クレーですか? ミロですか? いいえ ジュヘイです!
心象の吟遊詩人要 樹平 遺作展
忘れられた画家シリーズ33

  【後 記】・・・・・・・・・・ 星野桂三

 1996(平成8)年刊行の大書『国画創作協会の全貌』(光村推古書院)を頂点として、国画創作協会展やそれに関連する絵画作品を主要に加える様々な展覧会(大正期の日本画を取り上げたものが大勢だった)が、1985(昭和60年)頃から全国の美術館や百貨店で開催された。そうしたブームのような動きがこのところ沈静化してきたのは残念である。とはいえもともと作品数が少なく展覧会開催すらおぼつかない状態であった異色の画家たちの回顧展が、少しずつ日の目を見るようになってきたのは嬉しい。甲斐庄楠音、秦テルヲ、玉村方久斗、稲垣仲静らだ。京都国立近代美術館や笠岡市立竹喬美術館が中心になり関東の有力な美術館を巻き込む形をとっている。京都を創立の源としている国画創作協会の画家たちは、実力面では決して引けを取らなくとも、マーケットという面から見るとまだまだ関東系の日本画家たちには劣勢であると言わざるを得ない。彼らの優品がマーケットに登場することは極めて稀なこともあり、価格帯を形成するところまでいかないのが実情だ。異色はいつまでたっても異色のままにあり続ける宿命なのか、そうした画家たちの作品収集に半生をつぎ込んでいる画商には、依然として苦しい戦いが続いているのである。 

 1982(昭和57)年に当画廊で開催した「国画創作協会から新樹社へ」という展覧会には、まだ要樹平の名は登場していない。その4年後の86年、京都国立近代美術館の新館開館記念展「京都の日本画1910-1930」に協賛して、当画廊では「京の異色日本画家たち」展を開催した。狭い画廊という展示空間の制約もあり、秦テルヲ、玉村方久斗、稲垣仲静、山口八九子、甲斐庄楠音、要樹平の6人を週替わりで特集する陳列構成をした。同展の最終章を樹平作品17点で飾った。当時の図録を見直して、その中の10点がまだ手許にあることに気がついた。本展出品作がおよそ60点なので、残りの50点をその後25年間に買い集めた勘定になる。当時特集陳列した異色日本画家たちの本格的な回顧展が、その後順繰りに結実したことは画商冥利に尽きると言える。美術館でまだまともな遺作展が開催されていないのは山口八九子と要樹平だけになってしまった。いつの日にか実現されるとよろしいのですが……。

 最初に購入した樹平作品は何だったのか、記憶をたどってみることにする。当時住んでいた自宅近くの百万遍に、思文閣が思文閣ロイヤルギャラリーを開設した頃だった。散歩の途中に立ち寄ると樹平の<夏園雨趣>(本図録#14)が壁面に飾られていた。買いたい旨申し出ると、店主がもう一点掛軸<雛罌粟図>(本図録#25)を奥から出してきたので思い切って両方を買い求めたのである。それぞれに立派な表具が施され、外箱も二重箱になっていた。贅をこらした表具から、描かれた当時は樹平に相当な後援者がいたことが推察される。樹平が個展発表を中心に活動し始めるようになって後、画壇の功績に支配されるマーケットからは次第に黙殺され、いつのまにかさして裕福でもない私が2点まとめて買える金額になってしまった。素直に喜ぶべきことではないのかもしれない。
 国画創作協会展の資料を求めて古書店めぐりをしたり、当時まだ存命だった出品作家や関係者たちを次々と訪問して国展当時の話を聞いたりしていた頃だ。樹平宅にも数度お邪魔した。京都市の北方、今では観光客がたくさん訪れる上賀茂神社の伝統ある社家の立ち並ぶ一角は、当時まだひっそりとした地域だった。社家から少し東北に外れた山際にあって菖蒲の季節だけは賑わう太田神社のすぐ近く、低い土塀に囲まれた閑寂なお宅だった。いかにも日本画家の家らしい書院造りの座敷から眺める庭の景色は、市中の賑わいから途絶されてまさに別天地だった。「愛染倉」ができるまではもっと静かだったと樹平夫妻は言う。古い民家を移築改造して食事の出来る展示会場として66年に開業した愛染倉にはそれまでに数度訪れたことがあった。すぐ近くに住んでいた高校の同級生の家にはよく遊びに行ったりもした。東方にある深泥池には中学や高校の放課後にしばしば魚釣りに通った。昔から見知った地域に画家のアトリエがあることなぞ少しも知らなかったのである。
 年譜を調べてみると、夫妻がこの地に移り住んだのは、1938(昭和13)年のことだ。それより以前の31年発行の大京都市街地図を改めて見てみると、上賀茂神社から東には、深泥池までの街道沿いに少し集落の痕跡が記されているばかりだ。神域の山際に近い一帯はまだ未開拓といったところだろうか。師匠の土田麦僊が36年に亡くなり、門下の若手画家5人が集って「柏舟社」というグループを作ったのが38年のことだ。心に期するものがあったのだろう、新天地で再出発しようとする意気込みで求めた家なのだろうか。当時いくら京都の北の果てとはいえ、かなりの広さを持つ立派な庭園付きの日本家屋である。国展解散後は帝展に連続入選を果たし、日本画家としての地位を確固たるものにしていた。後援者にも恵まれ経済的にもゆとりがあったのだろう、良き時代を想い起こさせるアトリエだった。
 国展や帝展の出品作のほとんどが所在不明になったり戦災で焼失したりしているので、現在では樹平の旧作の代表作を見ることができない。当時の展覧会図録に掲載されている写真から推察するしかない。これまで国展関係の回顧展には学生時代の<兵営附近>が出品されるばかりで、樹平の青年時代を含む前期の画業を評価する機会が全くと言って持たれていないのは残念だ。だが樹平自身が国展や帝展時代の作風を懐かしんでいたかいうとそうでもない。美術史の研究者が昔話ばかり聞きにやってくるのを決して喜んではいなかったらしい。画家自身がとっくの昔におさらばした時代のことばかりではなく、現在の自分がやっていることの評価をして欲しかったのだろう。私はといえば、樹平の戦後の活動に目を向けた数少ない美術関係者のひとりに違いない。
 柏舟社の時代には明末清初の中国人画家、や清朝末期から近代にかけて活躍したらに傾倒したといい、彼らの影響の強い絵を描いた。参考図版を含めて本図録を順繰りに見ていただくと画風の変遷がよく分かるように、戦争末期頃から樹平の作風に大きな変化が現れ、終戦後にその動きが顕著となる。クレーやミロ、またカンディンスキーらの影響だと研究家たちが言う。なるほどクレーやミロに近い印象を持つのは間違いではないだろう。しかし樹平美術の根底にあるのはもっと東洋的な精神だと思う。あまりに発想が自由であるがゆえ、戯画的であると評されることもあったが、後年になるほど画風は独自性を増し、漢字やひらがなの持つ独特の意味や感覚を自身の自由な発想と感性により、クレーやミロとは全く異質な東洋的精神風土に根ざした作風に昇華させて展開していったものと理解している。
 樹平はいわゆる書家の規範から外れた絵画のような書を遺している。王羲之などの名筆家の書の良さも分からない、書の何であるかのかけらもかじったことのない門外漢の私には、かえってそれが魅力的なのだ。戦後の京都に花開いた森田子龍らの前衛書も好きだ。書家の道からはずれた芸術家の個性的な書を愛するひねくれもののひとりとして寛容していただくことを願う。それらの多くが漢詩や禅語などから引用したものだとは推察していたが、いざ読解し始めると苦労の連続だった。高校生の頃には何故か漢文が好きだったこともあり、改めて参考書を買い求め唐詩選などに目を通す時間は少しばかり楽しいものだった。ここではインターネットも大いに役立った。どうしても解読出来なかった数点については、黄檗文化史や文人研究の泰斗大槻幹郎先生にご教示をお願いした。ここに謝意を表する。
 本格的な日本画家として修練を積んだ樹平は、その後半生をどちらかといえば文人画家としての世界にのめり込んでいった。人里離れた上賀茂に住居を構えた頃からその兆しがあった。晩年、展覧会の開催も数少なくなり、老人二人でひっそりと暮らした上賀茂のアトリエ。たまに訪問する客人には、描きかけの自作さえもあれこれと座敷中に広げて歓待した。たまに訪れるとなかなか帰してもらえずついつい行く回数が減ってしまうことになると、何人かの愚痴を聞いたことがある。最晩年に土産として来客に手渡したり、礼状として出した手描きの絵葉書が私の手許に数枚ある。クレヨンとマジックインキで一所懸命に描いた線は震えてはいるが、樹平の純で自由な精神性の高い人生が凝縮されている。まさに珠玉と言えるものだ。夫妻の没後まもなく、上賀茂の瀟酒な日本庭園を備えた書院造りの家屋は取り壊されて更地となり、現代風の家が何軒も建てられた。今ではかつてを偲ぶ風情は全くない。時勢だからとあきらめるしかないが、淋しいことである。
2011(平成23)年3月  

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