「澤部清五郎遺作展」後記













































今からちょうど10年前の1992年春、「絵筆のゆくえ−インテリアへの道、澤部清五郎」展が京都文化博物館と目黒区美術館で開催された。未亡人つたさんがお亡くなりになった翌年のことだった。

 一人暮らしだった生前のつたさんを私たちは折に触れて訪問し、澤部清五郎と新井謹也など友人画家らの思い出話などに花を咲かせたものである。

 「澤部はねー、家族運の悪い人で、みんな先に往ってしまったのよ。私は3度目の妻なのよ。」
   
 年譜を見ていただくと分かるが、澤部は都合3度の結婚をしている。最初の妻、老枝(としえ)は長女を出産した翌年(新婚3年目)に死去し、再婚相手のみつを1936年に失い、みつとの間に生まれた長男の清には1939年に中学1年という若さで先立たれた。澤部にとっての不幸は、こうした家族縁の薄さに限らないことを少し述べてみたい。

 そもそも幼少の頃より身体の弱かった澤部は、家業の油問屋を継ぐことよりも画家として身を立てることを願ったという。最初に入門した京都四条派の日本画家、鈴木瑞彦(ずいげん)の画塾の兄弟子の紹介で知り合った二代川島甚兵衛に画才を認められ、生涯にわたる川島織物との関係の素となった。これを幸運と他人(ひと)は言うだろう。しかし澤部清五郎という画家の名が世間から忘れられてしまったのは、川島織物でのインテリアデザイナーとしての輝かしい功績であったのだから、皮肉としか言い様がないように私たちには思える。これは全くの私見であることをお断りしておくが、私たちはそのように考えるのである。

 古画の模写を通じて培われた日本画の素養、住吉派や四条派の技法を学び、琳派の流れを汲む神坂雪佳に私淑した澤部を、京都高等工芸学校の教諭で、当時ニューヨークの高峰譲吉邸の設計を担当していた牧野克次が、室内画の仕事をまかせる画工として抜擢したことから、米国留学、その後のパリ留学の道筋が開けたのである。これは澤部の幸運であった。ジアスターゼの発見者として財を為していた高峰博士の邸宅は、写真で見る限りにおいて、現在の感覚ではちょっと異様としか思えない内装(挿図10-13)である。それは、ニューヨークでの異国受けを狙った「日本」イメージを全面に押し出したもので、当時のマンハッタンでは評判を取ったに違いない。ここで澤部の能力が存分に発揮されたのであろう。

























































































 しかし、当時の澤部が目指したのは、洋画を極めるために不可欠の憧れの地、パリであった。米国経由でフランスに渡るこのルートを1900(明治33)年に関西美術院の先達、鹿子木孟郎や河合新蔵、その他太平洋画会の盟友らが歩み、その後吉田博や大下藤次郎ら水彩画家たちが辿ったルートであった。当時の澤部が洋画家として身をたてることを決意していたことは、随所に見てとれる。パリ滞在中の澤部の許に京都の父から帰国を促す再々の手紙がもたらされていたという。どうやら家業が傾き始めたので、父親として止むを得ない行動ではあったのだろう(父親からの手紙は現存していない)。澤部は画業研鑽の途中でパリを離れ、急遽日本に戻ることになった。帰国直後の京都の澤部に宛てた1913年10月の消印のある、パリ滞在中の安井曽太郎からの絵はがき(挿図23)の文面を採録している。その中で安井は、「東京行はどうだ」と尋ねている。

 今となっては私たちの勝手な想像に過ぎないだろうが、澤部の当初の計画では、パリから帰国後に東京に出て、中央画壇でのデビューを目指していたのではないだろうか。本展図録に玉稿を頂戴している浅井北野天満宮前宮司の証言にあるように、「友は何れも本通りを歩いたが、私は目立たない脇道を選んだ」と澤部が漏らしたということも、私たちの推測があながち間違いではないことを裏付けている。ここで澤部が言う「友」とは、梅原龍三郎であり安井曽太郎であったのだろう。共に聖護院洋画研究所と関西美術院で轡を並べた浅井忠門下の画友であり、滞欧時代も互いに行き来した仲であった。滞欧時代に親しく交遊した川島理一郎や小杉未醒らの画壇での活躍が、澤部の心に隙間風を吹かせたかも知れない。

 梅原も安井もヨーロッパから帰国後に京都を離れ東京に出て、画家として名を為した。彼等はパリにいる時、帰国後は東京に出ることを共通の話題にしていたのだろう。不運にも没落しかかった家業が、澤部の野望を打ち砕いたのではないだろうか。川島織物から委嘱を受けた室内装飾の仕事は、当座の澤部家の財政を潤した。ただ川島の主たる顧客は、我が国でも有数の保守的な宮内省であった為に、澤部がヨーロッパから持ち帰った斬新なデザインは、ことごとく陽の目をみなかったという。現存する資料から見る澤部の室内装飾の仕事や、壁掛け、緞帳などの図案は、あるものは住吉派のごとく、またあるものは正倉院文様に溢れ、いずれも澤部の手で実直に仕立てなおされているとはいえ、斬新とは言い難いものでる。こうしたことを澤部自身も気がついていたはずだが、「謹直で折り目正しい澤部の性格は作品の上にもよく現れて、宮殿等の内装には誠に相応しいものであった」(上原茂、澤部清五郎展図録)と川島織物の関係者の証言のように、澤部の存在は川島織物にとってますます重要となっていった。

































































































 「私は日本画と洋画、そして図案と、三足の草鞋を履いたから、いずれも大成しなかった」と、澤部は謙遜した言葉をつたさんによく言ったそうだ。また「遺作展はするな」とも言い残していたそうだ。これらの言葉から、私たちは、澤部清五郎の成し遂げられなかった無念さをひしひしと感じるのである。若き日に交わった友たちが、中央画壇で盛名を馳せるのを見るたびに、「私だって、あの時、家業を放り出して東京に出てちゃんと絵画修行を続けていたら、こんなものじゃない」との思いが強くあったものと考えられる。実際に残された洋画の断片的な遺作を拝見しながら、そうした感想を私たちは強く持つようになっている。澤部清五郎の絵画は、骨太でなかなかのものじゃないか、そう思うのである。

 その意味において10年前の遺作展は、私たちの望んだ方向とは相当違う方角に進んでしまった。京都文化博物館と目黒区美術館のご尽力、そして川島織物の絶大な援助を得て成し遂げられた立派な遺作展であったことは万人が認めるところである。それでも私たちには不満が残った。「あのインテリアデザイナーは、本当はこんなに素晴らしい作品を遺した洋画家だった」とする展覧会を、私たちは目論んでいたからである。

 あれから10年、本展は規模も小さく、私たちが所蔵する作品のみで構成するため、想いの何分の一程度にしか実現できないが、つたさんのご好意でお頒け頂いた遺作を中心にして、この20年間こつこつと蒐集してきた作品を加えて何とか本図録を製作することが出来た。これで澤部清五郎とつたさんに対する、画商としてある種の義理が果たせるとも考えている。

 「もう2、3日したら本屋さんが来るのよ。要るものがあったら何でも持っていってちょうだい。」

 つたさんは、武田伍一が設計した澤部のアトリエに一人で寝起きしておられた。裏庭に通じる離れのような部屋が物置になっていて、雑多なものが収納されていた。その離れに通じる床下からは新井謹也の大鉢が2点出て来た。他にもたくさんの作品が発見された。あるものはキャンバスが木枠からはずされ、巻かれたままの状態にされていた。以前に、千葉県立美術館や目黒区美術館が調査に入ったことを知っていたから、めぼしいものが無くなっていることを覚悟していた。京都国立近代美術館には<梳>が寄贈されていたことも、加藤源之助の水彩画の佳品がある美術館に寄贈されていたことも知っていた。だが、思わぬ作品に遭遇したり、古いアルバムに収納された滞欧時代の絵葉書群が見つかった時には、まさに残り物に福と、思わず胸がときめ、神の御加護に感謝したことである。当時、目が少し不自由になられていたつたさんに、出て来た作品や資料をいちいち顔の真近くに捧げ持って、確認と承諾を得ながら作業を続けた。この調査の折に、黒田重太郎の初期素描や水彩、浅井忠の水彩資料など大量の作品が発見されたことは、既に「浅井忠と京都」展(1998)の後記で述べた。




































































































 澤部が滞欧中に自宅に出したり持ち帰った絵葉書、ニューヨークや欧州各地から澤部宛てに出された友人たちの絵葉書類が大量に保存されていた。いずれまとめて1冊の画集にしてもよいほど重要であると考えるが、本図録でそのさわりを紹介することにした。

 藤田嗣治の研究をされ、その足跡を辿ることから次第に調査領域を1920年代から1910年代へ遡ってこられた林洋子さんから、そうした絵はがき類の一部を下敷きにして論考を頂戴できたことも、本図録に重みを加える意味で有り難く感謝している。

 本展の準備中、私たちは澤部清五郎の生まれた土地を歩いてみることにした。京都市上京区の千本通りと今出川通りの交差点から南行してふた筋目が、元誓願寺通りである。当時の澤部の住所は、ふた通りの呼び方で記載されている。「千本元誓願寺東入る」と「元誓願寺浄福寺」ある。千本通りのひと筋東の通りが浄福寺通りであることから、両方とも正しく、京都風の言い方で大雑把に同じ場所を示してる。この辺りは西陣地区のど真ん中になる。現在の千本通り丸太町の交差点を北に上った所に「大極殿」の遺跡があることから分かるように、もともと京都の旧市街はこの辺りが市民活動の中心地であった。澤部が生まれた頃の西陣地区は、現在と違って経済活動が非常に活発な土地柄であった。禁裏御用達の油問屋という家柄から想像すると、澤部は幼少時代を何不自由なく暮らすことが出来たのだろう。こうしたことを考えながら、元誓願寺通りを東へ歩く。辺りには変貌する京都を象徴する、おもちゃ箱のようなプレハブ3階建の小規模な家が、ぽちぽちと現れてきている。それでも明治時代に建築された民家が、まだ古めかしく生き残り健在の様子である。

 最初に交差する浄福寺通りを北上し、今出川通りを越え、ひと筋目の五辻通りを越えた所に澤部家の菩提寺の本隆寺がある。寺としては裏門になるが、入ってすぐ右側に是好院、左側に墓地がある。澤部清五郎の墓前に遺作展の報告をし、すぐ南側に並ぶ黒田重太郎の墓前にもお参りした。浄福寺通りをそのまま北上すると、最近京都市の地区保存運動が実ってきれいに整備された京町家、織成館、織物会社、京刺繍の長艸(ながくさ)の展示ギャラリー「貴了館」、織物工場を改修したホールなどが並ぶ一角に遭遇する。ここから寺之内通りを西へ千本通りへ戻る途中、昔懐かしいカッチャ、カッチャという機械織の音が聞こえてきた。ある戸口からそーっと覗くと、薄暗い工場の中で、パンチで文様を指示した紋紙が動く様子が見え、衰退する西陣の喘ぎのような音が、カッチャ、カッチャと密やかに響いていた。界隈には、そこかしこに織機材料などを扱う店もある。町衆の奏でる伝統の音と西陣の残影に、私たちは思わず顔を見合わせ、頑張ってや、と声をかけたくなったことである。澤部清五郎がヨーロッパから帰国後に移り住んだ北野天満宮の北門は、ここから西方に真直ぐ徒歩10分程度の距離である。

























































































 この4月から産経新聞(大阪本社版)の水曜夕刊の文化面に連載している、「石を磨くー美術史に隠れた珠玉」は、ちょうど11回を終わったところである。本展準備と同原稿の整理とが同時進行で、相当以前から新聞原稿を書き溜めたはずなのに底をついてきた。本稿を仕上げてから展覧会が始まる前に、もう3、4本書き溜めることにする。ネタはたくさんあっても、限られた文字数の制約があるから苦労する。W杯サッカーの記事が氾濫して文化欄が1週跳んだ時、読者から抗議の電話が何本も入ったと担当記者からファックスがきた。ホンマかいなと聞き流している。サッカー余波でカラーがモノクロに化けるなどいろいろとあるが、駄文が万という読者の目に触れていることは間違いなさそうだから、これからも気を入れてかかることにしたい。

 ところで、ここ数回の企画展図録の後記で紹介してきた、自宅の隣接地に建設されたリクルートコスモス社のマンション問題で、私たちは、今や被告となっている。活断層の真上に近隣家庭の迷惑も顧みず隙間も開けず強引に建設されたマンションへの抗議と、啓蒙のために看板とノボリを町内に立てたが、それらが営業妨害に当たると、撤去を求められているのである。この問題が起こってから既に丸3年が経過した。『ねっとわーく京都』というミニコミ誌に同編集長から依頼された原稿を書き、本が市中に出回った頃、自宅のパソコンが突然アウトになり、全ての記録が失われた。ネットを利用したリクルートの悪質な妨害工作ではないかと言う友人もいる。まさか、とほとんどの人が思うだろうが、この会社の異常さ故、そうしたこともやりかねないと考える人もまた多い。

 大阪美術展覧会や菊池塾展の図録の出品作品を、デジカメで撮影してパソコン上で整理していたものが全て消えた。幸い、リクルート問題の全資料は全く別のパソコンで作業していたから、これは無事だった。急遽、マックG4のノートブックを購入し、再び様々な展覧会の出品作品のアルバムを再生する作業を開始したところである。こんなことで私たちはめげてはいない。ますます闘志をかき立てられている。


2002(平成14)年6月  星野桂三・星野万美子







































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