星野画廊で開催した主な展覧会─89_1 |
―素顔それとも虚構― 生かされた女性美 |
生かされた女性美ー素顔それとも虚構・・・・・星野万美子 |
私たちが「美人画」と聞いて普通に思い浮かべるのは、醜さにつながるかもしれない一切の要素を隠しながら、女性の快い美しさを引き出して意識的に理想に近づけて描いた作品群であろう。それは実際に典雅で優しく、誇張されて浮世離れしているとはいえ、女性の持つ愛すべき素質が画家をして感動させ揺るがした結果の産物である。描かずにおれない女性のしなやかな姿や仕種、生き方に通ずるけなげさや強さや魅力がこの世にいつでも存在するのは確かなようで、古今の画家たちを突き動かしてきた。風俗や衣装にも細心の注意が払われ女性を引き立てており、画技は非の打ちどころがない。その美しい世界は私たちを時に癒し楽しませてくれ、人々がそういうものを観たいと求めているのは事実だ。 |
文学や歴史上の実話、あるいは現実の女性たちを見聞きし昔も今も変わらない様々な人生を知れば、古今東西、女性は摩訶不思議で、子を産む生態と母性愛は神秘そのもの、慈愛に満ちた心理は複雑怪奇、死んで怨念を漂わすものまで想起させる。それほど謎めいているから芸術家は追求せずにはおれないのであろう。ある種の理想の「型」から大きくはみ出すことのなかった美人画には飽き足らず、少し歩を進め、女性の真実に肉迫を試みた画家たちがいた。見えてくるのは少し違ったものになった。見えてくるものは素顔なのか、はたまた化粧や衣装などで覆い隠された虚構なのか… 何かしらそういう問いかけが組み込まれているけれど答えが見つからない、それなのに複雑な美しさに満ちている、そんな世界である。 |
女性美の謎は女性にとっても謎である。女性だからと言って女性のことがすべて分かっている訳ではなく、むしろ矛盾を抱え込み過ぎて見えてこない部分が多く一層追い求めてみたくなるのだ。その謎ゆえか、強い関心が同性への淡い憧れとなって表出するケースが結構ある。そんな魅力満載の女性の姿を見極めようとして厳しく女性美を追求する女性画家も多い。上村松園は、女性の「一点の卑俗なところのない、清澄な感じのする香高い数珠のような」絵を描こうとした。いわば女性はただ見た目美しいだけではなく、また卑俗なところもあるのだが、なお香しいほどの高貴さや清らかさを内包している素晴らしさを、女性の立場からことさら強調したかったのではないだろうか。 『女の一生』『ダーバヴィル家のテス』『アンナ・カレーニナ』『大地』『風とともに去りぬ』『源氏物語』等々私たちが好んで読む文学作品には、女性が大役を持たずして登場するものは少ない。たとえ主人公が男性でも女性の姿を克明に描いているものも多い。私は『女の一生』を中学に入って間もない頃初めて読み、かなり強い衝撃を受けた。男も女も人生も何も分からなかった頃である。女主人公ジャンヌの哀しみとともに、彼女が「何もしようとしない」ことにイライラしつつ、夫である男への怒りがおさまらず、大学に入ってもう一度読み返してみるまで、ジュリアンという名前を見ても聞いても腹を立て、「ジュリアン」という喫茶店の前を通るたびに店主の見識を疑った。中学生の私にはフランス文学の当時のナチュラリズムをも理解できず、モーパッサンが描こうとした人生のありようと冷徹な問いかけについてゆけなかったのだ。二度目に読んだ時には、それでも生きていかねばならない女性としての人生の実態が分かり、運命は切り開いていかねばならないものだということを学ぶことができた。今では切り開けぬ運命だってあることを知り、幾多の女性たちがどんなに哀しみ苦しんで、そして強く美しく生きてきたことかと思いを馳せるのである。 |
『女の一生』の後で読んだ『大地』に、中学生の私は救われる思いがしたものだ。主人公の妻である阿蘭の、彼女こそが大地ではないかと思うほどの力強さにほっとし、母なる大地、大地なる母を感じたのである。あやふやな女の一生における、ひとつの道筋を教えられた気がしたのだ。ジャンヌと阿蘭、この対照的なふたりがもし絵になるならば、どんな女性として描かれるのだろうか。 英語圏やフランス語圏で一般的な男性名であり、姓にも使われる個人名「ジュリアン」のことでは、付け足しておかねばならない。何の因果か、後年美術に深くかかわることになった私は「アカデミージュリアン」のことを忘れる訳にはいかないからだ。ドニやマティス、ミュシャが学び、高村光太郎、梅原龍三郎や安井曾太郎はじめ、河合新蔵や澤部清五郎も学んだ私立美術学校である。画家でもあり教育者として大きな功績を残したロドルフェ・ジュリアンが1868年パリに開いた学校で、日本人洋画家と関わりは深い。ひょっとしてあの喫茶店主は、美術に詳しく京都出身の梅原たちの画家の活躍を知り、あるいは直接話を聞き、「アカデミージュリアン」に敬意を払ってそう名付けたのかもしれない、と思い返している。 |
「千年前の遠い国のおばあちゃんの方が貴女の夫よりもずっと貴女に近い存在である。男ってそれほど遠いところにいる存在なのだ」というような、いかに男女が互いからかけ離れた思考を持つかを示した内容のものを読んだことがある。女性同士はたやすく分かり合うことがあるが、時に男女の間には相当な距離が生じることがあるらしいのだ。同じ血筋から男女が生まれ性格や顔や体つきが似ているのに、感じ方や考え方の本質の部分でこのような差異をつけるとは神の仕業としか言いようがない。謎深いのは男性も同じで、自分たちのことはと言えば、本当には分かっていないのである。「結婚とは互いの違いを発見することである」と言われるが、男性と女性は平行線を辿りながら、対立し合い愛し合い助け合い、そして謎の答えを求めて終点のない旅を続けるだろう。同時に私たちは女性美の追求を止めることはないのだろう。 |
人は葛藤を繰り返しながらも常にあらゆる面で最終的に「美」を求めて生きていくものだという。浮世絵は世界中をあっと言わせた。今や情報が駆け巡るようになって近代の日本美術の素晴らしさが国境を越えて浸透し始めたようだ。日本的な浮世絵から発展した日本特有の美人画は私たちの大切な財産である。誇りを持ち護っていかなければならないのは当然だが、過去には議論や排斥を乗り越えてきた素晴らしい作品がまだ埋もれていることを知り、その顕彰を推し進めることが今の私たちに課された重大な責務である。画家たちの苦闘をもっと理解し変遷を緻密に辿らねばならないのだ。最近そういう活動が内外ともに起こってきたのは喜ばしい。今回の展覧会では、いわゆる美人画の系譜から抜け落ちていて、最近になって顕彰され注目を浴びるようになった、大正から昭和初期の魅力ある作品が目白押しである。画人たちが懸命に追い求めた女性美の世界に入ってひととき熱くなっていただけたら幸いである。 |
平成25(2013)年11月 |
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