夭折した幻の大正美人画家
没後78年  増 原 宗 一 遺 作 展
忘れられた画家シリーズー30
2006(平成18)年7月 8日(土)〜7月 30日(日)

 

〔後 記〕
 今から20年以上も前のことだ。東京の古参の古美術商津田氏が、増原宗一の掛軸を京都の美術交換会で売りに出した。何とも頭でっかちな印象のある舞妓の横顔が大きく描かれている。左手の指先で朱色の盃を危うげに支えた舞妓が、右手にかざした扇子で微妙なバランスをとりつつ、今まさに盃を口元に運ぼうとする刹那(せつな)
描いた作品だ。盃と扇子に蛇のようにからまる指先の微妙な配置が、呼吸を整える舞妓の表情と相俟(ついま)って、不思議さと緊張感溢れる画面になっている佳作である。しかしそのようなことに気がつくのは作品を購入した後のことで、市場で桐箱から取り出された掛軸が衆人の眼にさらされる瞬間は、この変な絵を描いた画家「宗一」が誰なのかということに考えを巡らすぐらいだった。その場に居合わせた多くの美術商たちにも作者が誰なのか分からない様子で、もちろん私にも見当がつかない。関西の絵描きでないだろうということしか判断できなかった。誰も知らない無名の画家の絵だったので、会主がつけた発句(ほっく)(最初の競り値)から上に続く声が少なく、希望値に届かなかったのだろう、氏はその舞妓を引っ込め次の作品を競りにかけた。
 津田氏は、「はた師」と呼ばれる商売のやり方で全国各地の美術市場を転々としていた。同じ作家の作品でも、地方と都会、関東と関西というちょっとした環境の違いから相場に起伏が生じる。そうした間隙(かんげき)を縫うように作品を仕入れて、より高く売れる市場を求めて移動する日常を過ごしていた。自らの鑑識眼と相場観だけを頼りに活動するプロ中のプロだった。市場で仕入れて市場で売る彼の荷物は「ウブ(初物)」なものではないから、関東から来る多くの美術商たちにとっては一度はどこかで眼を通したことがある品物ばかりとなる。京都では氏の競りの売番がどういう訳か昼時になることもあり、肝心の商売の時には食事目当てに中座する業者が多くて閑散とした会場になることも多かった。古書画や墨跡などは言うに及ばず、洋画家の日本画などもよく取扱われていたので、京都の交換会数カ所で出会う氏の荷物を私はいつも心待ちにしていたものだ。ところが博識すぎて、皆が知らない画家の作品を高値で仕入れてしまい、売り処を失ってしまうこともある。増原宗一の舞妓もそのケースだった。希望価格に届かないときは、彼は違う市場に同じ作品を買い手がつくまでしつこく売りに出す。舞妓の絵に何度も私は出会ったが、発句が段々と安くなり誰も見向きもしなくなった。「これは私が買わなければ舞妓が晒(さら)しものになって可哀想じゃないか」、とうとう都合4度目の出会いで、最初に見かけた時に付いた値段を口に出して買い落としたのである。その時の「あっ、買ってくれるの?」と、ほっとしたような氏の表情が今でもまぶたに浮かんでならない。この遺作展のきっかけとなった<春宵>を私にもたらしてくれた画商の大先輩に、私は今も感謝している。津田氏はバブル景気が終焉(しゅうえん)に向う頃、京都の小さな交換会の会場で急死されたそうだ。「はた師」として一生をかけて活躍した美術市場での死は、彼にとって最もふさわしいような気がしてならない。
 1993(平成5)年の1月に「大正日本画ーその闇ときらめきー」という画期的な展覧会が山口県立美術館で開催された。気鋭の学芸員だった菊屋吉生氏がその展覧会の企画者だった。同展には私共のコレクションから京都関係の作品11点の出品協力をし、様々な資料も提供していた。この頃「大正の新しき波−日本画1910-20年代」(1991、栃木県立美術館ほか巡回)、「きらめくモダンー大正ロマンの画家たち展」(1992、日本橋三越ほか巡回)、「大正期の日本画−1912-26年」(1993、茨城県近代美術館)、「国画創作協会回顧展」(1993、京都国立近代美術館/東京国立近代美術館)などの大正日本画を回顧する興味深い展覧会が次々と開催されたものだ。当時の大正日本画再考の様々な切り口の展覧会の中でも、同展の出品作品、図録の論考や豊富な参考図版は、無名の画家たちに焦点を絞ることで、際立つ存在感のある貴重なものとして各所で評判となったものだ。氏の地道で真摯(しんし)な研究の成果が鮮やかに実ったものである。
 同年秋、<夏の宵>(二曲屏風)に京都の美術市場で出会い購入した。来廊された菊屋氏に屏風を見せた。「宗一が出て来たんですか!これをあの展覧会に出したかったなぁー」と、氏は嘆息されたものだ。美術館の現場を離れて現在は山口大学で後進の指導に当たる菊屋氏に、「増原宗一のことを知る研究者は貴方しかいない」と、本展図録の主要な資料となる部分のご負担をお願いしたところ、快く引き受けて下さり玉稿を頂戴した。深謝する次第である。
 6年ほど前のこと、山陽方面のとある古美術商が、絹本に描かれた増原宗一の一群の作品を旧家から入手して売りに出した。それらは未表装のままだったので却って保存がすこぶる良かった。9点の作品を一括で競り落とした後で、その古美術商に他にもっとこの作家の絵はなかったのかと尋ねたところ、何やら汚れてぼろぼろのものがあったような気が…と言葉を濁した。もしも他の作品が出て来たら全部買うからと依頼したが、その後の朗報はない。資金のゆとりのある時にそれら未表装のものに徐々に表具を施して、将来の遺作展に備えることにした。そしてまた何年も時間が過ぎてしまった。
 この20年間で発見し収集した増原宗一の遺作は全部で14点にすぎないが、実はもう1点の作品を写真で見たことがある。『日経あーと』という雑誌に私が連載していた「失われた風景」の15番目に増原宗一を紹介した(1998年9月号)ところ、記事を読んだ読者から編集部に問い合わせがあった。東北在住のコレクターが、さる有名画家の作品として買わされた絵が増原宗一の絵ではないかと写真を送ってきたのである。信じられないことだが、その人は美術商から伊東深水の別号だとかなんとか言われて購入したものだという。送られたきた写真の作品はいつもの頭でっかちの美人画で、間違いなく宗一の絵だった。編集部の人から写真をちらっと見せられただけなので、そのコレクターの住所も分からない。今度の展覧会を知り連絡があることを願っている。
 一昨年、大阪の古書売出し目録で大正10年(1921)発行の『増原宗一画集』を見つけた。懇意にしている美術専門の古書店主の広岡氏は、「きっと星野さんが電話してくると思った」と電話口で愉快そうに笑った。宗一に画集が存在していたなんて全く思いもよらなかった。私以外にあのような値段で無名の画家の画集を買う人はいないはずとはいえ、これをどこかで見つけて高値をつけてくれた広岡氏には感謝している。誰か分からぬ他人の手に渡っていたなら、増原宗一の画業の発掘顕彰ということでは何年も遅れてしまっていたことだろうし、本展の開催さえ危うかった。
 さてこの画集だが、34点の作品を1枚1枚別刷りにして1冊の帙に綴じてあるものだ。それぞればらばらのもので頁の記載もないから、掲載作品の順序も分からないし、全部でこれだけだったのかどうかの保証もない。本展図録の掲載順序はもちろん便宜上のものと理解していただきたい。宗一の後援者である浅井倍之助という人物が一体どういう人物でどこに居住されていたのか、現在は全く分からない。この方の所在や遺族が判明すると幻の画家増原宗一の全貌が明らかにされるに違いない。本図録で参考図版として作品を再録している理由は、増原宗一の力量や異色の絵に多くの美術関係者が気づき、彼の絵や後援者の遺族などを真剣に捜してくれることを望むからである。画商として私たちが現在出来ることは、そうした発掘作業に点火することであろう。
 前回の「滞欧作品展その3ー洋画家と留学/美の交流の軌跡ー」展の後記で、美術館などの指定管理者制度について述べた。芦屋市立美術博物館の存続を巡っては全国紙などでも報道されたため、多くの方の耳目を集めた結果、市民多数の協力を得て何とか存続する方向で一応の決着が図られた。ところがこの京都でも最近驚愕すべき問題が起こっていたのである。まだ毎日新聞の京都ローカル版以外ではほとんど報道されず、多くの美術関係者や市民の知らぬところで、京都府立堂本印象美術館の指定管理者制度が6月1日からスタートしていたのだ。受けたのは学校法人立命館である。
 1965(昭和40)年に印象自らが設計し建設した同館の開館は、当時の京都に一大旋風を巻き起こした。伝統的な日本画家では考えられない「新造形」と自らが名づけた抽象芸術の最高潮の時代のことだから、建築物そのものが印象芸術の新しい世界を象徴した。華々しい(当時の世評ではけばけばしい)色彩が乱舞する外観、扉の把手やステンドグラス、椅子やテーブルなども意匠の粋を極めたものだ。とりわけ金閣寺から龍安寺、嵯峨嵐山へと抜ける新道に面した衣笠山の麓に位置する立地条件だから、周囲の環境から逸脱した派手な建物として、市民の批判的な視線を集めたのだ(数十年の経年変化で外観の金銀彩が穏やかになってしまい、当時の新しさも時代と共に風化してしまったのは、却って淋しいものだ)。館の正面向い側は立命館大学の敷地もまだない薮だけの土地だった。金閣寺から高雄、嵐山へと外国人のお客様を案内して廻る途中、堂本美術館の前を通り過ぎたばかりの高台は、市内を遠望する絶好の地だった。当時の私はまだ美術にはほとんど無関心で、ただのアルバイトとしての案内係に徹していた為、けばけばしい堂本美術館の外観を揶揄(やゆ)するだけにすぎなかった。印象の真価を知るのはずっと後年のことだ。
 印象の没後、そのほぼ全作品資料と建物敷地などが京都府に寄贈された。しかも13億円の基金をつけてである。堂本家の意向では個人の資産であるよりは公共の所有とすることで維持管理の永久的保証を得ると共に、印象作品の保存管理と併せてその顕彰が図られるとの期待が込められたものだった。ところがその後ほぼ15年間というもの、印象以外の作品を展示してはならないという遺族側の強い要望があったとはいえ、館そのものの発展的運営が為されてきたようには思えない。ひと昔前には、同館の前では各方面への市バスが頻繁に行き来し、交通の便という点では現在よりうんと良かった。最近では立命館大学への市バスがあるにはあり、一見便利だが、始終学生たちで溢れている。学校の休みの時には極端にバスの発着が少なくなり、来館者は西大路通りからかなり歩かなくてはならなくなった。徐々に来館者は減る一方で、収入が減るから予算を削るという悪循環に陥り、展覧会の回数や内容もおざなりなものへと変貌していくのは当然の帰結だった。
 今回の立命館による管理者指定は最初から立命館ありきで、世間で公募した訳でもなく不明朗な部分が残るのは否めない。しかし立命館にとって正面の同館は垂涎(すいぜん)の地であったろう。「うちにはたくさんの学生がいますから、喫茶店だけでも充分ペイします」といった安易な立候補ではなかったと信じたい。学校法人立命館が指定管理者となった以上、学園という立場をフルに活かし、印象を中心とした京都の日本画の研究課程を主眼とした科目や機関を開設したり、堂本印象記念賞展などを企画したり、印象美術館と隣接する旧宅をどのように活かしていくのか、そこには大きな理念と熱意とが要求される。今後の新しい展開を期待を込めて見守っているところだ。
 締めくくりに少し悲しい報告をしなくてならない。4月8日に騒々しい鳴き声と共に今年もツバメの一群がやってきた。そのうちに数羽のツバメ(去年ここから2度、8羽のツバメが巣立ったが、彼らかどうか分からない)が、賑やかに神宮道をあちらの軒先き、こちらのテントと確かめながら飛び回っていた。そのうちに1カップルが、画廊の日よけテントの古巣のリフォームに取りかかった。今年のツバメはなかなか丁寧に巣の補強をするなぁーと見ていると、5月の連休頃から卵を抱き始めた様子。去年は神宮道で合計3ヶ所の巣から赤ちゃんツバメたちが巣立っていったのに、今年はどうしたことか他の場所ではツバメの姿がない。こちらのカップルだけが残ったようだ。理由は分からないが、全国的にツバメの来訪が少ないとの報道もされている。5月20日の夕刻、巣から小さな卵のかけらが落ちて来た。どうやら1羽が孵(かえ)ったらしい。翌21日は、滋賀県立近代美術館での川端龍子展の最終日なので朝一番に出かけた。画廊に戻って来たとき、テントの下に無惨に破壊されたツバメの巣が、折からの雨に打たれてぐちゃぐちゃのありさまになっていた。親ツバメが騒がしく飛び回っている。悪意ある人間の手により巣が叩き落とされたらしい。「カラスじゃないの」と言う人もいるが、カラスならご丁寧にも翌朝にテントに少し残っていた巣の残骸をきれいに拭き取るようなことはしない。数年前にも一度、同じように巣が破壊されたことがある。悪意ある人間がこの近くにいるのだろう。かつてツバメの天敵はカラスやヘビと相場が決まっていた。近頃では人間がその仲間に入って来ている。
 家族や近隣の子供たちを殺(あや)める事件が日本各地で起こっている。人間の命でさえあやふやな時代だからツバメなんて…ということにはならない。しばらくして、ツバメが巣をかけやすいように取り付けていた小さな板を、少し離れた場所に付け替えた。これでどうなるか分からない。この数日、ツバメの新たなカップルが画廊のテントにやってきて、壊された巣があった所に留まったり、賑やかな鳴き声をあげて何やら検分している様子だった。やはり新しく付け替えた場所が気に入らなかったのか、昨日あたりから通りの向い側のテントの古巣の利用を決めたらしい。現在神宮道で1ケ所、ツバメの巣づくりが始まったところだ。

                   2006(平成18)年 6月   星野 桂三


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