画室で生まれた生命(いのち)の彩(いろ)
瓶 花 静 物 コレクション
2007(平成19)年 7月7日(土)〜8月4日(土)

 

【後 期】

 当画廊で1991年の6月〜7月に「静物画コレクション展」を開催した。嬉しいことにその時の図録を求める愛好の方々が今でも時折来られる。図版65点のうちカラー図版は約半数だったこともあり、決して満足のいく展覧会ではなかった。いつかはリターンマッチをと考えていたのだが、最近になってこれはと思う目玉作品になりそうな静物画を入手した。「じゃぁー、この作品の紹介を兼ねて改めて静物画を並べてみるか」と気軽な気持ちで、アルバムから静物を主題にした絵を抜き取りリストを作ってみると、あっという間に百数十点に達した。到底画廊に並ばない量だ。どうしたものかと写真を机の上に散らかして思案にくれること暫し。ひとくちに静物画といっても各種各様あり、大雑把に分けて花瓶に生けた花の静物とそうでないものとに分けてみてはどうかと考えた。これまで方々の美術館や百貨店の展覧会を思い起こしても、椿や桜、または色々な花を主題にした展覧会は開催された記憶があるが、それらは自然のままを描いた花が主で瓶花も混じるというようなものだった気がする。花瓶の花だけを集めたものは珍しいのではないかと考えた。そこで今回は「瓶花」に的を絞った展覧会に、他のモチーフの静物画は来年以降に開催することにしたのである。静物画展開催のきっかけとなった目玉作品は、残念なことに今回のテーマ展示からは外れるので、次回の楽しみにとっておかねばならない。


 図録に収録した作品88点のうち、やはりバラの絵が圧倒的で28点、続いてアジサイの7点、ツバキが6点、キク5点、ダリヤ4点、カーネーションとボタンが各3点、ヒマワリ、シャクヤク、アネモネが各2点となった。世界中の花が空路輸入され園芸品種の改良などもあって、家庭で楽しめる花が百花繚乱の昨今とは違い、画家たちに描かれたものを見ても、明治・大正から昭和前期にかけての花の種類は限定されたものであったということが分かる。とはいえこれは何も統計的にそうだというものではなく、あくまでも当画廊にたまたまある収集作品に限ってのことかもしれない。
 大雑把な判断基準による推定制作年代順に従って並べた本図録掲載作品のうち、いくつかについて述べてみたい。
 まず表紙の(1)里見勝蔵<紫陽花>は、代表作のひとつに挙げるに躊躇しなくてよい名作であろう。パリから帰国した里見は、鮮烈な色彩と荒々しいフォーヴタッチの絵により日本の洋画壇に旋風を巻き起した。里見の絵をヴラマンクの引き写しと酷評する人でも、本作を見ればフォーヴと日本的な美意識が中和された色彩のセレナーデを奏でていることに感嘆するのではなかろうか。剛と柔の調和、色彩の美しさ、自由な筆致、どれをとっても完璧な出来映えである。ヴラマンクの強い影響から生涯脱却することができなかったと言われる里見にも、このような作画姿勢があったことは特筆すべきである。
 (2)中丸精十郎<椿花図>は、当画廊の「明治絵画拾遺選」(1989)に紹介した作品だが、当時紹介できていない来歴などをここで改めて紹介しておく。本作を画廊に斡旋してきたのは京都の古書・古美術業者で、滋賀県日野町にある旧家の蔵を整理した際に出てきたとの触込みだった。中丸精十郎は明治初期洋画の大家であるが、現存する油絵の数は非常に少ない。1988年に山梨県立美術館で開催された「中丸精十郎とその時代」展図録を手引書にして述べてみる。出品作品に<蒲生の里>という美しい風景画がある。日本画家野口小蘋(のぐちしょうひん)の遺族に伝来する絵だ。「蒲生の里」とは滋賀県の蒲生町綺田(かばた)であり、洋画家野口謙蔵の生地である。小蘋は野口謙蔵の叔母に当たる。野口家は酒造家で甲府に「十一屋」の屋号で造り酒屋を営業していた。野口小蘋と中丸精十郎は互いに行き来し、作品の交換もしていた。明治26年野口家の当主正忠の古希を祝う宴会が大津市長等山下の料亭で開催された折、中丸精十郎は訪れ数点の作品を揮毫している。本作<椿花図>が伝来していたのは、蒲生郡日野町松尾の大酒造家高井作左ェ門と見られる。作品が納められた木箱には、「中丸精十郎君筆 椿花図高井作左ェ門」と墨書された奉書が添えられている。野口謙蔵が日野町の岡崎家から嫁をとっていることなどを考え合わせ、野口家を介して高井家に中丸精十郎の絵があったとしても不思議ではない。絵の支持体の木枠や画布、額装もその時代に相応しい。

 (3)矢崎千代二<静物>は、パステル画の大家と称された矢崎の珍しい油絵である。小柄な矢崎は海外を漫遊する際、重たい油絵具一式を担ぐより、現地で画材を調達し易いパステル画をもっぱらとしていた。この作品は所属していた白馬会の傾向もよく表している。
 (4)桜井忠剛「薔薇図」は、杉板の木目を十二分に考慮した和洋折衷画の典型である。このような横長の板絵は、和室の扁額として明治末から大正期にかけて流行った。桜井忠剛は、関西美術院を創立した同僚である伊藤快彦と共に、関西洋画壇の礎(いしずえ)を築いた写実の名手として近年再評価を受けつつある。
 (6)津田青楓<静物>は、本展で出すべきか、次回の静物展に回すべきか最後まで迷った作品である。このような佳品は何度でも紹介すべきだと思いここに入れた。大正初期という時代を如実に代表する重要な一点と考えている。額装はここに掲載していないが、洒落たデザインの線刻が施されたもので、これも時代を象徴するものだ。是非、実見していただきたい。
 (8)白瀧幾之助と(9)埴原久和代の<カーネーション>、(22)大橋孝吉と(24)マルセル・ロシェの<アネモネ>両作はわざと見開きにしてみた。描いた画家同士にそれぞれどのような接点があったかは知らないが、多分「時代」という共通項しかないのではなかろうか。それにしてもこうした作品が全然違う方角から当画廊に集まってくることに、不思議な因縁を感じないではいられない。
 (12)榊原始更「枯れた花」は、近い将来開催するつもりの遺作展まで発表を控えようとしたのだが、瓶花の中で、しかも日本画家による異色の作品として、どうしてもこの場で紹介しておきたかった。もともと画家Mのご遺族に「知り合いから父の作品だろうと譲られたが、作風に疑問があるので鑑定していただきたい」と持ち込まれたものだ。ひと目で榊原始更の大正期の作品と見極め、懇願して将来の遺作展のために譲っていただいた。Mは初め油絵を描き第2回二科展で二科賞を受賞し、いっとき青木大乗と新燈社の活動を共にし、その後日本画に移行した画家である。あいにく本展には出品していない。
 (15)上野山清貢<向日葵>(44)上野山清貢<椿> まだ駆け出しの画商だった頃、上野山の牛の絵を手に入れた。京都と画家にどのような縁があったのかは知らないが、若い時代の作に出会うことが多かった。その後、彼の代表的な作品を数点取り扱うようにもなった。当時東京から定期的に来る先輩画商は、上野山の絵なら何でも喜んで買い、聞くと画家の出身地の北海道で売れるとのことだった。ところが最近
方々のオークションに大量の上野山作品が一斉に売りに出された。価格が暴落気味になるのは仕方がない。中に私が随分昔に取り扱った絵も混じることがある。ちょっと淋しい気がするが、これも自然の流れ、傍観しておくしかない。美術雑誌の取材では、上野山清貢を今買い時の画家のひとりとして紹介した。
 (18)青木大乗<赤絵瓶花静物>と(20)伊谷賢蔵<瓶花静物>も「瓶花」という範疇からはみ出てしまいそうだが、ほぼ同じ頃に描かれた作品の静と動という対比の妙を楽しみたい。青木大乗は日本画に転向してからもよく洋画風の写実的な静物を描いた。どういうものか私は大乗の油絵時代の作品により魅かれる。伊谷賢蔵の作品は、チューリップとスィートピーという画題の面白さと、拙著『石を磨く』で紹介している作品でもあり、最近額装をやり直して重厚な画面がより素晴らしく鑑賞できるようになったので、今回選び出した。若く貧しかった画家は、二科展の出品作を塗りつぶした上に静物を描いたのだが、同郷の先輩で尊敬していた前田寛治ばりの色彩に、偶然かもしれないが古キャンバスならではの重厚感が加わり、画家の初期傑作と思われる作品になっている。
 同じくスイートピーを描いた(23)五味清吉については、昨年に開催した「滞欧作品展−その3」で紹介すべきところ、倉庫にあることをすっかり忘れていたものだ。この絵をいつ頃買ったのか全然記憶にない。多分「ベルリンにて」と表記されていることが気になって買ったのだろう。経歴も本図録を作成するためにばたばたと調べたものに過ぎず、今後の課題である。
 (25)黒田重太郎<画室の花>は、本展を集約したようなネーミングの作品である。滋賀県立近代美術館で開催された「没後35年黒田重太郎展」(2005)で作品を一堂に拝見した時、同展に数々の作品の出品協力をした身でありながら、黒田重太郎の評価がこれまで低きにありすぎたことを改めて実感した。それまで1930〜40年頃の静物画を黒田の代表的作品群であると思っていたが、風景や人物といった他の主題であっても、黒田のような重厚なタッチと色彩で作品を描ききれる作家などあまりいないのではないかと思った。ともすれば軽んじていた晩年の風景画でさえ、枯淡の境地が描かせていると考え、その後も黒田作品の収集を続けている。遺作展後に発見した本作に洗浄を施し、痛んでいた箇所を修復し額も修復した結果、黒田重太郎の最充実期の成果を楽しめるようになったところだ。
 (26)山元櫻月(春汀)<ダリヤ>は、今から10年ほど前に、岡崎の勧業館で初夏に開かれる古書即売会に出ていた絵である。山元春挙門下の画家たちには個性的な作家が多く、魅力的な絵に出会うとコレクションに加えている。本作も大正末期独特の雰囲気をもつ絵に違いないが、市場では評価がそれほどでもなく、主眼としている国画創作協会展関連作家でもないから買うのをためらっていたところ、たまたま会場で出会った学芸員のS氏にそそのかされて買い、その後倉庫にしまったままだった。本展出品に合わせ、軸装を額装に変えてみるとやはり断然見場がよくなった。買っておいてよかった。
 (27)池永勝太郎<花>を買ってからもう20年以上経っている。絵を買った当初、一九三〇年協会や独立系の作家だろうと資料をあたったが、結局不詳のままに放っていた。本展開催の準備をしている最後の段階で、倉庫の片隅に眠っている絵を偶然見つけた。詳細が分からぬままでもいいじゃないか、この展覧会で発表しなくてどうするのだと、ほぼ出来上がっていた図録のレイアウトを随分とやり直して間に合わせた。その価値は充分あると信じている。
 (34)野口謙蔵<百日草>は昔ながらのありふれた花であるが、どこか消え入りそうではかない青色の花瓶と、横に添えられた申し訳ないほど小さな「謙」の署名が、逆に泰然として生命力豊かな百日草を力強く支える効果を与えた。常々私は「野口謙蔵は風景画家である」と述べてきているが、ケシやアネモネなど野の風に揺れ動く自然の姿を描くことの多かった野口謙蔵が、かくも気高い花の生命力を描ききった実力のほどに改めて感動するのである。
 (37)真野紀太郎<薔薇>と(39)池田治三郎<薔薇>は、まさしく「バラの画家」と称せられた東西の名手を見開きに見せている。真野は原色保存の難しい水彩を用いているため、このように完璧な状態で作品を見せることはなかなか出来なかった。ある時、東京の洋画商協同組合の主催する夏の公開入札会に本作が出た。応札して無事落札できたが、その後まもなく、有力画商のホームページの「夏の特価市」でも、同じ作品が何と私が落札したより安値で掲載されているのを発見した。画廊に届いた作品の質から言えば、私の落札価格でもよい買い物をしたと喜んでいたので、別に咎めはしなかったが、面白い出来事ではあった。池田治三郎の妙技については、作品を直に見た人なら素直に認められるのだが、全国的な知名度では無名画家に近い扱いである。しかし昨年の公開オークションに池田の素晴らしい裸婦像が出品され、予想値を大幅に上回り、思わぬ高値で落札されたことがある。くだんの絵を出品した人はさぞやびっくりしたことだろうが、私などに言わせれば当たり前である。こういうことが重なると画家の市場価格が安定するのだろうが。

 (43)中村研一<卓上静物> レースの手袋に特徴があり、どこかの展覧会図録か雑誌の紹介記事で見かけた記憶があるのになかなか思い出せない。お分かりになる方がおられたらご教示いただきたい。昨年秋に中村研一の遺作展が小金井市で開催されたが、生前ほとんど作品を売らなかった画家であると紹介されていた。数点の作品を所蔵する懇意のコレクターもそれはないでしょうとおっしゃる。戦災でアトリエにあった旧作の多くが灰燼に帰したため、市場に出回る中村作品が少ないのは事実だろう。当画廊には晩年作と見られる8号の薔薇の絵もあるが、たまたま作品整理にミスがあり所在不明で、本作1点のみの紹介となってしまった。
 (47)亀高文子<菊>(58)松村綾子<あじさい> 昨今では絵画、工芸、写真、版画などの分野で多くの女性画家が幅広く活躍している。わざわざ女流という称号で呼ぶのがふさわしくないほどだ。過去にはそうした称号を特別に冠しなければならないほど女性画家は少なく、実力ある女流はもっと少なかった。亀高文子も松村綾子もどちらかといえば激動の人生を歩んだ画家だった。ここで詳しく述べる余裕がないので、当画廊で開催した「京阪神・女流画家たちの競艶」展(2004)図録を参照していただきたい。

 こうしてあれこれと画家と作品について述べているうちに際限のないことに気がついた。どこが「後記」なのか全く意味不明になりつつある。玉村方久斗、田中善之助、伊藤泰造、幸田暁冶、藤田龍児については、それぞれの展覧会を開催しているので、そちらの図録を再度参照していただくとして、(67)大谷房吉については少し紹介しておきたい。彼の名前を知っている画商などほとんどいない。「大谷房吉はプロの画家としての活動をあまりしていない、明治屋のサラリーマンでした」とご遺族がおっしゃることも理由のひとつだろう。しかし私の眼からすれば、彼の絵には彼しか描けない雰囲気があり、立派にプロの格調の高さも備えている。作品はいずれもキャンバスにではなく、紙か厚手のボール紙のようなものに描かれている。おまけに画家が好んだ額装は、私淑した梅原龍三郎ばりにどこか和風のしつらえであることが多い。それゆえ一見油絵なのか日本画なのか分からない質感が生まれる。それが絶妙といえるほどいいのだ。いつかは異色画家大谷房吉の遺作展にまでこぎ着けることができるかもしれない。
 異色といえば(83)(84)楠見文雄も傑出している。決して上手くない絵、というより実にへたくそな絵である。でもどこか見過ごすことのできない素朴な味わいがある。いつかは昭和に生きた京都の素朴画家として脚光を浴びる日がくるかもしれないと考え,本展に加えることにした。1984年の「京の素朴画家・楠見文雄古稀記念個展」の開催準備のために画家の家を訪れたときのエピソードをひとつ紹介しておく。「大事な作品は全部大事にしまってある」との話だったので、過去の日展入選作など拝見させて下さいと頼むと、画家は、木枠から外して、4つ、8つに折り畳んだ油絵を天井裏から取り出した。「はい、どうぞ」と勧められて開いた作品はどれも絵具がぼろぼろ、ばらばらと畳の上に散らばり落ち、ふた目と見られない状態だった。「先生、もうよろしいですわ」というと、画家は黙って作品を再び折り畳んだものだ。


 展覧会準備のために倉庫で各種資料を漁るうちに、自宅の蔵で20年間も手をつけることのなかった古本資料などをついでに整理するはめになった。まるでゴミの山寸前の古本の中に面白いものが混じっていないかとしばし脱線するうちに、『京都美術』第24号(明治45年)、25号(大正元年)の両号に伊藤若冲の御物<動植綵絵>30幅のうち15幅が美しい写真図版で掲載されていることを発見した。巷間、伊藤若冲は「昭和の最近まで世間で注目もされず、研究対象ともされていなかった」などとされているが、私たちは美術市場で散見する日本画を通して、大正時代に早くも若冲スタイルの絵が数多く描かれていたことを知っていた。その現象もこうした美術雑誌に掲載されたことがきっかけであったのかもしれない。同書の発行者は京都美術協会、編集者は神阪雪佳(最近注目されている琳派の日本画家)である。先日の若冲展(相国寺承天閣美術館)が連日6,000人平均の観客を集め、週末には2時間、3時間待ちが当たり前だった。このような盛況を目の当たりにした直後に遭遇した昔の資料であった。京都に生まれ京都に長年暮らしている私だが、先人の美術作品に対する奥の深さと先見の明に感慨を新たにしている 次第である。

                2007(平成19)年 6月  星野 桂三


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