生誕90年/没後37年/パンリアル60周年
三上 誠の生涯
〜恐怖と寂寥が芸術を作る〜

【後 記】                   星野桂三

 11月末、福井市にある三上誠資料館の嶋田氏から電話が入った。
 「三上誠の若い頃の作品が1点、資料館に寄贈したいと持ち込まれたが、画面の痛みがはげしく当方では手の施しようがない。そこで星野さんに相談するように所蔵者に助言したいのですが、どうですか?」
 詳しく聞くと、1998年に西宮市の大谷記念美術館で開催された「パンリアル創世記展」に出品されたものだという。話しながら展覧会図録を開いてみる。紛れもなく私自身が同展の導入部で出会い、こんな作品もあるのかと感動した作品だった。当時既に保存状態が悪く、よくもこの状態で展覧会に出品できたものだと思った記憶が蘇る。その絵はパンリアル美術協会の発足の端緒となった「パンリアル展」(1948)の出品作で、初期パンリアルとしては僅かしか現存していない作品の一つだから、展覧会の企画者が是が非でも出品してみたいと思ったことは容易に理解できた。
 責任をもって私が作品の面倒をみると電話口で告げると、嶋田氏が所蔵者と交渉してその日のうちに京都まで届けられる段取りとなった。夕刻、初冬の陽射しが落ちてとっぷりと暮れなずむ頃、1台の小さな乗用車が画廊に横付けされ、4人の女性が降り立った。彼女らが持ち込んだ段ボール箱にはパンリアル創世記展のシールが貼られたままである。中には暗い闇に数人の人体がうごめくような絵があった。画面は予想以上にひどく痛んでいたが、紛れもなく三上誠の初期重要作品<戦災風物誌>である。女性たちは「こんな展開になるとは思いもしなかった、今日は神戸から福井、京都へと大変でした。本当は福井でこの絵を降ろしてゆっくりしようと思っていたんですよ」と口々に事情を説明し出した。 
 彼女らは姉妹で、父親が終戦直後の京都で古書を扱いながら喫茶店のような店を経営していた。京大の先生や学生たち、また若き芸術家たちがいつもたむろしていたそうだ。三上もその中のひとりだったのでこの絵が我が家にもたらされたのだろうという。長い間淡路島の実家で保存されていたものを大谷記念美術館の展覧会に出品したのだが、その後作品を手放すことにし、三上作品を多く取り扱う東京の画廊に売買を委ねていた。ところが10年も経つというのに一向に買い手がつかない。そこで皆で相談して作品を取り戻し、故郷の三上誠資料館に持ち込んだというのだ。京都から淡路島、西宮、神戸、東京、神戸、福井、京都と転々としたことで、戦後間もなく描かれた日本画の経年劣化だけでは説明のつかない絵の痛み具合が顕著に現れることになったのだろう。姉妹は「淡路島にある時はこんなに痛んではいませんでしたのに」と言う。絵の置かれた環境が湿潤な日本家屋から様々な状態へと激変し、おまけに運送中の振動などもあり余計に劣化が進んだものと思われた。
 <戦災風物誌>が、ピカソの青の時代や秦テルヲの<淵に佇めば>などに共通する雰囲気を漂わす名画と確信し、ちょうど本展を準備中にこのような名作が飛び込んでくるのも何かの因縁だろうから、即座にその絵を引き取った。「三上誠の生涯」展の全作品の写真撮影も終わり、図録の原稿も印刷会社に手渡した後であったが、せめて作品の現状を示すモノクロ図版だけは急拠本図録の巻頭で紹介しておくことにした。折からの大不況の最中に余計な出費はしたくなかったが、この1点を蘇らす運命のような出会いが巡ってきたことを大切にしたいと考え、展覧会初日に間に合うよう陽光堂主人に絵の修復を依頼した。「随分とやりがいのある仕事」とおっしゃる名人の仕事を今は信じるほかない。蘇った名作を是非画廊で実際にご覧いただきたいものだ。
 11年前に「魂の画家・三上誠遺作展」を当画廊で開催した。24点の作品による小規模な展覧会だった。当時の展覧会図録の後記に書いたように、独立してまもなくは海外へ現代美術を紹介する仕事に活路を見出そうとしていた。1972年頃だったが、「海外へ紹介するなら是非この人を」と、不動茂弥氏に『三上誠画集』に掲載する絵を自宅で預かっているから取り扱わないかと勧められた。当時は画商としてまだ駆け出しだったから、資金的に目処がつかず遠慮させていただいた。その後20年あまりの紆余曲折があって、明治の洋画黎明期の絵画から大正期の個性派の日本画へと取扱い作家と作品を増やし続け、ようやく戦後美術の激動期の作品へと行き着いたのだった。
 三上誠作品の収集はその後も続け、今回はその倍以上の作品を揃えることが可能になった。三上は1951から52年に4度の胸部切開手術により11本の肋骨を失う。薬の副作用による幻覚とも戦いながらも増々研ぎすまされてゆく深い思索と感覚。日常の憂鬱と寂寥さえも糧として作品に昇華してゆく強靭な魂が、数々の名作を産み出した。最初期の重要作<戦災風物詩>(1948)や水彩<楽園>(1954)から、<荒地>や<碑>といった重々しい苦悩をぶつけた作品群、その後結婚に伴う束の間の精神の安堵を描いた<紅の季>シリーズ、ダンボールや木片をコラージュした様々な造形的トライアル作品、のろわれた人生の苦悩をぶつけた<輪廻>シリーズ、痛みと苦悩を灸によって和らげようとし、占星術や仏教思想に深い愛着を示した<灸点人物>シリーズ、最晩年の幾何学的図形が現れる<凍結の生理>や<機構の生理>の生と死を極めて理知的に描いた作品群まで、その人生をほぼ網羅する50点の作品による今回の展覧会にこぎ着けた。
 ここまで三上誠に入れ込む理由は何だろうと尋ねられるにちがいない。三上を集めるのは秦テルヲ、玉村方久斗、甲斐庄楠音、下村良之介、不染鉄らの作品を集中的に集めているのと同じである。彼らの絵には魂が宿り、本当の美があると信じるからだ。今回三上誠論の寄稿を見送った星野万美子は、三上誠の人間の根本にシェイクスピアの名作「ハムレット」の主人公のそれと同じものを見ると言う。
 三上誠に眼をつけて集め出した頃には、誰も注目していなかった。難しい絵だ。売れにくい絵だ。また良いのはわかっているが知名度がない。だから扱えないということらしい。それが不思議でならなかった。自分ではこの上なく素晴らしい絵だと思うのに、マーケットでは見向きもされない。ところが売れにくい、難しいという絵でも一端火がつくとにわかコレクターが参入して相場が沸騰する。急騰した草間弥生などはニューヨークあたりの画商と手を組んだ日本の仕掛人画商がいたらしい。ただ草間の市場での評価は私から言わすと低きにありすぎた。いわば世間の眼がようやく当然のレベルに達したのだと思う。言いたいのは、昨日まで草間の絵など歯牙にもかけなかった画商たちや投機目当てのにわかコレクターたちが、今日は作品を求めて右往左往する様子が醜いということだ。同じく沸騰中の白髪一夫や田中敦子らの具体美術協会の画家たちはフランス経由、アメリカ経由で火がついたとも噂される。もともと具体の活動は、当時でもフランスの批評家ミッシェル・タピエの後押しがあり海外での評価の高さにつながったという。文学でも美術でも同じ。そして学問の世界でもノーベル賞を受賞すると自動的に文化勲章の対象となるという、この国の海外依存の悲しい姿が根底にある。
 そういう自分も若い頃には海外へ日本の現代作家を紹介し評価を得、それを逆輸入することで商売の活路を見出そうと小さな活動をしたこともある。英語を使うということを武器に攻めていたのだが、次第に外国人相手であっても流暢な英語を使わないで片言でもよいから本音で勝負しようという気持ちになってきた。言葉というのは使われてはいけない、稚拙でもいいから、いかに伝えるか、自分の信じていることや言いたいことをいかに伝えるか、その方法のひとつとして存在するにすぎない。同志社大学に在学中、ビジネス英語(通称コレポン)のゼミの教授が口を酸っぱくして述べていたことを思い出す。「英語に使われるな、英語はただの手段である」。商社出身の小柄な教授が口癖の様に説く姿を真剣に聞いていた学生は多くはなかったことだろう。しかしおよそひとりだけは忘れることなくしっかりと脳裏に刻み、それからの人生を歩んでいる。しかも場違いな分野で。
 話を元に戻すと、「具体美術協会」が海外でも知名度があり、関連する作家の評価がそれなりに市場で維持されているのに、戦後、「具体」の活動よりずっと以前に京都で華開いた「パンリアル美術協会」の革新的な運動が、一部の美術館での散発的な関連企画を除けば正当に評価されているとは到底思えない。まして美術市場での評価は無いに等しい有様である。昨今にわかに売れるようになったポップ調のコンテンポラリーアート、玩具や漫画に近い作品がアートとして大手を振って投機の対象とされ、芸術系の学生たちもこうした軽い風潮に流されて甘やかされ、いっぱしのアーティスト気取り。こんな嘆かわしいことがまかり通るのが日本の現状である。そのようなものと対極にある三上誠の作品群を並べることにより、素晴らしい芸術は深い精神性により産み出される必然であることを実証できるのではないかと考える。
 付け加えて言うならば、「売れない絵」は市場では相手にされないから、一般的に仕入価格が思いのほか安い。これもたくさんの作品を収集できる大きな理由であることは事実である。しかし売れない絵の保存状態は売れるものより格段に悪くて、一端安く仕入れたものであっても、修復したり、表具を改めたり、額を新装したりすることは、有名作品と変わらぬ費用が伴うことになる。結局相当な費用が後から付いてくることになる。それも世間で通用させる為には必要経費であると考えているところだが、苦しいのが実情である。まして展覧会を実現するまでの相当の期間、倉庫で寝かせておかねばならない。その間、世間の経済環境が昨今のように最悪に突入することだってある。「売れない」絵を今回の様に「売れない」環境で展覧会として紹介するのも、星野らしくてよいかなと多少自嘲気味で慰めている。
 「不況」ということでは是非とも付け加えておきたいことがある。絵画バブルの頃も同じようなことが起こった。こんな異常な状態がいつまでも続くはずがない、そうはいっても現在は儲かるから手を出さないのはおかしい。そうして風船が破裂してしまうまで投機を進めた。アメリカでのサブプライム・ローン問題はもっとも非常識な分類の話であった。少し冷静に考えれば詐欺師の口上にすぎないはずなのに、たくさんの人々が甘い話に乗った。一流の銀行や証券会社が勧めているから絶対に儲かる、それよりもこれだけ儲かるものを扱わないのは株主から後で問題にされる、そんな意識から世界中の金融機関があやうい儲け話に一斉に乗ったことによる。
 アメリカ発の金融危機が日本の津々浦々にまで深刻な影響を与えているのは周知のようである。私がどうしてもくどくどと言わずにいられないのは、この国の政治家達の無能ぶりである。口をゆがめて真実味のない、心のこもらない言葉を吐いては直後に軽く訂正する、日本語の持つ意味さえ正確に理解していない首相。金さえばら撒きゃいいんだろ、貧乏人はさぞや喜ぶに違いない、そんな庶民を小馬鹿にした発想の「定額給付金」は、当然日照りの水まきのようにすぐに蒸発する、ただの無駄使いにしか過ぎなくなるだろう。各地で閉鎖に追い込まれる公立病院や救急患者を受け入れられない医療制度、『蟹工船』の話題が中心になる雇用問題、こうした即座に取り組まねばならない問題には目もくれずに、ただのバラマキ政策しか考えつかない政府である。テレビで見かける官房長官も与党幹事長も一様に肩をゆがめて表情も暗く、チャンネルをすぐに変えることにしている。発端は例の「小泉改革」にあり、当のご本人は政界引退と引っ込んでしまった。それを盲目的に支持したのは一般大衆だが、被害者となる今頃気がついても遅い。野党の党首も政権打倒ばかりにうつつをぬかし、日本の本当の有り様を議論することもない。日本の政治にはほとほと愛想が尽き、やはり本道の美術界で一石投じるしかないと思うこの頃である。
 巻頭に針生一郎先生の玉稿を賜った。先生は、三上誠をはじめ終戦直後の様々な美術革新運動の今や数少ない証言者のひとりであり、現在も第一線で評論活動を続けておられる研究者である。漫画世代と自称する宰相とは違い、心のこもった正確な日本語による回顧談を掲載させていただくことにより、本図録の重みが増したことを感謝する。私達の独立の頃、既に美術評論の世界で旋風を巻き起しておられた針生先生と、数十年もたってからこうした関係ができてくるとは思いもしなかった。間をとりもった三上誠に感謝しなくてはならないだろう。
2008(平成20)年 12月中浣   

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