右手から左手へ「藤田龍児個展」後記


















































 藤田龍児展を私の画廊でやりたいと思ったのは、もう18年も前になる先生の和歌山市での個展会場であった。展覧会が始まったばかりというのに、もう殆どの作品が売れていた。ところが私はその年に独立したばかり、自宅を事務所にアートコンサルタントとして活動し始めた頃で、先生の作品を売る自信などまるで無く、ただ指をくわえて見ているだけであった。

 先生の作品を初めて見知ったのはそれより数年前、学生アルバイトで勤めていたジャパン・アート・センターという画廊が、春秋の観光シーズンに都ホテルで開催していた展覧会場であった。モノトーン近い灰色の画面に無数のエノコロ草がうねうねと描かれていた。なんやけったいな絵やなー、と眺めていたあの頃、先生の絵が売れたのを見たことは一度としてないように記憶している。そのけったいな絵が和歌山展の案内状には無く、代りにカラフルな花々をつけた一本の木があった。それが私を和歌山まで足を運ばせた理由であり、また、会場で売れていた訳でもあった。

 その後、先生とはお互いの展覧会の案内状をやりとりする位の関係が続いた。先生が脳血栓で倒れられたことも知らなかったし、絵描きを止めようと思われたこともあったとは尚更知らなかった。ただその年、大阪市立美術研究所30周年記念展に出品されていた旧作「於能基呂島山水の図」はオッと目を見張るものであったと記憶している。昔は解らなかった先生の作品のよさが、ようやく理解できるようになったものか、その昔けったいな絵と思ったものをもう一度見てみたいとも思った。

 先生が美術文化展に復帰されたのは、私が画廊を現在の神宮道に移転した1982(昭和57)年の秋であったと、今回画歴を整理していて気づいた。その年から、関西美術文化展が京都市美術館で開催中の折や俳句の会合の日などに、よく私の画廊にお越しになるようになった。始めの、ボ、ク、ビ、ヨ、ウ、キ、シ、テ、イ、タ・・・という実にたどたどしい口調、時には単語がなかなか口から出て来ず、聞く方も話の流れで予想できた単語を口には出せず、お互いイライラしていた会話が年毎に次第に滑らかになった頃、関西美術文化展で「啓蟄」に出会った。この時私は、藤田龍児展をしなければならないと思ったのである。

 これまでの先生の個展は一年間描き溜めた小さな小さな作品を並べて行われてきたが、私は新作に限らずに、ひと味違ったものにしたいと思い準備をしてきた。同志社の先輩に当たる先生とは、かれこれ20年以上のお付合いになるが、今まで先生の作品を画廊で並べたことは無い。こうして開催にこぎつけた京都での初展観で、初めてその素晴らしい出品に触れられる方が多いと思う。その中からまた多数の藤田龍児ファンが生まれて来ることを、確信して止まない。
星野桂三・星野万美子


















































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