「洋画家の夢・留学」展 後記


































































 薄闇の残る靄(もや)のむこうに艀(はしけ)で荷卸しする黒人や白人たちに、ハローと大声を出して手を振ってみる。その彼方にぼんやりと港の施設が浮かび上がっている。これがアメリカか、とうとう着いたんだなと涙の一粒もこぼれ落ちそうなのは自分だけではなく、2週間の船旅を共にしてきたいろいろな目的をもった日本からの旅行者は、一様に手摺りに縋(すが)りついて睡眠不足の眼を真っ赤にしている。1965年の夏、たったひとり片道切符を手にして、私が過ごした最後のブラジル移民船サントス丸の3等船室の仲間達との船中の日々を今も懐かしく思い出す。あの日港に出迎えてくれた知人のスポーツカーの助手席で実見したロスのハイウエーの物凄さは、当時の日本からは想像を絶するものであった。そしてそれが私のアメリカ発見の旅の始まりでもあり、また日本再発見の序章でもあった。

 今日のように航空運賃が若者たちの卒業旅行を歓迎できるようにもなり、夏休みや年末年始の空港での混雑ぶりをテレビで見かけると、隔世の感がする。昔は飛行機なんて夢のまた夢。画廊経営に携わるようになって、明治初期からの洋画家たちの留学期の作品を目にし、また実際に入手して描かれた当時を偲ぶことが多くなった。最初期の国沢新九郎、百武兼行、川村清雄や山本芳翆から松岡寿、黒田清輝、五姓田義松、久米桂一郎、岡田三郎助、和田英作、浅井忠、藤島武二など後の巨匠たちが海外へ夢を実現するために渡っていった。以後何百、何千の数の洋画家たちが欧米各国に留学したことだろう。彼等が持ち帰った欧米の最新の美術思潮が、我が国の美術界に与えた影響の大きさについてはここに論を講ずることもない。ただ、これまでの美術史が誰が最初に当時の新しい美術動向を持ち帰ったかに重きを置いてきたことは、否めない事実である。実際あまりにも長く外国にいて実作品が日本に紹介されていない者や、放浪の生活に身を置いた画家たちはこれまで無視されてきた。それよりも僅か1、2年の留学でいわばいいとこどりで画壇に登場した人々は、その後の地位をも約束されたようなものだった。口の悪い向きは、日本の洋画史は模倣の歴史にしか過ぎないとも言う。

はたして単なる模倣に過ぎないものだろうか。また模倣であってはいけないものなのか。戦後美術界に旋風を巻起こした具体美術協会の吉原治良は後進に「模倣するな、他人のやらなかったことをやれ」と叱咤激励した。煽られた画家たちはそれぞれに思いきった仕事をしているにしても、具体の回顧展で見る彼等の作品には吉原のように感動するものは少ない。すくなくとも私にはそう見える。吉原自身の絵画スタイルの変遷を見ると、ピカソあり、マン・レイあり、デ・キリコやモンドリアンもある。その最初期には藤田嗣治や上山二郎そっくりなものもある。評論家はこれを単なる模倣ではなく影響を受けながらも自身のスタイルを確立していったのであると言う。私もそう思う。それなのに後に続く若者たちは、師匠の苦悩の痕跡には眼を向けずにその後に確立された生き方だけを安易に受け入れてしまったのである。具体の画家たちの例をとってしまったが、同じようなことは昨今の現代美術系の作家にも言える。促成栽培された表面上の現代美術には感動がない。やたら難しい評論はあっても(もの)そのものからは何も伝わってこない。

 1965年末、私の貧乏旅は横浜港の灰色の風景で終わりを告げた。デッキから半年ぶりに見た日本はまるでワーグマン描く明治初期の香港や横浜のごとく猥雑で薄汚いものであった。けれども当時の私にはあくまでも大好きな日本への再上陸であった。明るい陽光に輝く欧米の風物に触れ感動をキャンバスに描きつけた画家たちの夢は、帰国してこの国独特の湿潤な風景に接したとき、佐柏祐三のようにしぼんでしまったのか、はたまた新たなる野心と夢を実現しょうと武者震いをしたのだろうか。遺されたそれぞれの留学期の作品は、彼等の青春そのもののようである。

1993年5月 星野桂三・星野万美子


































































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