「野口謙蔵とその周辺」展 後記













































 数年前、知人の紹介で、近江八幡市に住む吉田希夫さんが所蔵する野口謙蔵の作品を鑑定に行ったことがある。それまでは全然知らなかったのだが、近江八幡での吉田さんの知名度は抜群のようだった。それも道理で、吉田さんは有名な建築家ヴォーリズが建てた家にお住まいであった。

 W.M.ヴォーリズは1905(明治38)年に来日し、滋賀県立商業学校に英語教師として赴任した。1907年に解職されたため、キリスト教団近江ミッションを創設し、やがて建築家として活動するようになり、赤煉瓦を多用した建築物を日本各地に遺している。私たちの母校同志社大学のアーモスト館や旧図書館などを始め、関西学院大学田原学舎、神戸女学院、東洋英和、明治学院といった学校にヴォーリズの作品が多く見られる。商業建築として身近なものに、アールデコの装飾が煌(きら)めく大阪心斎橋の大丸百貨店がある。京都大丸もヴォーリズの手により設計されたが、今は立て替えられている。烏丸通丸太町上るにある旧下村正太郎邸の大丸ヴィラは昭和7年に建築された。もっと身近なところでは、私が日経アートの「失われた風景−第1回」で最初に触れた、四条大橋畔にある東華菜館もヴォーリズの設計によるものである。

 ヴォーリズの建築作品は地元の近江八幡には各所に見られる。その最初期に属する建築が池田町の近江ミッション住宅なのである。7,80メートルつづく赤煉瓦の塀の中に3棟が現存する。元のヴォーリズ邸、吉田邸、ウォーターハウス邸である。こうしたアメリカン・コロニアル様式の家が次々と明治末期から大正初期頃にかけて建てられた。前述の吉田さんの家はその中の1軒として、ほぼ建てられた当時のままに使用されている貴重な建築物である。吉田さんのお父さんである吉田悦蔵は、ヴォーリズのミッションの片腕として活躍し、近江兄弟社を創立した人である。

 吉田希夫さんがアメリカ住まいしたときにも持って行ったという、野淵謙蔵の油絵は、本図録に掲載している「けし」の8号作品である。傷んでいた「けし」を修復して画廊に飾ってまもなく、時々画廊にお見えになる年配のお客が気に入って下さり「けし」は嫁入りした。その時は知らなかったが、その年配の人が、野口謙蔵の夫人喜久子の実弟にあたる人であった。後になって実は私はかくかくしかじかで…と事情を説明して下さったのが、作品が野口の手を離れて吉田さんの手でアメリカにも渡り、また巡るように野口夫人の縁の人の手に渡る、まさに1枚の絵の持つ不思議な因縁を垣間見る思いがする。










































































 因縁話にはまだ続きがある。吉田さんの紹介で同じ近江八幡市に住む人が所蔵する野口謙蔵の絵を鑑定に出かけた。その人の家もやはりヴォーリズの設計による木造建築であった。玄関を入って正面に2階に続く大きな階段があり、1階に広いリビングがあった。全部板敷の家で、正直言って近江八幡のような地方都市で、あのようなアメリカンスタイルの家を見られるとは思ってもみなかった。全体に古びて相当傷んでいるのだが、私がずっと昔の学生時代にアメリカ旅行をしたとき方々の家でご厄介になったことを、まさに昨日のように思い起こされる、そんな雰囲気が漂っていた。そして家中に飾られていた絵の全てが野口謙蔵の作品であった。中でも2階の寝室に入った私は、それこそ我が目を疑うほどのショックを受けたものである。ツインのベッドルームの枕頭にサムホールの「海」と「蒲生野夕照」、両サイドに4号の「風景」と「清秋風景」がシンメトリックに配置されていた。ベッドの足側にあたる東の窓の脇の壁に「彦根城」の4号がある。1階で拝見した油絵などの作品を合わせると10点にもなるコレクションであった。何とか

一切合切を入手したくて、それこそ目一杯の価格を提示して帰った。それから2年越しになる今春、家族で話合いがついたからあの野口謙蔵を残らず譲ると、その人から連絡が入った。

 その後、「東光帖」と野口謙蔵が名付けた画帖1冊、「朝三々後三々」と西田天香が題する画帖1冊が相次いで私たちにもたらされた。野口謙蔵をとりまく東光会の画家たちの画帖と、野口謙蔵が師事した米田雄郎と前田夕暮、そして「詩歌」同人たち、また西田天香、荻原井泉水、吉田悦蔵らが揮毫(きごう)する画帖である。このように続けて野口関係の資料が手許に集まると、因縁が持つ不思議な力に支えられて、私たちは一つの塊として展観しなくてはならないという義務感に襲われるようになった。





































































 私たちが収集してきた他の野口作品は別として、新出の作品と資料は全て近江八幡市にゆかりのあるものである。野口謙蔵と近江八幡の橋渡しをした人は誰なのだろうか。

 野口謙蔵の故郷は蒲生野(がもうの)。名神八日市インターチェンジの南、近江平野の真ん中にある稲作地帯で、近江八幡市の東に位置する。辺りは昭和の初めに野口謙蔵が描いた絵そのままに青田が広がっている。この地は、7世紀、近江朝廷の狩猟地として名高く、万葉集にある有名な額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇子(天武天皇)との相聞歌が生まれたことで天下に知られる。

  天皇の蒲生野に遊猟(みかり)したまひし時、額田王の作れる歌、
  茜さす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る
  皇太子の答えたまへる御歌
  紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに われ恋ひめやも

この蒲生の地に貴生川から彦根に伸びる近江鉄道が敷かれて、野口謙蔵の生まれた桜川村に桜川駅が出来たのが明治33年のことである。それまで近江商人の有数な家系であった野口謙蔵の祖先達は、交通辺鄙な土地から甲州や駿河富士宮への街道筋に進出していった。幕末から明治の初期にかけて活躍し、成功を納めたのが野口謙蔵の祖父にあたる野口忠蔵。彼は粱川星巖や頼三樹三郎らと親交をもつ文化人であり、富岡鉄斎もその家に寄宿したという。

 そもそも近江商人は、滋賀県の広範囲な地から全国に散らばり商圏を拡大していった。代表的なものに、日野商人、八幡商人、五個荘町商人がある。日野商人は天秤棒による行商が基本で、特産品を地方へ売り歩き、帰りには地方の特産品を仕入れて売り捌(さば)き故に鋸(のこぎり)商法とも呼ばれた。また小規模な出店を各地に設けて行商の拠点としたことから、千両商人とも呼ばれた。近江八幡から出た八幡商人は、八幡の大店と呼ばれた大規模な出店を経営し、五個荘町商人は、麻布などの繊維製品を中心に手掛け、その商圏は関東、長野など中山道沿いの地域を中心に遠く北海道から四国、九州にまで及んだ。京都の室町筋の繊維商社の多くにこの地方の出身者が占めるのは有名である。



















































































 近江八幡にヴォーリズが腰を据えて、煉瓦建築やバタ臭いアメリカンスタイルの木造民間建築を、次ぎ次ぎと手掛けることが出来たのも、こうした近江商人の先取の機運に恵まれた土壌があってのことであろう。ならばこそ、野口謙蔵のモダンな画風が、建築と相俟(あいま)って受け入れられたのではなかろうか。村長さんとも称された野口謙蔵の絵は、蒲生の近在の人々が気軽に本人から直接に頂戴したものが多く、伝統的な和風建築の家で、彼らが本当に野口の絵を愛して飾っていたかどうか分からない。そういう意味では、近江兄弟社の創立者の吉田悦三の縁につながる前述の人の家を埋めた野口謙蔵の絵は、モダンな生活に密着して最良の場所を占めていたと言えるのではないか。今日的見地からしても、野口謙蔵の絵は相当に現代的である。晩年に近い作品はモダン過ぎて現代絵画とさえ呼べるものがある。「雪の木立」はその代表的なものと言って過言ではない。

 野口謙蔵の在所の極楽寺の住職で歌人でもある米田雄郎を通して、前田夕暮たち多くの歌人が集い、野口謙蔵の作品に魅せられた吉田悦蔵を通して、他の人々との交流が持たれたのではなかろうか。彼らが近江八幡に集い遊び、交流の輪はどんどんと膨れ上がっていったのであろう。昭和5年、極楽寺に前田夕暮が泊り、翌朝詠んだ歌、「五月の青樫のわか葉が、ひときはこの村を明るくする、朝風」の歌碑が前田夕暮歌碑の第1号として翌年極楽寺に建てられた。誌面の都合で前田夕暮が記す野口謙蔵の思い出は多くを載せる事が出来ない。ご興味のある方は、野口謙蔵の遺歌集『凍雪』(復刻版もある)や、前田夕暮全集の中にある自伝的随筆「素描」をご一読ください。こんな偉そうな事を言っているが、『凍雪』は手許になく、今回滋賀県立近代美術館蔵のものをコピーして頂き、それを参考にした。

 また、前田夕暮関係の資料について、その多くを知人の北川久さんから提供して頂いた。8月、京都市北区にある堂本印象美術館に観賞に行った帰りに、35度を超える陽射しのバス停で全く偶然に北川さんに出会った。彼は母校の立命館大学の図書館から自身の研究の資料として、膨大な量になる前田夕暮全集を借り出してきたところだった。その折りに、日経アートの連載に野口謙蔵を取り上げるから、全集に野口関係のところがあったら知らせて下さい、と北川さんに世間話程度に依頼しておいた。それから彼の通信が次から次へと届いた。どれも大切なことばかりで大いに助かり深く感謝している。これも因縁である。

星野桂三・星野万美子













































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