没後75年 夭折の日本画家
岡本神草「拳の舞妓」への軌跡展
もう1点の「拳を打てる3人の舞妓」を89年ぶりに初公開!

2008(平成20)年6月14日(土)〜7月12日(土)

【後 記】
 会社勤めの友人知人たちがばたばたと定年を迎え、「第二の人生を歩み出しました」と挨拶状が届く。いやでも自分の年齢に気づくことになってしまったこのごろである。自営業者には定年がないからよろしいね、なんて言われても喜んでばかりはいられない。「お昼は何食べたの?」と娘に誰何され、食べたおかずを夜に思い出せなくて「昼ご飯」としか答えられない。お客様や研究者たちと雑談していて、話題中に挙げるべき作家名が喉元にあるのに口から出て来ない。ひどい時にはしゃべっている相手の名前さえ思い出せず、相手に気づかれないように話を合わせながら、手探りで記憶の奥底から引き出そうとしている自分がいる。記憶力と語彙の貧しさ、そうした年齢相応の衰えから逃避することはできない。家人からは「150歳まで元気でいられないのだから、人生の終わり方の準備をそろそろはじめないと」とか、「たくさんの作品を倉庫一杯に抱えてまだ買うんですか?」と脅かされもする。
 35年間も画商活動を続けていると、それこそ数限りない作品の在庫があるのは事実だ。埋もれた作家と作品の発掘という看板業務故に貯まり溜まったものである。とはいえこれらがすべてデッドストックかというとそうでもない。まだまだ実現したい遺作展が残っている。もう少し、もうちょっと、というところの作家が片手で足りない数になる。しかも一度は展覧会を開催したものの満足できず、その後に補充した新発見の作品を加えて仕切り直しをしたい画家もいる。これから元気で充分な画商活動のできる残された時間をほぼ10年と踏んでみると、ゆっくり構えてはいられない。少しペースを上げていかねば。

 <拳を打てる3人の舞妓の習作>をめぐる数奇な出会いとその後については前述(33-49頁)したが、あの世紀の大発見から既に丸20年が経過してしまった。時の過ぎ行くさまに慄然としている。例の切断された作品の残部と共に発見された大量の習作は、同作が京都国立近代美術館に収蔵された折(2005年)に、あらかたの大きなものを額装や仮巻にして寄贈してはいる。が、大量の素描やスケッチ、日記その他の資料類には手を付けずに未整理のままに過ごしてきた。
 昨春、思い切ってもう1点の<拳を打てる3人の舞妓>の修復作業の開始を表具師の陽光堂・山本之夫さんに依頼した。考えてみれば20年間も氏の倉庫に預けっぱなしというのも失礼な話であった。21年前、絲屋さんのお宅からくだんの大作を引取り、小さな車に無理矢理詰め込んで自宅に帰ったので、作品の裏面に厚く施された彩色がひどく破損していた。どれほどの修復結果になるのか少しの心配はあったが、匠の技にかけてみたのだ。今春、ほぼ出来上がりましたとの連絡を受けて訪れた工房で、私達はしばし作品に見とれてしまった。なるほど作品は未完成ではあるが、そこに張りつめた緊張感は観るひとの心を奪うに充分なものであった。
 「藝術は完成の刹那に生命を失ふ、永久に完成せざる迄の過程が藝術生命の進展の全意味である。永遠に完成せざる藝術は無限に進歩する」
 岡本神草の言葉の意味するものがそこにあった。<拳を打てる3人の舞妓の習作>(京都国立近代美術館蔵)に決して位負けするものではない。1921年の帝展に別の完成作を出品しているが、これは未発見である。きらびやかさとか配色の妙を実際に目にするまで確実なことは言えないが、多分それと比較してもこちらの作品に軍配を挙げることだろう。完成作であるとか未完成とか云々する以前に、美意識の充満する絵としての存在感に心打たれるのである。
 表具師として熟達の技ゆえにかくも立派に作品は蘇った。それからしばらくして氏が黄授褒章を受賞されたとの報道に接した。表具という業界で「美の裏方」として永年の活動を評価されての受章である。当画廊の数々の名作発掘の陰には、氏のような表具師、修復家、額職人たちの隠れた大きなご尽力があることは常々公言してはばからない。ここに再度感謝の意を深く表したい。
 2007年初秋から岡本神草日記の解読に取りかかった。大正9年8月から始まり、脳溢血で急死する昭和8年2月13日午後までの画家の行動の一部始終を記録する膨大なものである。几帳面な性格と見え、神草は最初に鉛筆で下書きをした上に後日ペンで清書する方法を取っている。日記の1頁を朝、昼、午後、夕方、夜と大雑把に欄分けをして記録している。日付の後に○か×の記号が打たれている。多分○は絵の仕事をした日、そうでない日に×印をつけて区別したものだろう。午前中は概ね作画の時間にあて、午後を読書、雑用、外出などにあてるほか、夕方から夜にかけて様々な人達の交流の記録がある。日記を読み取ることにより、大正後期から昭和前期にかけての京都画壇の活動の一部を、神草の人的交流を軸にして明らかに出来ると意気込んで始めてみたのだが、それが大仕事になっていった。最初は字も大きく、書かれていることもかなり大雑把だったが、年月を進めると共に字は豆粒のようになり、記録される分量も増えていく。日記の読取り作業は連日深夜にまで及び、ルーぺと漢和辞典を手引きにパソコンに向かう。年末を迎え、新年になっても作業は終わらない。ようやくB5版90頁の岡本神草日記の原稿の完成をみたのは、桜が散り初夏を迎えるころになっていた。当初の目論みでは、日記に登場する人名や会合の注釈も加えるつもりだったが、精も根も尽き果ててしまった感がする。後の作業は、有志の研究者の手に委ねることにしたい。本展に合わせて別冊として出版することにしたが、一般配布はせずあくまでも美術館、学校、図書館、そして近代美術の研究者の方々の研究資料のひとつとして供したい。

 本図録には手許にある可能な限りの図版を掲載している。京都国立近代美術館に寄贈した習作類の多数の掲載は見送った。それらはいずれ開催されるだろう岡本神草展で明らかにされることを期待する。またこれまで当画廊を経て他所に渡った作品やその他の作品も参考図版として掲載している。幻とされてきた画家神草のあらかたを見せる図録になったことに満足している。ただここ数年、市中に岡本神草の贋物が現れてきているので注意してほしい。無名のままであれば決して偽物は出て来ないものだが、ちょっと有名になると悪さをする輩が登場するものだ。似ても似つかぬ作風の絵に、署名と印章を似せて細工が施されている。偽物判定基準のひとつとして、本図録の末尾に「制作記録」を掲載しておく。ただこれは岡本神草自身のメモである為、これに漏れた作品も実際にいくらか存在することは付記しておかねばならない。また参考図版47<美女遊戯>は1928年の第9回帝展に出品されたが、その後、神草自身が絵を二つに分解して売っていることが分かった。その片割れが以前にどこかのオークションに出ていたとの噂を最近耳にしたところだ。

 最後に、本展開催の端緒となった膨大な資料を20年前に提供して下さった最大の功労者、絲屋高子さんに深く謝辞を表したい。岡本神草が昭和6年に結婚して短い結婚生活を送ることになった菊池塾の後輩が若松緑。病弱だった緑は神草の没後、その後を追うようにして亡くなった。アトリエの建設費など全面的に神草の作画を応援した若松家が遺作を引取り、真如堂の若松家の墓地に神草・緑の墓を建立した。関西美術院の洋画家たちとも親交のあった妹の高子さんが全ての資料を引き受け、数度の引越しがあったにも拘らず随分長い間大切に保管されていたのだ。絵更紗作家として第一線で活動をされ、当画廊で関西美術院関係作家の展覧会をした時など、よくお越しになり昔話に花を咲かせていただいた。96際のご高齢ながらお元気でお暮らしである。
 久し振りに帝展に連続入選を果たし、新築されたアトリエの2階縁側で様々な出品作品を並べ、妻、緑と紅茶を飲みながら歓談したその直後、幸せの極地で急逝した神草。その終焉の地を妻と二人で尋ね歩いた。北野白梅町の西方、嵐電等持院駅の手前北側である。土田麦僊の旧アトリエから通りを挟んですぐ西側に位置する。この辺りは日本画家の居宅が多く、昨秋に堂本印象美術館で開催された「KYOTOきぬがさ絵描き村」展の図録には詳細な地図が掲載(神草の痕跡が洩れているのは残念だが)されている。神草が大雨や大雪の後で溝を作り路を整備し花を植え、緑と共に花を写生した斜面は、今では大きな道に変貌している。近代的に整備され生まれ変わった近在では神草の痕跡を探すことは難しい。
                     2008(平成20)年5月末 星野桂三


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