人・大下藤次郎は、1895(明治28)年から相模地方や房総半島、日光など関東各地、猪苗代湖から磐梯、信州や甲州、その他関西方面など日本各地に写生旅行を行い、たくさんの水彩画の佳品を生み出した。本目録との関わりでも忘れてはならないものだが、残念ながら頁数の都合で彼の水彩画の名品を紹介できなかった。ここに最近入手した佳品を参考図版として掲載しておく。
 大下藤次郎「勿来」
  1907(明治40)年 
  20.3 × 30.5 cm 紙に水彩
 
 勿来は、歴史上勿来の関があったことで有名 で、桜の名所としても知られる。
 福島県浜通りの現在のいわき市南部にある。
 2011年3月11日の東日本大震災と巨大津波による海岸部での壊滅的惨状が、テレビで繰り返し放送された。私たちはただ怯え、震えながら報道を凝視することしかできなかった。40年ほど前に家人と共に東北への旅に出たことがある。松島海岸を経て下り立った宮古市内には独特の海の匂いが立ちこめ、海に慣れていない私たちは思わず閉口したものだ。真っ白い浄土ケ浜に心洗われ、田老海岸から龍泉洞を経、陸中海岸の男性的な断崖の雄大さを垣間みて後、平泉に向かった。薄れかかった記憶の端に当時の様子が少しずつ蘇り、現実の惨状とが重なり合う。
 数年前に本書で紹介している鶴田吾郎<金華山晩秋>を入手した。その時に描かれた場所がどこなのか検索して、岐阜県の金華山でなく宮城県石巻市の牡鹿半島の沖にある金華山と分かった。今回の大震災の被災状況を検索していると、ちょうど地震発生時に金華山に登山途中だった人(moriizumi arao氏)による詳細なレポート「金華山 地震と津波の爪痕」に遭遇した。津波の様子、その後の避難状況から無事帰還するまでの実に詳細なレポートだった。命からがらの旅だというのに、その綿密さと冷静さに脱帽した。レポートは3月17日にアップされていたのである。
 桜が咲き、新緑の芽が吹いても人々の動きは鈍く、画廊に来られるお客様も極端に減ってしまった。それは厭世的感情により全国的に広がった現象のようだ。例年なら画廊の企画展の一つや二つも開催している頃なのにと思案を重ねた末、これまで怠ってきた倉庫の整理を始めることにした。
 四季折々の変化を見せ、人間を慈しみ、育んできた美しい国土に住みながら、巨大津波によりあっけなく崩れ去った生活、大切な家族や友人を喪い、見えない放射能汚染により放棄せねばならない土地と家屋、そしてバラバラになった近隣関係。たとえ震災被害を直接的に受けなかった人でも、常に不安を抱えて何かに怯えながら生活しなくてはならない。平和な世界がこのまま簡単に消えてしまってよいものだろうか。作品の検証はこの考察から始まった。美しい日本の風土と風景を画家たちがどのように記録し、描いてきたのだろうか、画廊の蒐集品の中で検証してみることにしたのである。
 本目録で紹介したように、芸術家の旅は後世にたくさんの果実をもたらしている。名画とされる豊かな産物も数多い。キャンバスの中に封じ込められた日本の風景は、描かれた時代により、また描く作者により様々な姿を見せる。それは単なる記録ではなく、画家たちの厳しい眼によって濾過されてきたものであり、折々の時代性、もしくは画家たちが置かれた生活環境や受けた印象により変貌するからだ。実景は時間の経過で刻々と移り変わるが、描かれた一瞬は、そのままキャンバスの中で永遠の生命を燃やし続けている。それらは見るものに懐古の感情を呼び起こすだけでなく、時には新たな感動を与えて未来への希望の灯をともす源にもなるのである。
 画廊蒐集品をテーマ別に選別し、今後順次制作していくつもりの目録シリーズを「画家たちが遺した美の遺産」とした。第1集を『かけがえのない日本風景』とし、展覧会カタログのような構成にしている。頁を繰りながら日本各地の四季を楽しみ、また時代を超越して巡ることができるように工夫を凝らしたつもりである。また美術館などの広い会場では無視されてしまうことの多い小さな絵の中にも、大作に匹敵する美術的価値のあることや、無名画家の絵が魅力的であることを再認識して頂くことも考慮したつもりである。
 「はやぶさ」が少ない予算をやりくりして達成した科学者たちの成果であるなら、キラリとひかるものなら何でも巣に持ち帰るカラスのような習性を持つ、京都のへんこつ画廊主が40年に亘り蒐集した絵画による、北は北海道から南は沖縄を巡る日本一周の旅は、有名無名画家たちが過去110年間に描き遺した大いなる遺産の成果でもある。
 日本各地、とりわけ東日本大震災により直接的・間接的に被害に遭われて苦しみながら、未来へ希望を繋ぐことで懸命に生きて行こうとされている多くの方々に心を寄せながら筆をおく。一日も早く平穏な生活が戻りますように。
 
2011(平成23)年 10月   
星野桂三 

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