水の情景「画家たちが描いた生活と自然」展 後記 | ||
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2月の「京都絵画まつり」会場で、世界水フォーラム関連企画として開催した「水彩画名作コレクション展」は、あくまでも本展覧会の前哨戦のつもりだった。同展の案内状を受け取った関東地方の知人から、「こちらでは世界水フォーラムがあるなんて報道は全然されていませんよ」と言われたのには驚いてしまった。開催地とそうでない都市とでの報道の温度差が際立ったようだ。世間が水問題から遠ざかるのと反対に、私達の本展への腰の入れ方は、ますます本格的になってしまった。 当初の準備段階でコレクションのアルバムから適当な作品を抽出すると、本展に向くような作品はすぐに100点を超えてしまった。印刷経費や画廊の展示壁面などを考慮し、前期展示と後期展示の2部制にすることで、どうやらこのような体裁に決着したものだ。欲を言えば、せせこましい画廊の壁面では作品が可哀想だ。大作をゆっくり見ていただける大会場が欲しい。まだまだご覧にいれたい作品がたくさんあるのに、とも思う。作品のグループ分けの切り口についても、もっとあれこれと工夫できるのになあ、と悔いはある。試行錯誤の上で調整した結果が本図録である。これが、私達の限界だろう。 さて、出品作品の中から少し解説めいたことを述べていくことにしたい。まず、新発見の伊藤快彦<鴨川真景図>(18頁)。現在の出町から今出川にかかる賀茂大橋の上流付近を描いたものだ。右に大文字山、左に比叡山を望む。大文字山の手前に見える吉田山のなだらかな緑の稜線が珍しく、新鮮に見える。左端にこんもりと茂る糺の森を背景に描かれた橋が、当時の出町橋。この橋は、高野川と加茂川の合流地点を真ん中にして東西に二つの橋(河合橋と出町橋)がある現在の姿とは異なる。当時は1本の橋で、東の若狭街道(通称、鯖街道)とつながっていた。葵祭の行列が通る葵橋は、この当時は200メートルほど上流にあった。手元に明治28年頃の地図と昭和4年の大京都市街地図がある。両者を比べるて奇妙なことに気がついた。昭和4年には、葵橋が上流ではなく、現在の出町橋のところにあり、本作に描かれた出町橋が存在しない。今出川の賀茂大橋もない。その昔から、比叡山の法師と賀茂川の流れは暴れ者の代表だった。大水の度に多くの橋が流され、何度もその姿と位置が変えられたのだろう。 地図を見ていると鴨川の名称がくるくると変わっていることに気がついた。明治の地図によると、出町の合流地点から下流を賀茂川とし、上流を鴨川としている。一方、昭和4年版では、下流を鴨川、上流を賀茂川とする。本作の仮題を考える時に、こうしたことも考えあわせ、現在の通称に従うことにした。ちなみに、鴨川にはもうひとつ加茂川という字が当てられることもある事を言い添える。 |
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夷川ダムが鴨川に合流する地点に現在、木製のしゃれた橋が飾りとして架けられている。ここが最近のテレビドラマの撮影スポットの一つとして有名で、年に何度も役者が入れ代わって登場する。そこから下流の二条大橋を西に渡り、鴨川から取り入れられた高瀬川が始まる木屋町通に面して、先のノーベル賞受賞で一躍世界的に有名になった島津の創業記念館がある。その少し南が、「一之船入」と呼ばれる高瀬舟が浮かぶ史跡である。田中善之助の<高瀬川>(12頁)に描かれた場所は、この一之船入から南へ少し下がった、三条通の手前にあった風景ではなかろうかと考えている。作品にある木製の橋の下を船頭たちの唄とともに曳き船が行き来したのだ。 京都に生まれ、京都を舞台に活動しているので、どうしても話が京都ずくめになっていけない。ここらで京都観光から離れることにしたい。 |
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本展には、作者のよく分からない作品を数点含めている。作者が分からないことが作品の価値の優劣につながらない、という事を示したかったからだ。まず、<噴水公園>(42頁)が珍しいものだ。登場する見物客の衣装は、日本の鹿鳴館時代のものに似る。不勉強で、本作を入手してから数年経つというのに、噴水のある公園の名前すらはっきりしない。ある日、フランス暮らしの長かったK先生御夫妻が画廊に来られた。作品を見せてご意見を伺った。「パリ郊外の噴水公園には、年に一度だけ公開する所があって、このようにたくさんの人々が見物に押しかけるそうですよ」とおっしゃった。掲載図版ではよく分からないだろうが、実にたくさんの人物が噴水の水しぶきの向こう側に描かれている。本気になって調べると、水の吐き出し口の特徴のある装飾などから、噴水がどこなのか簡単に特定できそうだ。本作は、和紙でもなく、絹本でもなく、綿に描かれている。絵具は日本画の材料だ。水面に広がる小さな波の連続模様の描き方が巧みで、後々の日本画家による近代的表現の魁(さきがけ)として重要ではないかと考えている。 |
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あれが有名、これが無名といったところで、バブル後の価格破壊の波は、美術市場にも押し寄せている昨今、そうした部類分けがそんなに意味を持たなくなってきた。あんなに有名で高い相場の画家の絵が、現在はこんなひどいことになっていますよ、ということがざらになった。その結果、「作品の優劣が価格形成の主流になりつつある」と見る画商が少しは増えてきたようだ。そうは言っても名前の知られていない画家の作品は、やはり売り難い。最終購入者の美的感覚が、そのようなレベルにはいつまでたっても到達しないのだ。「やっぱり作品本位」と口では述べながら、皆さんの財布の口はなかなか開かない。不景気でも売れている作品は、素人好みの写真のような絵だったり、巨匠と言われる人の中途半端な絵だったりする。先頃のオークションに作者不詳で登場したゴッホがいい例だ。画商たちも世間が不景気だから、半ばお世辞のように、「あなた達のやってきたことが正しい」とは言ってくれる。いずれ景気が回復して美術相場が反騰すると、途端に彼等は「売れるものがいいものだ」という意識に戻ることは必定なのだ。この不景気のどん底なのに豪華画集(?)を作製して世間にアピールする、そのような偏屈画商がひとりくらいいても良いではないかと考えた。こうして恒例になった「売れない」絵を集めた展覧会となったのである。 |
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昔は、まわりになーんにもなかったんや。後から来た人間らがクサイ、クサイ言うて文句言うんやからな」とも言った。汚れてどうしようもない風景も、彼にかかるとこのような名画に変貌する。ここのところが、ただの素朴画家と違うところだ、と私達は常々言い続けている。社会の底辺の光景や、普通の画家なら見放しがちなうす汚い場所、たとえば公衆便所さえ彼にかかると立派に絵になったのである。 話題が「変貌する風景」になると、当然京都の変貌について述べねばならないだろう。先のバブル経済の頃、そのまた前の美術ブームの頃、「銀座で石を投げると画廊に当たる」と表現された。現在、「京都で石を投げると、マンションに当たる」状態である。私達の画廊の近辺も日々変貌している。神宮道を南に下がった青蓮院前のマンションの広告には、「東山の緑に囲まれた歴史的風土保全地区に住まう喜び」なんていうキャッチフレーズが躍る。広告ちらしに使用される航空写真には、実に圧倒的な東山の緑地が広がる。その緑地を破壊するのは誰方でしょうか。画廊のすぐ東北にあった料理旅館は更地になり、今マンションの建設が始まろうとしている。更地になる前には、「松下の保養施設が出来るから安心ですよ」、と近隣対策係の人たちが言いふらしていた。私達は、絶対にマンション用地になると、近隣の人たちに言ったが、相手にされなかった。もう一ケ所の巨大マンション計画がそのすぐ南に控えている。マンション建設の必要な事は充分知り、理解もしている。しかしその建築のあり方が気にくわないのだ。マンションは、例外なく年代物の樹木を切り倒し、あたりを殺風景な風景に変貌させるから厭なのだ。マンションの広告は、周囲の良い環境を、また歴史のあることを謳い文句にする。マンションからの眺めの良さを売り物にする。しかし反対側からの視線については一切黙殺するから厭なのだ。私達は、「京都には京都らしいマンションのあり方を」と行政当局に訴え続けてきたが、これまで訴えが実ったことがない。水の風景が、とんだ所に飛び火してしまった。 谷内六郎の時代、「株価は現在20年ぶりに割り込んだ8,000円以下の時代だった。経済規模が現在の半分に近い時代だった。失業率、失業者ともに現在の半分。戦後最大の財政危機といわれた。“社会は豊かに、個人は質素に”と唱えた財界の大御所、土光敏夫氏が注目を浴びた。めざしが好物で一汁一菜の質素な食事ぶりなどが紹介された。」という最近の「天声人語」の記事を引用しておく。20年の歳月を挟み、人間たちのすることに何の進歩があったというのか。イラク戦争の次にあるのは何だろう。北朝鮮問題はなお恐い。新型肺炎も恐ろしい。けれど、せめて美術の世界にだけは不純なものを持ち込みたくはない。精神の自由を保ち、自分流を貫く事をしたい。
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