星野画廊で開催した主な展覧会─86_1

京都洋画の先達・ 伊藤快彦遺作展
忘れられた画家シリーズ-34


伊藤快彦―京都の近代化とともに・・・・・星野万美子     

 はじめに

 「戦後」が遠く聞こえてしまう昨今、望んだ平穏は雲隠れし私たちは新たな難問に次から次へと直面している。人間の傲慢の結果としか思えない世界的な経済不況や内戦勃発、その上に私たちが破壊しつつある自然の脅威が追い打ちをかける。地獄絵さながらの東日本大震災(2011.3.11)からの復興はおろか、原子力発電問題は一歩間違えば大怪物になる原子核との永遠の闘いを私たちに課した。キュリー夫妻が生きていたらこの現実をなんと見るだろうか。英語圏ではnuclear weapon(核兵器)、nuclear power(原子力発電)のように利用法が違ってもnuclearを使うのに、日本ではなぜか「核」兵器と「原子力」発電とに分ける言い方をする。見たことも聞いたこともない事態に政治までが混乱し、「想定外」という言葉が闊歩し、私たちの不安は広がる一方だ。
 京都は静かである。研究者たちのおかげもあって全国に先んじて活断層による直下型地震や集中豪雨による水害の問題が論じられ啓蒙活動がなされた京都市である。充分な対策がとられた訳でもないのに、近辺で感じる地震が最近少ない(阪神大震災前の静穏期に似ているとの指摘がある)こともあるのか、以前ほど叫ばれないと気になるのは私だけだろうか。観光都市としての賑わいは普段どおりのように見える。地震と原子力の問題は、活断層の巣であり関西電力の原子力発電所群に近接している京都とて同じであるが、少しシニカルな言い方をすれば、あまりに先般の災害が大き過ぎ経済活動があらぬ風評に災いされるよりは、京都の賑わいはその新たな被害を打ち消すことに少しは役立っているかもしれない。
 7月に入ると京都の繁華街は梅雨明けを待たずに祗園祭の賑々しさ一色になり活気づく。祗園祭は疫病退散を願い創始されて今年で1143年、山鉾「風流」が加わって650年になるという。山鉾を特徴づける装飾に異国の絨毯や刺繍幕、タペストリー、初期には猛獣の毛皮までが堂々と使われてきたことを、伝統を誇る古都にしては不思議だと思う人も多いが、幽玄、侘びや寂びだけではなく、それと対峙する「風流」(華美や派手さを好み数奇と美麗を尽くし、人目を驚かすために度を越した贅沢な趣向をこらした意匠)の美意識を取り入れた京都の町衆の気質を表す例であろう。彼らは旧いものを護りながら固執せず、良いものなら輸入品でもこぞって取り寄せ自分たちへの刺激とし、さらに進んだものづくりへと発展させてきた。 
 明治維新で東京遷都という政変の憂き目に遭った京都は、明治の中頃にはそれこそ「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で大々的な都市近代化政策をとって躍動した。今の観光都市としての基盤が築かれたのである。伊藤快彦は京都人の気質と近代化政策の時代をまさしくそっくりそのまま背負って生きた京都の洋画家である。伊藤快彦とその時代の京都人の熱い思いを、彼の画業と作品を通じて振り返ってみれば、今の私たちの為すべきことの一端が見えてくるかもしれない。

 伊藤快彦と京都の近代化

 伊藤快彦は今般あまり見かけないような希有な人であった。その「希有さ」に一昔前には必ず出会えたような気がするが、時代がいくら変わったとはいえ、どうしたことか見当たらなくなってしまった。高い見識を持ち、純粋な感動に満ち、信念を通し、道理に適った行動を起こす生き方である。
 伊藤快彦は明治維新の前年(1867)に京都に生まれ、まだ第二次世界大戦が終わっていない昭和17年(1942)に没した。明治維新の時に1歳だから明治の年号がそのまま彼の年齢を表し、千年以上も続いた都が突然そうでなくなった京都にとっての天変地異(1869 東京遷都)とその後、つまり京都の再興と、また国全体が激変した時代をともに生きたことになる。 明治中期、京都は東京遷都に対して単なる焦燥とは言えないような進歩的な施策をとって近代化を進め、今日の観光都市の礎を築いた。たとえば琵琶湖疏水を引くという大事業(1890 第一疏水完成)や日本初の事業用水力発電所(1891市営蹴上発電所送電開始)と電気鉄道(1895開業)などは近代都市機能の基盤を整えた。また第4回内国勧業博覧会開催(1895)や平安神宮創建(1895)は今日の文化の中心となっている岡崎公園の基を作り、京都三大祭のひとつ「時代祭」もこの時に創設された。京都市民は琵琶湖疏水事業を成すため特別税(総工費の約5分の1)を納めて財政上の助けをしたという。
 防災上から見直されている凄い知恵もある。蹴上の貯水池から東本願寺まで水を送る(本願寺水道)ため、地盤の48 メートルの高低差を利用して地下水路(全長4.6 km)がこの時代に造られたのだ。文化財を火災から護るために成し遂げた人々の熱い思いからであった。鴨川を五条大橋橋脚とともに渡り街中を延々と地下水路が敷かれ、琵琶湖から来た水は数年前まで寺の外堀を満たし噴水を上げていた。現在は老朽化が進みこの方法での配水は止めているようだが、自然水を利用し動力にたよらずに高低差を活かした素晴らしい水利システムとして保存の運動が始まっている。
 明治時代の京都人の行動力には目を見張るものがある。伊藤快彦はそのような燃えたぎる熱気を胸に抱き、文化の面から傍観するのではなく率先して近代化を実践したひとりだった。京都人は旧いものを頑固に尊重保持しつつ進取の気性にも富んでいると言われる。千年以上の都であるならばそうであることは必然で、善し悪しも酸いも甘いも包括してあざなえる縄のごとく歴史を編み上げ、それを肥やしにして日本独特の文化と美のこころを時代の変遷とともに築いてきた。今もその姿勢を細々ながら延々と続けようとしているが、伊藤快彦はそんな京都の大先輩であり、優れた画家で洋画の草創期から戦前における美術界の重鎮である。25代も続く由緒ある神社に跡取りとして生まれながら旧きに甘んじず、常に外界と世の趨勢から目を離さないで画家としての志を貫き、洋画で新しい時代をリードした。そういう人であるからもちろん、自身の才気に溺れず画技の研鑽を積み上げ、感動的で明るく緻密で生き生きした佳品を遺している。
 伊藤快彦は10歳で父を亡くして家督を継ぎ、16歳の時には維新後の政変を受けて代々継いできた山林田畑を没収される憂き目に遭っている。幼くして理想は高く、神社を継ぐことさえ大変だったのに好きだった絵の修業も決してあきらめなかった。わずか7〜8歳の時、京都の風景を写生する西洋人の水彩を見て、極彩色で紙の上に浮かび出ているような手際に驚嘆したという。立体映像や写真が当たり前になった私たちは、写真および「浮かび出ているような」視覚がいかに当時の人々の興味をひくものであったかをイメージしなければならない。当時は何らかの理由で日本に招聘されたり派遣されたりした西洋人が各地を水彩で写生する光景が珍しかった時代である。1854年ペリーに随行したアメリカ人の手によるものが日本人を撮った最初の写真と言われるが、まだ写真が未発達な時代で、記録や本国への報告などに文章とともに水彩画を描くのは当時の彼らの素養のひとつでもあった。その水彩画はいわば西洋画の本物を覗き見る入り口ともなって日本人画家に強い刺激を与えたが、伊藤快彦もそのひとりである。また8歳で高橋由一<鮭の図>(1875 第4回京都博覧会)に深く感動し油絵を志す決心をしたというから、その才気活発さが窺える。
 伊藤快彦は京都で田村宗立(1884 快彦17歳)に、東京で小山正太郎(1888 同21歳)と原田直次郎(1888 同21歳)に学んだ。24歳で京都に戻ってからは洋画塾「鐘美会」(1893 同26歳)を開き、「関西美術会」(1894 同27歳 大阪で松原三五郎、山内愚僊、櫻井忠剛らと)を結成するなど京都大阪で活躍、また浅井忠らとともに「関西美術院」(1906 同39歳)を起こし、院長(1916 同49歳〜1936 同69歳)を長年務め、熱心な展覧会出品や文化人との交流や後進の指導に尽くした。ごく若い日には生活を支えるために絵を教えたのだが、優秀な後輩を見るにつけ自分をむち打ち絵画専門としての模範となるべく大いに発奮したという。同世代に竹内栖鳳や山元春挙がいる日本画優勢の時代、洋画草創期にあった洋画排斥の動きをすり抜けて一念を押し通し、京都と東京・大阪を行き来したり写生旅行を重ねたり、竹内栖鳳ら日本画家たちとの交流も怠らず、画技の研鑽のために洋画発展のために奔走した、そのような熱い人であった。お酒が好きで健脚、性格は穏健でスケッチと写真撮影に余念がなかったそうである。

 伊藤快彦は日本の伝統を尊重したが、伝統的画法にはない表現法、つまり西洋の手法を取り入れてみたら伝統的な題材がどう画面で見えるかに興味があった。西洋に行っておらず西洋的な題材に恵まれなかったからではなく、また決して従来の日本画を否定していた訳でもなく、自分の周りにある、あるいは頭の中にある日本的なものをいかにリアルに表現できるかに腐心した。浮かび出るように、である。原田直次郎に教わった人物・静物描写や歴史画にとどまらず、日本の風景や風俗にも積極的に取り組んだ。写真と見紛うばかりの肖像画、手に取れそうな静物や草花、目の前で今演じ息づかいまで伝わるような役者とふくよかな衣装、生きて現れたような歴史上の人物や、まるでそこに居るかのような風景をいかに生き生きと描くか…それは視覚表現が格段豊かになった現在では決して珍しいことではないが、当時のそれまでの絵にはなかった、見たこともない新しい視覚の世界だったのである。
 <鴨川真景図>(1897 京都市美術館蔵)を例にあげると、伊藤快彦がいかに正確にリアルに描いているかがわかる。東山から大文字山、比叡山と連なる山々を、京都人がそう呼んで親しんだ「ふたこぶ山」やら「一本杉」までも、寸分違わないかたちで巧みに描いているが、今と比べて山の緑が少ないのが疑問だった。歴史的資料としてこの絵を観たある研究者は、当時は柴を切り出していたため禿げ山になっている部分が多かったと想像されるが、時代も符合するし画家による当時の山の描写によってそれが実証されたようだと指摘した。また現在ある堤防や道路がなかった鴨川は暴れ川で、橋が洪水の度に流されその費用捻出のため橋の通行税が徴収されていたそうだが、そのような鴨川周辺がありありと表現されているという。厳然たる写実なのである。河原で何か茶会のようなものを開いている人々については、必ず事実に基づいていると思われるが未研究である。
 <鴨川真景図>は単なる景色の描写に終わらず、その場の空気の流れや雰囲気、気色までを捉え詩的な作品に仕上がっている。原田直次郎はドイツで学び、西洋では肖像画が油彩画の主要なジャンルであること、文人画のような遠近法や解剖学並びに理屈に乏しいものや手本の模写ではなく、実物を見てかたちと性質を学びながら描くべきことを説いた。その教えを肖像画に限らず究極のリアリスティックな表現により西洋からもたらされた油彩画の自分なりの徹底した研究に一生を懸けた伊藤快彦は、従来の日本画にあった「気色」の表現まで含む旧いものを重んじて我を知り、新しいものを摂取してより良いものを作るため壮大な理念を抱えて絵を描いていた。これこそが京都人の気質である。この作品は間違いなく彼の代表作のひとつと呼べるものだろう。
 伊藤快彦は時代を見据え、感動を重んじ、師あらば遠くでも跳んで頭を垂れ、損得とは無縁で洋画の発展に尽くし後進のために道を開いた。多くの画家が果たし世間の耳目を集めた洋行の派手さがないゆえ目立たない存在にされがちだが、伊藤快彦の画業をつぶさに見れば、彼なしで京都のひいては日本の洋画界や、後の梅原龍三郎や安井曾太郎を輩出し黒田重太郎に引き継がれていく「関西美術院」の実質的な活動は語れず、美術史に燦然と輝く画家であることは明らかである。伊藤快彦は「鍾美会」で11歳の梅原龍三郎を指導した最初の師であることを付け加えておく。

 ドナルド・キーン氏と同志社
 去る初夏の午後、「同志社アーモスト館開館80周年記念講演会」(2012.6.2. 同志社アーモストクラブ主催 於栄光館)が一般市民を対象に開かれた。津田能人先生のパイプオルガン演奏による荘厳なバッハに迎えられ、冷泉家時雨亭文庫の冷泉為人氏の講演「日本人のこころ」と、引き続き行われたドナルド・キーン氏を交えた鼎談「日本、京都への思い」は楽しくかつ有意義なものだった。満員の善男善女はひととき我を忘れ、それぞれの美しい思い出の一ページを綴ったに違いない。私にとっては白髪になられた北垣宗治先生(同志社大学名誉教授)が懐かしく、学生時代を昨日のように近く感じた日でもあった。翌日の新聞にはキーン氏を招いた面白いイベントとして報道されていたが、中身は非常に含蓄に富んだ、近年ふり向くことが少ないがとても大切な、いわば忘れられた日本人のこころと美を再発見しようとの示唆に終始溢れていた。また、キーン氏がいかに京都と同志社に、特に初期において深く関わっておられたのかを知る良い機会でもあった。  
 冷泉氏はその講演で、温和でユーモアに富んだ一見分かりやすい話の奥で、古くは『枕草子』から現代のKY(空気が読めない)などの例をあげて日本人のこころと文化の特質を深くえぐられ、最近おざなりにされている日本人のありように陽を射す内容だった。たとえば『枕草子』や定家の『拾遺愚草』の文学と大和絵の四季花鳥図などの美術に見られる景色と気色の細やかな表現は同根であり日本独特であるという指摘、日本人は多様なものを多様として認め、そこかしこに存在する「型」を受容しつつその変容をも尊び、限りなく推し量る思考を持ち、パスカルが言う「美を理解するために必要な“柔らかき魂”」を元来備えている、などである。その特質は国際社会で受容されるかとの問いに、後の鼎談でキーン氏は大いに発信すべき尊重すべき特質で、外国人も必ず理解し得るものであり自分もそのために長年活動してきたと述べられた。
 キーン氏は米海軍の翻訳家として日本との関わりが始まったにもかかわらず反戦家を押し通し、同志社大学にアーモスト大学代表として派遣されていたオーティス・ケーリ先生をたよって京都に来られた。キーン氏は戦後まもなくからの同志社の大切な客人なのである。また氏は素封家奥村氏の素晴らしい離れに住んで日本への関心がより深まったと話された。その住まい「無賓主庵(むひんじゅあん)」は約700年前平家の落ち武者が飛騨の山中に建てたものと言われ、それが京都にあり、1979年には東山区今熊野から同志社校内に移築された。キーン氏は「国宝級の下宿」と言っている。また戦争で日本は負けたが日本文化は勝ったのだと強調された。

 全体を通じて同志社とアーモスト大学、ひいてはアメリカの人々との深い関わりを再認識すると共に、同志社の目的として国際融和の前に我々は何かを知ることが大切である旨が強調されていた。外国人と踏み込んで接したことがある人なら、自国の文化を豊かに背負わずして彼らの尊敬を得ることは不可能と必ずや感じるだろう。日本文化は世界中の人々を魅了することを私たち自身がもっと尊重し認識すべきで、混乱の今こそ忘れてはいけないのだと改めて痛感した。

 伊藤快彦と新島襄

 伊藤快彦が25代目宮司の長男として生まれた熊野若王子神社は700年以上続いた古社だった。後白河上皇が京都の熊野三社のひとつとして那智権現を勧請した神社である。「月は朧に東山…」(祗園小唄)と唄われる東山の南部にあたる若王子山の麓にあり、そこから登り始めて北へ向かえば大文字山に達する良いトレッキングコースである。反対を進めば林を抜けてすぐに南禅寺水路閣付近に下りられる。若王子神社から上るコースは少々きつい坂ゆえあまり人気はないが、私たちにとっては愛犬との楽しい散歩道で、山麓の針葉樹の森を抜けると明るい雑木林が広がり紅葉やさざんかも美しい。この辺りには共同墓地、特にキリスト教系の墓地が点在している。新島襄と妻八重(八重子とも)や義兄の山本覚馬一家、徳富蘇峰など多数の関係者が眠る同志社墓地もここにあり、早天祈祷会が行われ多くの人々がこの登り口から随時お参りするのも常である。
 同志社大学に入学して住谷総長の「毎月必ず一冊本を読む」「新島襄先生のお墓に参る」の教えは今でも鮮烈に覚えているのに、当時の若気の私がお墓にお参りするまで大分時間がかかった。友人と大文字山から南禅寺までトレッキングをした時が初めてで、近くに住むようになってからの方が感慨深くお
参りできているような次第だ。この話を日本で育ったよりもボストンに住んでからの方が長い同窓の友人にすると、彼女はお墓にお参りしたことがないことを悔いて、帰国した短い滞在中にもかかわらずご主人と一緒に山に登ってくれた。ボストンに住んで、つまり京都を離れてより一層新島襄とアーモストと京都と日本文化に関心を深めたと彼女は言う。
 伊藤快彦を語る時は<新島襄像>(1891 同志社社史資料センター蔵)の名作抜きにあり得ないが、新島襄こそ彼にとっての明治の偉人であった。直接の触れ合いはなかったようだが、新島襄の精神と行動力、そしてその生き方は手本とする最たるものであった。新島襄に私淑した文化人として徳富蘇峰が有名だが、伊藤快彦もそのひとりである。日本のこころを内包した新島襄の精神はアメリカで育ち京都で実を結んだ。道を切り開き大業を成し遂げた新島襄は伊藤快彦が敬愛してやまない人だった。
 新島襄が転地療養先の神奈川県大磯で47歳の志半ばの若さで他界(1890 明治23年)した時、父民治が眠る若王子神社近くの南禅寺天授庵墓地に葬られるはずが、当時の京都にまだあった耶蘇教に対する執拗な偏見ゆえだったのか、キリスト教信者として同寺に眠ることは叶わず若王子山の共同墓地に埋葬されたのである。今も遺る新島邸から礼拝堂での葬儀を終えて若王子山まで、1月の冷たい雨の中を同志社の生徒が交代で棺を担ぎ埋葬したのだった。前後6時間もかかったらしい。当時23歳だった伊藤快彦は、かつては自分の神社の社領地であった若王子山に急遽葬られることになった因縁と新島襄と生徒たちの悲しいできごとに、若い心をひどく痛めたと思われる。師である原田直次郎を通じて、新島襄の教え子で原田と親しい徳富蘇峰から新島襄の話は篤と聞いており、『国民新聞』や『国民之友』の追悼記事にも感動し、原田の指導のもとで<新島襄像>を描いたのである。

 当時は写真がまだ未発達で肖像画の注文が多かった時代である。「写真」という言葉は9世紀頃中国の絵画論の中で山水画を含まず肖像あるいは肖像画を意味するものとして使われ始め、18世紀の司馬江漢らが西洋絵画の写実表現を説く際に採用したようで、写生ではなく「写真」が絵画と結びつけて考えられ、そんな状況で写真に替わるものとしての肖像画があったのかもしれない。伊藤快彦は原田直次郎らに教わったと思われる写真撮影にも熱心に取り組み「素人写真家の草分け」と呼ばれたこともあるそうで、また注文で肖像画を多く描いている時期もあるのだが、新島襄の肖像画についてはそういう流れとは少し違っていたようだ。
 師である田村宗立も原田直次郎も新島襄の肖像画を手がけている。伊藤は誰の注文ではなく、自らが発意して、どうしても描きたくて、尊敬する新島襄を描いたというのだ。24歳のときである。芸術家が一念発起すればそこには研ぎすまされた高い芸術性がより強く加味されるのは当然で、その点に特に注目したい。伊藤快彦の<新島襄像>は迫真性に満ち、新島襄が孤高の精神を携え日本男児の誇りを背負い、良きアメリカのピューリタニズムと紳士の誉れ高さを身につけた、その完成された高貴な姿を巧みに表現している。思い入れが違うのである。まっすぐで高尚な志に満ちた青年伊藤快彦の姿が浮かび上がってくるのだ。この肖像画は本人にとっても会心の出来で原田直次郎にも非常に褒められたと伝えられる名作である。いわゆる肖像画にしては画家の個人的な思い入れが込められすぎている、たとえば肘をテーブルに置いている構図が肖像画らしくないとかの批判も当時あったらしいが、その点については、新島襄が八重との新婚時代に撮った写真で同じようなポーズをとっており、新島襄のよくあるしぐさと伝え聞きその姿を伊藤快彦が敏感に捉えているのではと私は考えている。この肖像画が今なお同志社の礼拝堂に掲げられ同志社の歴史とともに愛されてきたのは、新島襄の在りし日の姿をありありと、そして内面から湧き出る至高の精神を以て一番よく伝えているからであろう。
 西洋との関わりの中で
 劇的な変化であった明治維新をもたらした100年以上も前の状況や精神的風土は、いくら歴史を辿って学ぼうとしてもその記された事実だけでは解明され得ないと思われる。それは近代の歴史が政治経済に重きを置いて史実として遺され、状況や精神的風土をよく伝える文化や美術が人間活動の中で実際に重きを占めるわりには歴史のアウトサイダーにされ続け、ゆえに理解が遅れているからだろう。日本の歴史は古代より朝鮮や中国との文化的な関わりなくして語れず、鎖国中でさえオランダを通じて西洋と大いに関わってきた。殊に美術工芸は政治的影響から離れているからか盛んに行き来をしたのだが、その中にこそ時代の実際の状況や精神的風土を伝えているものが多い。今日西洋の国々がそのような深い関わりをよく認識しているに比べて日本は関心の持ち方が低い。
 ある時私はオランダ直輸入の球根を買い求めようとしてオランダ人と話すことになったのだが、共通言語が英語であることに彼は冗談をこめながら私に対抗した。「なぜ日本人は英語ばかりでオランダ語を話す人がいないのか」と言う。日本はオランダと昔から長くて深いつきあいをしておりオランダ人はとても日本に親しみを感じているのに、日本人は言葉だけではなくその関係までを今ではおざなりにしているとの不満だった。少々我田引水だが正直な意見だと思い、私は「オランダ語を話す人が増えたらいいと思う」と答えるしかなかった。
 近代における美術工芸作品は静かで声には出さずとも必ずそのような解明不足の時代を語っている証拠品でもあることが、最近になって注目され実証され始めている。近代を語るときに外国との関わりは外せないが、国をあげて西洋に追いつけ、追いつけでどんどん取り入れたこともありその影響については多少知っていても、反対に日本の美術がそれよりも早い時代から西洋に多大な影響を与えて西洋を刺激し、それが新しい美術を生み、また逆輸入されている状況を私たちはもっと理解しなければいけない。日本の美術工芸が与えた影響の大きさを西洋の方がよく知っていて日本人が知らずにいるのはおかしい。
 日本から西洋への輸出品の主要なものに陶磁器や漆器があり、その輸出品の包装に使われていた「浮世絵」に注目が集まり印象派を筆頭に多くの芸術家を刺激したことはよく紹介されるが、元来染めに使われた「型紙」がヨーロッパに渡り産業革命以降の新たな造形表現としてデザインに多大な影響を与えたことはあまり知られていない。アーツ・アンド・クラフツやアール・ヌーボー、ユーゲント・シュティールなどの運動に、日本の「型紙」の美しさが最初に受容されて影響を及ぼし消化吸収されてそれぞれの進化を遂げたという、面白い切り口の展覧会が三菱一号館美術館(京都国立近代美術館及び三重県立美術館に巡回)で開かれた。我が国で独自に発展していた「浮世絵」や「型紙」が、富をもたらす重要な輸出商品であった陶磁器や漆器に負けず劣らず西洋の人々を驚嘆させた、その日本の、私たちが何気なく思っている美術の感覚をもっと誇りにするべきである。
 浅井忠はフランス留学で油絵や水彩だけでなく当時のフランスで生活の中に浸透しつつあったアール・ヌーボーのデザインにも多くを学んで帰国、工芸デザインをも手がけ京都の工芸界を大きく発展させることに貢献した。いわばデザイナーの先駆けでもあるのだ。浅井忠のデザインは、かつて日本の「型紙」が影響を与えたアール・ヌーボーから学び再び日本で進化させたもので、和とモダンの美しさを備えた画期的なものへと進展している。簡素化された流麗なアール・ヌーボー的な線で多大に日本的な素材を使っているところが全く新しくて面白くて美しく、浅井忠ならではである。たとえば動植物だけでなく「型紙」にはない様々な日本の人物をその風俗的な衣装とともにデザインに取り入れているのだ。決して西洋的なものではなく、日本に昔からあるものを敢えてデザインに生かしていながらモダンなのだ。
 浅井忠といえば西洋から導入した油彩・水彩画の大家であるが、大津絵に非常に興味を持ち亡くなる間際まで親しんだことからも窺えるように、浅井忠がいかに我が国のものを大切に考え誇りとしていたかわかる。怒濤のように押し寄せた西洋に決して溺れずかぶれず、「我を知っていた」のだろう。日本
と西洋が交錯を繰り返しながら互いに切磋琢磨してきた美術の実態、それを私たちがやっと理解し始めたその100年も前にすでに実践していた浅井忠の先見の明に学ぶことは多い。浅井忠は今、西洋社会からも尊敬され世界に通ずる画家として名声を築きつつある。
 先賢の識に学ぶ
 明治の京都人が目指した近代化、あるいは伊藤快彦が追い求めた洋画の開拓と導入は、まず「我々は何かを知る」ことから始まらねばならなかった。何事においても今ある姿を正しく把握せずして新しいものを正確に理解し取り入れることはできないだろう。ギャップが大きい明治時代ならなおのことである。「国際融和の前に我々は何かを知る」という同志社の目的を改めて考え直そうではないか、という前述の講演会の問いかけは何を意味するだろうか。国際化が猛スピードで進み前を向くことに忙しい今日に、敢えてそのことを思い返し強調せねばならないほど、私たちは自分たちが何かを知ることを忘れてしまっている。あるいは自分たちの誇るべき特質までかなぐり捨てて世界の潮流にひたすら同化することが進歩であるかのごとく誤解している。
 伊藤快彦は明治の知識人がそうであったように新しいことを貪欲に摂取しようとする人であったが、旧き良きものを尊重すればこその進取であって、後の私たちがややもすれば陥った西洋かぶれとは一線を画しているのだ。新しい文化を取り入れるのに際し「我々は何かを知る」ことを重視したのである。その姿勢は新島襄や浅井忠と同じくするものであった。
 伊藤快彦は豊かな感動とまっすぐな意志を持ち、信念のために行動素早い人であった。旧き良きものと日本のこころを腕に大事に抱きながら、西洋に負けまいとして魂を燃やし続けた。多くの明治の賢人がそうであったように、熱い魂を胸に真摯に国を思い未来を見据え道理に厚い道を歩んだと言える。今、このような考えや人生の投じ方をする人が一体どれほどいるだろうか。国のためにあるべき政治家さえが政治屋に成り下がり、それを見習っているのか上から下まで自己の保身に終始する人で溢れている。そこに責務としてのあるいは人としての道理は忘れられている。純粋な感動を無視し、つらいことを避け、損得や費用対効果(コストパフォーマンス)だけで動くのが世の常になった。今の京都も残念ながらその通りである。
 伊藤快彦の人生の歩み方が実直だったからか、地味でおとなしい人とされて一般にはあまり知られることがない。今流行でマスコミ受けするわかりやすい派手さ、波瀾万丈、破滅的、あるいはドラマチックでないが、それがどうしたと言うのだろう。実直こそが歴史を動かして未来を育てたことに私たちはもう気づかねばならぬ。その今ではどこにも見られなくなった「希有さ」を顕彰することこそ私たち後輩の責務であり、それが反省に繋がっていくだろう。美術史に遺された確かな足跡となる作品を享受できる幸せとともに先賢の識を今一度学んでみたいと思う。

平成24(2012)年 夏  


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