エノコログサに託した自然讃歌「藤田龍児遺作展」後記
脳血栓による半身不髄を克服し、不死鳥のごとく蘇った画家













































 

 2002(平成14)年8月、藤田龍児夫人の光子さんからかかった葬儀を知らせる電話は、まさに晴天の霹靂(へきれき)のように私たちを打ちのめした。同年の5月初め、京都市美術館で開催された美術文化展の当番でおられた藤田龍児に会った。作品の前で写真のポーズをとっていただいた。「右足のちょっと先の方におできみたいなものがあって、痛いんや」と、いつもより足をひきずるようだったが、いつもと変わらない気楽な態度で私の注文に
応えていただいた。すばらしく温和な笑顔が撮れた。それが、お元気な姿を拝見する最後になるとは…。
 葬儀場に飾られた遺影は、私がその時に撮影したものだった。「誰方に撮っていただいたのか知りませんが、とっても良い表情でしょう?」と光子夫人に告げられ、改めて遺影を見やった。身体のどこにあんな病巣を抱えていたんだろう、さぞや苦しかっただろうに。そんなことは露も見せず、穏やかな表情の藤田龍児がそこにいた。この表情や仕草に皆んな騙され続けた。そして、誰もが、あんなにお元気やったのにと、ただ呆然としてしまうことになってしまった。その意味では、言葉は悪いが、彼は天才的な詐欺師だろう。一見、楽しい夢みたいな絵を描いて他人を欺いた人だった。その童画的な印象の強い絵の裏側に隠された彼の真実を、一体何人の人が覗き見ることができたというのだろうか。
 1965(昭和40)年頃、まだ同志社大学に在学中の私は、学業はそっちのけにして、半ば通訳を兼ねたセールスマンとして、外国人旅行客相手の画廊でアルバイトに精を出していた。その画廊は、海外から良質な旅行客がたくさん逗留する都ホテルの中2階を借り切って、「現代日本美術展」と銘打った即売会を、春秋各3ヶ月間に限って開催した。1ドル=360円の時代だった。多くの外国人旅行客が、日本の骨董品や美術品をお土産として買い求めた。なかには財閥の御曹子、大コレクターや美術館のキュレーターなども顧客になることもあった。まだ日本では現代美術はおろか絵画のマーケットすら育っていなかった当時、その臨時画廊で作品を並べることは、海外に自らの作品を紹介するという大きな夢を与えると共に、収入獲得になる嬉しい催しだったのだろう、様々な画家や彫刻家たちが喜んで出品していた。有名作家達に混じり下村良之介、不動茂弥、三尾公三ら地元京都の作家たち、阪神間のニュージオメトリック系の作家たちや今中クミ子、須田剋太、上前智裕なども取り扱い作家だった。
 こうした現代美術系の作家の中に藤田龍児もいたのである。記憶にあるのは、粗末な木枠額に入れられた白っぽい画面に、絵具を盛り上げた無数のエノコログサが右へ左へとうねうねと描かれたものだった。どうして彼がここに参入していたのか、きっかけは分からない。多分、比叡山麓の北白川アトリエ村で活動していた若手作家などからの伝手(つて)ではなかっただろうか。確か1、2度と思うが、作品の引き取りに山ノ内のお宅にもお邪魔したことがある。



















































































 大学を卒業後、ずるずるとその画廊に就職した。その後、1970年の万国博覧会開催の年、学生時代からプロの通訳ガイドとして活躍していた万美子と結婚した。紆余曲折があって、間もなくその画廊から独立した。その頃の藤田龍児との関係といえば、新婚時代に一度、当時住んでいた山科の2DKのアパートに、彼が幼い長男を連れて訪問されたことがあるくらいだった。独立したとはいえ、夢ばかり追い続ける駆け出し画商にはたいした収入があるでなし、最後には妻の収入を当てにしてしまった。夫として、また画商としての自覚自立をうながすため、清水の舞台から飛び降りるつもりから、敢えて収入の良い通訳ガイドの職を辞した万美子の強い意志もあり、私達夫婦は日々の暮らしに追われていった。しかし苦労はするものである。日本の近代美術の原点に立ち返って美術史を見直すという、私達の画廊の方針が次第に実を結ぶようになった。当然のことながら、売れにくい現代美術系作家との付合いは、徐々に薄れていったのである。
 星野画廊の経営が軌道に乗り出した1982年の春に、現在の神宮道に画廊を移転した。その年の秋、関西美術文化展が京都市美術館で開催中だったからだろう、藤田龍児がひょっこり画廊に顔を見せた。
 「ボ、ク、ビ、ヨ、ウ、キ、シ、テ、イ、タ・・・」
 たどたどしい会話だった。一語、一語の単語が、喉の奥から絞り出されるように発音された。頭の中に浮かんだ単語が、口からなかなか出て来ない。話せないもどかしさに溢れた、苦痛に満ちた表情だった。しかし、2度に渡る脳血栓の後遺症を克服して、今ようやく関西美術文化展に復帰出品を果たしたという満足感が、私達の画廊に足を運ばせたのだと思う。生命を失いかけた大病と、右半身不髄と言語障害、特に画家の生命とされる利き腕の右手不随をも克服した、病後の壮絶とも言えるリハビリ活動など、不覚にもその時点まで、私達には知る由も無かった。
 1985年の秋、関西美術文化展に出品された<啓蟄>を見た。私達は、これまで感じたことのない程の感動に心が震えた。これは不朽の名作の一つだと感じた。藤田龍児展をしなくてはならない、即座にそう決心するまでになった。1989年10月に開催した「〜右手から左手へ、心の旅路を絵筆に託して〜、藤田龍児展」についてはここで多くを語る必要はないだろう。その後の美術文化展のほとんどと言ってよい出品作を優先的に購入させていただいた。大阪で開催される個展で売れ残った絵の中からめぼしい作品を押さえた。1992年の関西美術文化展に出品された旧作5点は、作品の損傷していた部分を修復する条件で全て譲っていただいた。こうして着々と藤田龍児回顧展の準備をしてきた。それが遺作展になるなんて…。



































































 私達が共に同志社大学(桂三:商学部、万美子:英文科)の出身であることで、自らも同志社ボーイの端くれだったと自称する藤田龍児が、とりわけ親近感を持たれたのかどうか、30余年の付合いをさせていただいた。ところが、彼が一番苦労されていた頃には少しもお力添えにもならず、お元気になられてからもお酒の一杯も酌み交わすこともなく終わった。私達の画廊にお見えになった時や、大阪梅田での個展会場で数分の会話を交わす以外、直接の接点はなかった。作品を取り扱う画商として普通はするだろう個人的な付き合いは、一切してこなかった。物故作家を主に取り扱う画商の姿勢として、現存作家の私生活の領域にまで踏み込むことは極力避けてきた。そのかわり作品と対峙することを第一とし、真剣にいつも描かれた絵の中の藤田龍児と会話することにしていた。作者と直接の会話を交しても語りきれない、彼の喜び、哀しみ、苦悩、希望、そうした諸々の様子が、あちこちから顔を覗かせるからだ。
14)<あさきゆめみし(山師)>には、妻も家庭も置き去りにして画家としての夢を老い続けた、“山師”と揶揄(やゆ)する自身の姿がある。
18)<老木は残った>には、老木と悲嘆にくれる若者の姿に、自身の苦悩と哀しみを投影させた。藤田自身の象徴としてたくさんの絵の中に登場する白い紀州犬は、いつも少しびっこを引いた情けない姿で描かれている。私たちが飼っている真っ黒のラブラドールリトリーバーを描いてほしかったのだが、どうしても少しよろよろとした、この白い紀州犬でなければいけなかったようだ。 カラフルな煙突により、文明生活の罪を象徴的に描いた (23)<連なる煙突>。(33)<誰も知らない道>では、白い犬がこわごわ覗き込んでいる横断歩道の暗い入口が無気味に口を開けている。バスもUターンしてしまうこの先は、藤田しか見ていない黄泉の世界への入口ではなかっただろうか。そういえば真っ黒い野池もよく登場する。























































 連なる山並みは、若い時代の作品にも晩年の作品にもよく登場する。故郷の紀州山地に象徴される日本の原風景として、画家藤田龍児が幼い頃から身近で慣れ親しんだものだ。が、両者では少し趣が違うようだ。生涯にわたって描き続けた「エノコログサ」も、初期作品の中では、『古事記』や『日本書紀』の神話の世界にある日本創世期の於能基呂島伝説と融合したもののようだ。日本の大自然への賛美を、エノコログサの持つ旺盛な生命力が地中深くに培われたものだとの理解のうえ、土の中から涌き出る生命の根源と地表を支配する風や雲といった環境が織り成す壮大なドラマとして、初期の作品に描こうとしたのであろう。失意のどん底から復活を果たした生命力の根源も、路傍に健気に息づくエノコログサであった。よろよろと歩を刻むリハビリ中の藤田龍児は、どれほどその優美で打たれ強いエノコログサに励まされたことだろう。気がつけば、いつしか齢70を越えた。幾度となく越えた人生の山脈がある。生涯の支えとなってくれた妻と共に歩んで来たが、幾重にも重なる山脈を二人三脚で越えて来た。遠く険しい、そして長い道が二人の後ろにある。この思いが最後の出品作に結実し、あのゆったりと気持ちのよい表情になったのだろう、そう私たちは理解している。
 遺作展を開催するにあたり、画家藤田龍児が送った全人生のうち、現存する限られた資料の中でという制約の中、出来る限り忠実に彼の画家人生を俯瞰することが可能になればと願い作成した図録である。文献やアルバム中に散見できる過去の出品作品を参考資料として掲載したが、準備時間の不足ゆえ詳細なデータを揃えることができなかった。少し悔いが残るが、まあー満足の出来るものになったでしょう、と天国にいる画家に報告できるのではないか。藤田龍児という希有(けう)な画家が描いた、人生の節目、節目での深い思考と感情の起伏の織り成す美の神髄を、本展により多くの皆様にご理解していただくことを希っている。合掌。
                           星野 桂三
                           星野万美子































このウインドウを閉じる

Copyright (C) 2003 Hoshino Art Gallery All Rights Reserved.