ダイナミズムとデリカシー
彩管の魔術師 玉 村 方 久 斗 遺 作 展
2005(平成17)年11月1日(火)〜11月27日(日)開催




























【後 記】
 三条京阪近くで小さな画廊を構え、玉村方久斗や秦テルヲら異色作家の作品収集を始めていた、今から20数年前のことだ。当時和歌山県の美術館の学芸員だったM氏が、四方山話の最中に「横浜のとある古美術店に方久斗の絵が掛かっていた」と洩らした情報に私は飛びついた。数日後、横浜に飛んだ。本牧近くにあるその店は、「ぱぱさん」という屋号の示す通り、海外からの観光客や米軍関係者たちのお土産品になりそうな骨董品などを取扱っただろう、そんななごりがある古びた木造の店だった。明るい戸外から薄暗い店内の様子に眼が慣れ始めたとき、奥の階段近くの壁の片隅に飾られた絵に気がついた。横浜らしい港町で工事現場のような所を散策する男と女の姿を描いた、方久斗らしい画面の絵だった。しげしげと眺めていると、番頭さんらしき人が、その絵描きのならもう1点ありますよ、と2階の倉庫から同じ大きさの明るい画面の絵を片手にぶらさげて降りてきた。庭先でキャッチボールを楽しむ家族を描いた絵は、ホクト社時代のものと想像された。ほかにも店内には古びた油絵などが展示されていたが、いずれにも食指が動かず、方久斗の絵2点だけを購入して京都にとんぼ返りをした。その後、上京のついでに横浜で途中下車し、確かここら辺りにあったはずなのにと捜しても、とうとうその店に辿りつけなかった。方久斗の絵2点のみを私に提供して「ぱぱさん」は消滅していた。不思議な話である。
 1984(昭和59)年6月に当画廊で玉村方久斗遺作展を開催した。記録をたどると同年11月には秦テルヲ遺作展も開催するなど、きばって7つもの展覧会を開催したことが分かる。とにかく横浜の「ぱぱさん」で入手した<港町寸景>と<休日>は、方久斗の遺作展を機に京都国立近代美術館に収蔵された。1986年秋、「京の異色日本画家たち」という展覧会を京都国立近代美術館の新館開館記念展に合わせて開催した。方久斗の作品もまとめて展示した。週替わりで6人の画家(秦テルヲ、玉村方久斗、稲垣仲静、山口八九子、甲斐荘楠音、要樹平)を集中展示し、国展系の画家たちの作品も並陳する6週間に亘る企画展だった。




































































 それからあっという間に20年が過ぎ去った。最初の遺作展を開催して以来、大正期の作品やホクト社時代の出品作が数点揃ったら改めて遺作展をしようと考えてきたが、今回こうした形で見切り発車することにした。ある区切りというものを私達なりにつけたかったからだ。現時点では、一画廊としては充分の作品の量と質が揃ったとの自負がある。これ以上のことは今後大規模な遺作展を公立の美術館で開催されるときに、専門家各位の手に委ねることにしたい。
 東京都現代美術館の加藤弘子氏が、研究紀要で2度(1997年度第3号、1998年度第4号)にわたり玉村方久斗研究の論考を発表されている。現在この論考が、玉村方久斗研究には欠かせない重要な資料となっている。ところが残念な事に現存する作品資料に関して言えば、特に大正期の前衛運動の中心にいた頃のものが全くといってよいほどに欠如している。それどころかホクト社時代の出品作品の多くが未だ行方不明のままだ。作品はあっても、年記のあるものが少なく、制作年を特定する指標が少ない。ないない尽しの中で、本図録では大胆に制作年代にある区分けを施してみた。
 とはいえ方久斗の画業を俯瞰する上でこれだけは付け加えておきたい。従来方久斗は大正期を代表する特異な画家として認識されてきたが、それは彼がアヴァンギャルドな美術運動で名を為した時代のみに眼を奪われるからである。「マヴォ」や「三科造形美術協会」、また「単位三科」での前衛芸術活動の中心人物のひとりとして活躍して名を為したのは事実だが、同時に日本画家として彩管を駆使してたゆまぬ制作を続けていたことを忘れてはならない。当時、ドイツ表現主義に影響された社会風刺的な出品作の制作と同時進行の形で、他人から「方久斗の飯の種」と揶揄された流麗なタッチの山水画や植物画を多数描いている。これを方久斗の「売り絵」と片付けてしまうのは、あまりに軽薄に過ぎないのではなかろうか。その芸域の広さを全うするだけの類い稀なる才能を彼は備えていた。昨年になって風景四題の連作(図版43~46)を入手したとき、本展へのゴーサインが出た。代表作のひとつに数えられる作品の出現だと思ったのだ。数年前に入手していた<野火>(図版83)を方久斗後半生の代表作であると認識していたから、これで各時期の特徴を俯瞰できる作品が揃ったと確信したのである。<野火>(仮題)は、「百九十一番居、玉村方久斗個人展」の出品作品の一つであろうと推察する。日本画家として確かな活動をしてきたはずなに、世間では泡沫の扱いを受けた屈辱の中で、自らの画家生命の渾身の力を注いで描いたものだ。同時期の『西鶴武道伝来記』を題材にした作品の<うそばし申さえ>(図版88)
は、片岡球子の作風を先取りした「現代」に通じる新しさである。「晩年は筆が荒れていた」と一部画家たちの回顧録にあるが、彼らは方久斗の斬新性を理解し得なかっただけのことだ。その意味では図版90〜97の静物画にも捨て難いものがる。



















































































 ここまで玉村方久斗についてこだわる理由は何故なのだろうか、自問自答してみる。まず多くの研究者が気にかけているのに、誰もその全貌に近づくことが出来ていない。だからこそ自分たちがやらなければならないし、またやる値うちがあると思うのだ。彼の出生地の京都の画商としての使命感のようなものである。また美術史的作家論より、眼前にある実作品にどれだけ感動を共有できるかどうか、という点から作品の収集を続けている画廊経営者としては、次から次に現われる作品の魅力に打たれて止まないこともある。彼の芸術家としての幅広いそして深い素養が、卓越した彩管の技術に裏打ちされて絵画とし披露されると、コレクターのひとりとしてついつい購入してしまうのだ。そんな訳で方久斗のコレクションは、とうとう120点を越えてしまった。
 京都の画商として地元出身画家たちの画業の顕彰に努めているから、現在の京都の悲惨さにもついつい眼を奪われてしまうこの頃だ。前にも書いたことがあるが、真夏の京都の風物詩「大文字の送り火」を「大文字焼き」と地元京都のテレビ局でアナウンサーが言及してしまう御時世である。つい最近のテレビドラマでも頭に血が昇るような画面に出会った。「祇園囃子」と題された石原プロ制作の2時間ドラマだ。藤原紀香の奇妙な京都弁は御愛嬌としても、祇園祭りの鉾巡行当日に、伝統的な京都の染色工房の家の婚儀が行われるはずがない。おまけに一年中でも一番蒸し暑い京都の酷暑の日中、しかも屋外での婚儀と披露宴の設定だった。それだけではない。主人公の元祇園の芸者十朱幸代が、鉾の巡行が終わった日の真夜中近い祇園の酒場で、かつて二世を契った渡哲也の来ないことを知らされ、ちょうど酒場の外から祇園囃子が流れて来て「祇園祭りも始まりましたね」と確か言った。聞き違いで「祇園祭も終わりましたね」ということであっても、相当可笑しい台詞である。祇園囃子は鉾の巡行の終了と共に京都の町中から消え去る。が、祇園祭そのものは7月24日の後の祭りをもって終了するのである。7月24日の夕刻に四条通のお旅所を出た3基の神輿は、それぞれの順路に従い市中を練り歩いた後、祇園の八坂神社に集結する。ちょうどこのドラマの最終場面の設定時刻には、境内の明かりが全部消されて真っ暗闇の中、ろうそくの幽かな灯りの下、御神体が神輿から神社本殿に戻される厳かな神事の最中である。聞こえて来るのは神官の「おーっ、おーっ」という無気味なお祈りの言葉のみ。観光客の誰もが知らない厳粛そのものの儀式を、数年前に私たちはしっかりと心を震わせながら見学したことがある。だからこそ余計に、こんな無神経なドラマつくりに腹が立つのだ。あの有名な脚本家は、北海道の富良野だけが登場場面だったらよかったのに、京都のことを何も知らないのだろう。


























































 

 「花の都は二百年の昔にて、今は花の田舎なり、田舎にしては花残れり、きれいなれどもどこやら寂し」という江戸の俳諧師のふた昔前のことばを、改めてしみじみと思い起こす。京都は馬鹿にされていないだろうか。京都という冠詞さえあれば何でも売れる。町家という冠詞さえつけば不動産も動く。上っ面だけの流行で京都人は利用されるだけされて、本当は騙されてはいないだろうか。馬鹿にされていないだろうか。
 こんな不平を書き連ねている最中、読売新聞の10月8日付「編集委員が読む」欄で、「若き記者諸君へ」と題された橋本五郎氏の記事に共感を覚えた。氏は、“「周五郎」と「司馬遼」に学ぶ”と見出しをつけて両大家の文学的なアプローチの仕方を、「虫の目」と「鳥の目」と表現する事で、新聞記者たちに警鐘を鳴らしている。司馬文学の一番の魅力は、戦国時代や明治維新等の転換期に活躍した英雄の生き方にあり、時代をリードした主人公がスケール大きく描かれていることである。氏はそれを「鳥の目」と表現する。対極にあるのが周五郎文学。名もないひとりの人間の、かけがえのない生を探究し描く周五郎の「虫の目」にも氏は共感を覚えるという。鳥瞰図的技法と虫瞰図的技法を駆使することで読者に記事を提供すべきである、と氏は説くのだ。
 これが私達の画廊経営の基本理念と重なり合う。大きな時代の潮流を眺めながらも、時代の寵児となった大家の蔭に隠れた僅かな才能を見逃すことなく、現代に蘇らせることに生涯を傾ける。少しの功名心があるのがいけないことかも知れないが、それがなければこんな苦労ばかりの仕事など続けられない。
                           星 野 桂 三
























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