日本画の名作に見る「女性たちの情景」展 後記








































 日本画による美人画展を念頭に入れて作品収集にかかってから何年になるのだろう。美人画の代表選手たち上村松園、鏑木清方、伊藤深水、竹久夢二といった売れ筋の著名作家の作品とは縁薄く、どちらかと言えばマイナーな画家の作品を掘り起こす方が面白く、そういった人々の作品の数がどんどん増えていった。たったひとつの例外とも言えるのが表紙掲載の菊池契月「虫撰」である。「契月とその一門」といったような展覧会をいずれは開きたいと思っていたので、昨年この作品が私達の眼前を一度は通り過ぎていきかけた時に思い切って入手したものである。不況風の吹きまくる中での私達にとっての大きな買い物は、もうこれ程の契月が新規に出てくることはないだろうという確信にも似た思いを持ったから出来たのである。私達は契月の昭和初期から10年頃の作品が最高と思い、その中でもこの「虫撰」は名作の部類に属すると自負している。

 その他の作品は概ね星野らしい選択と言われるに違いない。展覧会の準備中、いわゆる美人画展から逸脱したものへと移行していったのは、本図録掲載の作品群から容易にお判り頂けると思う。構成としては「母と子」「いわゆる美人図」「舞妓や大原女図」「浄瑠璃や物語に登場する女性たち」を大きな柱に考え、それぞれの分野で描かれた女性たちの情景を楽しもうとしたのである。

 例によって制作時を除けば本邦初公開と思われる作品が多く、どれが目玉と言われれば返答に窮するのであるが、何点かについては言及しておかねばならない。まず本展の案内状にも登場してもらった不動立山の「朝顔日記深雪之図」。滔々として流れる大井川は将に氾濫寸前、恋し恋しに目を泣きつぶし終いには盲目になってしまった深雪は、川止めの大井川畔に我身の重ねがさねの不幸を嘆き号泣している。画面上半分に描かれた渦の文様の美しさは淡路島出身の立山ならではの技の冴えを見せる。そして物語を知らなければ誰もがその華麗さに目を奪われる主人公の色彩の鮮やかさ、まさに大正絵画の幕開けを象徴するような作品と言える。余談になるが、8年前に美術市場に一度売り立てに出されたこの作品とは去年に同じ市場で再開した。このところの大正絵画の再評価の動き故にか、落札価格は以前の3倍強になってしまったが、8年間の私達のこの作品に対する追慕にも似た思いが再開を可能にしたものと思う。





















































































 紺谷光俊の「八百屋の図」。歳の瀬のひとときか店頭には追い羽根がぶらさがり、くわい、密柑、林檎、大根、蕪といった季節の品々と共に当時は珍しかったであろうバナナが描かれている。もみがらに埋まった卵、天井から下げられた柄杓(ひしゃく)やはたきに昔なつかしい庶民の店の香りがある。赤い大きなリボンの少女のお使いに、慈愛に満ちた眼差しを向ける女主人の手には、これまたなつかしい通い(帳)が見える。金沢から大望を抱いて京都に出て数年の青年画家光俊の、文展初入選のデビュー前年の佳品である。
 春の陽だまりに憩う少女達をほのぼのとした情感で捉えた上田真吾の「蒲公英(たんぽぽ)」。どこか岸田劉生の麗子像を思わせる幸田曉冶の「童女松竹梅」。小林古径の「いで湯」(大正8年)を下敷きにしているのは明白だが、誠に美しい胡粉と緑青がかもし出すこれぞ日本画の美を象徴するものと言わざるを得ない勝田哲の「温泉浴婦」。その他数々の心に残る作品については、出逢いの裏話や感想が尽きることはないのだが、ここでは二人の夭折の画家について述べるに止めたい。

 まず明治中期の日本画壇で西洋画を取り入れた独特の自然主義的作風でその名を留める小坂象堂。明治32年に僅か29歳で早逝した象堂の現存する作品は、東京芸大蔵の日本画と油絵(・注・浅井忠に師事した)の各1点にすぎない。ここに掲載する「釈迦と財婦之図」(・注・題は旧蔵者のものと思われる巻止めの記述に従う)は、象堂の並々ならぬ技倆を窺うことが出来る貴重な作品と言える。第二に全く無名と言ってよい増原宗一(咲二郎)の「夏の宵」を挙げたい。この図録編集中これだけはこだわった関東と関西の画家の対比を、どちらも夜の遊郭を題材にした「夏の宵」と小西長廣の「太夫之図」を見開きページに配することにより示そうとしたのだが、「太夫之図」は昨年の山口県立美術館「大正日本画−その闇ときらめき」展と京都文化博物館「京の美人画展」に出品され、一部美術誌に大きく図版が紹介されて少しは知られるようになったのに対して、「夏の宵」は新発見の作品である。もっともこれを購入した時は作者が誰なのか判らなかった。以前も同じ画家の「舞妓」の小品を手に入れて以来ずっと気にかかっていた画家の正体が少しは判るかも知れない、という気にさせたものがこの作品にはあった。中央に立っている洗い髪の女の片肌抜きの着物にあるクリムトを思わせる流麗な文様、この妖しい感覚は鏑木清方の「妖魚」の雰囲気を想気させ、きっと作者は清方の周辺の人物に違いないと見当をつけさせるに充分なものであった。「大正日本画」展の企画者Kさんが画廊に来られた時、試みにこの作品をお見せしたところ期待以上の答えが返ってきた。実はKさん自身この作者と作品を同展のために探していたというのである。その時の展覧会図録にKさんは増原咲二郎のことを判明した限り記載してくれていたので、本図録に転載させて頂いている。昭和3年に早逝したこの未完の画家の他の作品との邂逅を私達は心待ちにしている。






















































































 と、ここまで書き進んできたところでいつもの私達の後記らしくないではないかと思われる方が多いかも知れないと気がついた。何人かの方々からは後記の感想を確実に寄せてもらえる。そしてたまには後記がよく書けていたから「はい、お褒美」とお饅頭を頂戴することもある。やはり少しボヤキを入れなくては後記の始末がつかないような気がしてきた。

 今年の京都はT建都1200年Uの掛声に満ち溢れているかのように外部の人には思われているらしい。何やらT京都は騒がしいUような錯覚を皆様方に与えているらしいこのT建都1200年Uとは一体何なのか。京都の街中はバブル経済崩壊後のトタン囲いの空地と只今工事中の板囲いの数の方が、神社仏閣の数より多いのではないかと思われる有様である。記念事業のスタートは例の京都駅ビルの設計指名コンペでつまづいた。高さをいとわないはずなのに一番低い高さの設計案が採用された上、同コンペの審査員の設計案が新しいコンサートホールの設計指名コンペで採用されるといった不明朗さもあり、しかも地元の新鋭建築設計家たちがいずれのコンペにも指名されなかった。同じように記念ポスターには数多(あまた)ある地元作家は一顧だにされず、あの商売上手なヒロ・ヤマガタに委託された。しかも出来上がったポスターはヤマガタらしい華やかな色彩で人目を引いたが、図柄にある金閣寺庭園に集う人々には何故か日本人らしい姿がひとりも描かれず、一部のひんしゅくを買った。おまけに同図の版画が実に高額の価格で売り出されるなどしたので、私達は恥ずかしくてポスターも掲示できなくなった次第。

 建都1200年を彩る多くの催しは、殆どが例年開催されるものにT祝祭建都1200年記念Uの文字を冠しただけに過ぎない。数年前までは私達も何か記念の催しを開催しようと思っていたが、とうとう馬鹿馬鹿しくなってしまった。3月に催される「芸術祭典・京」の協賛展にも本展は参加していない。何かしら白々しくなる度合が強くなるのが私達だけであろうか。先日も新聞に次のような記事が小さく載っていた。新京都駅ビルの高さを巡る景観論争で反対の一翼を荷った京都市職労組の組合員の過半数が、自分達の新京都市役所ビル建設に際しては向かいの京都ホテル並みかそれ以上の高さにしたいと考えているというアンケート結果であった。私達は一層阿呆らしくなって、我が道をトボトボと歩み続けなければならないのです。

星野桂三・星野万美子









































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