今蘇る明治末・京都の彩り「浅井忠と京都」展 後記













































 黒田重太郎の著書『京都洋画の黎明期』(昭和21年刊)を画廊の開設のときから座右の書としている。この本は、戦後の物資の乏しい頃に印刷されたために、紙質が悪く、その上、旧漢字・かな使いで読みづらい。けれども内容は豊富で、京都洋画史を辿るとき、第一に挙げられる名著と言われている。黒田重太郎がその序で述べているように、「京都洋画の黎明期を叙すること、それは取りも直さず京都なる観点から、日本洋画全体の発展経過を見ることになる」から、私たちのように、ひと時代もふた時代も前の作品を取り扱う画廊経営者にとっては、バイブルのようなものである。

 この本の存在を最初に教えて下さったのは、今は亡き津田周平先生であった。当時、滅多やたらと旧い油絵を買い求めていた私が、そうした作品の鑑定などでご意見を伺いに御宅にお邪魔氏した折に推薦いただいたのである。もっとも当時、『京都洋画の黎明期』を実際に市中で探しても、なかなか手に入らなかった。窮余の策として、津田先生から関西美術院の蔵書を数日お借りして、その全文をコピーに取って手許に置くことにしたのである。現在のコピー機ならそうではなかろうが、当時、紙質の悪さからか、コピーされた文章は全体に黒ずんで、一層読みづらいものとなってしまった。何年かたって原本を古書店で入手してから、コピーした本を、当時大阪に勤務中のコレクター梅野隆氏に差し上げた。その後、氏はサラリーマンを退職して始めた東京での画商生活を去年切り上げ、この4月、自身が長年収集し寄贈した作品による北御牧村立梅野記念絵画館(長野県)の館長となった。『京都洋画の黎明期』は、ある時期、氏の座右のともなっていた。

 本展は、とにもかくにもこの『京都洋画の黎明期』を出発点にしている。同本は。京都洋画の源流から京都洋画派の運動、先覚田村宗立、京都府立画学校の設立より関西美術会結成、浅井忠の京都来住、浅井忠周辺の洋画家たちと京都に於ける浅井門下、そして浅井没後より若い世代の台頭まで、を取り上げている。私たちの夢は、自分達がコレクションした関連作品を図版として補充使用し、もっと読みやすい本に仕立て直して『京都洋画の黎明期』を再発刊することであった。そして、それらを元にして大規模な展覧会を開催するという野望も持っていた。だから、収集してきた作品のうち主要なものは手放すこともせず、やむを得ない場合でも、その作品がいかに活かされるかを念頭において商売をしてきた。しかし近頃では、夢は夢、個人の力ではどうしょうもないなあ、とあきらめにも似た境地になっている。その夢は、大新聞社なり、大美術館なり引き継いで頂ければよいのではないか、とも思うようになっている。





















































































 本展は、京都洋画史を辿る上での、浅井忠周辺の画家たちと門下生の作品を紹介する部分的なもの。いくつかある作品群の一部に過ぎない。前後することになるのだが、近い将来に(ひよっとしたら年内には開催できるのか)、浅井忠入洛以前の活動を垣間見ることのできる、明治期の作品を含めた絵画コレクション展を実現したいと思っている。田村宗立の洋画作品は非常に少ないのだが、雅美ある日本画作品は相当手許にあるから、これもベールを脱ぐ日が近い。「浅井忠没後から若き世代の台頭まで」についても、ひと魂の作品群が控えている。惜しむらくは、本展に当然なくてはならない作家が、極く数人洩れている。寺松国太郎と長谷川良雄である。寺松国太郎については、佳品を何点も所持していたが、皆請われて、美術館などに嫁入りしている。長谷川良雄とは、未だ縁が薄い。

 こうして京都洋画の黎明期を発掘していると、いつものことなのだが、縁(えにし)と言う言葉が切実に思えるようになる。特に浅井忠の作品については、いつもその真贋が問題となる。今だに展覧会に出ていたり、画集に掲載されているからといって、鵜呑みにはできないものがあると聞く。1990年のことであるが、新聞に「浅井忠の作品25点見つかる」の記事があった。浅井と親交の深かった石井柏亭から父が譲り受けたという作品が、東京都内のアマチュア画家の仏壇の引出しから見つかった、ということである。某市が美術館構想を持っていたことから購入した、と新聞は伝えていた。私はそれらの作品を実見していないが、噂ではどうやら眉唾ものらしい。こうした話は枚挙を問わない。

 本展に掲載している作品は、その全てが旧黒田重太郎コレクションのものであり、間違いないものである。澤部清五郎夫人が存命の頃、澤部の遺品を私が譲り受けた時、こうした作品も混じっていた。黒田重太郎の洋画修行時代の鉛筆画が大量に保管されていたファイルに、「木魚師遺作」と墨書された薄茶色の紙袋があり、その中にひと塊の作品が保管されていた。あるものには、一枚の作品を浅井自身が4つに破り捨てたらしい痕跡があった。それを、当時内弟子のひとりであった黒田が、そーっと屑篭から救い出したものではなかろうか。京都の有能な表具師の見事な技により、それらは作品として蘇って本図録に掲載されている。











































































 「こんなものが混じっていますよ」と夫人に見せても、夫人は、「どうせ、数日中に古道具屋さんにみんな持っていってもらうんだから」と快く頒けていただいた。後日、なにがしかのお金を追加分として持参すると、「あなたって正直ねー」とお褒めいただいた。それでもお金を受け取ろうとはされなかったが、「教会に寄付でもされたらどうですか」と言うと、ようやく承諾された。

 黒田重太郎と澤部清五郎とは義兄弟である。といっても、東映のやくざ路線のものではなくて、本当の義兄弟なのである。黒田重太郎は、はじめ澤部の二人いた妹の上の方と結婚したのだが、まもなく死別したので、後添いとして下の妹をもらっている。写真で見る限り、二人ともなかなかの美人である。そういう関係だから、澤部の家に黒田重太郎の青春時代の作品が大量に残っていて、何の不思議もない。澤部清五郎の未亡人からは、浅井忠の出身地の千葉県立美術館が最初に関連作品の寄贈を受け、ついで滞欧作品を収集していた目黒区美術館が、澤部の滞欧期の作品を中心にした資料の寄贈を受けた。京都国立近代美術館はすこし遅れて数点の寄贈を受けている。どうやら、最後になった私に残り物の福が回ってきたのかもしれない。

 荒井謹也の遺族宅からは、梅原龍三郎の珍しい素描や加藤源之助の水彩などが出てきた。こうして書いていると、本展の作品が全て作家の関係者の家から発見されたように思われるかも知れない。実はそうした例は少なく、むしろ例外に属する方である。多くの作品は、時期も場所も全くばらばらに私たちの眼前に現れてくるもの。それを丹念にひとつずつ拾い集めて、ひとつの形として形成されるまで、ゆっくりと時間をかけてあたためるのである。芳醇なワインが熟成するのを待つように、手間暇かけてひとつの展覧会の開催までこぎつける。こうして世に出すとき、それは、わたしたちの至福のときである。

星野桂三・星野万美子





































このウインドウを閉じる

Copyright (C) 2003 Hoshino Art Gallery All Rights Reserved.