水の情景「画家たちが描いた生活と自然」展 後記


































 「第3回世界水フォーラム」は、今年3月に京都を中心に大阪府と滋賀県で開催された。期間中にたびたび乗り合わせた烏丸線の地下鉄では、主会場となった国際会館へ往復する開発途上国からの参加者の姿が多く見られ、車中での会話もはずんでいたようだ。彼等にとって、物価の高い日本での会合の出席は大変だったろう。それぞれの国が抱える問題について、何らかの成果を持ち帰っていただいたのろうか。当初、私達も参加すべく登録をしていたが、多忙のためにとうとう参加できなかった。会期半ば、突如というか予定通りなのか、勃発したイラク戦争により、水フォーラムは何やら未消化気味のままに終了した感がある。フランスのシラク大統領の訪問も取り止めになり、各国要人の来日も見送られた。おかげで世界水フォーラム開催中の前半は、世間に湯水のごとく溢れていた関連情報が、後半はぴたっと止まってイラク戦争一色になってしまったのは残念だ。
 
 水不足に悩む地域で、NPOがせっかく掘って提供した井戸。なのに、地中深くが既に農薬に汚染されて井戸水にヒ素が含まれ、せっかくの水が飲めないという事実。日本向けの海老の養殖のために、マングローブの森が次々と切り拓かれて養殖池となり、生態系が破壊されている。長江に次ぐ中国第二の大河、黄河は、かつては満々と水をたたえて中国文明の発展を支えてきた。降雨量の減少や、経済発展に伴う河水の大量消費などで断流が発生し、あるいは干上がり、大地が砂漠化しつつある。食料の不足している地域に粉ミルクを送ったら、水の汚染が原因でたくさんの赤ちゃんが死んだという報道。イスラエルとパレステイナの紛争にも水問題がからみあっているという。
 
 水フォーラムが終了して、参加者は散らばり自国に帰った。人類と水との関係は今後ますます切実になり、問題山積みであることは変わらぬ事実だ。お役所も報道も世界水フォーラムが終われば、「はい仕事は終わりました」でないだろうに。私達は一地球市民として、これからもずっーとこの問題を考え続ける必要があるし、何かしなければならないと考える。こうして専門分野でアピールする姿勢を示そうと考えたのが本展である。

















































































 2月の「京都絵画まつり」会場で、世界水フォーラム関連企画として開催した「水彩画名作コレクション展」は、あくまでも本展覧会の前哨戦のつもりだった。同展の案内状を受け取った関東地方の知人から、「こちらでは世界水フォーラムがあるなんて報道は全然されていませんよ」と言われたのには驚いてしまった。開催地とそうでない都市とでの報道の温度差が際立ったようだ。世間が水問題から遠ざかるのと反対に、私達の本展への腰の入れ方は、ますます本格的になってしまった。
 
 当初の準備段階でコレクションのアルバムから適当な作品を抽出すると、本展に向くような作品はすぐに100点を超えてしまった。印刷経費や画廊の展示壁面などを考慮し、前期展示と後期展示の2部制にすることで、どうやらこのような体裁に決着したものだ。欲を言えば、せせこましい画廊の壁面では作品が可哀想だ。大作をゆっくり見ていただける大会場が欲しい。まだまだご覧にいれたい作品がたくさんあるのに、とも思う。作品のグループ分けの切り口についても、もっとあれこれと工夫できるのになあ、と悔いはある。試行錯誤の上で調整した結果が本図録である。これが、私達の限界だろう。

 さて、出品作品の中から少し解説めいたことを述べていくことにしたい。まず、新発見の伊藤快彦<鴨川真景図>(18頁)。現在の出町から今出川にかかる賀茂大橋の上流付近を描いたものだ。右に大文字山、左に比叡山を望む。大文字山の手前に見える吉田山のなだらかな緑の稜線が珍しく、新鮮に見える。左端にこんもりと茂る糺の森を背景に描かれた橋が、当時の出町橋。この橋は、高野川と加茂川の合流地点を真ん中にして東西に二つの橋(河合橋と出町橋)がある現在の姿とは異なる。当時は1本の橋で、東の若狭街道(通称、鯖街道)とつながっていた。葵祭の行列が通る葵橋は、この当時は200メートルほど上流にあった。手元に明治28年頃の地図と昭和4年の大京都市街地図がある。両者を比べるて奇妙なことに気がついた。昭和4年には、葵橋が上流ではなく、現在の出町橋のところにあり、本作に描かれた出町橋が存在しない。今出川の賀茂大橋もない。その昔から、比叡山の法師と賀茂川の流れは暴れ者の代表だった。大水の度に多くの橋が流され、何度もその姿と位置が変えられたのだろう。
 
 地図を見ていると鴨川の名称がくるくると変わっていることに気がついた。明治の地図によると、出町の合流地点から下流を賀茂川とし、上流を鴨川としている。一方、昭和4年版では、下流を鴨川、上流を賀茂川とする。本作の仮題を考える時に、こうしたことも考えあわせ、現在の通称に従うことにした。ちなみに、鴨川にはもうひとつ加茂川という字が当てられることもある事を言い添える。


































































































 関連した作品を2点掲載している。加藤源之助<出町の冬>(10頁)は、太陽光線の具合から見て、上記の若狭街道から南方の出町橋方面を描いたと思われる。ちょうど同じ場所を描いた水彩画が、田中善之助の<朝の出町>(京都国立近代美術館蔵)だ。この作品は絵葉書にもなっているので、両者を比べていただくのも一興だろう。山口八九子の<葵祭>には、御所を出発した行列が、葵橋を渡って糺の森を経て下鴨神社へ向かう様子が描かれている。

 話を<鴨川真景図>に戻そう。河原では赤毛氈を敷いた上で何やら小宴会の最中だ。日の丸を手にした子供が走り回っている。先ほどの出町橋にも日の丸の行列が描かれている。何かのお祝の日の様子らしいが、よく分からない。

 本作の額装がまた素晴らしい。画面に合わせたらしい別注の図柄が、漆塗りで描かれている。額の上層部には鴨川に群れる無数の千鳥、下部には流れの様子が描かれている。この額装だけでも見ごたえのある代物だ。額装の外縁部に装飾された菊花の紋様は、本作がどこか由緒正しい家に飾られていたことを想像させる。

 黒田重太郎の<白川村>(9頁)は、先ほどの出町橋を渡り、東へ15分ほどの距離にある、銀閣寺の手前北側にある村だ。この辺りも明治末期頃に浅井忠門下生の多くが描いた絶好の写生地だった。

 鴨川を下流に辿ると、上野春香の<五條仮橋>(34頁)に出くわす。五條大橋は、御多分にもれず何度も流失している。現在の五条大橋は、1959(昭和34)年に改築されたもの。本作にある仮の橋は、洪水で流された橋を付け替える途中のものだ。五条通りは、戦争中に強制疎開で道幅が広げられる前はこのように狭い道路だった。1990年の7月、豊臣秀吉が400年以上も前に鴨川に架けた五条大橋のものと見られる、「天正17年」の年号入の橋桁の一部が、同橋東側たもとからむき出しの状態になっているのが発見されて話題となった。

 三井文二<京都疏水水ダム>(21頁)は、琵琶湖から引かれた疏水が山科を経て、蹴上(けあげ)から岡崎の美術館横を通り、鴨川に合流する手前にある、現在の夷川ダムだ。夷川ダムでは、明治29年から戦後の昭和30年代頃まで水泳講習会の場だった。敗戦までは武徳会遊泳部が、戦後は京都踏水会が受け持った。昭和初期までの疏水は水がきれいで、底の白川砂にシジミがいた。本作の背景の山は比叡山だ。画面の左側の松の木の向こう側を西に行くと、日本画家で版画家の徳力富吉郎の居宅となる。参考図版に掲載している現在の夷川ダムの左端にある銅像は、京都疏水の建設を実行した京都府知事、北垣国道(1836~1916)だ。京都疏水が完成したのは1890(明治23)年のこと。現在の夷川ダムは冬鳥の恰好の越冬地なので、私達が愛犬と共に散歩する冬場コースのひとつになっている。













































































 夷川ダムが鴨川に合流する地点に現在、木製のしゃれた橋が飾りとして架けられている。ここが最近のテレビドラマの撮影スポットの一つとして有名で、年に何度も役者が入れ代わって登場する。そこから下流の二条大橋を西に渡り、鴨川から取り入れられた高瀬川が始まる木屋町通に面して、先のノーベル賞受賞で一躍世界的に有名になった島津の創業記念館がある。その少し南が、「一之船入」と呼ばれる高瀬舟が浮かぶ史跡である。田中善之助の<高瀬川>(12頁)に描かれた場所は、この一之船入から南へ少し下がった、三条通の手前にあった風景ではなかろうかと考えている。作品にある木製の橋の下を船頭たちの唄とともに曳き船が行き来したのだ。
 京都に生まれ、京都を舞台に活動しているので、どうしても話が京都ずくめになっていけない。ここらで京都観光から離れることにしたい。
 
 左・伊藤快彦 「鴨川真景図」 部分    右・現在の夷川ダム


























































 本展には、作者のよく分からない作品を数点含めている。作者が分からないことが作品の価値の優劣につながらない、という事を示したかったからだ。まず、<噴水公園>(42頁)が珍しいものだ。登場する見物客の衣装は、日本の鹿鳴館時代のものに似る。不勉強で、本作を入手してから数年経つというのに、噴水のある公園の名前すらはっきりしない。ある日、フランス暮らしの長かったK先生御夫妻が画廊に来られた。作品を見せてご意見を伺った。「パリ郊外の噴水公園には、年に一度だけ公開する所があって、このようにたくさんの人々が見物に押しかけるそうですよ」とおっしゃった。掲載図版ではよく分からないだろうが、実にたくさんの人物が噴水の水しぶきの向こう側に描かれている。本気になって調べると、水の吐き出し口の特徴のある装飾などから、噴水がどこなのか簡単に特定できそうだ。本作は、和紙でもなく、絹本でもなく、綿に描かれている。絵具は日本画の材料だ。水面に広がる小さな波の連続模様の描き方が巧みで、後々の日本画家による近代的表現の魁(さきがけ)として重要ではないかと考えている。
 
 <浴後>(66頁)の作者はいったい誰なのだろう。皆目分からない。共箱となっている桐箱の裏側に、「無憂樹」と号する作者による『むき玉子』(尾崎紅葉著)の一節が細かい字で書かれている。完全には判読できないので、図書館で原作にあたりその箇所を抜き出してみた。この先どうなったのか、本図録を発送してから読み進めることにしたい。
 
 水彩画家のJ. Kasagiについても謎だらけだ。作品の殆どすべてが欧米で発見されるので、横浜や日光からのお土産に珍重された水彩画の範疇に入るのだろう。実際に作品を眼にした専門家の誰しもをうならせるJ. Kasagi の画技は、単なるお土産絵画と終わらせるに忍びないレベルにあることは確かだ。1900(明治33)年の明治美術会の名簿に、笠木次郎吉という名前がある。現在の調査で分かることは、この程度である。私の手許に総計13点の水彩画があるが、どちらかと言えば英国風、ヴィクトリアン絵画の流れを汲むようだ。













































































 あれが有名、これが無名といったところで、バブル後の価格破壊の波は、美術市場にも押し寄せている昨今、そうした部類分けがそんなに意味を持たなくなってきた。あんなに有名で高い相場の画家の絵が、現在はこんなひどいことになっていますよ、ということがざらになった。その結果、「作品の優劣が価格形成の主流になりつつある」と見る画商が少しは増えてきたようだ。そうは言っても名前の知られていない画家の作品は、やはり売り難い。最終購入者の美的感覚が、そのようなレベルにはいつまでたっても到達しないのだ。「やっぱり作品本位」と口では述べながら、皆さんの財布の口はなかなか開かない。不景気でも売れている作品は、素人好みの写真のような絵だったり、巨匠と言われる人の中途半端な絵だったりする。先頃のオークションに作者不詳で登場したゴッホがいい例だ。画商たちも世間が不景気だから、半ばお世辞のように、「あなた達のやってきたことが正しい」とは言ってくれる。いずれ景気が回復して美術相場が反騰すると、途端に彼等は「売れるものがいいものだ」という意識に戻ることは必定なのだ。この不景気のどん底なのに豪華画集(?)を作製して世間にアピールする、そのような偏屈画商がひとりくらいいても良いではないかと考えた。こうして恒例になった「売れない」絵を集めた展覧会となったのである。

 本展の出品作の中で、一点まるで毛色の違ったものがある。谷内六郎の<波のピアノ>(41頁)だ。私達の青春時代は、谷内六郎の時代だった。あれほど日々親しみながら、何気なく見過ごしてきた彼の存在が、今頃になって私達の琴線に触れてくるから不思議だ。名前は知りながら彼のことは殆ど知らなかった。本図録のために資料に当たって初めて当時の彼の病状を知り、その闘病生活の最中に、よくもあれだけ独自の世界を築きあげたものだ、と改めて感動している次第。荒廃する現代社会に生きる私達は、彼の発想の自由さを見倣い、せめて精神の純朴さを忘れないようにしよう、そのように考えている。
 
 素朴派と言えば、藤田龍児が昨年の夏に急死したことを報告したい。物故作家を主として取り扱う当画廊では、彼の作品は例外だった。現存する数多(あまた)の画家たちの中で、彼の存在は私達の光明だった。彼ほど真摯に自分流の絵を守り、頑固に生きた画家はいないだろう。<大和川>(40頁)に描かれた水面は、実際以上にドス黒い。当時、日本の河川のうちワースト2に選ばれたほどの大和川は、画面で使われた絵具の色の暗さと重さとは裏腹に、作品の中ではどこか牧歌的な雰囲気を漂よわせている。藤田龍児は言った。「サギがみんな左の方、向いてるやろ。これはなあー、上流から流れてくるエサを狙ってるんや」と。上流には豚小屋があるそうだ。「豚小屋もカワイソウや。



























































































昔は、まわりになーんにもなかったんや。後から来た人間らがクサイ、クサイ言うて文句言うんやからな」とも言った。汚れてどうしようもない風景も、彼にかかるとこのような名画に変貌する。ここのところが、ただの素朴画家と違うところだ、と私達は常々言い続けている。社会の底辺の光景や、普通の画家なら見放しがちなうす汚い場所、たとえば公衆便所さえ彼にかかると立派に絵になったのである。

 話題が「変貌する風景」になると、当然京都の変貌について述べねばならないだろう。先のバブル経済の頃、そのまた前の美術ブームの頃、「銀座で石を投げると画廊に当たる」と表現された。現在、「京都で石を投げると、マンションに当たる」状態である。私達の画廊の近辺も日々変貌している。神宮道を南に下がった青蓮院前のマンションの広告には、「東山の緑に囲まれた歴史的風土保全地区に住まう喜び」なんていうキャッチフレーズが躍る。広告ちらしに使用される航空写真には、実に圧倒的な東山の緑地が広がる。その緑地を破壊するのは誰方でしょうか。画廊のすぐ東北にあった料理旅館は更地になり、今マンションの建設が始まろうとしている。更地になる前には、「松下の保養施設が出来るから安心ですよ」、と近隣対策係の人たちが言いふらしていた。私達は、絶対にマンション用地になると、近隣の人たちに言ったが、相手にされなかった。もう一ケ所の巨大マンション計画がそのすぐ南に控えている。マンション建設の必要な事は充分知り、理解もしている。しかしその建築のあり方が気にくわないのだ。マンションは、例外なく年代物の樹木を切り倒し、あたりを殺風景な風景に変貌させるから厭なのだ。マンションの広告は、周囲の良い環境を、また歴史のあることを謳い文句にする。マンションからの眺めの良さを売り物にする。しかし反対側からの視線については一切黙殺するから厭なのだ。私達は、「京都には京都らしいマンションのあり方を」と行政当局に訴え続けてきたが、これまで訴えが実ったことがない。水の風景が、とんだ所に飛び火してしまった。
 
 谷内六郎の時代、「株価は現在20年ぶりに割り込んだ8,000円以下の時代だった。経済規模が現在の半分に近い時代だった。失業率、失業者ともに現在の半分。戦後最大の財政危機といわれた。“社会は豊かに、個人は質素に”と唱えた財界の大御所、土光敏夫氏が注目を浴びた。めざしが好物で一汁一菜の質素な食事ぶりなどが紹介された。」という最近の「天声人語」の記事を引用しておく。20年の歳月を挟み、人間たちのすることに何の進歩があったというのか。イラク戦争の次にあるのは何だろう。北朝鮮問題はなお恐い。新型肺炎も恐ろしい。けれど、せめて美術の世界にだけは不純なものを持ち込みたくはない。精神の自由を保ち、自分流を貫く事をしたい。

2003(平成15)年 4月  星野桂三・星野万美子
















































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