「生誕130年記念・秦 テルヲの生涯」展
2017年6月3日(土)〜7月8日(土)

秦テルヲ——生きる意味を追い求めた芸術・・・・・・・ 星野万美子

はじめに

 明治末、高村光太郎や石井柏亭たちの間で始められ有島生馬や武者小路実篤、木下杢太郎などへと広がった美術論争は、作家の主観的表現か作品の客観的芸術評価かどちらがより重視されるべきかと問うものであった。京都では同じ頃、そのような区別を意識した上でのことかどうかはわからないが、土田麦僊らのいわゆる芸術派(作品本位)と、津田青楓や秦テルヲらのいわゆる人生派(作家本位)との間で論争が起こり、「黒猫会(シャ・ノアール)」を分裂させたと言われている。人生派の典型にあがるのは竹久夢二で、その流れが国画創作協会の野長瀬晩花や岡本神草など、未来派美術協会の柳瀬正夢などの若い芸術家へと受け継がれていった。明治以降の美術の流れにおける歴史的な議論であったが、当時の事情を考え合わせてみても、麦僊も人生派であった面があり、秦テルヲ(1887・明治20–1945・昭和20)は人生派なのかと問われれば、芸術派でもあったと言わねばならないだろう。「美」のため「真」のため、人生のすべてをかけて双方に対峙し、探究し、芸術を完成することを生きる意味としたほどに、その芸術の資質も極めて高くすばらしいからである。

 テルヲの生きざまは、徹底して自身の生活を思索と実見と芸術に捧げた凄まじいものだった。「真」から生まれる「美」を追究する道において、自分の煩悩に対決し、現実を確かめるために疑問が凝縮している社会の底辺にまで飛び込んでいった。テルヲの言動の軌範は常に芸術のためであったと言っても過言ではない。そのせいで変人奇人に見られ、自身には苦行を強いねばならなかった。テルヲは、「画業三十年 回顧すれば人間妄執の血痕也 昭和十二年秋」(自叙画譜 1937・昭和12、テルヲ50歳)と述べている。

 テルヲは広島で生を受け京都に育ち学んだ後、大阪・神戸、東京、知多、京都府加茂、京都市北白川と転々とした。その言動も画風も風変わりだったため、画壇の異端児としてずっと忘れられていた。混沌とした時代でもあったし、当時のテルヲの身近な周辺(学者・文学者・批評家・経済人・新聞記者・特に画家仲間たち)からは、その才能を高く買われて厚い応援や援助があったにもかかわらず、一般的に理解は進まず放置されたのも同然だった。評価されるようになったのは最近のことだが、外国の人も含めて熱心な研究者たちが芳しい成果をあげ、テルヲの顕彰作業は歩みを速めている。

 テルヲの日本画はその時代にしてすでに日本画の枠をとうに跳び越え、ずば抜けて独創的で芸術的であり、気迫の凄みに溢れている。異端、デカダンなどと評されるが、ユニークな人柄と人生も然りながら、生きた時代と環境が色濃く影響していることに注目すべきだ。テルヲは純粋で童心を持ち素直で真面目であったからか、世相を直視して反らさず、自分の煩悩を認めて闘い、新しい風からの触発を真摯に受け止め、思考して悩むことを厭わなかった。決して逃げようとしなかったのである。あるいは芸術のために悩み、触発されることを敢えて強く求めたのかもしれない。テルヲが生きた1887(明治20)年から1945(昭和20)年はまさに激動に明け暮れた時代であり、その風を真正面から受け止め思索を深めて描かれた作品は、どの時期のものも真に迫って美しく、異彩を放つ絵画の至宝として輝いている。今までの貴重な研究成果を参考にテルヲの画業を辿りながら、芸術の源泉になった風をテルヲはどのように受け止めたのか、またテルヲを育てた当時の日本画刷新の京都独特のうねりはどうだったのかも追ってみたい。

京都画壇の革新——近代初期のうねり始め

 秦テルヲは、京都の日本画革新の大きなうねりの中から誕生し、勢いづいて跳ねてはみ出しながらもわが道を極め、独自の芸術的境地に達した京都画壇の異才である。テルヲは実際に京都の地からもはみ出したが、京都に戻ることを切望し京都で終焉を迎えた。テルヲを生んだ京都の近代化のうねりとテルヲを最後まで惹きつけたその環境は、得ることが非常に大きかった東京と対比してどう違っているのだろうか。テルヲの芸術を考える時、近代京都画壇発展の特に革新に向けての特殊性を無視できないのである。

 テルヲの時代から遡るが、明治維新(1868 テルヲ出生の19年前)後、近代化に奔走した先人たちは、言い換えれば、国をあげて西洋化に邁進し特に日清戦争(1894—1895)後は顕著になったと言えるだろう。日本画の世界においても同様であった。日本画には易々とは譲れない充実した歴史があるが、西洋画との対比においての見直しを迫られたのである。ただし、西洋画(水彩画も含めて)への関心は、西洋画を含む文物が長崎を通じて維新以前から輸入されていたこともあり、江戸後期頃から徐々に無視できないものになっていた。他分野の近代化とは事情が異なり起こるべくして起こった時代の趨勢(すうせい)でもあったようだ。なお、この頃の西洋画法の研究はそもそも洋画というものが実在しない時代で、西洋の絵具や画布が手に入りにくく墨や顔料や紙、絹本などを使って挑戦したケースが多く、我々が昨今当然としている洋画と日本画の分野別を越えてのものであったことに注意しなければならない。本稿では京都の日本画の動きを追うが、草創期の田村宗立(洋画家)が洋画家にも日本画家にも多大の影響を与えている点、その後の京都における西洋画研究が、洋画家と日本画家の区別などなく互いに密に交流し研鑽し合ってなされた点を認識しておきたい。

 幕末から明治初期は、18世紀中頃に関西に興って関東に伝わった南画が大流行していた。南画の関東画壇の重鎮・谷文晁は、南画に北画を折衷した山水画を描き、オランダから長崎に輸入された油絵を模写し、幕府からの注文であった風景の写生にかなり正確な遠近法や立体感を表す彩色法などの西洋画法の投入を行った。文晁は時代を先走る画家だったが、幕府は19世紀後半頃から地図や軍事図面を作成する必要もあって、有用性が高い西洋の油彩画や石版画などを輸入し「蕃書調所画学局」を作ってその育成に乗り出していた。文晁にとっては、幕府の老中に仕えていたという利も大いに働いたのであろう。

 京都では、関東の動向とは全く異なり、維新のかなり前から西洋を取り入れるうごめきが盛り上がり、日本画革新の大きなうねりへと成長する京都独特の発展があったことに注目すべきである。江戸時代中期に円山応挙は写実による絵画制作を提唱して、近代日本画が生まれるひとつの方向を鮮やかに示した。続く岸竹堂、森寛斎、幸野楳嶺、久保田米僊らはそれぞれに伝統改良を試みていくことになる。また、千年の都が慈しみ育てた日本文化の伝統が息づくなかで、江戸時代に中国から南画を取り入れ日本風に独創的なかたちで発展させた京都の画人たちが、幕末からの西洋の新しい風を無視できるはずもなかったのである。遷都という政変の憂き目を経験して、新思潮への鋭敏な感覚はより強くなった。さらに、維新以前から輸出用品目の生産に携わってきた京都では、技術を磨きつつ常に輸出先の西洋にも目を向けた美しい意匠を追究してきた歴史がある。京都人の気性からすれば、西洋との交わりを通じて西洋の美術書に触れ西洋画への門戸を開いていたことは容易に想像されるのだ。当時の画家たちはそれらの産業と何かと繋がっており、鋭い触覚で西洋の様子をいち早く感じ取り、西洋導入はすでに始まっていたと考えられる。古くから染織・漆器・陶芸などの伝統産業の中核を成していた上に、1873(明治6)年のウィーン万博(日本政府として最初の参加)で日本の工芸品各種が好評を博し、その後国内でも博覧会が多数催され明治10年代は工芸界・美術界の復興期と言われたような状況下で、輸出を通じての西洋との関わりはますます増加していくのである。政治的な東京遷都は青天の霹靂だったかもしれないが、層の厚い京都画壇から見れば、西洋への眼は早くに開かれており先進的な思考と研鑽をすでに独自にスタートさせていた。それは深い流れを作り、その蓄積がセンセーショナルな大正の日本画へと繋がっていくことになったのである。進取の気性は昔も今も京都人の特徴のひとつなのだ。

 幕府の西洋画輸入政策の後押しに恵まれ、高橋由一や川上冬崖をはじめとする西洋画法導入が盛んになった東京では、日本画においても明治20年代にその成果が表れ始める。京都画壇には、写生に基盤を置いていた(円山派や四条派、岸派など)伝統があって、すでに近代日本画誕生へつながる転換点が提起されていたゆえ、西洋的な写実や合理的空間にさして改良の必要性を感じない(対象の内なる生命をも読みとるような西洋の写生と、それまでの写生とは違っていたのだが)という嫌いもあった。また前述した明治10年代の工芸界・美術界の復興に甘んじたのか、そういうことが明治初期の京都の日本画界の進展を立ち後れさせた一因にもなったと言われてきた。そして、明治30年代の山元春挙や竹内栖鳳の出現を待って、ようやく新しい日本画の改革がここから始まったように言われてきた。しかし実際は、栖鳳たちのもっと以前から着々と黙々と改革が進んでいたことは先に触れた通りで、その栖鳳以前の動きについて顕彰作業がなされているのにあまり喧伝されていないのは残念だ。栖鳳はその若い日に、高橋由一や川上冬崖の画塾のようなものこそなかったが、京都画壇で個々に様々になされていた西洋ならびに西洋画についての興味深い研究に強烈な刺激を受け知識を得ているのである。彼のずば抜けた才能を以てしても、下地なくしては渡欧して大きな収穫を得ることも、大輪の花を咲かすこともなかっただろう。

京都画壇——厚い地盤と深い流れ

 栖鳳以前の円山応挙に続く京都の画人たちは何を成したのか、田村宗立(月樵)、岸竹堂、久保田米僊の業績を取りあげ当時の画壇に与えた影響について考えてみたい。1880(明治13)年に開校した京都府画学校は、太政大臣三条実美が「日本最初京都府画学校」と讃えた「課業ハ東西南北之四宗」に分けられた本格的な学校で、従来の日本画の分類とともに西宗(西洋画科)が設けられた。1876(明治9)年に東京に工部省の管轄として造られた工部美術学校が洋風美術のみの偏った学校であったのに対し、伝統を重んじながらも西洋画を重要視し美術を偏ることなく考察していたことが窺える。また工部省のような行政の力ではなく、民間の画家たちの強い発案と要請によって開校したという事実は重要なポイントで、京都画壇の意識の高さを象徴している。宗立や米僊ももちろんリーダー的存在であった。当時の美術界の動きは美術史上見落とせない事柄であり、京都画壇近代化の特徴と奥深さを物語る重要なヒントになる。斯様の厚い地盤と深い流れの中から秦テルヲのような熱い画家たちが生まれてくることになるからだ。

 時代は少し遡るが、田村宗立(1846–1918 テルヲの41歳年上)は、「東の由一・西の宗立」と並び称せられるべき幕末から西洋画法に取り組んだ京都の洋画家である。高橋由一が幕府の洋学研究機関「洋書調所画学局」で学んだ成果としてリアルな表現の《博物館魚譜》(1863・慶応元年)を描いたのは30歳代後半だった。18歳年下である田村宗立は15〜17歳で、しかも独学で、陰影を施した緻密で本格的な写生の《写生画帖》(1861・文久元 –1863・文久3)を描いている。両者がその頃浸透し始めた写真に対抗して絵画の写実性を追究しているのは同じであるが、宗立は「世間には真物に見ゆる画があると聞き」、「写生をして、真物その物に違はぬよう描くより外に手本はあるまい」と物体描写に陰影を添えることや物体の立体感そのものの表現を、1861(文久元)年という早い時期に、しかも独力で編み出しているのである。その後西洋画法を学ぶために西洋人医師から外国語や油絵を修得し、西洋画を実見するための海外遊学の志を抱く(果たされなかったが)など、当時としては抜きん出た先駆的な考えを持っていた。その奇特な熱意が京都の後輩たちに精神的に与えた影響は非常に大きく、例えば入洛した浅井忠は宗立の業績と意志を尊重し受け継いでいくことになる。

 田村宗立は、黒田重太郎が彼について「写真の刺激から日本画でもなければ西洋画でもない一種の写生画に熱中した」と述べているように、初期には紙や絹本などに墨や鉛筆、顔料などで陰影のある写実表現に取り組んでいる。また油絵で屏風を描き、まるで生きているような写真的な顔を持つ仏画を描いた。油彩絵具など手に入らない当時、画材にこだわるのではなく画法の根本的な違いに関心を寄せたのは、洋画家でなくとも日本画家にとっても同様だった。宗立の近代的で先進的な考え方、研究と成果は日本画家・洋画家の双方に大きな影響を与えるものだった。久保田米僊などの日本画家が宗立や小山三造の洋画に対して理解と関心を示し、何かと親密に共に行動しているのがこの頃の特徴である。

 岸竹堂(1826–1897 テルヲの61歳年上)は、江戸期からの岸派の著名な日本画家だが、明治の初めに日本画に西洋的画法を取り入れ成果を上げた。その記念すべき《大津・唐崎図》(1876 ・明治 9)は、同年のフィラデルフィア万博に出品され受賞した作品である。粉本重視(日本画の伝統)から脱却して実物をつぶさに観察して写生し、大画面に大空間を平遠なものとしてではなく西洋的な理論でとらえて、西洋的空間表現(西洋的透視図法とも遠近法とも言われるパースペクティヴな表現方法)を採用しているのだ。同時に日本画的な細部描写と情感を存分に溢れさせているが、そこにも輪郭を描かず、後年の横山大観や菱田春草の朦朧体と言われた没線描に近い方法を採っている。また胡粉や金・銀泥を巧く使って雪の質感やマチエールに西洋的なイメージを盛り込んだ。西洋を摂取して試みた日本画としては最初期のすばらしい作品で、その作画姿勢が後輩に与えた影響を含めて注目に値するものである。竹堂は、後年の《虎図》(1893・明治26 シカゴ万博に出品され、「純粋に絵画として傑作である」と評価された)でも、チャリネ曲芸団京都公演(1897・明治20)で現物の虎を熱心に写生したものを基に装飾性を排した写実性の強い虎を描き、日本画にはなかった西洋の表現姿勢を取り入れ成功している。

 竹堂に続く時代の久保田米僊(1852–1906 テルヲの35歳年上)は、1886(明治19)年祇園・中村楼でフェノロサ( お雇い外国人として来日したアメリカ人 で、文人画は近代絵画発展を妨げる陋習という持論を持つ)の講演を聴いて刺激を受け、その後渡仏、渡米を果たして、今で言う「国際的に」多方面(南画、洋画、外国旅行スケッチ、挿絵、風刺漫画、滑稽画、従軍画、美術評論・画論、詩文歌謡、新聞記者、演劇の時代考証や歌舞伎の扮装考証、米国での日本画論講演などの各方面)で活躍した重要な日本画家である。米僊は当時の教養として必須だった東洋を重んじたのみならず「‥‥四条派から出て西洋画法を折衷し、米僊派を創成した人である」(飯島花月‹江戸庶民文学研究家›の回顧)とあるように、西洋の優れたところを絵画にも他の文化面にも実用にも取り入れた。一方で日本画の心得である「線」を尊びその名手でもあって、講演とともに揮毫した筆さばきと線の美しさで外国人を魅了したという。西洋に実際に触れて西洋化にただ邁進するのではなく、日本の伝統を重視する画家であり、西洋を取り入れながらも東洋を意識し、西洋画を理解した上で日本画とそのすばらしさを世界に向けて拡張した革新でもあった。米僊が多方面で後輩たちに与えた影響は計り知れない。

「京都ならでは」の葛藤

 久保田米僊の時代に続いたのが、「東の大観・西の栖鳳」と称される竹内栖鳳(1864–1942 米僊の12歳年下 テルヲの23歳年上)で、西洋リアリズムをこなして天才的な筆致で大気の漂いまで表現するなど、新しい自然主義的な作風を確立した大家である。明治30年代の初頭頃から西洋絵画に対する興味を強めたとされる。久保田米僊の終生の親友・幸野楳嶺に師事していた栖鳳は「久保田米僊先生の追憶」(『美の国』1928・昭和3)で、米僊と「‥‥より内部的な深さの交渉を持っていた」と述べて精神面で受けた米僊の大きな影響を語っており、米僊がパリ帰朝後出版した木版画集(旅行絵日記のようなもの)に興味をそそられ渡欧を夢見たとされる。そして1900(明治33)年にパリ万博視察をきっかけに渡欧を果たし西洋を実感したのだった。米僊と親密だった栖鳳は、米僊から西洋の風と知識を吸収できたことで実際の滞欧をより有意義にし、大きな成果に繋げることができた。コローやターナーの行き方を学び、写意に至る写生を修得し、西洋技法を四条派の技巧に溶け込ませたような本格的な新しい日本画の試みに成功したのである。

 竹内栖鳳や山元春挙が単なる西洋技法の修得に終わらず、西洋的なものの見方に倣った表現を試み造形芸術としての絵画に挑んでいることは、その後の日本画を大きく変えていくことになる。この時代の京都の画家たちについて気づかされるのは、日本画の伝統が強固であったからこそ内面による西洋との葛藤がより強くあったという「京都ならでは」の特徴である。それまでの本作の準備段階としての写生ではなく、西洋を学んで対象の実態に迫る写生を試みるようになった画家たちは、試行錯誤しながら実態の本質を確と見つめるようになり、深くまで探るようになり、テーマ選びも変化していく道を進むのである。この特徴は、西洋画の中に目に見える画法以上に深刻な内面的な違いがあることを見ていたからであり、その葛藤を乗り越え、結果としてテーマ選びを拡大させ、また人間の深い内部までえぐるようなものを描く日本画へと発展していったと思われるのだ。米僊は西洋画について「東洋のような山水画が少なく残酷な場面や裸婦の絵が多いが、これらの悲壮・感慨・残忍などの人間の実態を描いた絵画は、図像の優美秀抜を描く東洋絵画が、高尚で温雅ではあるが娯楽の念を起こさせ人をして怠惰にするのに対して、人をして戦慄を覚えさせ奮発の念を起こさせる」と述べ、西洋画の内面の深さや主題の取り方について東洋画との根本的な違いをすでに指摘していたのである。

 栖鳳が重視したのは先輩・米僊から学んだ西洋のものの見方と精神であり、またコローやターナーの写意に至る写生であったし、外国風景を日本画のテーマに選ぶなどの新しい試みであった。千種掃雲(1873–1944)はそれまでの日本画ではテーマになり得なかった労働者を描いて視点の変換を指し示し、国画創作協会や大正デカダンの画家たちは西洋との葛藤を繰り返し、内面的な模索を発展させて熱く続いていくことになる。その流れは、戦後の三上誠(1919–1972)らの「パンリアル美術協会」が打ち出した、日本画の在り方そのものをえぐり出す果敢なトライアルへと脈々と繋がっていった。京都的なこの特徴は画人たちを奮い立たせ、時に狂ったように悩ませ、その熱さが大きな力となって個性的な画家を輩出していく厚い地盤となった。秦テルヲは、そのような地盤から生まれた代表的なひとりと言えるだろう。

国画創作協会と秦テルヲ

 春挙や栖鳳の活躍していた時代を越え、多彩な革新勢力があぶくが生まれては消えまた湧きあがるように散発的な動きを見せていたが、それらが大きく集約されるようにしてできたのが1918(大正7)年の国画創作協会であり、ここに熱気のある大正期の日本画が花開いた。秦テルヲはこの頃の革新勢力のいくつかに参加しているがどこでも長続きせず執着もなく、国画創作協会に属することもなかった。世界的経済恐慌のあおりで1928(昭和3)年に国画創作協会は解散して時代は新古典主義へと移っていき、テルヲは独自の道を孤独に突き進むのである。縦横無尽な放浪をすればするほど、何かに触発されることを願い探し求めていたのがテルヲの特徴であり、「漂泊」が彼の芸術のための必須であったと言わなければならないだろう。ここで注目すべき点は、テルヲが団体に属することはなくとも常にその周辺で画家たちと親しく交流しながら、榊原紫峰(1887–1971)をはじめとする画家たちから才能を高く買われていたという事実であり、テルヲの芸術と人生がいかに尊重されるべきものであったかを示すものだ。

 国画創作協会から時代を少し遡りテルヲが「漂泊」と個展発表中心の生活に移る以前、テルヲはいくつかの団体に所属していた。日露戦争後の急激な近代化の矛盾が露呈し始め、芸術思潮もロマン主義から自然主義へと転じようとしていた明治末、前衛的な日本画家たちの研究会と展覧会を目的とした「丙午画会」が結成(1906・明治39、テルヲ19歳)され、テルヲも参加したのである。社会の下層に眼を向けるなど最も急先鋒だった千種掃雲をはじめ「丙午画会」の多くのメンバーは、日本画家でありながら浅井忠の「聖護院洋画研究所」で洋画のデッサンを学んだ。題材を底辺社会に求める動きも然りながら、写実の基礎を固めて日本画にも造形的に強固な骨格を与えようという発想からであった。テルヲは浅井忠には学んでいないが、京極小学校時代に千種掃雲に習った影響はとても大きく、被差別部落をテーマにした作品でデビュー(明治42、22歳)し、また印象派風でありつつ社会派的人生派的な作品を発表した。

 テルヲは田中喜作(1885–1945)を中心とする「無名会」(1909・明治42、テルヲ22歳)にも参加する。田中喜作はもともと関西美術院で浅井忠に学んだ洋画家で、梅原龍三郎とともに渡欧し印象派以降のフランスの新思潮を持ち帰り、後期印象派、象徴主義、表現主義、デカダンスなどを紹介した批評家としてよく知られており、その影響力は大きかったと思われる。19世紀末ヨーロッパに現れた悪魔主義の芸術思想は、日本でも一世を風靡する勢いで小説家や画家たちの心をとらえた時代だった。

 1910(明治43)年(テルヲ23歳)には、パリのカフェ文学運動を意識した「黒猫会(シャ・ノアール)」という田中喜作と日本画家や洋画家による会が結成され、テルヲも参加する。その後テルヲは津田青楓(1880–1978・洋画家)とともに他のメンバーと意見が対立し、前述したように会は解散に至ってしまうが、土田麦僊(1887–1936)らは直ちに「仮面会(ル・マスク)」(明治44、テルヲ24歳)を結成する。京都で様々なグループの活動が活発化したが、「仮面会」は注目されたひとつで洋画家の梅原龍三郎も入っていた。テルヲはその頃の日記で自分のことを「活動家、野心家」と述べ、「仮面会」には入らず、同じ年に「バトサヤ」という新たな研究団体を立ち上げ、「仮面会」の理論家でもある田中喜作を通じて京都帝大の文学者たちを招き、より自由な新しい芸術団体を目指したようだ。平井楳仙、榊原紫峰、野長瀬晩花、星野空外、松宮芳年、樫野南陽などの画家たちが参加し、親睦団体の性質を持ち活発な活動はなかったようだが、村山槐多がその中の一人、後の東洋美術研究者(京大教授)・青木撫月の下宿に入り浸っていたというエピソードもある。

 もともと団体に属することを苦手としたテルヲは、それ以後は孤軍奮闘しつつ個展発表を中心に活動していくことになる。テルヲが個展発表に主眼を置いていることは重要な特徴であり、京阪神時代には東京でも、東京時代には京阪神でもこまめに展覧会を開催しており、奇抜な風貌や言動とともにテルヲ独特のプロパガンダであったと思われる。

触発を求めたテルヲ

 テルヲは様々な現実、特に疑義ある現実に執心して凝視し続け、触発を求めて放浪し、「真」を語る「美」の芸術を完成しようと躍起であった。渦巻く内なる思索と芸術を美しいかたちとして表現するためには何らかの触発が必要だった。燃え盛るマグマが噴出口を探り当てるようにさまよい、何かに触れて刺激を感じるとエネルギーが一気に噴出するように絵画にぶっちゃけたのである。テルヲの内なる思いは、貪欲で多岐にわたりそれぞれが実に真剣であったから、エネルギー放出の苦しい放浪の旅はとめどなく続けなければならなかった。

 純真で童心を持ち合わせていたテルヲは、人生の折々に受ける疑問や刺激をまじめに受け止め真剣に取り合った。流したり投げたりせずに事象を本気で受け止め、自発的に触発されて思考し芸術に反映した。読書家で文もよくしたテルヲは、画家だけではなく文学者や小説家、学者などとの交流を通じて触発し合うことも多かった。どこまでも追究すれば、特に下層社会の現実を見た時には、その実体をつかむために深みを深みとも覚えず、放浪だろうが放蕩と言われようが、その場にどっぷり身を置くことは仕方のない必然だったのだろう。

 鋭い触覚を以てしても凡俗の生活からは差し響くような触発は得られず、新しい風から、同方向の仲間から、あるいは異質な環境に身を置いて刺激を求める性癖は多くの芸術家に共通してあるが、テルヲほど激しく、闇とも暗黒とも思える世界にまで深く、ただひとりで怖れを持たず押し入っていった画家は稀であろう。人をあっと言わせんばかりの風貌で徘徊し少々オーバーな表現で自分を語り個展発表で人々の反応を確かめたのは、自身を鼓舞し異次元の世界に潜り込んで誰も達成できないような得体を知るためであったかもしれない。

 そしてもはや誰に何に触発されたという域は通り越して、奥深い別の世界にまで到達したのである。テルヲの絵画が語るものは、誰の影響も真似もない自分で辿り着いたテルヲだけの世界であり、そこに見たものをひたすら一途に表現したものなのだ。貪欲なテルヲは辿り着いたひとつの世界に満足せず、頭に浮かぶ疑問と思考のすべてを全うしたくてまた放浪した。体が不調になってさえも心の放浪は飽くことなく続いた。思索だけは止めることをしなかったのだ。テルヲのどの時代の作品も作風がいかに変わってもすこぶる個性的で、その独自な美しさに私たちがどんなに魅了されるかの謎の答えはそこにある。数あるテルヲの記述の中から、以下の文(1923・大正12、36歳)に沿って、テルヲがどんな触発を受けて何を以て画道を歩んだのか跡を追ってみたい。

 「思へば 野心に満ちた苦学時代から対世間の名誉心にかられて漸く虚名を得た労働者を描(い)た時代、自分の性欲にかられて遊蕩から得た性欲主義の女郎研究時代、共同生活を始めて子供の出産と共に性欲物質欲以外の愛を視るようになった時代と 各々五六年の過程を経て今や宗教と芸術と生活との三つが一となる時が来たのだと思ふ」(『日記 大正12 年4月4日』より)

「苦学時代」から「労働者を描いた時代」

 父を9歳で亡くし3人の弟妹を抱えた長兄であったテルヲは、美校では卒業後の仕事探しに直結していた図案を専攻し、現に西村總左衛門の天鵞絨(ビロード)友禅工場で図案を描く職を得た。「思へば 野心に満ちた苦学時代」と記している時代である。その後日本画家の道を進むのだが、とらわれることを嫌ったテルヲにとっては図案を専攻したことが結果的に幸いとなった。肥痩のない線の面白さやどこまでも自由な発想、伸びやかな筆法や鮮やかな色使いは生涯にわたっての特徴であるが、技法に忠実な日本画でなく図案を修得したことがかえってテルヲを触発したとも思える。独特の色と線が洞察から生まれた主題とみごとに融合し、天賦の芸術的才能が展開され個性的な美しさを生んだのである。

 早くに父を失い現実社会の矛盾に目を向け、自ら言う「社会主義的虚無思想」を持ち始めたテルヲは、美校卒業(1904・明治37、17歳)後4年間ほど、京都、大阪、神戸の下層社会の人々や労働者のスケッチに明け暮れ、「丙午画会」に虐げられた村を描いたとされる《宇多村の一部》(1909・明治42、22歳 テルヲの良き理解者で後の「国画創作協会」の理論的な指導者であった文学博士・中井宗太郎に贈った作品)を出品した。小学校の恩師である千種掃雲に日本画の手ほどきを受けた影響はとても強く、労働者を描いた師のように、《煙突》(1911・明治44、24歳)では大きな工場の煙突と働く女たちの小さな姿をテルヲの解釈で印象的に描いた。熱心なキリスト教信者で母性愛に溢れた母の教育のもとで育てられ、掃雲の進歩的な日本画の考えに大いに触発されたテルヲは、少なからず関心と疑問を持っていた下層階級への愛の目を一層大きく育てていくことになる。日記で「対世間の名誉心にかられて漸く虚名を得た労働者を描(い)た時代」と記している頃である。

 その同じ頃(明治末期)には、全国的に児童文化運動が盛んになり、竹久夢二(1884–1934 1912・明治45年テルヲ25歳の頃から交友する)と渡辺(宮崎)余平(1888-1912 美校の旧友)の「子ども絵」(新聞・雑誌・著作本に登場する子供や、広く子供の世界を題材にした子供のための作品)は一世を風靡した。テルヲはこのふたりから刺激を受け関心を持ったようで、ちょうど「京都日出新聞」(1911・明治44、テルヲ24歳)に「こどもらん」ができ、樫野南陽とともに「テルオ」名で挿絵を担当することになる。小学校や幼稚園に出かけてはスケッチに専念、親友の榊原紫峰や幼なじみの松宮芳年の協力も得て子供たちの加茂スケッチ旅行を実施するなど、温かい活動を通じて子供たちにたいそう慕われたようだ。子供が描いた絵を模写して触発を受けデフォルメを学ぼうとしたようでもある。芳年や野長瀬晩花は「こどもらん」に加わって「テルオ、ナンヨ、ミノル(芳年の本名)、バンカ」と呼ばれて子供たちに親しまれた。《遊戯》(1912・明治45 /大正元、25歳)は、当時の子供たちをこの上なく愛らしく描いた心和む作品で、テルヲの優しさがひしひしと伝わってくる。

 竹久夢二などにも子供を描くと同時期に遊里の女性を描く傾向があったが、テルヲも同じ頃、夜の巷の女性や女(娘)義太夫などへも傾斜していき、特に女義太夫に熱中した。1913(大正2)年(26歳)女義太夫の「錦座」の閉鎖に伴い、テルヲは竹本小京らと手を取り合って号泣したというエピソードがあり、1915(大正4)年(28歳)に吉原研究のために東京へ移住する際も小京に同行したという。「第一回テルヲ画会展覧会」(テルヲの個展時代幕開け)が開かれた1912年(明治45、25歳)には、上田敏や巌谷小波らを発起人として「テルヲ子供画会」もでき子供を主体にした作品を頒布した。野獣派的デカダニズムの急先鋒とも言われたが、本当の姿は一体どうだったのか考えさせられるテルヲの一面で、この時代に子供の延長線上にある女性という弱き者を愛する見方が竹久夢二などにもあったとすれば、宗教心を持つテルヲはなおさらそうであっただろうと思えるのだ。テルヲの絵には愛くるしい子供への優しい眼差しが一杯に溢れているが、それは後の淪落の女にも同じように注がれたのではないかという、テルヲ理解の重要なヒントになるだろう。大阪髙島屋から新造船の「諏訪丸」、「伏見丸」の小児室の壁画を頼まれたのもこの頃(1913年・大正2、26歳)である。

「女郎研究時代」

 「無名会」や「黒猫会」で田中喜作が紹介したヨーロッパの思潮は、悪魔的世紀末芸術の色合いを濃く持っていた面があり、ここからの触発はテルヲの人生を左右するほど強烈であったと思われる。酒と女に耽溺するような生活へと向かうことになるからだ。テルヲが「自分の性欲にかられて遊蕩から得た性欲主義の女郎研究時代」と述べる時代である。宗教(母から学んだキリスト教)があまりに惨烈な現実には対処しきれないことを知った衝撃は大きく、社会の下層により熱く目を向け始めたテルヲは、京都、大阪、東京と転々としながら、遊郭や娼婦たちがうごめく闇の真実を目の前にし、「何故なのだ、知りたい、描きたい、描くためにもっと知りたい」とのめり込んでいくのである。女性問題を起こして(テルヲの記述によれば)京都から大阪へ逃げ、ついには吉原研究のために東京へと向かい遊蕩生活を送った1921年(大正10、34歳)頃までのことである。

 奇妙な帽子をかぶって長髪で、ぞろりとした小袖やマントを着流して女物の下駄を履き、派手な絵を描いた大黒傘をさすなど風采が非常に変わっていたために、また花街を飽くなく徘徊したために、放蕩者で酒色に耽溺していたように思われテルヲの家族にとっても堪え難いことであっただろう。テルヲは大阪時代、小説家・宇野浩二(大阪から東京時代に交流)らと意気投合し行動した「一種日本に於ける野獣派的デカダニズム運動」の急先鋒と言われたが、当時の魁偉獰猛な表情と風采は、野獣派的デカダニズムを標榜するための演出だったのかと思われる。あるいは、テルヲ自身が述べている「野心」や「対世間の名誉心」のために、敢えて目立って人の興味を魅こうとする彼なりのキャンペーンであったかもしれない。画家は、当然のことながらその芸術を理解してもらうことにも執念を燃やすものである。テルヲの場合は若気の至りか派手過ぎた嫌いもあった。大阪での「第二回テルヲ画会絵画展覧会」(1912・大正元・25歳)で、赤い紙に過激な文章、センセーショナルな絵画、また展覧会料金を課すなどの咎で警察に呼ばれた(支援者に助けられ少しの罰金で済んだ)が、このことで幸か不幸かテルヲは世間に知れ渡ったのである。団体に属することを嫌い、個展で発表することを主眼としたテルヲのこうした言動は、絵画販売という経済的な理由もあっただろうが、人の注意を引きマスコミに取り上げられ、結果として個展を覗きに来た人の中から画家や文化人、経済人などとの人脈が広まることに繋がっていった。

 テルヲのひとつの本領であるデカダンに明らかに目覚めて行くのは、1906年(明治39、19歳)頃一時期住んでいた大阪で、近くの中川露月塾にいた野長瀬晩花と出会ってからだろう。1912年(明治45/大正元、25歳)から大阪で本格的に暮らすようになってからは、裕福でハイカラで颯爽とした2歳年下の晩花と意気投合し、テルヲとは好対照でありながら目指している方向が同じだったゆえに触発されたものは大きかったとみられる。ふたりは龍村織物に勤務して図案を描き、一時期同居もするなど親密で、それぞれに異なったデカダンを成長させながら、「バンカ・テルヲ展」(1913・大正2、26歳 於カフェータワー)で、反文展の姿勢を明確に示した。上記の「第二回テルヲ画会絵画展覧会」で華々しく発表されたデカダンの初期作品については、全作品を購入した岡久吉氏の帝塚山の自宅が戦災とともに焼失したようで、誠に残念である。

 京都・大阪にいた頃から「淪落の女に興味を持つ様になって盛んに柳暗花明の巷に出入りし、色里の気分を好んで描いて」いたテルヲは、個展発表と吉原研究のためについに東京に向かい、苦界の女たちの中に人間らしい何ものかをもっと見出そうと苦闘を続ける。世紀末の影を漂わせ、すこぶる退廃の絵画を生んだ東京時代である。この6年半の間(1915・大正4〜1921・大正10、28〜34歳)にひとつの頂点に達し、かの《血の池》(1917・大6、42歳)や《淵に佇めば》(1917・大6、42歳)などに代表される一連の名作が生まれたのだ。

 テルヲは「自分の性欲にかられて遊蕩から得た性欲主義の女郎研究時代」と言っているが、過激な芸術家が時折そうであるように、テルヲが自ら意図して作っていた風貌に沿う激烈な言葉をただ吐いていただけかもしれない。実際は遊郭に上がることはなく彷徨していた(テルヲは「日が落ちると浅草公園を馬町に出て十二階下に銘酒屋を漁り吉原土堤を吉原へと泳ぎ回る日課をよくも忘れずに三カ年持続したものだ」と記している)だけで、その飽くなき徘徊は一途に確固たる目的のためであったと想像される。遊里に人の世の矛盾や齟齬を感じ、淪落の女人たちの呪詛や嘲罵、そして諦めのようなものを通して得体を読み取っていくのである。そして自分も性欲にかられる男性ゆえに余計に深刻に、男や社会の犠牲者として苦界に身を沈めた女ととらえ、若い日に子供や下層の労働者に優しい眼差しを注いだように、根底にヒューマニスティックな隣人愛に根差した眼を据えて見ていたと考えられるのだ。

 テルヲは女性のような柔らかな口調で話す人で、白首と呼ばれた女たちほとんどと気安く会話する間柄だったという。微に入り細をうがって女たちの実態に触れ、また女たちも最終的にテルヲに奥深くまで観察を許していることに、画家を目指していたこともある小説家の今東光も驚いている。今東光は個展でテルヲを知り交流を深め自作にもテルヲを登場させているが、ふたりは互いに芸術的に触発され合ったのだろう。東光だけでなく周辺の人たちはこのようなテルヲの本当の姿を知っていたと思われ、女たちも人道的なテルヲの優しさをどこかに感じただけに気を許し、何でも話し描かせたのではないだろうか。誰も成し得ないことを成すテルヲを見つめながら、真実を描くために身を投げ打ってそこまで徹底するかというのが、榊原紫峰をはじめとする画家や学者や経済人たち応援者の実感であっただろうし、テルヲの真に迫る絵画と、デカダンでありながら宗教的人道的な愛が根底にあることへの驚嘆であり讃美であった。決してエロ・グロ的なデカダンではなく、「性」がもたらす淪落の淵にこそ見えてくる「生」の意味を真摯な魂を以て探究し、宗教的な愛の眼を注いで描いたのがテルヲの芸術なのである。

 日本画材で油彩画に見紛うような描き方に本格的に挑戦し、題材とマッチする重厚なテルヲの絵画が完成をみたのもこの時代の特徴である。嗚咽しているように俯いた女性の、痩せているのにブロンズ像のように重々しい肉体、油絵の深さと厚みを思わせるような肌のマチエール、青銅の寒色系で冴え冴えと描かれた性を超越した肉体など、油彩と彫刻の重厚さを意識したような表現を試みながら、性の喘ぎからかすかに見えてくる光輝なる生を仰ぎ見るように、題材のおどろおどろしさと対比的な神秘の美しさを見出し、題材を昇華させて描いている。その表現技法はカンバス地や寒冷紗地に岩絵具を塗り込めるとか、地塗りにアルミニウム泥を使ってかすれの効果を出す、また麻布の裏からも彩色を施すなど独創的で、テルヲのデカダンでユニークな絵画と絶妙にマッチした。彫刻を思わせる底光りと油彩画のようなマチエールなど洋画的手法で満たされているが、この時代の作家たちとの交流が多分に影響していると思われる。テルヲが「自分の東京生活には中々に主要な友であった」とする彫刻家(油絵・版画もよくする)の戸張孤雁(1882—1927)とは、テルヲの個展を通じて知り合ったとみられる。当時、浅草十二階の近くに「江川玉乗り大盛館」という曲芸小屋があり、その見聞から得た日本髪の裸婦や女曲芸師が、その頃前後にふたりの作品に共通してモチーフとして表れる。テルヲは「デカダンな自分」と「ロマンチックな孤雁」と述べ、若い頃から脚気に苦しみながら女郎を描くテルヲと、結核を煩う身でありながら日本髪を結った裸婦がうつ伏したり喘いだりした姿を表現する孤雁とは、「生と性」について互いに触発され合うものがあったのだろう。倉本玉南や大野要三という油彩画家たちとグループ「青鳥社」を組織して研究したり展覧会を開いたりもしたようで、この活動からも何らかの触発を受けていることが窺える。1919年5月(大正8、33歳)に泰文社で開催された個展には、東京生活で得た「生と性の地獄」を描いた一連の名作が発表されたようだが、テルヲは出品目録に「創られたるものは結果において油絵に近いが総て日本絵具を用ひたから、日本画と称する」と述べている。

 テルヲは後に、仏像・仏画の光明の時代に入って「…私の思想に不可思議な光明を播た様だ、寧楽に香る仏教芸術、その影響もあるであろう。労働者を崇拝し、女郎を讃美し、地獄を憧憬したのと同じ様に、それ自身が私である」と述べているが、過大な言い方であることを差し引いても、この時代にはまさに地獄を憧憬し女郎を讃美していたという、真剣勝負をしていた芸術家・テルヲの真骨頂が凝縮している。そしてテルヲは、次の一歩へと踏み出そうとするのである。東京時代にテルヲが心の友とした香川鉄蔵は、大蔵省で働きつつスウェーデン語に長け「ニルスの不思議な旅」を全訳した人で、帰京後も長いつきあいをしたようだが、どんな文学的な話に花が咲いたのであろうか。大阪時代には、木版画を手がけ俳句、詩、劇詩、評論などの文筆活動を行った草迷宮から詩文を絵に添えて書くという影響を受けたと思われるが、デカダンの後に自然の豊かさに感謝し仏画の世界に入っていくテルヲの宗教的・文学的な眼は、もともと備わっていた上に様々な各界の人たちから触発を受けて成長していったのだろう。テルヲが「血の池」の女人たちの中に人間としての光を見出したように、「否定から肯定に」廻っていく次の光明の時代は来るべくして来たものであったはずだ。

テルヲの「血の池」について

 テルヲの足跡を追う途中ではあるが、デカダン作品の代表作のひとつ《血の池》のタイトルがそのまま示す、仏教の血盆経(けっぼんきょう)の「血の池」について少し考えてみたい。血盆経とは、女性が女性特有の出血のために、死後は血盆池(血の池)地獄に堕ちるが、その女人たちを救済せんがための短文の仏教経典(大日本続蔵経に「仏説大蔵正教血盆経」と題して収められている全420字余からなる小経)である。「釈迦の十大弟子のひとり目連尊者(日本におけるお盆および盆踊り行事の創始者と言われる)が、亡くなった母を天眼で見ると餓鬼界(無間地獄)に堕ちていた。釈迦の教えで施餓鬼の秘法を施して母を助けることができたが、母はまたもや女性特有の血を流して仏神を穢した罪(出産時の出血などで地神を穢し、また血の汚れを洗った川の水で茶を煎じて諸聖に奉ったため不浄を及ぼしたという罪)で血盆池に墜ちたのである。そこで血盆経(僧を請じて血盆斎を営み血盆経を転読すれば、血盆池に蓮華が生じて罪人が救われる)が登場し、そのおかげで母は弥勒菩薩のいる都率天に引き上げられた」というような伝説が基になっている。

 もともと血盆経は、中国で明・清の時代に広く流布し、血にかわわる罪を犯した者だけが血の池地獄に堕ちると説かれていたものが、室町時代頃までに日本に伝わって横道に逸れて説かれ民間に浸透したようだ。そもそも「死穢」とともに「血穢(けつえ)(出産などに伴い女性が血を出すことによって穢れが生じる)」という民俗信仰から発生した女性差別甚だしい謂れと合体して、血盆経を信仰することで女性を救済するという内容の経が伝承されたことは、経の本来の姿とはかけ離れ負の遺産とも言われている。またこの血を忌む思想と仏教の女性不浄観が習合して、女は血を流す存在であるが故に不浄だと説かれることになったらしい。仏教においては教団が男性中心で、女性を修業の妨げとして遠ざけんがため女は男を誘惑するものだという観点から不浄観があったとは、呆れ果てて返す言葉もないが、テルヲも同じようなことを感じたに違いない。

 テルヲは納得できかねる「血の池」の教えが女性をますます不幸に陥れているのではというこだわりを持ち、血の池地獄と苦界とを重ね合わせて視ているのではないか。《血の池》(1917・大正6頃)の裸婦に向かって下から突き出ている草のようなものは、男の魔手なのか、それとも蓮華なのだろうか。《菩提樹菩薩》(1923・大正12頃)などに見られる足の麓に描かれている蓮華坐と似ているが、たとえ蓮華だとしても花の咲かない、救うことなどできない刺々しい蓮華なのであろう。テルヲはそんな蓮華を信じられず、それよりも血の池地獄で絶望して苦しむ女人の内にある、同じ人間としての純粋な魂と尊厳を救い出そうとした。淪落の女を通して、女性が女性たる「性」の所為で人間らしく「生」を全うできないとしたら、という大きい疑問を持ち、人たる女性の純粋な魂と尊厳はそのようなことで冒されるものではないという慈愛の心で見つめた。尊い命の美しさを以て血の池を超越した絵画を完成させようとしたのではないだろうか。《血の池》や《淵に佇めば》などの一連の作品は、地獄の果ての淵まで女たちに付き添い温かい眼差しを注いだまま描かれ、もはや恐ろしく生々しい血の色の「血の池」を脱して、神々しいまでの青く澄んだ世界への到達を暗示しているように思われてならない。

「性欲物質欲以外の愛を視るようになった時代」

 東京時代の1919年(大正8、32歳)10月頃、テルヲは京都での展覧会で知り合った京都出身の初という女性と結婚し、翌年には長男・真砂光が誕生した。そして1921年(大正10、34歳)の暮に、6年半の東京生活を終え京都に戻る。テルヲ芸術の双璧となるもうひとつの到達点「共同生活を始めて子供の出産と共に性欲物質欲以外の愛を視るようになった時代と 各々五六年の過程を経て今や宗教と芸術と生活との三つが一となる時が来たのだと思ふ」と語られる最終章の時代である。子供が生まれ、母の住む知多半島を毎年(結婚した大正8年から3年程)訪れ、病身でもあったテルヲは、海辺ののどかな暮らしとともに母の母性愛に再び教えられるものがあっただろうし、京都移住と重なる思いもあっただろう。母子像と仏画の時代は成るべくして成ったテルヲ物語のクライマックスであった。

 デカダンの時代と双璧となるこの光明の時代は、絵画のテーマが主に母子像と仏画で、以前の淪落の女と対極をなすもののように見えるが、同じように「生」への限りない愛が貫かれ宗教的な深い人間性に基づいているという、テルヲにとっては同根のものなのである。自然の美しさと自然への感謝を情緒的に描いた名品が多いのもこの時代の特徴である。テルヲはもの凄く恐ろしい真実の淵からも、気高い真実の眩しさからも、限りない美しさを導いて芸術的に表現できる奇特な画家なのだ。中井宗太郎や法学者の武田省、建築家の武田五一などの学者、芸術家や経済人が応援と援助を惜しまなかった理由がそこにあるのだろう。

 妻子を得て新たな愛に目覚め、テルヲによれば「武田五一の紹介で福島行信を知り、さらにその紹介で知己を得た」財界人の今村繁三にテルヲの中に芽生えていた仏像研究を奨励され、さらなる援助を受けて「奈良研究で東京を引き上げる」ことになったのである。テルヲは自然の美しさを讃えて恵みに感謝しながら平穏で禁欲的な愛の生活を営み、母から受けた母性愛と宗教的な慈しみをまるで答えを見出したかのように母子像や仏画へと投じていく。これほどの母子像を描いた画家はわが国の絵画史を見渡してもそうそう発見できないであろう。母子像を描く習慣が日本には見当たらず、西洋においても聖母子像から出発している題材である。テルヲが仏画風の聖母子像を描いたのには少なからずクリスチャンであったことが一因と考えられるが、母子像が仏像そのものへと転じていくところ、あるいは人間的な温かみを感じさせる仏像を描いているところに、テルヲの思索の道程を知るヒントが隠されている。《眠れる児》(1923・大正12、36歳)や《慈悲心鳥の唄》(1923・大正12、36歳頃)、《恵まれしもの》(1925・大正14、38歳頃)などのすばらしい名作が遺されている。

 「瓶原」と代表して呼ばれる南山城・加茂町の山村での生活は、以前と対極にある穏やかな暮らしであった。最初は加茂町の観音寺に4年ほど、同じ加茂町の瓶原にその後4年ほど住むが、どちらも白洲正子が『十一面観音巡礼』で「伊賀の山中に発する木津川は、南山城の渓谷を縫いつつ西へ流れる。笠置、加茂を経て平野に出ると、景色は一変し、ゆるやかな大河となって、北上する。その川筋には、点々と、十一面観音が祀られている。それは、時に天平時代の名作であったり、藤原初期の秘仏であったりする」と記している地である。伊賀から発する木津川沿いに近江信楽と奈良と京都の三点が交わる要のような地で、一帯は740年に恭仁京が置かれ瓶原(旧瓶原村は、1951・昭和26年合併されて加茂町となる)と美しい名で呼ばれた。大伴家持が青春時代を過ごし「今造る久邇の都は山川の清けき見ればうべ知らすらし」と詠んだままの実に恵まれて美しい山村で、今も「昔とあまり変わっていません」と会うどの人もたおやかな口調で語り、のどかな暮らしと優しさには気品すら感じさせるものがある。南山城一帯の観音像の群れはよく知られており、奈良ならずともテルヲにとっては格好の題材に恵まれた地だった。テルヲは、幼い日に比叡山から眺めおろした京都の街の三分の一ほどの地(瓶原のことだろう)からの眺めを「…周囲殆ど田園 緑黄白に美しき限り」と述べている。テルヲは豊かで美しい自然と観音像に深く抱かれて、例えば妻と娘が種を蒔いて育てたナスとキュウリの二色の美しさを愛で、料理されたものよりもそのままの色と形と香りと味を楽しむような仙人食を食べて暮らしたとされる。「この色、形、香、味の調和は天下の名品なり、この傑作を前にして自分の画が恥ずかしい」と述べ、南瓜の花の美しさなどの身近で小さな自然に全身全霊で感動しスケッチした。《山笑う》(1927頃・昭和2)や《瓶原秋景》(1929頃・昭和4)などの風景画はどれをとっても美しく、テルヲの心象まで映し感動的である。

 この天国のような地でテルヲは生きるよりも生きる意味を問い続けた。死して問われる彼岸の世界での正義を問いかけたことであろう。自然と仏と母性愛は穏やかな暮らしの中で見続けた美しいものであり、そこには彼の生涯を決した母の感化が色濃く見られる。キリスト教から仏教へ転換したことは自然な成り行きで、もともと宗教心の厚い人であったことを示すものであり、周囲の人々にもテルヲの中にある清い慈しみの心は若い頃から感知されていた。南山城は観音像の宝庫であり奈良も近いから仏像研究には事欠かなかったであろう。いろいろな仏像を描いて一部の人たちから「モダン仏画」と呼ばれたそうだ。釈迦牟尼像も好んで描いているようだが、釈迦牟尼出家の際の赤い着衣は、若き日に赤毛布の将校マントや津田青楓がフランスから持ち帰った牧羊者のマント、大阪ではカンバスに孔雀羽を描いたマントなどを着流し闊歩したテルヲを彷彿させるものがあり、ひょっとして自画像がオーバーラップしているのかなと、ふと思えるのである。《釈迦如来座像》(1923・大正12頃)、《観音図》(1926・大正15頃)、《出山釈迦之図》(1927・昭和2頃)など、この時期の仏画は非常にユニークで仏画と言うより絵画として傑作である。

 1929(昭和4、43歳)年には加茂を引き上げ京都市北白川に移る。「…宗教と芸術と生活との三つが一となる時が来たのだと思ふ」と語っている、およそテルヲの人生と芸術のまとめの時期に当たろう。闘病のためでもあったかと思われるが、絵画制作と展覧会活動はずっと続けられ、仏像研究の成果を問う仏像・観音像と自然風景などの瓶原の題材に基づいた絵画を、まるで仕上げをしているかのように精力的に制作している。《不動明王図》(1937・昭和12頃)、《阿弥陀三尊仏》(1941・昭和16頃)、《聖観音図》(1941・昭和16)頃、《瓶原新緑》(1929頃・昭和4頃)、《収穫之図》(1930・昭和5)など、身体は北白川にあっても心はまだ瓶原をさまよっているような、心象を深め味わいを凝縮した絵画をどんどん制作していくのである。

 1940年(昭和15、53歳)頃には病床に着くことが多くなり、1945(昭和20)年 11月に、娘・恭仁子が付き添って加茂の時代からの支援者である香里の森岡家に移り、12月26日に帰らぬ人になった。北白川時代には、加茂時代から題材を採って描いたものとともに《闘病五年記念自像》(1945・昭和20)や《戦中絵日記》(1945・昭和20頃)などの、テルヲ独特の絵と詩文で綴られた個性的な作品群があり、自画像と自画像そのものと思われる文章とで構成され、画家の心中を吐露して真に迫るものがあり胸が痛くなる。

 この時代の大作としては、戦争の足音を聞き闘病しながら描いた《佛化開縁之図》(1937・昭和12)があがるだろう。戦争や社会への痛烈な批判を込めつつ、業の深さを持ちながらも仏の世界へ導かれたいと望む切ない世の習いを、自身の反省も込めて冷ややかに、しかし、そうだからこそ哀れな人間への宗教的な慈しみを絵画の奥に散りばめて描いた名作である。彼岸へ救われて向かう日本髪の女性が象徴的に描かれているが、それはテルヲの女性への贖罪であり讃歌でもあるのだろうか。テルヲは、恭仁子にあてて『思い出の記』(京都国立近代美術館スクラップブック)として「‥‥父は随分我儘勝手な男で周囲の人には迷惑をかけ一人の母には不幸(孝)者である けれども自分の仕事に就いては実に真剣である 今でも何者にも代え難いものは画である 其画が如何にデカダンであっても如何に嗅悪であっても私自身には生命である ソノ生命を他所に一日を盗生する事は父としても如何しても出来ない事である 神罰が当たり永劫に地獄道に迷ふとも それは何とも私の手の付け様のない仕事である 私の仕事は画である 画は私の信仰である コレが私のためには神の光であり太陽である‥‥」と述べている。テルヲの底にある澄明な人間愛と、それを描こうと命をかけた芸術の心は、永遠に絵画の中で生き続けることだろう。

おわりに

 秦テルヲの絵画からはゴーガンの影響が感じられるが、テルヲの応援者だった上田敏や中井宗太郎が、『美』(京都市立美術工芸学校・京都市立絵画専門学校の交友会誌)でゴーガンを早々に紹介し、「無名会」や「黒猫会」などをリードした田中喜作は、ナビ派紹介の重要な人物であった。早い段階でしかも速攻で、ヨーロッパの様々な風潮を広く受容しているのは進取の気性に富んだ京都の特徴で、テルヲを大きく触発し奔放に育てていくことになった。

 テルヲは、キリスト教社会主義と仏教の間に生き、辿り着いた仏教の世界に救いを見出した。苦しんでなお救いと美を追い求め、他に惑わされず独立独歩の姿勢を貫いた。自己中心的な考えが横行する世の常とは無縁で自衛の鎧を脱ぎ捨て、怖れを知らず丸裸で真っ正直に生きて駈けた。「変な奴、だけど、ようそこまでやるわ」と決して憎めず、とうてい真似できない大人物の印象が人の心をつかんでいたのだろう。彼の才能を認め、深い思索と勇気ある行動力に感嘆し手を差し伸べた周辺の学者や経済人や画家たちがそれを物語っている。1960年代京都では、「パンリアル」や「北白川芸術村」の画家たち、また石原薫のような元気一杯の芸術家が跋扈していた。私はその頃現代美術系の画廊を手伝っていたことがあって、作家たちの日常を知り個々の制作のための葛藤を見ることはあったが、日々の細事に追われる凡人が持ち得ない大いなる気分と自由奔放な構想を持った画家たちは、一様に戦後の豊かになり始めた時代のどこか明るい夢と希望に繋がっていたように覚えている。テルヲには、暗く破滅的な要素を含みながらも理想へと脱出する道を探る真剣さを教えられた。両者に芸術的で革新的な共通点を見ながら全く違うものを感じるのである。それも彼らの生きた時代の違いなのだろうか。

 秦テルヲは幼い日には幸せな日々を送り、キリスト教に養われ、大好きな子供たちとも真摯に関わる優しい人だった。《戦中絵日記》では生い立ちから父の死までのことも記しているが、幼年時代の楽しかった記憶をたどった描写があり、慈しみに溢れた幸せな思い出に彩られている。そのテルヲが生涯をかけて絵画を制作し生きる意味を問い続けたのは、幼くして父を失ったことが関係しているのだろうか。テルヲの生き方についてロートレックを思い起こすこともあるようだが、モーツァルトに見られるような芸術の創出のために身を破滅させていくような、神からの語りかけに応じていくために身をも粉にしなくてはならなかった、芸術のために生きる、生きる意味を見つけるために芸術と格闘した、と思われてならない。秦テルヲは生きる意味を問い続け、病気や死との闘いほどに生と苦闘し、その総てを作品に盛り込んで漂泊と求道の旅を終えたのだろうか。否、テルヲは私達にその道を譲っただけなのではないだろうか。生きる意味は何なのだという宿題を芸術の中に遺して…。

2017年(平成29)5月

このウインドウを閉じる