「澤部清五郎遺作展」後記 | ||
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今からちょうど10年前の1992年春、「絵筆のゆくえ−インテリアへの道、澤部清五郎」展が京都文化博物館と目黒区美術館で開催された。未亡人つたさんがお亡くなりになった翌年のことだった。 |
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「私は日本画と洋画、そして図案と、三足の草鞋を履いたから、いずれも大成しなかった」と、澤部は謙遜した言葉をつたさんによく言ったそうだ。また「遺作展はするな」とも言い残していたそうだ。これらの言葉から、私たちは、澤部清五郎の成し遂げられなかった無念さをひしひしと感じるのである。若き日に交わった友たちが、中央画壇で盛名を馳せるのを見るたびに、「私だって、あの時、家業を放り出して東京に出てちゃんと絵画修行を続けていたら、こんなものじゃない」との思いが強くあったものと考えられる。実際に残された洋画の断片的な遺作を拝見しながら、そうした感想を私たちは強く持つようになっている。澤部清五郎の絵画は、骨太でなかなかのものじゃないか、そう思うのである。 その意味において10年前の遺作展は、私たちの望んだ方向とは相当違う方角に進んでしまった。京都文化博物館と目黒区美術館のご尽力、そして川島織物の絶大な援助を得て成し遂げられた立派な遺作展であったことは万人が認めるところである。それでも私たちには不満が残った。「あのインテリアデザイナーは、本当はこんなに素晴らしい作品を遺した洋画家だった」とする展覧会を、私たちは目論んでいたからである。 あれから10年、本展は規模も小さく、私たちが所蔵する作品のみで構成するため、想いの何分の一程度にしか実現できないが、つたさんのご好意でお頒け頂いた遺作を中心にして、この20年間こつこつと蒐集してきた作品を加えて何とか本図録を製作することが出来た。これで澤部清五郎とつたさんに対する、画商としてある種の義理が果たせるとも考えている。 「もう2、3日したら本屋さんが来るのよ。要るものがあったら何でも持っていってちょうだい。」 つたさんは、武田伍一が設計した澤部のアトリエに一人で寝起きしておられた。裏庭に通じる離れのような部屋が物置になっていて、雑多なものが収納されていた。その離れに通じる床下からは新井謹也の大鉢が2点出て来た。他にもたくさんの作品が発見された。あるものはキャンバスが木枠からはずされ、巻かれたままの状態にされていた。以前に、千葉県立美術館や目黒区美術館が調査に入ったことを知っていたから、めぼしいものが無くなっていることを覚悟していた。京都国立近代美術館には<梳>が寄贈されていたことも、加藤源之助の水彩画の佳品がある美術館に寄贈されていたことも知っていた。だが、思わぬ作品に遭遇したり、古いアルバムに収納された滞欧時代の絵葉書群が見つかった時には、まさに残り物に福と、思わず胸がときめ、神の御加護に感謝したことである。当時、目が少し不自由になられていたつたさんに、出て来た作品や資料をいちいち顔の真近くに捧げ持って、確認と承諾を得ながら作業を続けた。この調査の折に、黒田重太郎の初期素描や水彩、浅井忠の水彩資料など大量の作品が発見されたことは、既に「浅井忠と京都」展(1998)の後記で述べた。 |
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澤部が滞欧中に自宅に出したり持ち帰った絵葉書、ニューヨークや欧州各地から澤部宛てに出された友人たちの絵葉書類が大量に保存されていた。いずれまとめて1冊の画集にしてもよいほど重要であると考えるが、本図録でそのさわりを紹介することにした。 藤田嗣治の研究をされ、その足跡を辿ることから次第に調査領域を1920年代から1910年代へ遡ってこられた林洋子さんから、そうした絵はがき類の一部を下敷きにして論考を頂戴できたことも、本図録に重みを加える意味で有り難く感謝している。 本展の準備中、私たちは澤部清五郎の生まれた土地を歩いてみることにした。京都市上京区の千本通りと今出川通りの交差点から南行してふた筋目が、元誓願寺通りである。当時の澤部の住所は、ふた通りの呼び方で記載されている。「千本元誓願寺東入る」と「元誓願寺浄福寺」ある。千本通りのひと筋東の通りが浄福寺通りであることから、両方とも正しく、京都風の言い方で大雑把に同じ場所を示してる。この辺りは西陣地区のど真ん中になる。現在の千本通り丸太町の交差点を北に上った所に「大極殿」の遺跡があることから分かるように、もともと京都の旧市街はこの辺りが市民活動の中心地であった。澤部が生まれた頃の西陣地区は、現在と違って経済活動が非常に活発な土地柄であった。禁裏御用達の油問屋という家柄から想像すると、澤部は幼少時代を何不自由なく暮らすことが出来たのだろう。こうしたことを考えながら、元誓願寺通りを東へ歩く。辺りには変貌する京都を象徴する、おもちゃ箱のようなプレハブ3階建の小規模な家が、ぽちぽちと現れてきている。それでも明治時代に建築された民家が、まだ古めかしく生き残り健在の様子である。 最初に交差する浄福寺通りを北上し、今出川通りを越え、ひと筋目の五辻通りを越えた所に澤部家の菩提寺の本隆寺がある。寺としては裏門になるが、入ってすぐ右側に是好院、左側に墓地がある。澤部清五郎の墓前に遺作展の報告をし、すぐ南側に並ぶ黒田重太郎の墓前にもお参りした。浄福寺通りをそのまま北上すると、最近京都市の地区保存運動が実ってきれいに整備された京町家、織成館、織物会社、京刺繍の長艸(ながくさ)の展示ギャラリー「貴了館」、織物工場を改修したホールなどが並ぶ一角に遭遇する。ここから寺之内通りを西へ千本通りへ戻る途中、昔懐かしいカッチャ、カッチャという機械織の音が聞こえてきた。ある戸口からそーっと覗くと、薄暗い工場の中で、パンチで文様を指示した紋紙が動く様子が見え、衰退する西陣の喘ぎのような音が、カッチャ、カッチャと密やかに響いていた。界隈には、そこかしこに織機材料などを扱う店もある。町衆の奏でる伝統の音と西陣の残影に、私たちは思わず顔を見合わせ、頑張ってや、と声をかけたくなったことである。澤部清五郎がヨーロッパから帰国後に移り住んだ北野天満宮の北門は、ここから西方に真直ぐ徒歩10分程度の距離である。 |
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