幻の文人画家「不染鉄遺作展」後記 |
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さあここで文人画て何を指すんですかと尋ねられると本当に困ってしまう。私たち自身知っているようで知らないようなそんなあやふやさが文人画にある。江戸時代中期に中国に学んだ南宗画といわれる絵画の流派があるが、南宗画は文人の描く画であるとして、画家の人格を重視したため文人画と呼ばれた。池大雅や与謝蕪村らは日本的文人の典型とされる……といったようなことが1993年に宮城県立美術館で開催された「近代の文人画」展図録にある。文人画に対する様々な論考が同図録に為されているので興味のある方はそちらを参考にされたい。同展の担当学芸員の庄司氏も述べているように、近代日本で「文人」は「文筆にたずさわる人」といった軽い意味で使われ、「文人画」を「文人の絵画」とする人が多い。これは先程の素朴派の画家でも触れたように私たちはちょっと受け入れることができない。身の廻りの自然に対処して作品を描くとき技の冴えが表面に出過ぎず、かといって素朴に過ぎず、描かれた人格が素直に観者に受け入れられて崇高な気分を楽しませてくれる、そんな絵を「文人画」として受け入れたいと思う。 |
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奈良県立美術館での遺作展を観て、不染鉄の人生を思いやらずにはいられなかった。私たちは例によって作者である不染鉄に会ったことがない。作品が自然に手許に集まってきてそれらが作者の人生を物語ってくれるのを待つ、そういう姿勢でこの20数年の画商生活を過ごしてきた。最近になって晩年の不染鉄を知る人々が画廊にちょくちょく来られるようになった。その方々とお話をしていても一向にしまったなあ一度会いたかったなあとは思わない。少し薄情なのかも知れないが、描いた人より描かれたものの方が重要に思える。画家の手から離れて作品がひとり歩きをして作品自身の人生を歩む。人間ははかない命だが作品に吹き込まれた生命は観るものによって未来永劫守られ伝えられる。勿論そうした運命を辿る、作品としての風格があればの話だが、そうした作品の運命を私たちは信じる。そう割り切ってはいても不染鉄の人生が気にかかるのである。年譜にも記したように大正13年から昭和11年まで不染鉄は住居を京都市永観堂門前から奈良県五条西方院、西ノ京、神奈川県大磯、横浜市生麦、東京江戸川区とほぼ数年ごとに転々としている。戦後は奈良市に定住したようだが、大正11年から連続して帝展に入選を続け画家として相当の地位と基盤が築かれていたろうに、彼は何故このように放浪に近い変遷を繰り返したのだろうか。 頻繁な住所の変遷とは正反対に不染鉄の描く対象は余り多くはない。まず繰り返して描かれる海の風景、これは僅か数年を過ごしたにすぎない伊豆大島・式根嶋での印象が余りに強烈なものであったのだろうと推察される。本展で紹介している大作〈南海之図〉は典型的な作例だが、後年の画賛に「伊豆式根嶋、岩の温泉、潮干の時はいくつもの温泉になる。満潮になると海の中になり魚が来る。塩気が強い小高い岩のくぼみに雨水がたまる。そこで体を洗う。人家から遠く切り立った岩を降りてくる。一人ではとてもこわい……」とあるが、其他の印象を基にして海蓬莢を思わせる幻想的な光景が何年も後から制作されたのだろう。それにしても墨一色で描かれた海の深さと妖しさには圧倒される。同じく海や波を描いて有名な絵画専門学校の先生都路華香のそれは、どちらかと言えば水面の照り返しや波打ち際の水の動きそのものを描いたもの。不染鉄は海の計り知れない深さと神秘さを描きながら、自然と人間のはかなさを対比させたものと思う。繰り返し描かれるこうした海と漁村の風景と、人生の大半を過ごした〈晩秋画房〉に見られる西ノ京の風景とが不染鉄の全てであったように思われる。それらは不染鉄の理想郷と言って間違いないだろうし、私たちの普遍的な理想郷としても存在するのではないだろうか。 |
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追 記 本展には門下生上田道三の作品2点を参考出品している。実は2点のうち柴谷道三作と署名にある〈漁村風景〉を10数年前に入手し、絵の感じからして不染鉄の周辺にいた人ではないかと想像したが、作者である柴谷道三のことをいくら調べても分からなかった。昨年になってもう1点の作品〈湘南風景〉が出てきたことにより少し展望が開けてきたのである。画面には「第10回中央美術展覧会出品作」と作者の但し書きが書き込まれていた。ちょうど秋田県立近代美術館で中央美術展覧会を回顧する展覧会が企画されていたので取り敢えず作品の出品が決まり、経歴不詳ということで処理した図録の印刷寸前になって、同館長の田中日佐夫先生が絵画専門学校の昔の名簿から上田道三(旧姓柴谷)を発見されたことから調査は急転した。それから京都芸大の資料室の大須賀氏の協力で出身地が判明し、出身地彦根市の教育委員会で幸運にも上田道三のあらかたの経歴が明らかになった。上田道三と不染鉄の接点は上田が学んだ南都正強中学にあったと推察される。先の奈良県立美術館での遺作展図録の経歴では不染鉄は昭和6年以前に南都正強中学の図画教員をしていたことが記されている。不染鉄の古いお弟子さんに「みっちゃん」と呼ばれる人がいたと伝えられるから、「みっちゃん」は上田道三と見て間違いないのではないか。二人の作風は似ているようで何か違う。不染鉄の風景画からは静けさの中にそこはかとない暖かい人間の営みが感じられるのに対して、上田道三風景からは人の気配が一切伝わって来ない、静けさだけがある。
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